2021年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

2021年07月15日号のレビュー/プレビュー

松本市、長野市の建築をまわる

[長野県]

長野の新しい建築をまわった。まず伊東豊雄による信濃毎日新聞松本本社《信毎メディアガーデン》(2018)である。松本市では、《まつもと市民芸術館》(2004)に続くプロジェクトだが、今回はコミュニティデザイナーの山崎亮が入り、ワークショップを経て、設計された。ルーバーや木の格子による印象的な外観に対し、手前に大きな広場、横に水路をもうけ、一階は自社ビルにもかかわらず、カフェ付きのほとんどオープンスペースである。インテリアは、《せんだいメディテーク》をほうふつさせる仕上げだ。


《信毎メディアガーデン》外観


今春、宮崎浩が設計した《長野県立美術館》がオープンした。《長野県信濃美術館》(1966)の建て替えだが、隣接する谷口吉生の《東山魁夷館》(1990)や近くの善光寺、そして高低差のある地形など、様々な環境を読み取りながら、それらをつなぐモダニズム的なデザインになっている。ちなみに、宮崎の師匠である槇文彦による《長野市第一庁舎・長野市芸術館》(2016)も、周辺の都市の文脈をふまえた建築だった。


《長野県立美術館》外観



《長野県信濃美術館》(2009年筆者撮影)



《長野市第一庁舎・長野市芸術館》外観


長野県立美術館は、あいだに大階段や水辺テラスを挟んで(中谷芙二子の《霧の彫刻》はここで発生する)、《東山魁夷館》と向きあう一方、善光寺に対しては屋上広場から眺める絶好の視点場を提供している。無料ゾーンでは、交流スペースで「新美術館みんなのアートプロジェクト Something there is that doesn’t love a wall─榊原澄人×ユーフラテス」を開催し、L字の壁に連続する横長の映像を投影すると同時に、オープンギャラリーで開催されていた「美術館のある街・記憶・風景 日常記憶地図で見る50年」展によって過去の思い出を掘り起こしていた。


中谷芙二子《霧の彫刻》の向こうに見える《東山魁夷館》



《長野県立美術館》3F屋上の「Shinano Art Cafe」より善光寺を眺める


オープニングの「長野県立美術館完成記念 未来につなぐ~新美術館でよみがえる世界の至宝 東京藝術大学スーパークローン文化財展」は、文化財を3D スキャンして、かたちを複製する最新の技術を紹介する興味深い企画だった。仕上げは、やはり人の手を加える必要があるものの、最後にエイジングしていくと、本物らしさを獲得する。たとえハリボテでも、表層をつくりこむとわれわれの目を欺くことができるのは、映画や舞台の美術と同じだろう。が、それを文化財で突きつけられると、複雑な気持ちになる。



「長野県立美術館完成記念 未来につなぐ~新美術館でよみがえる世界の至宝 東京藝術大学スーパークローン文化財展」展示風景


長野県立美術館完成記念 未来につなぐ~新美術館でよみがえる世界の至宝  東京芸術大学スーパークローン文化財展

会期:2021/04/10~2021/06/06
会場:長野県立美術館 展示室1・2・3
ウェブサイト: https://nagano.art.museum/exhibition/superclone

新美術館みんなのアートプロジェクト Something there is that doesn’t love a wall─榊原澄人×ユーフラテス

会期:2021/04/10~2021/08/15
会場:長野県立美術館 交流スペース
ウェブサイト: https://www.culture.nagano.jp/event/5399/

美術館のある街・記憶・風景 日常記憶地図で見る50年

会期:2021/04/10~2021/06/27
会場:長野県立美術館 オープンギャラリー
ウェブサイト: https://www.museum.or.jp/event/101855

2021/06/03(木)(五十嵐太郎)

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ファッション イン ジャパン 1945-2020 ─流行と社会

会期:2021/06/09~2021/09/06(※)

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

※オンラインチケットでの予約を推奨


ファッションというと、「服装」を意味する言葉として定着しているが、もともとの意味は服装に限らず広い意味での「流行」である。その点で本展は洋服を基軸としながら、日本の戦後流行史や社会史にも迫る充実した内容だった。当時の世相や流行した雑誌、広告、映像、音楽なども含めて展示していたからだ。まずプロローグとして1920年代-1945年があり、国民服ともんぺが展示されていてのっけから目を引く。そして1章は終戦直後の1945-1950年代、2章は1960年代と、以後、10年単位で章を展開していく。したがってどの世代が観覧しても、必ずどこかの章で懐かしさを覚えたり、当時の自分を思い出したりするのではないかと思えた。まさに服装と流行と社会とは切っても切れない関係にあることを痛感した。


展示風景 国立新美術館 企画展示室1E


ちなみに団塊ジュニア世代の私は1980年代から懐かしさがじわじわと高まり、1990年代にその感情が爆発した。「あぁ、こんなブランドが流行ったよね」とか「こんな格好をした人がいたよね」という言葉が口をついて出た。そして当時、自分が何歳頃で、どんな生活を送っていたのかということまでも蘇ってきたのである。こうした反応は私だけではなかったようで、周囲からも同様に共感や感嘆の言葉が聞こえた。つまりファッションは、個々人が人生を振り返ることのできる強いフックとなるのだ。


