artscapeレビュー

2021年09月15日号のレビュー/プレビュー

神村企画《STREET MUTTERS #2》

会期:2021/08/06~2021/08/08

糸口[東京都]

「路上にある標識や表示を観察・採集し、その意味や指示を受け止め、それに従い自発的に動かされてみるダンス公演」《STREET MUTTERS #2》が上演された。振付・出演は神村恵と木村玲奈。会場となった「糸口」は振付家・ダンサーとして活動する木村が2020年から運営するスペースで、すでに複数のアーティストによる「こけら落としパフォーマンス」はウェブ上で公開されているものの、観客を入れての実地開催公演は本作が初めてとなる。

上演はおおよそ三部構成になっており、まずは壁面にさまざまな標識の画像が次々と投影されていく。なかには私が駅から「糸口」に至るまでに目撃したものも含まれており、それらは「糸口」周辺で採集されたものなのかもしれない。続いて、今回「スコア」として採用された三つの標識(トイレ、不法投棄厳禁、非常口)についての二人の会話。そして最後に三つの標識それぞれをスコアとするダンスという構成だ。観客の手元にはスコアとして三つの標識とともにそれぞれの標識から「読み取る指示」「振付」が記された紙も配布される。

標識を身体への指示とみなしそこからダンスを立ち上げる、というアイデアは、たしかに聞いてみればなるほどと思わされるものだが、しかし興味深いのは、取り上げられた三つの標識は標識としてのあり方がそれぞれに異なっている点だ。たとえば、トイレの位置を指し示すトイレの標識は、記号としてはステレオタイプな男女のヒトガタとして表象されており、実のところそれがトイレを指し示しているのだという理解は慣習的なものに過ぎない。一方、同じくヒトのかたちが描かれた非常口の標識は、一見してそれ自体が「外に出ること」を示していることは明らかであり、さらに「非常口」という文字も付されている。不法投棄厳禁の標識については記号的な要素はなく、「不法投棄厳禁」等々の文字が記されているのみだ。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


こう考えてみると、トイレの標識には本来的には身体への指示というべきものは含まれていないのだが、神村と木村はそこから「二つのカテゴリーどちらかに自分を振り分け、もう一方についての想像力を停止させる」という指示を読み取る。振付は「排泄するためにトイレに向かう」「二つのカテゴリーのどちらかに入り、異物がいないか注意する」「もう一方についての想像力を停止させ、排泄する」「外に出て、もう一方についての想像力を取り戻す」となっている。これを見ると、(探していた)トイレの標識を見つけた後の行動を標識による指示として解釈していることがわかる。基本的にはトイレに行きたいからこそトイレの標識を探すのだということを考えると因果関係が逆転しているような気もするが、しかしもちろん標識を見たからこそトイレに行く気になるということもしばしばあり、意思はともかく行為には標識が先立っていることに変わりはない。抽象度の高い看板から立ち上がるダンスが現実での行為をなぞるような、ある意味で演劇的なものになっていた点も興味深かった。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


不法投棄厳禁の標識から読み取られた指示は「表示を見たりゴミを捨てたりすることで、それを設置した人と間接的なコミュニケーションを取る」。振付は「表示を見ているというメッセージとしてゴミを捨てる」「表示の指示に従ってゴミを捨てたことを取り消す」「その二つを繰り返す」。上演ではゴミが入っていると思しきレジ袋を捨てては拾う行為を繰り返すのだが、一連の行為の速度が上がっていくと、捨てられたゴミが地面に着く前にキャッチされ、行為が文字通りキャンセルされるような事態が生じてくる。看板の設置にはおそらく不法投棄が先立っているように、禁止にはつねに禁止された当の行為が先立っている。ゴミ捨てという行為が宙づりにされるようなダンスは「禁止」の命令に内在する力学とそれが引き起こす運動を体現するものだ。


[撮影:鐘ヶ江歓一]


非常口の標識から読み取られた指示は「現在の場所にいたまま、いつか起こりうることや、ここではない場所を想像する」。振付は「A.リラックスして寝たまま危険を想像し、最小限の力でそれを避ける」「B.想像の中で外の世界へ行き、その想像が閉じたらさらにその外へ出ることを繰り返す(戸口→側溝の網→雑草→白線→歩道の緑→電線・空→団地→車・歩行者→屋根→押入れ→渓流)」。前二つの標識から読み取られた指示、そこから生まれた振付と比較するとグッと抽象度が増しているのがわかる。標識が示す「非常口から脱出する」という行為、そしてそこに至る事態が実現することは稀であり、多くの場合、それは想像されるに止まることになるだろう。だが、この標識から想像されるのはそれだけではない。標識は非常口の向こう側への想像力をも起動する。二つの想像は無関係なわけではないが、それぞれ半ば独立したラインとしてあり、2種類の振付はそれに対応している。上演されたダンスも振付の文言に対応して抽象度の高いものとなっていたが、糸口の出入口から外に出た二人は最後にゆっくりと標識と同じ出ていく人のポーズを取る。ダンスは再び標識に回収されつつ、観客の想像力は自分たちがこれから出ていくはずの外の空間に向かって開かれる。



