2019年10月15日号
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artscapeレビュー

2011年11月01日号のレビュー/プレビュー

一点消失・中村宏

会期:2011/10/03~2011/10/22

Gallery-58[東京都]

中村宏の新作展。昨今精力的に取り組んでいる「一点消失」のシリーズを発表した。中央部の一点に消失する遠近法にもとづきながらも、同時に表面をグリッドで仕切ることで奥行き感と平面性をひとつの画面のなかで並立させている。それゆえ、見る者の視線は絵画の奥に引き込まれる絵画の魔術を味わいつつも、その経験自体があくまでも平面上での出来事であることを思い知らされるのである。絵画の再帰性を強く意識させる絵画だが、ほとんどの画面の右下を大きく横切る黒い影が、その再帰性そのものを自己言及しているように思われた。

2011/10/12(水)(福住廉)

榎忠 美術館を野生化する

会期:2011/10/12~2011/11/27

兵庫県立美術館[兵庫県]

数々の異色作で、半ば伝説的存在といえる榎忠。美術館や画廊という既成のシステムに頼らず、会場探しからすべてを自力で行なうスタイルを貫徹したため、彼の作品には現存しないものも多い。それゆえ、美術館での大規模個展は不可能だと思い込んでいたが、遂にその機会がやって来た。出品作品には旧作も含まれるが、多くは新たなアレンジが施されており、榎自身もすべてが新作という意識で展覧会をつくり上げたという。自動小銃をモチーフにした作品、パフォーマンスでお馴染みの大砲、おびただしい数の薬莢を用いたインスタレーションなどはこれまでにも見たことがあるが、溶鉱炉の廃棄物(不純物を多く含む鉄の塊)や、パイプラインに使用される巨大な鉄管(製品検査用の断片)などの作品は、まったくの新作。それらには、ほとんど榎の手が入っておらず、素材本来の美を抽出している。こうした榎忠作品の知られざる側面に光を当てたのは、本展の功績と言えよう。

2011/10/12(水)(小吹隆文)

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彫刻の時間─継承と展開─

会期:2011/10/07~2011/11/06

東京藝術大学大学美術館[東京都]

東京藝術大学美術学部彫刻科による企画展。同大学が所蔵する仏像や彫刻を中心に、同大学の教員による彫刻作品もあわせて約100点を展示した。なかでも見どころは、平櫛田中と橋本平八の作品が公開されていること。後者については「橋本平八と北園克衛」展(世田谷美術館、2010)があったが、前者とあわせて見る機会はなかなかない。両者による木彫彫刻がずらりと立ち並んだ展示の風景は圧巻だ。すべての輪郭線が明瞭な平櫛の彫刻と、柔らかな曲線で構成された橋本のそれはじつに好対照。天心や芭蕉、良寛など、おもに実在の人物(おおむね男性)を写実的に造形化した平櫛の彫刻は、リアルな再現性を重視する現在の彫刻家や造形師にとっての回帰点になりうるだろうし、猫や馬などを柔らかな曲線によって彫り出し、その内側にただならぬ気配を感じさせる橋本の彫刻も、超越性や神秘性を体感させる昨今の彫刻ないしはインスタレーションに、大きな示唆を与えるはずだ。平櫛田中と橋本平八を大いなる原点として、彫刻の歴史が展開していったことを如実に物語る展観だった。

2011/10/13(木)(福住廉)

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篠山紀信「Before-After」

会期:2011/09/10~2011/10/22

hiromiyoshii roppongi[東京都]

篠山紀信の写真展。ヌードの女性たちを明暗、陰陽、清濁などの二項対立によって撮影して、それらを2点一組にして展示した。一見して気がつくのは、明るい写真に篠山の「らしさ」が存分に表われているのに対して、暗い写真には不自然なほどのあざとさがあるということ。果物の果汁を血飛沫のように見せたヌード写真などには、どこかで見たような既視感が漂っているし、とりわけエロスも感じられない。その反面、3人のヌードモデルが無邪気に笑いながらじゃれあう写真には、乾いた虚無感と狂ったエロスが充溢している。後者の路線を猛進していけばよいものの、なぜ前者との両輪を選んだのか、ほとほと理解に苦しむところだ。そうした二項対立の図式に則ることが「アート」の条件であると考えているのかもしれないが、わざわざ暗い写真に挑戦しなくとも、篠山紀信の明るい写真にはすでに「アート」が内在しているのではないだろうか。

2011/10/13(木)(福住廉)

Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」(再レビュー)

