artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

松本徳彦写真展「世界の舞台芸術家 1955〜86年」

会期:2020/07/03~2020/07/09

ギャラリー・アートグラフ[東京都]

舞台写真は、とてもむずかしい写真のジャンルだと思う。写真家は舞台に上がって撮影することはできないので、カメラの位置やアングルを定めるのがむずかしい。照明も条件がいいとはいえないので、早い動きだとブレてしまう。役者やダンサーたちの表情や身ぶりも、ともすれば型にはまったものになりがちだ。松本徳彦は、そんな舞台写真を60年以上も撮り続けてきた。今回の東京・銀座のギャラリー・アートグラフの展示には、日本大学芸術学部写真学科の学生だった1955年に撮影したアレクサンドラ・ダニロワの『白鳥の湖』から、1980年代に至る(1枚だけ1995年撮影のものがある)代表作40点が出品されていた。

すべて、モノクロームの銀塩フィルムで撮影されているのだが、そのプリントが何とも味わい深い。今回の写真展は急に決まったので、プリントは2000年に銀座ニコンサロンで開催した個展のときに焼いたものだという。フィルムの感度はASA100〜200程度だそうだから、ピントをきちんと合わせるだけでも至難の技だろう。だが、白黒のコントラストをつけながら、柔らかみのあるトーンで仕上げたプリントを見ていると、デジタル写真のフラットな調子がひどく単調なものに思えてくる。プリントの仕上げの素晴らしさだけでなく、厳しい撮影条件のなかで舞台上のパフォーマンスに集中している、その緊張感が伝わってきた。

松本の舞台写真は、日本で上演された「世界の舞台芸術家」たちの公演の貴重な記録でもある。多くの劇団や舞踊団はすでに解散しているし、松本が撮影してきたマルセル・マルソー、モーリス・ベジャール、マーサ・グラハムといった巨星もいまはいない。これらの写真群は、ぜひ写真集やポートフォリオの形でまとめておいていただきたい。

2020/07/07(火)(飯沢耕太郎)

100年前にカワセミを撮った男・下村兼史 —日本最初の野鳥生態写真家—

会期:2020/07/01~2020/09/30

写真歴史博物館[東京都]

鳥類の生態写真の草分けである下村兼史(1903〜1967)の展覧会「下村兼史生誕115周年──100年前にカワセミを撮った男・写真展」は、2018年9月に東京・有楽町の有楽町朝日ギャラリーで開催され、好評を博した。ただ、会場が写真関係者には馴染みの薄い場所だったのと、会期が1週間ほどで短かったこともあり、見過ごした方も多かったのではないかと思う。その下村の写真を、本展で再見できたのはとてもよかったと思う。

点数は50点余りと少なくなったが、今回の展示では前回とは違った下村の新たな側面を見ることができた。まず、ヴィンテージ・プリントが多かったので、大正から昭和期にかけて活動した写真家に特有の、柔らかな調子のモノクローム・プリントの醍醐味を味わうことができた。下村は資生堂社長の福原信三を中心に活動していた写真芸術社が主催した「写真芸術第二回当選印画並びに同人作品展覧会」に、「河畔の暮」で三等一席に入賞するなど、当時の「芸術写真」の絵画的な美意識に強い親近感を抱いていた。そのことが、彼が遺したプリントを見るとよくわかる。また、今回の展示には、三省堂から刊行された『観察手引原色野鳥図』(上巻・1935、下巻・1937)に収録された、野鳥の図版の原画が5点出品されている。下村が自ら水彩で描いた、ベニヒワ、ライチョウ、オオルリなどの出来栄えは見事なもので、彼が緻密な自然観察力だけでなく、優れた絵心を備えていたことがよくわかった。

戦後になると、鳥の写真も科学的な視点で撮影された生態観察写真が中心になるのだが、下村の戦前の仕事には、絵画と記録とがまだ分かち難く融合していた時期の写真表現のあり方が色濃くあらわれている。デジタル時代のネイチャー・フォトの方向性を考えるうえで、ヒントになりそうな気もする。

関連レビュー

下村兼史生誕115周年──100年前にカワセミを撮った男・写真展|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年10月01日号)

2020/07/05(日)(飯沢耕太郎)

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寺田真由美「天視—Another Angle—」

会期:2020/06/19~2020/07/19

Gallery OUT of PLACE TOKIO[東京都]

寺田真由美は紙などで小さな部屋をしつらえ、その中にやはり作りもののミニチュアの家具を置き、ライティングして撮影する写真作品を発表してきた。その「不在の部屋」には人の影がない。観客はそのことで、逆に幻の部屋の住人たちへの想像力を喚起され、あたかも彼らの気配を感じるように導かれる。

今回、Gallery OUT of PLACE TOKIOで発表された新作「天視—Another Angle—」でも、基本的にそのコンセプトに変わりはない。だが実際に作品を見て、以前とはかなり印象が違うことに驚いた。それはひとつには、静謐なモノクローム作品が多かった寺田の仕事がカラーになっていること、さらに「部屋」そのものよりも、窓の向こうに広がる「空」が大きくフィーチャーされていることによるのではないかと思う。10点の作品の中には、シンプルにオブジェと「空」だけで構成されたものも含まれている。

アルフレッド・スティーグリッツ、荒木経惟など、「空」は多くの写真家たちの被写体となってきた。それらは多くの場合、写真家の内面的な精神の波動に共振し、それらを映し出す鏡として機能している。寺田も同じように、「空」を撮影することで、「真の美とは何だろう?」、「本当に大切なものとは何だろう?」という、アーティストにとって最も本質的な問いかけに答えを出そうとした。その結果として「天視人」という存在に思い至る。この写真シリーズは、「空を見る人」、すなわち「厳しくも優しい天視人の心象風景を想像」してみることでかたちをとっていった。

