artscapeレビュー

ドラッカー・コレクション:珠玉の水墨画──「マネジメントの父」が愛した日本の美

2015年07月01日号

会期:2015/05/19~2015/06/28

千葉市美術館[千葉県]

「マネジメントの父」とも呼ばれるピーター・F・ドラッカー(1909-2005)。彼は日本美術のコレクターでもあった。みずから「山荘コレクション」と名付けた蒐集品の中心は室町期の水墨画。どうして室町水墨に興味があるのかと美術商に問われて、ドラッカーは「愛しているから、興味があるのです」と答えたという。ドラッカーの水墨画コレクションは日本では1986年に大阪市立美術館や根津美術館を巡回した展覧会で紹介されているが、本展はドラッカーが愛した希少な室町の水墨画と、江戸期の禅画や文人画をあわせた111点の作品により、コレクションの姿を辿る企画。
 展示構成の軸はふたつ。ひとつはもちろんコレクションの紹介なのだが、もうひとつ、ピーター・F・ドラッカーとそのコレクションの形成に焦点を当てている。個人コレクションゆえ、コレクターの視点を見ることは一般的だと思うが、ドラッカーという人間、日本美術との出会い、コレクション形成のプロセスが、図録の論文だけではなく、展示においても前面に出されている展覧会は珍しいと思う。広報物に彼の肖像を用いることは議論の末になくなったというが、展示会場入口には、展覧会タイトルとともにドラッカーの大きな写真が配されている。それも彼がたんなるコレクターではなく、日本では経営学者として高い知名度があるからにほかならない。あの「ドラッカー」が、近代的なマネジメントの必要を説いた経営学者が、他方で日本美術の熱心なコレクターであったという事実は、おそらく美術にさほど関心がない人の興味も惹いたに違いない。展示品には日本語で翻訳出版された著書、執筆に用いられていた電動タイプライターや愛用品、書簡、原稿類、日本の美術史家らと交わした書簡なども出品されていた。
 ドラッカーの日本美術への関心はすでに第二次世界大戦前から始まっていたという。自身の説明によれば1934年6月7日、ドラッカー24歳のとき、当時ロンドンの銀行で働いていた彼は帰宅途中ににわか雨に遭い、雨宿りに入った場所で開催されていた日本美術の展覧会を見て「恋に落ちた」★1。戦時中ワシントンにいたときも、日本美術を所蔵するギャラリーを訪れていたという。日本美術の蒐集を始めたのは、講演のために初めて日本を訪れた1959年7月。このとき京都で二つの作品を購入している。以降、講演のために日本を訪れるたびにドリス夫人とともに古美術商を訪ね、コレクションを増やしていき、集めた作品は220点を超えた★2。ドラッカーにとって日本美術の蒐集は趣味であったのか、それとも彼の思想となにか関連するものだったのだろうか。彼は「正気を取り戻し、世界への視野を正すために日本画を見る(to recover my sanity and perspective of the world)」と語っていたという。この言葉だけでは、蒐集は気晴らしの一種であったようにも読める。しかし彼はたんなる鑑賞者、蒐集家に留まらなかった。作品を理解するために彼の研究は日本の歴史、美術史、美学にも及び、1980年から85年まで、クレアモント大学ポモナ・カレッジの東洋美術講座の講師も務めている。日本文化、美術への深い洞察がそのマネジメント論に反映され、それゆえに日本でアメリカよりも遙かに多い読者を獲得し得たという関係が想像されるが、その点については今後の研究が待たれる。ドラッカーが亡くなって10年。ドリス夫人は2014年に103歳で亡くなった。日本ではすでになかなか見ることができない画家たちの作品を収めた貴重なコレクションの行方が気になるところである。[新川徳彦]

★1──なかば伝説となっている物語であるが、千葉市美術館の松尾知子氏によれば、このときの展覧会がどこで開催された、どのような趣旨のものだったのかは特定されていない(本展図録、30〜33ページ)。
★2──日本語の展覧会タイトルには「ドラッカー・コレクション」とあるが、英文タイトルは「collected by Peter F. and Doris Drucker」、すなわちドラッカー夫妻コレクションである。ドラッカー夫妻の次女セシリー・A・ドラッカーによれば、夫婦ふたりが納得し合意したときにのみ、作品がコレクションに加わったという(本展図録、13ページ)。

2015/06/17(水)(SYNK)

artscapeレビュー /relation/e_00031100.json l 10112321

2015年07月01日号の
artscapeレビュー