artscapeレビュー
FOCUS#5 麥生田兵吾 色堰き空割き息返かかか
2023年09月15日号
会期:2023/08/19~2023/09/18
京都芸術センター[京都府]
ポートレート、静物、風景などある被写体をイメージとして写し取りつつ、写真が透明な媒介になるのではなく、「写真」それ自体について自己言及的に語るメタ写真論となるには、どのような戦略や配置が作動しているのか。
麥生田兵吾は2014年から2018年の5年間にわたり、「生と死」が互いに溶け合うさまを通底的テーマとする「Artificial S」シリーズを毎年1章ずつ発表してきた。シリーズの各章は、「眼の原体験」「メタファー」「他者あるいは超他者」「制度化される風景」「生/死」という5つのテーマに細分化されている。麥生田によれば、「Artificial S」は「人工的に作られた感性(sense)」を意味する造語だというが、「S」はフロイトの精神分析用語「エス」も想起させ、写真の「無意識」といえる領域や「撮りたい/見たい」という衝動について問う試みとしても解される。本展は、これまで5章に分けて発表されてきた「Artificial S」シリーズを再構成し、初めてまとまったかたちで展示する集大成的な個展である。新作や未発表作の追加にくわえ、2つの展示空間それぞれに戦略的な仕掛けを施すことで、メタ写真論としての性格がよりクリアに浮かび上がった。
ギャラリー南に入ると、「顔と眼」が隠されたポートレート群が連なり、異様さを帯びていく。浴びせかけられた水しぶきで顔貌が「消された」少年、垂らした長髪で隠された女性の横顔。煙と逆光の影に包まれて畑に立つ人物は、神々しさと禍々しさを帯びる。腕で目を覆う女子高生たち、すりガラスのようなシートで顔を隠す中年男性、互いの「顔」をカメラのレンズから守るようにスクラムを組む少年少女たちの輪……。ポートレートを撮る行為とは、被写体の顔貌をイメージとして一方的に剥奪し、私有化する行為にほかならない。あるいは、「撮影される(shot)」=「撃たれる」ことへの抵抗と拒絶。麥生田が差し出すのは、そうした抵抗と拒絶のさまざまなバリエーションである。そして、獲物に当たらず「空砲」となった弾丸は、「写真に見つめ返される」という逆襲によって、観客自身に跳ね返ってくるだろう。初めは片方だけ開いた眼が、そして両眼のまなざしが、展示室を一周して振り返った観客を不意打ちのように襲い、射抜き返す。たとえそれが、盲人や「マネキンの生首」であっても。
実際にはこちらを
一方、ギャラリー北の展示空間では、冒頭に置かれた「水しぶきを浴びる少女」の写真によってギャラリー南と接続しつつ、ライトや鏡といった装置を加えながら、まなざし、死、嘘や虚構性(とその証明不可能性)といったテーマがより輻輳していく。視線の謂いとしての、写真に投げかけられたライト。「像の複製」という、鏡と写真の同質性。廃屋、鳥のヒナの死骸、火葬炉といった被写体が散りばめられ、死や腐敗という主題を強く想起させる。写真と向き合う鏡は不気味なイメージを(さらに)複製するが、それは「土の割れ目からのぞく白い幼虫」なのか、「傷口の下で蠢くウジ虫」なのか、「汚れた皮膚と唇からのぞく歯」なのか判然とせず、「写真自身は、そこに写るものの意味や真偽について証明することができない」というテーゼだけが提出される。
そして、仮設壁で区切られた空間に入ると、「小さなカニやカエルを捕まえ、差し出してみせる子どものスナップ」が取り囲む。一見、子ども写真の定番とも言えるほほえましいスナップだが、「写真とは命あるものの捕獲である」というメタ写真論としても解釈できる。「写真に何が写っているのか」という表面的なレベルではなく、写真の無意識ともいえる領域をあぶり出し、写真それ自体について図解する、周到な仕掛けと展示構成。それでもなお麥生田の写真は、図解や図式化にとどまらない魅力をたたえている。
公式サイト:https://www.kac.or.jp/events/34069/
2023/08/27(日)(高嶋慈)