artscapeレビュー
フィオナ・タン「アセント」
2016年11月15日号
会期:2016/07/18~2016/10/18
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
フィオナ・タンは、民族誌学のモノクロフィルムを用いた初期作品、日本の女学生の集合写真を用いた《取り替え子》(2006)など、ファウンド・フッテージやファウンド・フォトを積極的に援用してきた。とりわけ本展「アセント」に関連する試みとして、《Vox Populi(人々の声)》(2004-12)がある。《Vox Populi》は、一般家庭のアルバムに収められたスナップ写真を集め、撮影のシチュエーションの類似性や、ポーズや構図の類型化などによってグルーピングして展示した作品。元の文脈から引き剥がされ、新たな文脈に再配置された膨大な写真群からは、人々の集合的記憶や欲望が浮かび上がる。そこにはまた、見知らぬ他人のプライベートを覗き見しているという快感に、言いようのない不安が忍び寄る。それは、かけがえのない記憶の交換不可能な個別性・唯一性と、集団的に共有された類型化の均質性・等価性がせめぎ合うからだ。私たちは、写真を通してかけがえのない瞬間を記録しているのか? それともイメージの受容が先にあり、先行して存在する写真を通して「ふさわしい」ポーズや構図を学習し、記号化された類型を再生産する儀式的行為によって、それをより強固にしているだけなのか? 家族スナップや集合写真は、個別性をむしろ集合的な均質性へと馴らしていく装置なのか? さらに、入学式や卒業式、さまざまな機会に撮られる集合写真を通してポーズや並び方が身体化されることで、何らかの社会的集団への帰属が強化されていく。
本展で発表された新作《Ascent(アセント)》は、一般公募による富士山を被写体とした約4000枚の写真とIZU PHOTO MUSEUMのコレクションを元に制作されており、写真をモンタージュした映像作品と、151枚の写真のインスタレーションとの2部構成をとる。映像作品《Ascent》は、「富士山」をめぐるイメージの形成史や文化史の考察であると同時に、イメージの受容や写真/映像の差異など、イメージそれ自体についてのメタ的な考察でもある。さらに、膨大な写真群に重ねられるヴォイスオーバーは、作中でも引用される『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』を踏襲した男女の架空の対話であり、山についての映画史も言及されるなど、極めて多層的な構成となっている。
《Ascent》では、「雲海と富士山」「花と富士山」「車窓からの富士山」「富士山と子ども」「富士山を撮影する人」「富士山と水面」など類型ごとのカラーのスナップ写真の群れと、さまざまな時代の冨士山についての語りやイメージが交互に展開する。開国後に外国人向けのエキゾチックな土産物として生産された横浜写真、竹取物語で語られる「不死の山」、江戸期に広まった「富士講」や信仰の場としての富士山、戦前期のプロパガンダへの利用、戦後期GHQによる富士山の映った映画の検閲……。時間は線的に流れず、ぐにゃぐにゃと曲がりくねって錯綜する。さらに、男の語る言葉は「遅れて届いた」手紙の文面であること、男は2011年に死亡していることが明かされ、現在と過去の時間軸もまた錯綜する。富士山への揺るぎない信仰は、写真に写されたもの=真実と見なす姿勢へとパラフレーズされるが、イメージや語りの時制が溶かし合わされることで、富士山という象徴性と物質の両面において堅固な存在は、泥のように柔らかく溶解していく。タンは、作中で「氷」に例えられる写真によって固定化・凍結するのではなく、写真をモンタージュすることで、光と影に揺らめく「炎」、さらには揮発性で熱をもつ「蒸気」に例えられる映像の溶解的な質へと変貌させていく。
私たちが見ているのは、集合的に作り上げられた「富士山」という幻影に過ぎないのかもしれない。既成のイメージを裏切りたいならば、自らの肉体を駆使して登るしかない。だが、実際に登山した経験を語る男は、山頂で「何もない」ことに気づき、絶望する。女神の御座所として女性性を付与される富士山に対し、山の征服に駆られる男性登山者たちの物語(とその失敗)が語られる。それでも「見続ける」しかないのであれば、眼差すべきはイメージそのものを超えて、その背後にある可視化への欲望の力学である。
2016/10/17(高嶋慈)