artscapeレビュー
2016年07月01日号のレビュー/プレビュー
世界の刺繍
会期:2016/06/14~2016/09/08
文化学園服飾博物館[東京都]
大がかりな道具や設備を必要とする織りや染めと異なり、針と糸があれば衣服を美しく自由な文様で装飾できる刺繍は、古くから世界各地で行なわれてきた。どこででも誰にでもできるために、ひとくちに「刺繍」といっても、地域や民族、刺繍の担い手によって技法にはヴァリエーションがあり、施される意匠もさまざまだ。本展では、文化学園服飾博物館のコレクションから世界約35ヶ国の刺繍を地域別に紹介し、その多様性を見せてくれている。
第1室は、日本を除く世界の刺繍。展示室の扉を開けると。鮮やかな色彩で刺繍を施された衣裳が目に飛び込んでくる。ルーマニア、チェコ、ポーランド、ウクライナなど、中・東欧の、おもに祭礼や特別な機会に着る服だ。刺繍は女性の手仕事という印象があったが、トランシルヴァニア地方の羊皮に羊毛糸で刺繍を施したベストは、技術と力が必要となるために、男性の専門職人の仕事なのだそうだ。フランスの典礼服、宮廷服、オートクチュールのドレスに施された刺繍もまた職人の仕事だ。興味深い品は、18世紀末イギリスの「サンプラー」。これは女性たちの教養・教育の一つとしての基本的な刺繍の技術を習得するためにつくられたもので、絹糸によるさまざまな繍技が1枚の亜麻布に縫い込まれている。展示はヨーロッパからアフリカ、アジアの刺繍へと続く。苗族など中国少数民族の凝った刺繍はこれまでにも見たことがあるが、ベトナム、タイ、フィリピンなど、東南アジア圏でも手の込んだ刺繍が行なわれていることは今回の展示で初めて知った。第2室は、日本の刺繍。日本の小袖、打ち掛けに施される刺繍は文様というよりも絵画的で、しばしば染めと組み合わされるところが 第1室で見た他の地域の刺繍には見られない点。平面的な染めと立体的な刺繍とを組み合わせることで、表現に奥行きを持たせたり、輪郭を際立たせているのだ。他方で日本には刺し子のように布の補強をしつつ同時に装飾も行なう刺繍技法もある。ここには山本耀司のデザインによる刺し子をモチーフにしたウェディングドレスも展示されている。
本展では主に刺繍の文様や技術の地域差に焦点を当てているが、キャプションを読んでいくと、多様性の源泉がそれだけではないことがわかる。たとえば、ほぼ純粋に装飾的目的で施される刺繍もあれば、実用的・機能的な目的で施されるものがあり、それは文様、技法の違いになって現われる。職人による高度な技術、上流・中流階級の女性による手慰み、労働者の実用的な目的から期せずして生まれる文様など、担い手による違いもある。同時にそれらの相違は刺繍が施された服を着用する人々の階層差でもある。時代の変化、他の地域への伝播の過程で意味が変化するものもある。たとえば、以前の展覧会でも示されていたように、ビーズやメダル、鏡などを縫い込んだ刺繍には魔除けや宗教的意味がある一方で、同様の刺繍でも本来の意味が薄れて装飾化していたものもある。地域が異なれば気候が異なり、それは刺繍の粗密に影響する。一般に寒冷な地方の刺繍は密度が高いという。刺繍に用いられる糸の違い、変化にも歴史がある。多様性を形成するそれぞれの事情もまた興味深い展示だ。[新川徳彦]
関連レビュー
魔除け──身にまとう祈るこころ:artscapeレビュー
2016/06/17(金)(SYNK)
佐竹龍蔵展「ちいさなものたち」
会期:2016/06/18~2016/07/09
YOD Gallery[大阪府]
イノセントな瞳でこちらを見つめる少年少女像で知られる佐竹龍蔵。その作品をよく見ると、輪郭線は一切なく、すべてが薄く溶いた岩絵具を平筆で置いた小さな四角形の集合体、つまり点描画であることに気付く。絵画は光の集積にほかならない。その事実に改めて気づかされた。さて今回、佐竹が描いたのは、龍、風神、雷神、河童、しばてん(彼の故郷、高知県の妖怪)の4点である。なぜ聖獣や妖怪なのか、最初はその意図をつかみかねた。しかし少年少女を、性を超越した存在と考えれば合点がいく。彼が一貫して追求していたのは、スピリチュアルな、あるいは形而上的な存在なのか。それゆえ点描画なのか。次に彼に会った時、その辺りを詳しく訊ねたい。
