artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
人見将「即興?写真」
会期:2013/01/11~2013/01/31
Gallery Café 3[東京都]
人見将はこのところフォトグラムを中心に発表している。印画紙に直接物体を置いて光に曝し、その影を定着するフォトグラムは、19世紀以来の伝統のある技法だ。1920~30年代にはマン・レイやモホイ=ナジが積極的に使用して、モダニズム的な前衛写真を代表するような作品を制作した。だが、人見はフォトグラムに基本的に依拠しながらも、そこから微妙に逸脱していく「即興?写真」を展開していこうとする。
たとえば、フォトグラムの元になる物体とその影とは、普通は1対1対応の大きさやフォルムになる。ところが、今回東京・高円寺のGallery Café 3
開催の個展で発表された作品では、洗濯バサミや錠や指などは、まずブローニーサイズのフィルムにフォトグラムされ、それをより大きめの印画紙にプリントしている。つまり、人見の作品の中の「影」は、サイズが変わることで元の物体との対応関係がゆるみ、むしろ「洗濯バサミのようなもの」「錠のようなもの」「指のようなもの」として眼に入ってくる。そこにあらわれてくるのは、存在の揺らぎ、はかなさ、不思議さといった、普通のフォトグラムとはやや違った味わいを持つ感情である。独特の視覚的世界が形成されつつあると言ってよい。
なお、東京・大久保の名曲喫茶・カオリ座でも、2012年10月から2013年10月まで(2013年1月、3月を除く)毎月1日~10日に「即興?写真」展が開催されている。こちらでも、写真と鉛筆デッサンとを合体したフォトグラムなど、多彩な実験が展開中だ。
2013/01/15(火)(飯沢耕太郎)
新津保建秀「\風景+」
会期:2012/12/18~2013/01/14
ヒルサイドフォーラム[東京都]
新津保建秀の「\風景+」は、現代の「風景」のあり方をさまざまな観点から問い直す意欲的な展示である。日本の「風景写真」は美しい自然の景観を愛でる「ネイチャー・フォト」から、1980〜90年代以降の、小林のりお、柴田敏雄、畠山直哉、松江泰治らによる自然と人工物、人間と社会との関係性を検証する批評的なアプローチを経て大きく飛躍した。だが1990年代半ば以降のデジタル化、インターネット環境の成立に即した「風景写真」の方向性は、まだ明確には見えてきていない。新津保の展示は、そのスタートラインを引こうとする試みと言える。
たとえば、風景を撮影した画像をパソコン上で立ち上げるとき、データが重たいとその一部だけが表示され、残りはフラットなグレーな画面になってしまうことがある。時間がたつとグレーの部分が少しずつ小さくなり、画像全体があらわれてくる。あるいは複数の画像を連続的に立ち上げると、端の部分が重なりあって、そこに断層面を思わせる不思議なパターンが見えてくる。パソコンを介してあらわれてくる、そのような視覚的経験も、断片化し、記号化した現代的な「風景」の受容、消費のあり方を示す指標となる。新津保の今回の展示では、パソコン上のデジタル画像を、自然や都市の環境と意図的に混同、併置する、多彩な実験が展開されていた。
もうひとつ興味深いのは、あえて特定の場所にこだわり(たとえば稲城市、あきる野市、代官山)、その土地にまつわりつく情報(たとえば不審者目撃情報)をある種の「マップ」として視覚化しようとする試みだ。こちらはまだ、写真作品としては試作の段階に留まっているように見えるが、さらなる可能性を秘めた領域と言える。いずれにしても、デジタル環境における「風景」を超えた、あるいは「風景」を異化した「\風景+」には、もっと多くの写真家たちが関心を寄せてもよいだろう。なお、角川書店から同名の写真集も刊行されている。
2013/01/14(月)(飯沢耕太郎)
澤田知子「SKIN」
会期:2013/01/12~2013/02/24
MEM[東京都]
澤田知子の新作展は驚きを与えるものになった。デビュー作の「ID400」(2000)以来、彼女は一貫して「内面と外見の関係」をさまざまな状況で、さまざまなコスチュームを身にまとって検証していくセルフポートレート作品を制作・発表してきた。それはこれまで、内外で数多くの賞を受賞するなど大きな成果をもたらしてきたのだが、逆にその成功が知らず知らずのうちに澤田のアーティストとしての可能性を狭めることにもつながっていたようだ。2年ほど前にそのことに気づいた彼女は、かなり重症の「スランプ」に陥ってしまった。一時は、アーティストとしての活動を続けるべきか、思い悩むところまで追いつめられていたという。
そんなとき、たまたまイタリア・ボローニャで開催されたGD4PhotoArtというコンペに参加する機会があり、最終的に「勇気を奮い起こして」セルフポートレート以外の作品にチャレンジすることを決意する。それが今回MEMで展示された「SKIN」である。12点の写真に写っているのは、ミニスカート、ハイヒールを履いた女性の脚である。だがこの連作の主題は脚そのものではなく、それを包み込むストッキングだ。スットッキングは、澤田によれば「働く女性にとっての鎧」の役目を果たす。ストッキングを身に着けた女性たちが、社会においてどんなふうに見られているのか、あるいは自分をどんなふうに意識しているかを問い直すのが、この連作で澤田がめざしたことだ。それは「産業・社会・領域」というGD4PhotoArtの統一テーマにも即している。
