2020年06月01日号
次回6月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

第44回伊奈信男賞 岩根愛「KIPUKA」

会期:2020/01/16~2020/01/22

ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]

戦前にハワイに渡った日系移民と、そのルーツである福島県民。サトウキビ製糖産業の衰退とともに廃れていく移民墓地と、震災後の福島の帰宅困難区域。ハワイの毎夏の盆祭りでいまも熱狂的に踊られている「ボンダンス」のひとつ「フクシマオンド」と、その元歌である「相馬盆唄」。国家の移民政策によって、あるいは原発事故によって故郷から強制的に隔てられた両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、10年以上に渡る精力的なリサーチと撮影を続けている岩根愛。その成果がまとめられた写真集『KIPUKA』(青幻舎、2018)で昨年、第44回木村伊兵衛写真賞を受賞し、ニコンが運営するギャラリーで個展が開催された。その展示が、年間の最優秀作品に選ばれたため、約半年後に同じ会場にて再び個展が開催された。


個展タイトルは変わらないものの、展示構成は大きく変更を加え、自身の企図をより深く伝える熟考の跡が感じられた。前回の個展では、ハワイ/福島を明確に分け、対置させる意識が強かった(向かい合った展示壁面の片方にハワイを、もう片方に福島を対置。それぞれの盆踊りで「乱舞する手」のクローズアップを360度のパノラマカメラで捉えた超横長の写真が背中合わせで吊られ、両者のあいだを対角線上に区切る。それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影されたそれらは、ハワイ=熱狂的なエネルギーの奔出を伝える「赤」に、福島=死者への哀悼や深い哀しみを想起させる「青」というように、対照的な色に染められている。対置や背中合わせの構造も相まって、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった分断を強調しかねない展示構成には疑問が残った)。


だが、今回の展示構成では、ハワイと福島が分断ではなく連続性を保ちながら円環状につながり合い、その延長線上に生と死が循環する相さえ感じさせる、充溢した空間が立ち上がっていた。



会場風景

展示はまず、福島の帰宅困難区域をパノラマ撮影したモノクロ写真で始まる。倒壊したまま無人化した家屋やビニールハウス。時間が凍結したかのような光景の上を、繁茂する自然が覆っていく。その様相は、溶岩流に巻き込まれた墓石が傾いたり、自然の力に飲み込まれて荒廃していく日系移民の墓地の光景へとスライドしていく。そして、夜のサトウキビ畑のざわめく葉の上に投影された、かつてそこで働いていた日系移民の家族写真は、亡霊の召喚を告げる。重なり合った葉の合間に見え隠れする、目鼻立ちや輪郭が曖昧に溶け合って個人としての顔貌を失い、自然と同化しつつある亡霊的存在。亡霊の出現は、美しさと熱気と畏れを合わせ持つ盆踊りの光景へとつながっていく。漆黒の闇の中に福島の「青」が浮かび上がり、それは美しい色彩のグラデーションを描きながら、次第にハワイの「赤」が鮮烈さを帯びて立ち現われ、熱狂と命の奔流は壁の終わりで頂点に達する。本展の白眉と言えるこの壁面では、福島とハワイ、「こちら」と「あちら」、彼岸と此岸の境界がなだらかに交じり合って溶け合う。



会場風景

「死」の凍結から始まり、福島からハワイへ、死者の霊の召喚から「生」の祝祭へと、二つの土地を往還しながら円環状に展開する本展は、「生」の高揚が最高潮に達する終盤のハワイから再び冒頭の福島へとつながり、生と死もまた円環状につながり合う。移民の歴史、ディアスポラの悲哀、土地と身体に根づく歌と踊りの生命力を捉え、その果てに壮大な「生と死の循環」を描き出す本展は、「KIPUKA」というタイトルに込められた意味──「溶岩の焼け跡に生えた植物」、再生の源となる「新しい命の場所」を意味するハワイ語の言葉──をより内在的に浮かび上がらせていた。

関連レビュー

岩根愛「KIPUKA」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月01日号)
第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展 岩根愛「KIPUKA」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2020/01/22(水)(高嶋慈)

