artscapeレビュー
2018年03月01日号のレビュー/プレビュー
黄金町夜曲 山田秀樹の黄金町
会期:2018/1/26~2018/2/17
MZアーツ[神奈川県]
間口の狭い店から肌もあらわな女性たちが客を呼び込んでいる。一見、昭和の歓楽街を撮った写真かと見まがうが、90年代後半以降、つまり平成時代に撮られたものだという。なぜ昭和の写真と思ったかといえば、被写体のヤサグレたたたずまいもさることながら、ブレボケが激しく、場所や人物が特定できないからだ。しかしこのことが逆に被写体となった黄金町の正体をあらわにしている。ブレやボケが激しいのはカメラのせいではなく、いわゆる撮り逃げ、つまり許可を得ずに勝手にレンズを向けたからであり、それはとりもなおさずこの時期の黄金町がヤクザの支配する無法地帯だったからにほかならない。だから彼ら彼女らの表情や店の内部は撮れなかったが、そのことがかえってその場の緊張感を伝え、臨場感を増している。写真のほか、山田自身の絵も出ていて、これがなかなか味わい深い。1軒1軒の店構え、店名を書いた看板、壁を伝う配管、電信柱などを、ちょっと滝田ゆうを彷彿させる暗いリアリズムで描いているのだ。
同時に出されたカタログ(山田の写真集であると同時に、黄金町の歴史を綴った記録集でもある)に寄せたMZアーツの仲原正治氏の解説によると、黄金町は江戸時代に横浜の入江を埋め立ててできた吉田新田の一画で、明治期に水運の発達により街が発達し、1930年には京浜急行の前身である湘南電鉄が黄金町駅を開設。ところが第2次大戦で焼け野原となり、戦後は京急の高架下が麻薬や拳銃の密売、売春の地として栄えてしまう。そして95年の阪神大震災を受けて、高架下から追い出された売春宿が周辺に急増。山田がレンズを向けたのはこれ以後だ。しかし2005年に一斉取り締まりが入り、建ち並ぶ売春宿を次々アーティストのスタジオに改装して、アートで街を再生しようという計画が始まる。08年には横浜トリエンナーレと同時開催で「黄金町バザール」がスタートし、現在にいたっている。
さて、ではいまの黄金町から売春の記憶が払拭され、アートの街として再生したかというと、コトはそう簡単ではない。地元の人たちの思惑とは裏腹に、記憶はそうやすやすと消せるもんではないし、また消すべきでもないだろう。むしろアートはそういう「悪い記憶」を糧に「悪い場所」で育まれることもあるからだ。その意味でこれらの写真は貴重な資料として残しておくべきだし、そのためのアーカイブを設けるべきだろう。
2018/02/06(村田真)
ルドン─秘密の花園
会期:2018/02/08~2018/05/20
三菱一号館美術館[東京都]
「秘密の花園」とはなにやら妖しげなサブタイトルだが、実際ルドンの妖しい世界を堪能できる展覧会だった。そもそもなぜ三菱一号館で「ルドン展」かというと、同館がルドンの巨大なパステル画《グラン・ブーケ》を所有しているからであり、これを入手するときから独自に「ルドン展」を構想していたという。その目玉が《グラン・ブーケ》を含むドムシー城の装飾画の再現なのだ。この装飾画はドムシー男爵の城館の食堂の4つの壁面を埋めるように制作された計16点の連作で、パターン化した植物モチーフをシックな色合いでまとめ、どこか日本の屏風や襖絵を思い出させる。
連作は1901年に完成したが、プライベートな城館に常設展示していたため長いあいだ日の目を見なかった。その後オルセー美術館が15点を所蔵し、作風も画材も異なる《グラン・ブーケ》のみ、2010年の開館年に三菱一号館が取得。しかしすぐに日本には運ばず、翌年パリで開かれた「ルドン展」に貸して世界初公開したという経緯がある。今回オルセーから15点を借りられたのは、こうした貸し借りの関係があるからだろう。ちなみにオルセー所蔵の15点は三菱一号館のもっとも広い部屋に並べられたが、《グラン・ブーケ》は壁にはめ込まれているため、別室での展示となった。しかしこの絵は壁に固定されている上スポットライトが当てられているため、まるでプロジェクターで投影した映像のように見える。イメージを見るにはそれでいいのかもしれないが、物質感が希薄で頼りなさげだ。
ところで、この連作と同じ部屋に《ドムシー男爵夫人の肖像》も出ているが、これがルドンらしからぬアカデミックな肖像画。どうしたルドン? 夫人の前で上がったか? それとも、画面の左半分が白っぽく輝いているように見えるけど、わけのわからないものを描いて夫人に叱られ、後で消したのか? などと想像力を喚起させる程度に冷血な表情をした夫人像なのだ。その他《キャリバンの眠り》《エジプトへの逃避》《若き日の仏陀》《神秘的な対話》《眼をとじて》《ステンドグラス》《蝶》など美しい作品が少なくない。所蔵先は三菱一号館とオルセー美術館のほか、MoMA、ボルドー美術館、岐阜県立美術館、京都国立近代美術館、ポーラ美術館など。日本もずいぶん持ってるなあ。
2018/02/07(村田真)
末永史尚「サーチリザルト」
会期:2018/1/19~2018/2/18
Maki Fine Arts[東京都]