さまざまな標識とそこから読み取られた指示・振付、そしてダンス。三者のあいだに生じる差異は、標識に対峙する私に身体と想像力のありようを精査するよう促す。それはつまり、生活空間に置かれた我が身のありようを振り返ることにほかならない。


神村恵:http://kamimuramegumi.info/
木村玲奈:https://reinakimura.com/

2021/08/07(土)(山﨑健太)

山形(金山町、新庄市、銀山温泉)の建築群

[山形県]

山形県の金山町を歩く。地域住宅計画、街並み景観条例、1978年から続く住宅建築コンクールなど、長い時間をかけた努力の甲斐あって、なるほど街並みの景観がよく揃う。金山スタイルというべき意匠も確立されている。林寛治、片山和俊らの東京藝大系の建築家が関与し、明治時代の土蔵をカフェやギャラリーに転用した《街角交流施設 マルコの蔵》(2012)と広場や、《街並み交流サロン ぽすと》(1936年竣工の旧郵便局)などのリノベーション(2000)、あるいはきごころ橋、小学校、役場などの現代建築を手がけ、ただ古建築を保存するだけでなく、新旧の魅力を融合した。また金山スタイルではないが、やはり藝大出身の益子義弘による森林に囲まれた火葬場が素晴らしい。



《街角交流施設 マルコの蔵》



《街並み交流サロン ぽすと》



益子義弘による火葬場


新庄市では、急勾配のとんがり屋根をもつ《雪の里情報館》の展示棟(旧農林省積雪地方農村経済調査所庁舎、1937)に立ち寄った。これは考現学で有名な今和次郎が設計した建築である。彼は青森県・弘前の出身だから、大雪がもたらす状況をよく知っていたはずである。もともとは雪害対策を調査するために設置された建築だが、第5展示室ではシャルロット・ペリアン訪問の展示があり、彼女がとてもお茶目なキャラクターだったエピソードを伝える。



《雪の里情報館》の展示棟(旧農林省積雪地方農村経済調査所庁舎)


また《新庄市エコロジーガーデン「原蚕の杜」》(2002)では、工学院大学の富永祥子研究室ほかによる1930年代の蚕糸試験場のリノベーションを見学した。外観は当初の状態に復元し、2階は見えない部分での耐震補強を施し、2021年の初頭に3棟の改修工事が完了している。旧第4蚕室は、創造交流館として再生し、とても良い雰囲気の「おやさいcafé AOMUSHI」、スタジオ、オフィスなどが入る。



富永祥子研究室ほかによる蚕糸試験場のリノベーション


銀山温泉は、エリアの手前で自動車を降りて、歩いていくことになるが、うねる細い川の両岸に宿がぎっしりと並ぶ風景が印象的だった。大正時代に建設された《能登屋旅館》(1921)など、よくできた和洋折衷が興味深い。一方、隈研吾による《藤屋》(2006)は、外に屋号すらも示さない、すっきりとしたミニマルなデザインや繊細なルーバーによって、賑やかな宿が多い環境において逆に存在感を示していた。



《能登屋旅館》



左が隈研吾の《藤屋》

2021/08/08(日)(五十嵐太郎)

オル太『生者のくに』

会期:2021/08/08~2021/08/09

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

アーティスト・コレクティブ、オル太が茨城県日立市での(リモートによる)リサーチを基に発表した作品。第一部のオンラインゲームと第二部の舞台公演で構成される。オンラインゲームでは、プレイヤーは「坑夫」「農婦」「政治家」「芸者歌手」「牛」などのキャラクターを選択し、日立市の地形を3DCGで再現したフィールドを探索しながら、日立鉱山の歴史、過酷な労働、鉱山内の風習、公害、版画など文化を通した社会運動について学んでいく構成だ。クライマックスの祭りでは、無形民俗文化財「日立風流物」の山車や人形が登場し、プレイヤーの掛け声に合わせて動き、壮観だ。