展示風景 国立新美術館 企画展示室1E


展示風景 国立新美術館 企画展示室1E


考えてみれば、欧米諸国やその他の国々に比べると、日本の洋服史はまだ浅い。庶民全般に本格的に洋服が根づいたのが戦後からとすると、100年にも満たないからだ。そのわずか100年足らずの間に日本の洋服史は変幻自在な道を辿った。当初は欧米の服装をそのまま受け入れつつも、次第に独自路線を歩んでいく。歴史がないからこそ、自由に羽ばたけたのだ。当然、社会状況からも大きな影響を受けてきた。そんな日本のファッションのガラパゴス化が、2000年代以降には逆に世界から評価される結果にもなる。ガラパゴス化への原動力は何かというと、結局、日本人はおしゃれが好きで、創意工夫するのが好きということに尽きるのではないか。それはファッションデザイナーや業界の人々だけに限らない。庶民一人ひとりが自分らしい服装を希求しているのだ。だから戦中のもんぺにも、戦後まもなくの洋裁ブームにも、庶民が楽しんだおしゃれがあった。さて、本展を観て、あなたは何に懐かしさを覚えるだろうか。


公式サイト:https://fij2020.jp

2021/06/08(火)(杉江あこ)

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呉夏枝「小布をただよう」

会期:2021/06/11~2021/06/27

MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w[京都府]

移動を前提とし、リサーチに基づく作品制作を行なっている作家にとって、コロナ禍による移動制限は、制作の根幹に関わり、根底から問い直す契機となる。

現在はオーストラリアを拠点とする染織作家の呉夏枝(お・はぢ)は、韓国の済州島出身の祖母や自身のルーツにまつわる初期作品から、経糸と緯糸の交差が織りなす「布」という構造や「織る」「編む」「糸を結ぶ/ほぐす」といった技法に、時間の積層や記憶の継承・再構築のメタファーを重ねて表現してきた。「第二の皮膚」としての衣服(民族衣装)はもちろん、編み込まれた麻縄は、身体性を強く喚起し、(不在の)身体を想起させる。近年はさまざまな土地へ赴くリサーチとともに射程を広げ、その土地でワークショップを通して出会った女性たちが受け継いできた染織の歴史や記憶を、「近代(化)」「手芸」「ジェンダー」「海を往来する移民や季節労働者」といったより大きな枠組みのなかで捉えている。

例えば、国際芸術センター青森のレジデンスでは、近代化とともに姿を消した「こぎん刺し」など丁寧な手仕事による野良着や肌着のリサーチを行なって写真作品を制作。大阪市現代芸術創造事業Breaker Projectでは「kioku手芸館たんす」を拠点に、地域の女性たちとともに語りながら「編み物をほどく/ほぐす」ワークショップを行なった。また、金沢でのワークショップでは、かつて季節労働者として国境を越えて海を往来した海女に着目し、地域で収集したレースなど編み物をサイアノタイプ(日光写真)の技法で布に転写した。

本展では、リサーチや移動の制限を、「過去の蓄積を反芻し、新たな創作の糧とする期間」と捉え、これまで制作したテキスタイル作品のハギレや試作を縫い合わせるなど再構成して展示した。鮮やかな絣のハギレに重ねられた韓国語のテキスト。腰機(こしはた:持ち運び可能で原始的な織機)で織られた、海に浮かぶ島影。サイアノタイプで青く染め抜かれた、大輪の花のようなレースの連なり。小さな白い絹のチマ(スカート)に刺繍された鮮やかな花。織る、染める、結ぶ、刺繍といった技法の多様性と、作品自体の「記憶」を見せる。

断片どうしが浮遊し、技法や素材、テーマの共通性という見えない糸によってつながり合った空間は、航路が行き交う群島を思わせ、現在進行中の「grand-mother island」プロジェクトを想起させる。また、作品自体の「モビリティ」や「過去の記憶の反芻」は呉自身の創作態度をメタ的になぞるものでもある。同時に、「習作やサンプルを通して作家の思考の跡と核を見せる」試みは、コロナ禍の逆境のなかでの/だからこそ可能になった、オルタナティブな回顧的な展示形態のあり方としても示唆的だった。



[画像提供:ヴォイスギャラリー]



[画像提供:ヴォイスギャラリー]


呉夏枝 公式サイト:http://hajioh.com/

関連記事

呉夏枝「-仮想の島- grandmother island 第1章」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年04月15日号)

2021/06/11(金)(高嶋慈)

ANTEROOM TRANSMISSION vol.1 ─変容する社会の肖像

会期:2021/04/28~2021/06/30

ホテル アンテルーム 京都|GALLERY 9.5[京都府]