キャンバスに巨匠の絵が15-30個ほど描かれている。ピカソ、モンドリアン、ミロ、モランディ、ロスコ、フォンタナ、北斎らの作品だ。これはネットで画家の名前を検索したとき出てくる画像をそのままの配列で描いたもの。こうした検索システムがどうなってるのか知らないけど、たぶん検索件数が多いほど上位に登場するだろうから、ここに描かれているのはその画家の人気のある作品、いいかえれば代表作ということになる。ピカソでいえば、《鏡の前の少女》《3人の音楽家》《アヴィニョンの娘たち》などが上位に入っている(試みにいま「ピカソ」で画像検索したら、3番目に岡本太郎の絵が入って来た)。作品の配列も間隔も色彩も、なるべくネット上に表示されたまま忠実に再現しているというが、たとえばホイッスラーの写実絵画などは細部が簡略化されていて、そこがいいんだな。作品と作品のあいだは白く区切られているので、一見コマ割りマンガのようにも見える。これはおいしい。3週間ほど前に見た「ジェネリック・オブジェクト」が身近な物体を絵画化する試みだとすれば、今回の「サーチリザルト」は、デジタル化され実体を失った絵画を再び絵画化(=物体化)する試みといえる。
2018/02/09(村田真)
棟方志功と柳宗悦
会期:2018/01/11~2018/03/25
日本民藝館[東京都]
名アーティストに名プロデューサーあり。棟方志功と柳宗悦の関係性を知れば知るほど、まさにその言葉が当てはまる。本展は前期と後期で一部展示を替えながら、2人の師弟関係に主眼を置いた日本民藝館らしい内容だった。
そもそも2人の出会いは昭和11年の春、「国展」の準備中。棟方が20図におよぶ連作「大和し美し」を幅一間(約1.8メートル)の額4枚に収めて持ち込んだところ、「額1枚しか展示できない」と対応する係員と押し問答になった際、同展の工芸部の審査のため訪れていた柳宗悦と濱田庄司がたまたま通りかかり、その展示交渉をしてくれたことがきっかけだった。柳は棟方の版画を見て「これはただものではないぞと思った」と振り返っている。それゆえ、同年の秋に開館する日本民藝館のために高値で同作を買い上げることまでした。後日、柳邸に作品を届けに上がった際、棟方は座敷に置かれていた《二川松絵大捏鉢》に心を奪われ、民藝運動の本質を知ることになる。それ以来、棟方は柳にすっかり懐き、自らの師と仰いで、柳が亡くなるまでの25年間、ほぼすべての作品を柳に届けては助言を求めたという。一方、柳は同志とともに、極貧だった棟方にしばらく生活費援助を行い、小学校しか出ていなかった棟方に教育係までつけさせた。
柳は良くないと思った棟方作品に対しては、彫り直しを命じたり、彩色方法を変えさせたり、ときには大作の一部を抜き刷りしたり、部分的に気に入らない箇所を切り取って表装したりと容赦がない。もちろん、作品をより良くしようと思うあまりの行動である。棟方はそれに対し、いつでも素直に従ったという。本展では2人の間で交わされたたくさんの書簡や、後年に病床の柳を励ますべく、柳が詠んだ「偈(げ/心境を表す俳句より短い詞)」を棟方が版画にした「心偈(こころうた)」などを観ることで、2人の深い信頼関係を垣間見ることができる。どれほど優れた作家であっても、自分の作品を客観的に見ることは難しい。そこで必要なのが作品の良否を見極め、作家のポテンシャルを最大限に高めるプロデューサーだ。柳は棟方のプロデューサーであると同時に、パトロンでもあった。後に大きく羽ばたくことになる世界のMunakataの原点がここにある。
公式ページ:http://mingeikan.or.jp/events/
2018/02/10、2018/02/16(杉江あこ)
絵画の現在
会期:2018/1/13~2018/2/25
府中市美術館[東京都]
1960-80年代生まれの7人の絵画展。最年長の白井美穂は、不可視の法則や運動を可視化させようとしている点で古典的ともいえるが、その色彩と描写は明るくポップで、どこかアンバランス。津上みゆきの作品は抽象表現主義的な絵画に見えるが、スケッチを元にした風景画で、今回は府中市内を渉猟して描いたものだという。いつになく遠近感や空気感が出ているように感じる。福士朋子は飛行機をモチーフにしたマンガチックな絵をホワイトボードに描いている。マンガチックな形式もさることながら、ホワイトボードにマジックというすぐ消せる画材を選んだところに注目したい。
今井俊介はコンピュータで画像を作成し、それをキャンバスに移して色を塗る。ポップ、オップ、ハードエッジ、ミニマル、デジタルといった要素を総合させたいかにも絵画らしい、いや絵画らしからぬ絵画というか。最年少の近藤亜樹は人物や動物や植物を極端にデフォルメし、鮮やかな色彩と大胆な筆づかいでグイグイ描いていて、見ていて気持ちがいい。これは相当に力のある人だ。ヴァラエティに富んだ選択で絵画の豊かさを堪能できそうだが、見終わってみると意外に物足りなさが残るのも事実。なにかもうひとつ、バリッと屹立するような圧倒的な存在感のある「絵画」を欲するのは、ないものねだりというものか。
2018/02/13(村田真)