一方、第二部では、坑道を模した木組みのインスタレーションを舞台に、断片的な語りの蓄積によって、日本の近代を支えた炭鉱労働と、オリンピック/コロナ自粛の現状が、過去と現在を行き来しながら重ね合わせられていく。「過去の声」を今に響かせる記憶継承装置として重要な役割を果たすのが、民話の語りや炭坑節だ。労働の搾取、「祭り」と自粛、社会構造の閉塞感を「現代の民話」としてどう語り直せるか。そしてその先に、炭鉱が象徴する近代化の宿痾の根源とどう接続できるかが賭けられている。



[撮影:飯川雄大 2021年]


狭い坑道には、四つん這いの窮屈な体勢のまま、身じろぎしない坑夫や河童が身を潜めている。カン、カンというタガネを打つ音が響き、「七つ八つからカンテラ下げて~」という節回しが聴こえてくる。山の神は縮れ毛がコンプレックスのため、鉱山内で髪をとかすと逆鱗に触れるという民話が語られる。「異界」への案内役として河童や天狗の妖怪についても語られるが、わかりやすいキャラ化の浸透の反面、「海も山もない」というラストの台詞のように、山を切り開き、汚染水を垂れ流した結果、彼らはもはやどこにも存在しない。

地下深くに眠る鉱物資源を、現代の都市空間へと反転させたのが、私たちの身の回りにあふれる「都市鉱山」だ。車、家電、スマホ、PC、ゲーム機……。大量廃棄されたそれらの山は、分解して希少資源の採掘を待つ鉱山であり、私たちの日常は労働の搾取の構造で成り立っている。鉱毒に侵された畑のため、農夫から鉱山労働者という別世界に転職したことを語る男。一方、現代では、エネルギー会社へのオンライン面接にのぞむ若い女性が、祖父がかつて炭鉱労働者だったことを自己アピールとして語り、男女の給与格差についてさりげなく質問する。SDGsに含まれるジェンダー平等の目標と、遠い道のりが、月経中の女性の入山禁止の慣習、就職の面接、家庭内DVのシーンを点々と連ねて示される。



[撮影:飯川雄大 2021年]


オンラインゲームのクライマックスを盛り上げる「祭り」とは対照的に、「現代の祭り」の矛盾を見せつけて鋭い亀裂を入れるのが、オリンピック開会式の花火が華やかに打ち上げられる新国立競技場と、その周辺の反対デモを(中継風に)映し出す映像の挿入だ。そして、山本作兵衛の炭鉱画とともに、「生者のくに」が地下の世界を指すことが終盤で語られる。「坑内で死体が上がっても、魂は地下を彷徨う」。死者ではなく、まだ生きている者たちの声が、炭坑節となって響く。それは、かつては労働歌としてコミュニティ形成の手段であったが、現代では、クラブ風にアレンジされた炭坑節にノって踊りまくる出演者たちが示すように、過酷な現実をいっとき忘却するための一過的な熱狂にすぎない。



[撮影:飯川雄大 2021年]


終わりのない労働と搾取、祭りの(醒めた)熱狂と歴史の反復構造は、オル太の過去作『超衆芸術 スタンドプレー』(2020)においても通奏するテーマだった。そこでは、新国立競技場を模した楕円形の陸上トラックが設置され、出演者たちはそのレールの上でトレーニングマシンを押してグルグルと周回させる肉体労働に従事し続ける。終わりのない単純労働によって「レール」からの逸脱の不可能性と国家イベントの反復性をひたすら可視化した『超衆芸術 スタンドプレー』。奇しくもオリンピック閉会式の日に初日を迎えた本作では、対照的に「狭い坑道で四つん這いの姿勢を強いられ、何かの圧力に耐えている身体」の異常性が際立っていた。


公式サイト:https://seijanokuni.net/

2021/08/08(日)(高嶋慈)

山形で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

会期:2021/07/17~2021/08/27

山形美術館[山形県]

今年見た展覧会では、もっともインパクトのある企画だった。国立西洋美術館が長期の休館に入っていることから、貴重なコレクションが貸与されたものだが、通常ならば、ただの名品展になりかねない。実際、本展をそのように鑑賞している来場者は圧倒的に多そうだった。しかし、別のレベルで意欲的な試みがなされており、断続的に挿入される長い説明文を読んでいくと、日本における西洋美術の受容というテーマを軸に、山形美術館と国立西洋美術館のコレクションと交差させながら、ダイナミックな三部構成が提示されている。すなわち、山形の地元彫刻家・新海竹太郎の渡欧体験、1900年パリ万博訪問、留学先の記憶/西洋美術館のコレクション形成史と建築の軌跡/再び山形に戻り、「洋画」の展開をたどる。もうひとつの開催地の高岡市では、おそらく第一章(林忠正と本保義太郎に変更)と第三章を入れ替えた展示になるはずだ(確認すべく、見に行こうと考えている)。ちなみに、山形美術館は、フランス近代絵画を核とした吉野石膏コレクションが寄託されており、国立西洋美術館の作品群とも出会う。

