artscapeレビュー
天才ハイスクール!!!!展覧会「Genbutsu Over Dose」
2015年07月01日号
会期:2015/04/17~2015/04/23
高円寺キタコレビルほか[東京都]
「天才ハイスクール!!!!」が終わった。2010年以来、Chim↑Pomの卯城竜太が講師を務めた美学校のクラスからは毎年のように数々の異才が輩出され、とりわけ美術大学の教育を経由しない表現のあり方は、東京のアートシーンに物議を醸しながら新たな局面を切り開いてきた。その功績は間違いなく大きい。
ただ、既存の美術大学と対照的な教育を実践してきた「天才ハイスクール!!!!」とはいえ、卒業と同時に社会の荒波に揉まれることになる多くの美大生と同じように、卒業後に孤独な闘いに挑むことを余儀なくされる点は変わらない。今後アーティストとして大成するかどうかは、それぞれ一人ひとりが、「天才ハイスクール!!!!」という集団性で得た経験をもとに、どのように闘いながら生き残っていくかにかかっているだろう。
そのために重要な点は、おそらく3つある。
第一に、先人との関係性。「天才ハイスクール!!!!」は、Chim↑Pomの卯城竜太を講師にして始められたということもあり、もともと上下の関係性が乏しい。むろん、そこには不必要な束縛からは無縁であるという利点があると同時に、ほどよい緊張関係にある先人のアーティストからの激励や批判を受けにくいという弱点も抱えている。むろん会田誠やChim↑Pomなどの先人たちに恵まれていないわけではないが、それにしてもある種の偏りは否めないし、とりわけコミュニティが細分化されている東京では、そのような縦の関係性の恩恵はもたらされにくい。Chim↑Pomが彼らの師匠にあたる会田誠の芸風に影響を受けつつも、同時に軽やかに乗り越え、独自の芸風を確立したように、「天才ハイスクール!!!!」もまた、Chim↑Pomの影響圏内から鮮やかに脱出することが必要となるはずだ。
第二に、地方との関係性。「天才ハイスクール!!!!」とは、よくも悪くも、きわめて東京的な運動体だった。東京のアートシーンは、世代や美術大学、趣向などの条件によって細かく分割されており、その細分化された環境がある種の快適な自由を担保することは事実だとしても、その反面、外部との接点を見失いがちだという欠点も否定できない。外部とは、すなわち自分が帰属する世界以外の世界であり、外部を見失うとは、それらを視野に収めることなく、例えば東京という舞台を全国と錯誤することにほかならない。改めて言うまでもなく、東京とは日本の首都機能を担っているものの、少なくとも美術に限って言えば、全国にあるアートシーンのひとつにすぎない。東京のある部分で評価されたからといって、勝ち誇ったように振る舞うのは、まさしく「井の中の蛙」である。Chim↑Pomが広島という地方都市で決定的な挫折を味わい、その後自力で復活を遂げたように、「天才ハイスクール!!!!」のメンバーは、あえて東京から離れたところでの活動に身を投じるべきだ。東京とはまったく異なる、それぞれの土地の事情を肌で感じれば、自らの表現を根底から見直さざるをえないし、そのことを契機として、さらなる展開を期待できるからだ。
第三に、より根本的には、直情的かつ単発的な表現のあり方をどのように発展させ、展開していくか。「天才ハイスクール!!!!」にしばしば浴びせられがちな批判として、それらの表現がきわめて単純明快であり、まるで思いつきをそのまま可視化したような作品が多いという点が挙げられる。表現の初期衝動を具体的な作品として結実させる点では、なんら問題はない。他の文化表現に比べると、とりわけ現代美術は歴史や文脈、技術などの専門知によって不必要に初心者を遠ざけてきたことを思えば、むしろそのような直接性は推奨されるべきだろう。けれども、「天才ハイスクール!!!!」が解散したいま、彼らはもはや「初心者」ではありえない。少なくとも、そのようなアート・コレクティヴを経験したアーティストとしてみなされるとき、直情的かつ単発的な表現だけではあまりにも物足りない。それらを出発点としつつも、独自の方法を練り上げ、自らの世界観を深めていくことが必要とされるに違いない。
本展は、「天才ハイスクール!!!!」の最後の打ち上げ花火としては、じつに華々しいものだった。しかし、その華やかさの先へ伸びる道はすでに始まっているのだ。
2015/04/20(月)(福住廉)