artscapeレビュー
鈴木励滋所長『喫茶カプカプ』
2016年11月01日号
喫茶カプカプ[神奈川県]
喫茶カプカプは横浜市旭区ひかりが丘にある。金曜日の午後13:30ごろ。ドアを開けると、奥に高齢の男性が一人。その隣の席の女性は白い猫のように、こちらに気づくとはにかみ、何かを小さい声でつぶやきながらいそいそと店の奥に消えた。
カプカプは障害のある方たちの作業所に併設された喫茶店で、介助スタッフがいるものの給仕は主に障害をもつ彼らに任されている。最初、スタッフの女性に席を促され座ると、注文を聞きに黄色い服の男性が現れる。注文を告げる。スタッフ女性の手が添い、注文表にチェックが入る。その間、ふわっとやわらかい時間が生まれる。白い服の白い肌の男性がゆっくりとやってきて、コーヒーとプリンを置いてくれる。そのゆっくりとした動作に、こちらの気持ちが沿ってゆき、木の葉の揺れを味わうみたいに、彼の所作を味わう。白い猫のような女性はコーヒーを淹れる担当だったのだろう。仕事が終わるとその場で独り言のような言葉をつぶやいている。その声は、まるくてちいさくて高くてかわいい。見回すと、作業所で作ったらしいアクセサリーやオブジェが店内にひしめいている。雑然としているのだが、全体のトーンがやわらかい。ことごとしくない。それでいて、こまかなしつらえがなされている。
所長の鈴木励滋さんは、アート、とくに演劇に精通している人物で、その彼曰く、この喫茶カプカプで起きていることは「演劇」であるそうだ。数日前に東京大学で行われた障害とアートをめぐるシンポジウム での、そうした発言が気になっての訪問。デリケートな場の細工があってのこの雰囲気なのではと、こちらのからだもゆったりしてくると、お客さんが次々現れ始め、いつの間にか、15席ほどが満席に近くなってきた。全員高齢者。通い慣れた感じでコーヒーを頼む。おしゃべりの輪がつながったり、ほどけたり、またつながったり。口に手を当てず咳をするおじいさんの無作法に、おばあさんたちが辟易したり。持参のおかしがくばられたり。そんな些細ないちいちが「演劇」としての「見どころ」に見えてくる。ひかりが丘団地は、他の多くの日本の団地がそうであるように猛烈な高齢化が進んでいるようで、そうした高齢住民と障害をもつ方たちとが、不思議と自然に混じり合っている。おじいさんが書類をもってやってきた。コピーを取りに来たそうだ。コピー機があるだけで、喫茶カプカプを訪れる導線もできる。あっちで「おかしを買うのに30分並んだ」話をしている。向こうでは嫌われたおじいさんが一人でコーヒーを啜る。店の奥では白い猫のような女性が高くまるい声でつぶやいている。元気の良いウエイトレスがコーヒーを配る。また奥では障害のある方同士のちょっとした諍いの声が漏れている。青年団の現代口語演劇みたいに、同時にあちこちで見逃せない出来事が起きている。その舞台のなかにちょこんと座って、波風立てないように「観客」を気取ることは叶わず、いただいたおかしを頬張り、隣のおばあさんとおしゃべりする。これが演劇だとしたら、相当に変わった、前衛的なそれだ。一時間後、席を立つまでの出来事は、たまたま起きたことのようだが決してそうではない。いちいちがこの場のしつらえによって引き起こされたものだ。コピー機しかり、雑然とした店内のものひとつひとつしかり。あるおばあさんは所長に「水だけ飲んで帰っていく人もいます。今度まかないのご飯食べに来てください」と言われたのがきっかけで通うようになったという。
純然たる観客はいない。むしろ、すべてが演者であるような空間。お客さんだけど単なるお客さんではない。給仕だけど単なる給仕ではない。劇場にいると観客として疎外されていると感じることがある。反対に、ここはすべてのひとを包摂しようとしている。所長の鈴木さんがここでの日々の出来事を演劇になぞらえていたとして、その真意は本人に伺う必要があるだろうけれど、それが演劇だと、単なる比喩ではなく演劇なのだと言うこと、そうやって既存の演劇概念を裏返して別の演劇もまた演劇であるとすること、淡々とその挑戦が行われていると感じた。「横浜市」と聞いてイメージする華々しい光が差し込んでいるとは言い難いひかりが丘で。
2016/10/14(金)(木村覚)