会期:2011/09/24~2011/10/15

無人島プロダクション[東京都]

先月のレビュー欄でChim↑Pomの「SURVIVAL DANCE」のことを書いた。しかし、レビュー公開後、知人の話からぼくが見過ごした映像のあることがわかり、編集の方に一旦公開を中止してもらい、再度ギャラリーに赴き確認することにした。関係者各位へのお詫びとともに、再度見て考えたことを以下にレビューさせていただく。「見過ごした映像」とは、クマネズミをメンバーたちが捕獲する模様だった。先月のぼくのレビューでは「捕獲シーンがない」という嘆きが主たる論点だった。ゆえに、この見過ごしは大きなミスである。
ミスを犯した理由を述べておきたい。展示の場である無人島プロダクションの天井裏は、今回細工がしてあって、はしごを上ると三カ所から覗けるようになっていた。そこでは、ミラーボールが輝きTRFの「survival dAnce」が流れ、黄色く彩色された剥製ネズミたちが遊んでいた。さらに、クマネズミの食事の模様があちこちと10台近く配された小さいモニターに映っていた。問題はこのモニターだった。ぼくは三カ所の覗き窓のうち一カ所だけに首を突っ込んで「捕獲シーンがない」と判断を下してしまった。しかし、そこからでは見えない角度にあったモニターに捕獲のシーンが映っていたらしいのだ。つまり、すべての覗き窓に首を突っ込んでおけばよかったのに、それを怠ったということだ。

参考:Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」(2011年10月3日号のレビュー)

http://artscape.jp/report/review/10014183_1735.html

再見した「SURVIVAL DANCE」

9月25日の初見から18日後の10月13日、あらためてギャラリーに赴く。すると驚いたことに、9月にはなかった大きめのモニターが壁に据えられ、捕獲の模様が流されていた(どうもぼくのような人間のために加えられたものらしい)。また、ぼくの見過ごした覗き窓(このときには覗き窓は二カ所になっていた)からも、小さいモニターで同じ映像を見ることができた。
「捕獲シーン」はあった。あったのだが、ぼくの気持ちは複雑だった。「捕獲シーン」があることで、彼らのパフォーマンス的性格(先月のレビューの言葉で言い換えれば「出来事を招いてしまう傾向」「巻き込みつつ巻き込まれる」という性格)は際立つはずで、確かにそうなっていたかも知れない。けれども、再制作ゆえのことととらえるべきか、映像を見ていても既視感に囚われてしまい、ネズミとの接近遭遇の光景にぼくは興奮できなかった。ワーキャーと叫びながら腰砕けの姿勢で網を手にする彼らの姿は数年前と同様ユーモラスだが、ぼくには「捕獲シーン」というより「捕獲シーンの再演」に見えてしまった。ネズミが短期間に進化するのと同様に、Chim↑Pomもまたこの数年で成長したはず。しかし捕獲方法に前回と大きな変化がなかった、このことに違和感を抱かされた。両者のガチバトルが見たかった。そうして、生命の力に肉薄してこそ「SURVIVAL」のテーマは輝くはずだと思うからだ。また、もしそうであるならば、Chim↑Pomの〈クマネズミ化〉あるいは彼らに拮抗するような野性的能力を獲得する姿こそ彼らが展示すべきものなのではないか、と想像が膨らんでしまった(遠藤一郎がほふく前進パフォーマンスを日々遂行する過程で、強靭な筋肉質の身体を獲得したことが思い出される)。その点で併置してみたいのが、フェスティバル/トーキョー関連の公演(というよりは展示)であるカオス*ラウンジの「カオス*イグザイル」(2011年10月22日~11月6日@アキバナビスペース)で、秋葉原のビルの元飲食店らしい部屋の壁を、アニメ少女の落書きやなにかで汚した様子は、まるで弱い小生物が集団で棲みついた跡のようで、汚い分、生命の息づかいを感じさせた。一方、野生を殺し剥製にしたうえで直立させるなど、Chim↑Pomのやり方は動物を人間化する行為ととれなくもない。そうしたところから垣間見えるのは、Chim↑Pomの二つのベクトル、つまり野生に共鳴する動物化のベクトルと人間性を重視するベクトル(社会問題に介入し、平和を希求する振る舞いも含む)とをどう折り合わせ見る者がはっとする融合を生みだすのかという課題だ。この課題にどう立ち向かっていくのか、その視点から今後のChim↑Pomの活動に注目してゆきたい。

2011/10/13(木)(木村覚)

2011年11月01日号の
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