アートホテル、アンテルーム京都の開業10周年企画として始まった、若手作家育成プロジェクト「ANTEROOM TRANSMISSION」の第一弾。「変容する社会の肖像」と副題の付いた本展は、作品を同時代の社会へのメッセージとして伝えることを企図する。現役大学生と卒業後3年以内の若手作家7名が選抜された。中心軸として浮上するのは、とりわけコロナ下で浮上した、デジタル情報時代の視覚メディアと私たちの身体、知覚、物質、社会の関係をめぐる問いだ。

津村侑希は、Googleストリートビューや航空写真などネット上のデジタル画像を素に絵画を制作する。コーカサス地方の教会の壁を描いた出品作では、実物の小枝や石が床に置かれ、描かれた枝に混じって画面に貼り付けられ、ライトが厳かに照らす。質量を持たないデータを触知可能なものとして再物質化し、聖性を与えようとするかのようだ。



津村侑希 左より《世界地図》《アルメニア教会の壁》[撮影:大澤一太]


大澤一太と六根由里香は、デジタル画像の物質への置換やトレースといった操作を通して、情報の複製と欠落、レイヤーとフレーム、具象と抽象の境界といった主題を仮設的な場において問う。小田蒼太は、コロナ禍と環境汚染問題の相関関係について、「透明」「可視性」を軸に、合わせ鏡のように提示する。コロナ禍の副産物として大気汚染が緩和され、見張らせるようになったヒマラヤ山脈の写真。その前に置かれた立方体のキューブには、ウィルスに汚染された肺のイメージが閉じ込められている。キューブは、輪切り状に肺の断面を描いたアクリル板を重ねてできており、見る角度によって像と可視性の度合いが変化する。



小田蒼太《Coexisting with COVID-19》[撮影:大澤一太]


光と視覚それ自体について、複数のメタ的な仕掛けとともに省察して秀逸だったのが、佐藤瞭太郎のCG映像作品《Blue Light》。リアルの展示会場と映像内で反復されるCG世界、映像のなかのPC画面など複数の入れ子構造や、出口のない迷宮状態とリンクするループ構造、鑑賞者自身を檻の中に閉じ込める展示構造といったメタ的な仕掛けが重層的に交錯する。タイトルには、私たちを魅了して捉えるPCやスマホ、タブレットの画面が発する光と、光に集まる生物の習性を利用した殺虫灯の二重の意味がかけられている。バーチャルな映像への没入と身体の忘却、光の刺激を求めて加速する眼球。その欲望は世界中に張り巡らされた監視カメラやGoogleストリートビューを暗示し、私たちの身体はスクリーンの影絵を見つめ続ける洞窟内の囚人と化す。

鑑賞を終えて「展示スペース=檻」から出た私たちは、一時的な束縛から解放される。だが、その外に広がる、視覚情報メディアに包囲された日常風景は、一変して見えるだろう。



佐藤瞭太郎《Blue Light》[撮影:大澤一太]


2021/06/11(金)(高嶋慈)

RUN

「母親」の異様なる愛情が暴走するサイコ・スリラーである。日本の流行り言葉だと、「毒親」ということになるかもしれないが、娘を薬漬けにして病気にさせてしまうのだから、尋常ではない。ゆえに、本作では安心だと思われていた家こそが、もっとも恐ろしい場所に転化する。これはフロイトの精神分析をもとにしたアンソニー・ヴィドラーの論考を想起させるだろう。すなわち、辞書によって「親しみのある(ハイムリッヒ)」の意味を掘り起こしていくと、真逆の「不気味なもの(ウンハイムリッヒ)」が隠されているというものだ。安心な場のもっとも奥に秘められたものは、「不気味なもの」である。主人公のクロエは二階の個室を与えられ、日常生活を送っていたが、母への疑いが生じたことで脱走を計って失敗し、映画の終盤では地下室に閉じ込められ、出生の秘密を知ることになった。二階への階段には、車椅子の昇降機がついているが、地下室にはそれがない。したがって、本来、そこはクロエが絶対に入ることができない場所だった。

映画はぽつんと建つ一軒家、車椅子、薬、母と娘というミニマムな要素によって構成される。そして無駄に尺が長くもない。少しだけ映画館、薬局、病院も登場するが、基本的にはずっと家が舞台であり、空間の仕掛けもおもしろい。例えば、二階の自室に閉じ込められたクロエが足は不自由ながら、どのように脱出するのか。もっとも、車椅子なら、わざわざ自室を二階にするだろうか? という疑問もなくはないが、この母親なら、いざという時に娘を家から出させないためにそうしてもおかしくない。そして階段のモチーフは、別の場所においてもういちど使われる。ともあれ、家に憑く霊とか化け物とか呪いではなく、まさにサスペンスとしての映像がつくりあげる宙吊り感覚の怖さだ。例えば、深夜にクロエは隠れてインターネットを検索しようとするが、接続されておらず、諦めて帰ったあと、不意に闇の中に浮かぶ母の顔。外向けに良い母を演じる母は、娘には私が必要なのだと繰り返す。が、ついに娘は母の方が私を必要としていると言い返すのだ。なお、事件が解決した後、ラストのシーンもやばい。


映画『RUN』公式サイト:https://run-movie.jp/

2021/06/18(金)(五十嵐太郎)

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