2016/06/18(土)(小吹隆文)
ユートピア・ヘテロトピア 烏鎮国際現代美術展
会期:2016/03/28~2016/06/26
烏鎮北柵紡績工場跡地、西柵観光地[中国・浙江省]
中国・浙江省の観光都市、烏鎮で催された国際展。烏鎮は「東洋のヴェニス」とも言われる水都で、地政学的には上海と杭州のあいだに位置する。古い街並みを人工的に保存した街は、中国人観光客の人気が高い。訪ねた初日は平日だったにもかかわらず、じつに多くの観光客で賑わっていた。
会場のひとつである西柵観光地は、ある種のテーマパークである。ビジターセンターで入場料を支払うと、巨大な湖を中心に形成された街に立ち入ることができる。あまりにも広大なため、ビジターセンターから街の中心部まで移動するには、無料で乗車できる電気自動車に頼るほかない。水路が入り組んだ街にはホテルや飲食店、土産物屋が軒を連ね、観光客は徒歩で、あるいは舟に乗って、ノスタルジックな風景を楽しむというわけだ。とりわけ夜間は、点在する灯りがロマンティックな雰囲気を醸し出し、多くの観光客が老酒を片手にまどろんでいた。
本展は、そのような観光都市の新たなコンテンツとして開発された。西柵観光地の敷地内には、いくつかの作品が野外展示されていたが、メインの会場は西柵観光地の敷地外にある北柵紡績工場跡地である。縦長の大きな工場を大幅にリノベーションした建物の内部は見事なまでに白く、快適な展示空間に仕上げられていた。ここで作品を展示したのは、マリーナ・アブラモヴィッチやビル・ヴィオラ、デミアン・ハースト、オラファー・エリアソン、キキ・スミス、ローマン・シグネール、リチャード・ディーコンといった西欧現代美術のビッグ・アーティストから、アイ・ウェイウェイ、ソン・ドン、シュ・ビン、マオ・トンチャンら中国人アーティスト。さらには日本からは荒木経惟と菅木志雄が参加した。全体的に旧作が多いとはいえ、これだけのアーティストの作品を一挙に鑑賞できるのは、本展のセールスポイントであると言えるだろう。
注目したのは、中国のリ・ビンユアン。パフォーマンス・アーティストで、各地で繰り広げた数々のパフォーマンスの記録映像を並べた。大量の金槌を同じ金槌で次々と叩き割ったり、刃物を仕込んだ靴を履いてバイクの後部座席に乗り火花を走らせたり、車道の両脇に立つ門柱のあいだを車が通過するたびに飛んで渡ったり、いずれも単純で愚直な身体行為が面白い。このようなパフォーマンス作品は日本においても見受けられる同時代的な傾向の現われと言えるが、彼のある種の馬鹿馬鹿しい作品が本展において際立って見えたのは、欧米アーティストによる身体表現の多くが──アブラモヴィッチしかり、シグネールしかり──、いずれも過剰なまでに思弁的な雰囲気を湛えていたからなのかもしれない。より直截に言い換えれば、息苦しくも強圧的な作品が立ち並ぶなか、リ・ビンユアンの軽妙な作品で救われたのだ。
しかし、このことはリ・ビンユアンの作品が例外的に評価できることを意味しているだけではない。西洋と東洋のあいだの身体表現をめぐる非対称性は、烏鎮ではじめられたこの国際展の行く末を暗示しているのではなかろうか。北京でもなく上海でもない、烏鎮というある意味で周縁的な都市で新たな国際展を開始するうえで、欧米のビッグ・アーティストを勢揃いさせた展示構成が有効であることは疑いない。けれども、この方針を引き続き継続するならば、本展は現在の世界に過剰供給されている国際展と芸術祭の、ワン・オブ・ゼムに終始してしまうことは火を見るより明らかだ。つまり重要なのは、欧米のアート・サーキットに乗ることより、むしろ烏鎮ならではの固有性と独自性を打ち出すことではないか。