寺田は普段はニューヨークで暮らしているが、コロナ禍で帰ることができず、今は日本に滞在している。「空」は世界中、どんな場所でも高みに広がっているが、その時々の状況で、それを見る人の「心象風景」も変わる。寺田の次作は、どんなたたずまいになるのだろうか。

関連レビュー

寺田真由美「温湿シリーズ 視る眼差し×看る眼差し」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年11月15日号)

「THE BOX OF MEMORY: Yukio Fujimoto」、寺田真由美「視る眼差し×看る眼差し」「他人の時間:TIME OF OTHERS」|中井康之:キュレーターズノート(2015年10月15日号)

寺田真由美「光のモノローグ Vol.II」/「不在の部屋」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2010年05月15日号)

寺田真由美 展|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年02月15日号)

2020/07/04(土)(飯沢耕太郎)

佐藤華連「I 波と影」

会期:2020/07/02~2020/07/19

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

1983年、神奈川県生まれの佐藤華連は、2010年に「だっぴがら」で同年度のキヤノン「写真新世紀」グランプリを受賞した。その後の活躍が期待されたのだが、次の展開がうまく見つけられず、悩んでいた時期が長かったようだ。2016年のKanzan Galleryでの個展「I」(ワン)の頃から、ようやく手応えを感じるようになり、今回のふげん社での個展に結びついた。

佐藤も「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展(埼玉県立近代美術館)の出品作家たちと同様に、現実世界をそのまま写しとるのではなく、写真をコピーして複写するという行程を重ねることによって、画像を改変していく。だが、Nerholや牧野貴や横田大輔の作品が、次第に「像」としての強度を失って拡散していくのに対して、佐藤の場合はむしろ写真に写っている個々の事物の存在感が増してくる。それは佐藤が、画像をあくまでも「自己のフィルターを通して変容」させようとしているからだろう。あらわれてくるのは、モノ、風景、絵画の一部など、断片的な表象なのだが、それらは彼女の「認識や記憶」にしっかりと錘を降ろしているように見えるのだ。

ただ、それぞれの「像」があまりにもバラバラで、相互のつながりがうまく見えてこない。そのあたりをもう少し思い切りよく整理して、「像」の組織化を進めていけば、より緊密に組み上げられたシリーズに成長していくのではないだろうか。「自己のフィルター」の精度を上げ、被写体の幅を狭めてみることも考えられそうだ。

2020/07/03(金)(飯沢耕太郎)

New Photographic Objects 写真と映像の物質性

会期:2020/06/02~2020/09/06

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

コロナ禍で開催が延期されていた埼玉県立近代美術館の「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展を見て、『プロヴォーク』の写真を思い出した。『プロヴォーク』は中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦(2号から森山大道が加わる)によって1968年に創刊された写真同人誌である。彼らの写真のスタイルは「アレ・ブレ・ボケ」と称された。被写体を忠実に描写するのではなく、画像を荒らしたり、ブラしたり、ピントをぼかしたりして改変していく。それは、1960年代末の「政治の季節」を背景にして、彼らを取り巻く現実世界が確固たる手応えを感じられるものとは思えなくなっていたためだろう。「アレ・ブレ・ボケ」の写真こそが、彼らにとってはむしろリアルに思えたということだ。

本展の出品者である迫鉄平、滝沢広、Nerhol(田中義久/飯田竜太)、牧野貴、横田大輔にとっても、事態は同じであると思える。2020年代における彼らと現実との関係も、大きく揺らぎ、流動化しつつあるからだ。彼らもまた、とめどなく解体し、錯綜し、記号化していく現実世界を、写真というメディアによって何とかつなぎ止めようとしている。ただし、1960年代と違って、彼らの手元には従来の手法だけでなく、さまざまなデジタル・ツールがある。それらを使いこなすことで、写真による表現の可能性は大きく拡張していった。そのことが、今回の展示にもよくあらわれていた。

とはいえ、それらが展覧会のチラシに記されているような「ラディカルな再考と更新をめざす『新しい写真的なオブジェクト』」になりえているのかといえば、やや疑問が残る。写真を切り貼りしたり、ドローイングを加えたりしてシルクスクリーンで製版する(迫)、鏡に映った像を撮影した写真と、鏡の表面をハンドスキャナーでスキャンした画像を並置する(滝沢)、数百枚のインクジェットプリントを重ね貼りし、その表面をグラインダーで削りとっていく(Nerhol)、200回以上重ねた映像を、大きなスクリーンで上映する(牧野)、ラブホテルの部屋を撮影した写真の前に、抽象的な色彩の画像をプリントした大判シートを吊るす(横田)といった操作を経て出現してきた作品は、どれもクオリティが高いが、どこか似通って見えてくる。写真の描写性に疑いを差し挟み、それを注意深く避けることで、結果的に均質な見かけになってしまったということだ。

『プロヴォーク』の「アレ・ブレ・ボケ」は、激動の「政治の季節」の終焉とともに有効性を失い、ある種の「意匠」となってしまった。中平卓馬はそのことを自己批判し、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する……植物図鑑」(『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』晶文社、1973)を提起するに至る。本展の出品者たちも、もしかすると同じ道を辿るのかもしれない。

2020/07/02(木)(飯沢耕太郎)

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