artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

川田喜久治「2011-phenomena」

会期:2012/09/04~2012/10/31

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

1959年に東松照明、奈良原一高、川田喜久治、細江英公、佐藤明、丹野章によって結成された写真家グループ、VIVOは、日本の写真表現の歴史に偉大な足跡を刻みつけた。個々の映像表現のクオリティの高さはもちろんだが、日本の写真家たちの質の高い仕事を、国際的に認知させたという功績も大きい。だが、メンバーの年齢も今や80歳を超え、コンスタントに活動を展開しているのは東松、川田、細江の3人だけになった。そのなかでも最も意欲的な「現役の」写真家といえば、川田喜久治ということになるだろう。
昨年の「3.11」は、川田にも大きな衝撃をもたらしたようだ。展示されているのは、必ずしも2011年に撮影された写真だけではない。だが、「あの大震災に続く原発放射能の拡散」が、今回の「2011-phenomena」シリーズの引き金となり、彼の創作意欲にさらなる昂進をもたらしたことは間違いない。時代の底に潜む不安をスナップ的な写真を通してあぶり出していくことは、1970年代の連作「ロス・カプリチョス」以来の川田のメインテーマのひとつだが、それが「2011-phenomena」では、さらに強烈な毒々しい色彩をともなってエスカレートしている。特に目立っていたのは、テレビの画面や写真を複写し、モンタージュを繰り返してつくり上げていった作品群である。オバマ大統領、ビン・ラディン、ヒラリー・クリントンらの顔が引き裂かれ、変型しつつ増殖していく。日常のなかに潜む悪夢をキャッチする彼のアンテナの精度が、まったく衰えていないことがよくわかる。
宮城県山元町の沿岸部を襲った津波によって流出した写真を展示する「Lost & Found Project」に触発された一連の作品も興味深い。そのなかの母親と子どもが写っている記念写真に、川田は激しく揺り動かされ、「具象と抽象の間で新しいイメージを見せている」と感じた。その褪色し、なかば消失しかけた親子のイメージを引用した作品には、彼なりの「再生」のメッセージが託されているのではないかと思う。

2012/09/21(金)(飯沢耕太郎)

進藤環「Late comer」

会期:2012/09/20~2012/10/08

hpgrp GALLERY TOKYO[東京都]

進藤環も着実に自分の作品世界を深めつつあるひとり。自作の写真プリントを切り貼りしながら、カラーコピーを繰り返して、不思議な磁力を発する「風景」をつくり上げていく──そのスタイルはほぼ完成の域に達していると思う。昨年に引き続き原宿・表参道のhpgrp GALLERY TOKYOで開催された今回の個展では、モノクロームのプリントの比率が増え、よりピクトリアル(絵画的)な要素が強まってきている。さらに、植物や森などに加えて、岩、水、さらに建物のような人工物なども画面に配されるようになり、「風景」の骨格とでもいうべき要素がくっきりとあらわれてきた。彼女が旺盛な表現意欲で、新たなチャレンジを繰り返していることが伝わってくる展示だった。
ただ、このカット・アンド・ペーストの手法も、繰り返しているうちに、そろそろヴァリエーションが出尽くしてきているようにも見える。展示作品のなかに1点だけ技法に「鉛筆」と記されたものがあり、異彩を放っていた。次はもっと違う画像構築のシステムにも取り組んでもらいたいものだ。また、画面のスケール感についても、そろそろ考えなければならない時期にきているのではないだろうか。小さくまとめるのではなく、観客を圧倒するような巨大な作品も見てみたい気がする。そのときはじめて、作者にとっても見る者にとっても、予想をはるかに超えた「記憶や知識と、名もない場所が混在し立ち現れる風景」が姿をあらわすのではないだろうか。

2012/09/20(木)(飯沢耕太郎)

岡田敦「世界」

会期:2012/09/08~2012/10/04

B GALLERY[東京都]

木村伊兵衛写真賞はよく「写真界の芥川賞」と称される。この言い方が適切かどうかは微妙な所だが、両賞とも新人作家が自分の作品世界を広く世に問うていくきっかけとなっていることは間違いない。同時に、その受賞が本人のその後の活動を大きく左右していくことも多々ある。つまり、受賞をきっかけとして飛躍していく作家も、逆に賞の重みに押し潰されてしまう作家もいるというわけだ。
2008年に写真集『I am』(赤々舎)で第33回木村伊兵衛写真賞を受賞した岡田敦はどうかといえば、受賞後もコンスタントにいい仕事をしているひとりだろう。受賞後第一作の『ataraxia』(青幻舎、2010)もしっかりと組み上げられたシリーズだったが、今回赤々舎から写真集として刊行され、B GALLERYで展示された「世界」からも、彼が自分の作品世界の幅を広げようとしている意欲が充分に伝わってきた。このシリーズは、岡田が「不確かな世界を認識する」ことをめざして蒐集した、複数のシークエンスの集合体として構成されている。眼を中心にした顔のクローズアップ、リストカッターの少女(ヌード)、沼と森、赤ん坊の誕生、火葬場の骨、花火、樹間の眺め、妊娠中の女性(ヌード)、そして震災後の海辺の光景などが、次々に観客の前に呼び出されていく。技術的にもきちんとコントロールされ、前後の関係性を注意深く考えながら並べられたそれらの画像群は、現時点での彼の世界観を着実にさし示しているといえる。
だが、おそらく生と死、美と現実、エロスとカタストロフィなどを表象するはずのそれらの画像を見ていると、既視感というか、どうもすべて「想定内」に思えてきてしまうのも事実だ。この優等生的な予定調和を踏み破っていく、何か荒々しい力を召喚しないことには、岡田が今後さらに大きく飛躍していくことはできないのではないだろうか。