そのとき、例えばこの土地の風土や観光資源、歴史性が手がかりになるはずだが、残念ながら本展は欧米圏を志向するあまり、それらを有機的に統合するには至っていないようだ。展示の中心はあくまでも紡績工場跡地であり、これはテーマパークとしての西柵観光地の敷地外にあるため、観光客が流れてくることはほとんどないし、そもそも街中には国際展の開催を告知する広告物がまったくと言っていいほど見当たらなかった。辛うじて紡績工場の歴史性に言及したアン・ハミルトンの作品も、紡績工場跡地ではなく、なぜか西柵観光地内の劇場に展示されていたからだ。紡績工場跡地の会場にしても、国際展や芸術祭の祝祭性はほとんど見受けられず、どちらかと言えば静謐な美術館に近い。
今後の国際展と芸術祭のありようを考えるうえで、その土地固有の文化やローカル・アイデンティティが不可欠であることは言うまでもない。それがなければ、他の国際展や芸術祭と代替可能な凡庸なものに成り下がってしまうからだ。リ・ビンユアンのほか、中国国内のおびただしい監視カメラの映像をサンプリングすることで映画の予告編のような衝撃的な映像をつくり出したシュ・ビンなど、すぐれたアジアのアーティストがいるのだから、今後は彼らのようなアーティストを文化資源とすべきではなかろうか。
2016/06/18(土)(福住廉)
杉本博司 趣味と芸術 ─味占郷展
会期:2016/04/16~2016/06/19
細見美術館[京都府]
『婦人画報』では「謎の割烹 味占郷」と題した連載が2013年9月より始まった。著者である「謎の割烹店亭主」が、著名人をゲストにむかえ、その人にあう料理とその席にあう古美術のコレクションでもてなす、という趣向。その中から、本展では3会場に25の床のしつらえが展示された。本展は、昨年、千葉市美術館で開催された展覧会の一部である。
魯山人か湯木貞一か、“趣味と芸術が重なるもてなしの場”という極まった想定からはそんな名前が連想される。しかし、ゲストも料理も存在しない展覧会では、写真家、古美術商、現代美術家という杉本博司(1948 -)の特異な経歴が浮き彫りにされる。本展で示されているのは杉本の趣味人としての見立てといってもよかろうが、それは古美術商としての見識であり、美術家としての美意識でもあるように思われる。例えば《つわものどもが夢のあと》では、軸装された平安時代の装飾法華経の前に南北朝時代の阿古陀形兜がひっくり返しておかれた。兜に生えた夏草は須田悦弘(1969 -)の彫刻だ。信じる者は救われると説く法華経と、戦乱の末の死と荒廃、さらにその上に栄華の儚さを偲ぶ句をのせる。それぞれの要素が精巧に組み上げられて、観る人のなかにはひとつのイメージが描きだされる。《時代という嵐》では、栗林中将司令官の洞窟で発見されたという硫黄島地図保管用鞄と硫黄島地図が展示された。意味ありげに一部が黒く塗り潰された地図は軸装されており、そこに用いられた菊桐紋の織模様が時代感を表現する。
宴席に招かれた客とまではいかないが、展示空間としては比較的小規模な本館ではじっくりと静かにその場を味わうことができる。[平光睦子]
2016/06/19(日)(SYNK)
プレビュー:辰野登恵子の軌跡─イメージの知覚化─
会期:2016/07/05~2016/09/19
BBプラザ美術館[兵庫県]
2014年に亡くなった画家、辰野登恵子の画業を振り返る回顧展が、神戸のBBプラザ美術館で開催される。関西在住の筆者は彼女の作品を見る機会が少なかった。個人的には、矩形がダイヤ状に連なる作品や、ゆるやかなS字(音楽記号のフォルテから横線を抜いた感じ)があざやかな色面を背景に浮遊する作品など、1980年代から90年代にかけての仕事が印象深い。また、筆者は格子やストライプを連続させた初期の版画作品も知っているが、ほかは見たことがなく、実体験が決定的に不足していた。作者の没後にようやく全体像が見られるのは皮肉だが、本展を逃すと関西で同様の機会はないかもしれないので、必ず出かけるつもりだ。
2016/06/20(月)(小吹隆文)