artscapeレビュー
倉田翠☓飴屋法水 京都発表会 『三重県新宿区東九条ビリーアイリッシュ温泉口 徒歩5分』
2021年10月15日号
会期:2021/09/18~2021/09/19
京都芸術センター[京都府]
倉田翠と飴屋法水、2人の演出家が共同制作した映像作品の上映と、彼ら自身が出演する上演を組み合わせた作品。倉田はこれまで、特別養護老人ホームの入所者や薬物回復支援施設の利用者などと協働し、プロのパフォーマーではない彼ら自身の個人史の断片を俎上に載せつつ、「家族」の呪縛やその虚構性、「疑似家族」だからこその微かな救いを通奏低音として提示してきた。
本作では、「家族」「親と子」が直球のテーマ。飴屋と倉田、それぞれの家族が暮らす土地(新宿のアパート、三重県の田舎)を互いに訪ねて寝食をともにする旅に、京都の崇仁地区および隣接する東九条で生まれ育った男性が加わり、彼の壮絶な家族史が差し挟まれる。3つの家族と土地をめぐる旅の記録映像は、旅という非日常の高揚感、東京観光、サッカーや水遊びに興じる姿を映し出し、ゆるいロードムービーの体をなす。だがその「軽さ」は、「重さ」「暗さ」を相対的に突き付ける。飴屋が「ある女性の半生」として語るモノローグは、結婚を機に差別を受ける土地に移り住み、ゴミ回収の仕事に就き、娘を自殺で失うというものだ。その絞り出すような語りが「フィクション」ではないことが、映像内の男性の語りと徐々に結びつく。全身に刺青のある彼は、「姉の自殺」を機に家族が崩壊したトラウマをもつことが語られる。
本作は安易な感傷には逃げないが、痛みと優しさが同居する。舞台上にはもうひとり、中学生の女の子が登場し、「クラシックギターの発表会」がもうひとつのレイヤーとして挿入され、傷をもつ者たちをギターの音色が優しく包み込む。それは同時に、「進行形の作品の発表会」の枠組みのなかで、実際に「クラシックギターの発表会」をやってしまうというメタ的な二重性をもつ。
「家族をもつこと、ある土地にとどまること」と同時に、「移動」も本作のキーワードだ。序盤と終盤、キャリーケースを引いて登場/退場する飴屋自身の娘が言う。「私は誰かの子どもです/でした」。
映像のなかでキャリーやバックパックを背負って旅する出演者たちは、次第に、「疑似家族」に見えてくる。「移動」は、ある土地と家族からの離脱であると同時に、新たな共同体の形成でもある。一方、「本当の」家族がもつ、一見普通の顔をした底知れない不気味さが露呈する瞬間がある。倉田の実家の食卓では、母親が淡々と食事の準備をし、父親が席につき、二人は素麺を食べ始める。その食卓上で、激しく踊る倉田。だが両親は彼女が存在しないかのように、無言のまま無視して食事を続ける。同じ食卓にいるのに、別次元に身を置いているような絶望的な距離感。そこに突如、全身ずぶ濡れの飴屋が窓から侵入してくる。川遊びから帰った少年のような彼は、「しばらくお世話になります」と律儀に挨拶し、夏休みに親戚の家に遊びに来たような空気が流れ、「家族」の境界が曖昧になっていく。
最後に、映像のスクリーンと相対して、一脚の「アウトドアチェア」が倉田の手で組み立てられ、不在のままスクリーンを見つめ続けていたことに留意したい。この「空の椅子」の座が意味するものは両義的だ。それは、「不在の死者」「喪失」を示すと同時に、「これから生まれてくる存在」が占める場所でもある。その不在感や欠乏感は痛みであり希望でもある。
公式サイト:https://kurata-ameya.studio.site/presentation/
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2021/09/19(日)(高嶋慈)