新海は上野の近くに暮らしたが、自らの死後、西洋美術館が存在する未来を想像できたであろうか、というテキストが、第一章と第二章を架橋する。作品解説の枠を超えた内容に尋常ならぬものを感じ、閉館が迫っており、限られた時間しか滞在できなかったため、カタログがない可能性も想定し(山形美術館ではありうる)、とにかく会場で文章だけは全部読むことにした。実のところカタログにはすべての文章は収録されていたが、上段に山形、下段に高岡に関する文章を並行させた構成、しかも文体や言いまわし、段落の構成も意図的にそろえた本の造りは見事である。これは新藤淳が中心になって企画したコレクションの展覧会だが、新しい形式の発明と言えるだろう。

またコロナ禍において、海を渡る作品の貸し借りが難しくなり、コレクションを見直して、有効に活用すること、あるいは簡単に西洋に行けず、改めて「遠く」を想像する意味を考えるという意味で、本展は時節にあう企画だ。ところで、会場の最後には、新海と本保をつなぐ仕かけとして、2人が並ぶ書籍を紹介していたが、カタログにはない。あとから見つかり、追加された資料なのだろうか。

★──高岡市美術館では「高岡で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」に改題。(会期:2021年9月14日~10月31日)

2021/08/09(月)(五十嵐太郎)

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日本のパッケージ 縄文と弥生のデザイン遺伝子─複雑とシンプル

会期:2021/08/07~2021/10/03(※)

印刷博物館 P&Pギャラリー[東京都]

※入場はオンラインによる事前予約制。


「日本的なデザイン」などと我々は普段こともなげに口にするが、そもそも日本的とはどんなものを指すのだろうか。本展を観てふと我に返り、そう思った。本展で提示する日本的とは、ずばり縄文と弥生である。なんと大胆な切り口と思うが、確かに日本のデザインの原点は、時間を大きく遡り、ここにたどり着くのかもしれない。人々が狩猟・採取生活を営んだ縄文時代につくられた縄文土器は、立体的で生命力にあふれ、デコラティブで呪術的、そして複雑! 一方、人々が稲作・農耕生活を営んだ弥生時代につくられた弥生土器は平面的で理性的、ミニマルかつ機能的で、シンプル! そんな五つの特徴をそれぞれに挙げ、いずれも日本的な「デザイン遺伝子」と切り込んだ点が本展の見どころである。入り口には縄文土器の深鉢火焔型土器(複製)と弥生土器の広口壺も展示されていて、その本気度が窺えた。


展示風景 印刷博物館 P&Pギャラリー


日本パッケージデザイン協会創立60周年記念事業として企画された本展ゆえに、展示品はすべて日本のパッケージである。飲料、食品、日用品、化粧品、贈答品など種々様々なパッケージが、まず前述の特徴に従って縄文か弥生かに振り分けられ、さらに「美(うつくしい)」「象(シンボル)」「欲(シズル)」「愛(かわいい)」「用(つかう)」の五つのテーマに沿って展示されていた。例えば資生堂のシャンプー「TSUBAKI」のパッケージデザインは「美/縄文のデザイン遺伝子」で、大塚製薬のスポーツドリンク「POCARI SWEAT」のパッケージデザインは「象/弥生のデザイン遺伝子」といった具合である。展示品のなかには見慣れたパッケージも多くあれば、昔懐かしいパッケージもあった。こうした身近な商品のパッケージデザインを分析し、合計10の括りに分けて編集した試みは非常にユニークであるし、まるで雑誌の一大特集のようにも思えた。


展示風景 印刷博物館 P&Pギャラリー


さて、最後に本展は問いかける。「あなたは縄文派か弥生派か」。会場で配布されたハンドブックのチェックシートによると、私は完全に「弥生のデザイン遺伝子濃い目人」らしい。確かにどちらかと言うとシンプル志向である。しかし縄文の生命力にあふれた呪術的なデザインにも不思議と惹かれる。結局、どちらのデザイン遺伝子も併せ持っているのが日本人なのだろう。


公式サイト:https://www.printing-museum.org/collection/exhibition/g20210807.php

2021/08/10(火)(杉江あこ)

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2021年09月15日号の
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