2012/09/18(火)(飯沢耕太郎)

鋤田正義「SOUND & VISION」

会期:2012/08/11~2012/09/30

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

鋤田正義もまた、1970年代以降の日本文化、特に音楽、映画などのジャンルと深く関わりあいながら仕事を続けてきた写真家である。フリーランスの写真家として独立したのが、まさに1970年。それから寺山修司率いる天井桟敷の「毛皮のマリー」ニューヨーク公演撮影を皮切りに、70年代を疾走していく。T REX、デヴィット・ボウイ、サディスティック・ミカ・バンド、沢田研二、そしてYMOに至る写真群は、そのまま日本の文化シーンの最尖端部分の断面図といってよいだろう。
今回の東京都写真美術館の展示は、レコードジャケットやポスター、映画のスチル写真などに使用されたイメージを柱にして、鋤田自身のプライヴェートな写真の仕事をちりばめる形で構成されていた。それぞれ「Early Days/母、九州、大阪」「70’s/ New York and Rock’n Roll」「Vision1 残像 Spectral」「Vision2 東京画+」などと名づけられた小部屋に分けて展示されたそれらの作品は、鋤田の写真家としての原点と撮影のあり方をよくさし示しており、回顧展にふさわしい内容になっていたと思う。
だが圧巻は、大きなスペースを天井から床までフルに使って展示した「Box作品」と「バナー作品」の部屋だった。写真をフレームに入れて壁にかけるような、当たり前のやり方をとらなかったのが、鋤田の写真のスタイルにぴったり合っていたと思う。ロールペーパーを天井から吊るしたり、大きな箱を床に転がしたりするインスタレーションが、時代の勢いを受けとめて投げ返した力業にうまく呼応しており、展示全体をプロデュースした立川直樹と、会場をデザインした岸健太の力量が充分に発揮されていた。

2012/09/16(日)(飯沢耕太郎)

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日本の70年代 1968-1982

会期:2012/09/15~2012/11/11

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

1970年代はたしかに面白い時代だった。むろん僕自身が個人的に10代~20代の感受性のアンテナが最も張りつめていた時代だったということもある。だが、高度経済成長が爛熟し、消費社会、情報社会が成立してくる過渡期におけるエネルギーの噴出は、やはりただ事ではなかったというべきだろう。埼玉県立近代美術館で開催された「日本の70年代 1968-1982」は、まさにその70年代前後の15年間の「時代の精神を、美術、デザイン、建築、写真、演劇、音楽、漫画などによって回顧」しようという、画期的かつ野心的な総合展覧会である。会場全体を埋め尽くす出品物は、よく集めたとしかいいようのない量で、それぞれが見所満載だ。展覧会の全体像については、おそらく他の方からの評価があると思うので、ここでは写真のジャンルに限って報告しておきたい。
1970年代は写真にとっても重要な時期である。中平卓馬、多木浩二、高梨豊、森山大道らの同人誌『プロヴォーク』(1968~69)に代表される写真表現の根本的な見直しを経て、荒木経惟、深瀬昌久らによる日本独特の「私写真」の成立、篠山紀信、立木義浩、沢渡朔、十文字美信ら、広告写真家たちの表現の活性化など、現代写真につながるさまざまな動きがいっせいにあらわれてきた。残念なことに、今回の展示では佐々木美智子の「日大全共闘」(1968)、山崎博の寺山修司、土方巽。山下洋輔らのポートレート(1970~72)、高松次郎、榎倉康二、北辻良央ら現代美術家の「コンセプチュアル・フォト」など、ごく限られた作品しか出品されていなかった。しかし、たとえば中平卓馬の写真が使われた「第10回日本国際美術展 人間と物質」(1970)のポスターのように、写真は印刷物として雑誌、ポスターの形で社会に浸透していた。今回の展示は単独のジャンルを深く掘り下げるのではなく、むしろその相互的な関連性を強調しており、その意図は充分に伝わってきた。
ただ、これだけの量の展示物を見終えても、まだ物足りなく感じるのは、僕自身が1970年代をリアルにくぐり抜けてきたひとりだからだろうか。会場の規模がもう少し大きければ、総花的な展示に加えて、もう少し各ジャンルの掘り下げも可能だったのではないかと思う。

2012/09/15(土)(飯沢耕太郎)

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