artscapeレビュー

shelf『AN UND AUS | つく、きえる』

2020年01月15日号

会期:2019/12/12~2019/12/15

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

『AN UND AUS | つく、きえる』は、ドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒが2013年に新国立劇場の委嘱を受け、東日本大震災と福島第一原発事故を取材して書き下ろした作品である。とはいえ、震災や原発を直接的に指し示す言葉も固有名詞も登場せず(唯一の例外は「いわき」)、抽象度が高く、詩的なイメージと寓話性に満ちている。

登場人物は、それぞれが不倫関係にある3組の夫婦、彼らの不倫現場である海辺のホテルに勤務する「眼鏡をかけた若者」、そして彼の恋人である「自転車を持っている娘」の8名である。A氏とZ夫人、Y氏とA夫人、Z氏とY夫人は決まって月曜日に、海辺のホテルで情事を重ねる。ホテルに勤務する若者の恋人は、湾岸警備の仕事のため高台を離れることができず、2人は携帯電話のSMSで連絡を取り合っている。


上田公演より[撮影:安徳希仁]


だがある月曜日、「明かりが消えて、またついた」あと、彼らは自分自身の身体がすっかり別のものに変容してしまったことに気づく。「頭が二つになった」と言うZ夫人、「口がなくなった」A氏。身体が重くなり「石になった」A夫人、彼女を魅了する魅惑的な肉体を持っていたが「心臓が燃え上がって止まらなくなった」Y氏。「黒い雨が降ったあと、翅が生えて蛾になった」Y夫人、「死んだ魚になった」Z氏。これらのメタモルフォーゼと状況説明が、自分自身を客観的に観察・報告するような第三者的な語りにより、独白の連鎖として連なっていく。「窓の外に魚が見える」という台詞は、海辺のホテルが水の底に沈んだことを暗示する。だがそれは、メタファーに変換された現実ではない。起こった出来事が理性的な理解の範疇をはるかに凌駕してしまっているため、リテラルに描写しようとする行為はメタファーとして誤変換され、あるいは事実の過酷さゆえにメタファーとしてしか語りえず、彼らはみな、「自分にとってはそう感じられる」切実さと理解されなさの狭間で引き裂かれながらしゃべり続けるのだ(「サメだ」「BMWよ」)。

この「同じ出来事を共時的に経験しつつ、わかり合えない」意思疎通の困難さは、背後の壁に投影されるト書きによって補強される。自身に起こった身体的変容について語ろうとしつつ、彼らは「言うのをためらう」「どう表現したらよいのかわからない」「理解してもらえないと思っている」葛藤を抱えており、しかし不倫相手の目には「いつもと同じ」に映るのだ。

彼らのパラレルな共時性と交わらない孤絶は、今回のshelfの矢野靖人による演出では、「横一列に並んだ椅子の上に俳優を配置する」という操作によって、端的に提示されていた。俳優たちは、あてがわれた椅子の上に縛り付けられ、自由に移動できない。モノローグの内容をなぞるような/逸脱するような身振りの傍らでは、彫像のように凝固した者、ゆっくりとポーズを変えていく者、語る声に呼応したかのように動き出す者たちが、緊張感に満ちた運動の磁場を作り出すが、彼らの視線はけっして交差することはない。



上田公演より[撮影:安徳希仁]



そして、椅子の足元に、「脱ぎ散らかされた靴」が転がったままであることに注意しよう。椅子の上で身じろぎする俳優たちは、裸足を宙に浮かせており、「床(現実)から遊離した」彼らの身体は、それが死者のものであることを示唆する。彼らが唯一「移動」するのは、「揺れたときの避難」の再現場面である。互いにぶつかり合いながら、狭い座面の上を綱渡りのように歩く危うさは、それが生と死の境界線上の歩行であることを想起させる。この「避難」を挟んだ後半では、男女の並びが入れ変わり、「本来の正しいカップル」が復元され、以前の平和な日常生活の回想が語られる。だが、足元に転がる「靴」は以前の並びのままであるため、齟齬をきたす。秩序の回復への希求が示されつつ、「完全な回復」ではないことを暗黙裡に告げる仕掛けだ。



上田公演より[撮影:安徳希仁]


Y氏が語る「燃え上がる心臓」は原発炉心のメルトダウンを、Y夫人が語る「黒い雨による蛾への変態」は放射性物質による身体の奇形化を、A夫人が語る「石化」やA氏が語る「口の消滅」は感情を喪失した鬱状態や失語症を、Z氏の語る「死んだ魚」は津波に飲まれたことを指すのだろう。椅子の上の彼ら=死者を挟む構図で両端に「立つ」若者と娘は「生存者」と思われるが、「身体が透明になって空を飛んでいく」と語る若者は、空席だった七つめの椅子の上に靴を脱いで上がり、死者への仲間入りを暗示する。ここで最後に、「自転車の娘」の異質性が、行為と語りの双方において露わとなる。無造作に転がった靴を丁寧に揃える彼女の行為は、持ち主が不在の抜け殻となった靴=遺体の埋葬の担い手である。また彼女は、若者をクジラに、自身をミツバチに例えた神話的な壮大な物語の語り手となる。高台へ向かおうと空を飛んだクジラは、太陽に焼き尽くされて海に落ち、一方、クジラに会うために月に乗って海へ潜ったミツバチは、海中で月に押し潰されてしまう。「語ること」がつねに出来事から遅れて生起する事後性とともにあること、それは同時に死者の弔いでもあること、そして「物語」の形式でしか語りえない出来事があること、それは「演劇」の存在基盤でもあること。メタモルフォーゼ、メタファー、そしてメタ批評。本作が単に「震災と原発事故を題材にした作品」であることを超えて、「語ること」そのものについての物語であることを照射する、秀逸な上演だった。

2019/12/14(土)(高嶋慈)

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