結果的に、セルフポートレート以外の領域に踏み込んでいこうとする澤田の試みは、うまくいったのではないかと思う。「SKIN」にはたしかに澤田本人は写っていないが、自分の分身というべきオフィスで働く女性たち(靴下メーカーの社員)をモデルに、同一の状況で「タイポロジー」的に作品を構築しており、これまでの澤田のスタイルは、そのまま踏襲されている。何よりも、新たな方向に進もうとしている彼女の昂揚感が、作品全体に漂うのびやかな開放的な気分として伝わってくるように感じた。「スランプ」からはなんとか脱出できたと言えるだろう。
なお、同時期に開催された、文化庁芸術家在外研修の成果の発表展「Domani・明日」(国立新美術館、1月12日~2月3日)には、アメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の依頼で制作されたもうひとつの新作「Sign」が展示されていた。こちらは、ウォーホルの「キャンベル・スープ」のオマージュとして、ハインツのトマト・ケチャップとマスタードを56カ国語の表示で反覆したものだ。新作で「タイポロジー」と「ポップ・アート」という新たな思考の枠組みを活用できたことで、澤田の作品のスケールがまた一回り大きくなったのではないだろうか。
2013/01/12(土)(飯沢耕太郎)
村越としや「大きな石とオオカミ」
会期:2013/01/05~2013/01/24
B GALLERY[東京都]
東日本大震災が写真家たちに何を与え、彼らはそれをどう受けとめて表現に転化しようとしているのか。これまでも、これから先も問い続けていかなければならないことだが、村越としやの新作展にもそのことがよくあらわれていた。
福島県須賀川市出身の村越は、震災後10日目に故郷に戻り、それから断続的に福島県内の風景を撮影し続けてきた。むろん、村越は震災前から折りに触れて故郷を撮影しており、その撮影やプリントのあり方(中判カメラ、モノクロームフィルム、端正な印画)は基本的には変わっていない。だが、今回の展示を見ても、2012年11月に刊行された同名の写真集のページを繰っても、どこか以前の写真とは違っているように感じる。端的に言えば、被写体に対する「確信」の度合いが深まり、目に飛び込んでくるイメージの強度が増しているのだ。震災が、村越の写真家としての覚悟をあらためて呼び覚ましたということではないだろうか。
もうひとつ、やはり昨年刊行された村越の文集『言葉を探す』(artdish g)の震災後の日録のなかに、以下のように記されているのを読んで、「なるほど」と思った。
「11/6/22 写真学校に入ったときに新品で購入した三脚をやっと本気で使用する機会がやってきた。学生時代はほとんど使用することもなく、助手してるときはたまに持ち出して、持って歩くだけってことが多かったから、三脚にたいしてはあまり良い思い出がなかった。でもこれから暫くは福島県内の撮影を共にする」
三脚を使いはじめたことも、作品のどっしりとした揺るぎないたたずまいと関係しているのだろう。普段はそれほど目につくことはないが、撮影を支えるカメラや写真器材が、作品の出来栄えに思わぬ力を及ぼすことがあるのがよくわかる。今回の展示には、新作として大全紙サイズに引き伸ばされた福島県飯館村の山津見神社の写真も含まれていた。この神社は狼を神として祀っているのだという。村越のなかに、写真を通じて土地に根ざした地霊や神話の所在を嗅ぎ当てようという意欲も生まれてきているようだ。今後の展開が楽しみだ。
2013/01/06(日)(飯沢耕太郎)
大橋仁『そこにすわろうとおもう』
発行所:赤々舎
発行日:2012年11月20日
年も押し詰まってきた時期に、とんでもない重量級の写真集が届いた。大橋仁の『そこにすわろうとおもう』はA3判、400ページ、重さはなんと5キロもある。デビュー作の『目のまえのつづき』(青幻舎、1999)以来、彼の作品には「これを撮らなければならない」という思い込みの強さを、恐るべき集中力で実際に形にしていく気魄に満ちあふれている。時にその強引さに辟易することもないわけではないが、被写体との関係が穏やかで希薄になりがちな日本の現代写真において、アウトロー的な凄みを前面に押し出す彼の存在そのものが貴重であるといえそうだ。
今回も、最初から最後まで全力疾走で突っ走る「奇書」としかいいようがない写真集だ。「奇書」というのはむろん褒め言葉で、「奇妙」でありながら「奇蹟」でもあるということ。中心的なテーマは、男女数百人が入り乱れるオージー(集団乱交)の現場なのだが、その様子を、ここまで徹底して微に入り細を穿って撮影し続けたシリーズは、いままでほかになかったのではないだろうか。大橋の視線は、彼らのふるまいに対する純粋な驚きと好奇心と共感とに支えられており、腰が引けた覗き見趣味やネガティブな感情とは無縁のものだ。「奇妙」でありながら「奇蹟」でもあるというのは、実は彼の基本的な人間観でもあるのだろう。大橋が本書の刊行にあたって書いた文章の次の一節からも、そのことがよくわかる。
「今日この場に、自分が生きていること、この世というひとつの場所に人類がそろって生きていること、自分はそこにすわろうとおもった」。
今回一番問題になったのは「性器」の扱い方ではなかっただろうか。現在の日本の出版状況においては、男女の性器が露出した状態で写っている写真を掲載・出版するのはかなりむずかしい。結果的に、本書では局部にぼかしを入れた印刷を採用した。これはとても残念なことだ。おそらく、一番心残りなのは大橋本人だろう。いろいろ問題はあるだろうが、すべてをクリアーに印刷した「海外版」の刊行を考えてもいいと思う。
2012/12/30(日)(飯沢耕太郎)