金サジ「白の虹 アルの炎」

会期:2020/01/08~2020/01/19

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

写真家の金サジは、朝鮮半島と日本の狭間で生きる自らの生について、自身の記憶や夢、民話や神話の象徴的なイメージを織り交ぜた汎東洋的な「架空の創世記」として構築し、衣装や小道具、ライティングを緻密にセットアップして撮影した「物語」シリーズを継続的に発表している。そこでは、西洋古典絵画の肖像画や宗教画を思わせる図像性のなかに、アジアの諸地域の伝承や神話、生/死、人間/獣、人間/神の境界が溶け合って混ざり合う。強い照明を浴びて漆黒の闇を背景に立つ被写体は、スポットライトを浴びる舞台俳優を思わせもする。そうした舞台との親和性もうかがわせる彼女の個展が、2019年に京都に新しくオープンした民間劇場「THEATRE E9 KYOTO」で開催された。劇場が位置する東九条は在日コリアンが多く住む地域であり、劇場のローカリティという点でもこの場所での開催は意味をもつ。加えて本展は、「劇場の構造やブラックボックス」を最大限に活かした展示構成が秀逸だった。

観客は、通常の劇場正面の入口ではなく、裏手のスタッフ用の入口から中に入り、普段は「舞台」である空間でプロローグを体験する。恐ろしいほどに青く澄んだ空と眩い光に照らされ、白い水蒸気が立ちのぼる水面の映像がループで流れている。舞台の幕は半分ほど開けられ、異界への門のようなそこを通ると、段状の客席に設置された写真作品と観客は一斉に対峙することになる。いや、その「門」は、産道だったのかもしれない。頭上には、子宮の内部かマグマの蠢く噴火口を思わせるイメージが、赤く暗い光を放ちながら掲げられている。血と肉と熱が沸き立つ、まだ形の定まらない、世界を生み出す始原の器。舞台から客席へと空間が反転するように、産道を逆に辿って胎内へ。そこは、女たち、母たち、巫女たちの物語が展開される劇場だ。



[撮影:麥生田兵吾 ]

入口の門あるいは産道の左右の壁には、ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻像》を連想させる室内の夫婦像《結婚》と、授乳する聖母子像を思わせる《母子》が配される。だが、母の大きくはだけた胸元の下の腹部は、獣のような黒い毛で覆われ、聖性と獣性が入り混じる。そして段状の客席には、さまざまな登場人物たちが、劇場の照明を浴びて墓標のように佇む。観客は、死出の山を一段ずつ登るように、一つひとつのイメージと対峙していく。地中に埋められた、ミイラのように白布で包まれた胎児は、老女のような白髪混じりの髪を生やしており、赤ん坊/老女、埋葬された死骸/生命の萌芽という相反する要素の同居のなかに、植物の種や陰陽のかたちも思わせる。天使と戦うヤコブのように、髪を振り乱して掴み合う双子の姉妹。乱れた髪や表情に暴力を受けた跡をうかがわせる、若い巫女。深い森の中で巨大な男根にまたがって交わる巫女と、木の葉の塊から手足を突き出した精霊的存在。フライヤーのメインイメージである「桃に絡みつく双頭の白蛇」には、幾重もの象徴性がズレながら重なり合う。「蛇と果実」、すなわち原罪を犯したイヴと、その罰として課された「産みの苦しみ」。だが果実は「リンゴ」ではなく、中国で不老不死や豊穣の象徴とされる「桃」に置き換えられ、「蛇」もまた、悪魔の化身から神格化された存在へとシフトする。その蛇が「双頭」であることは、朝鮮半島と日本という二つのアイデンティティの示唆を含む。



[撮影:麥生田兵吾 ]

金は、本展によせた会場テクストにおいて、「ルーツ」「系譜」が伝統社会では男系継承とされてきたことに対する批判と、大文字の歴史に記録されなかった女性たちの記憶について、そして女性たちは柔軟にしたたかに生き抜くために身体に記憶を刻み込んで受け継いでいったのではないかと述べている。彼女の写真作品は、そのように自らの身体の奥に宿る記憶を、闇のなかからひとつずつ手探りで手繰り寄せ、美しくも禍々しい光に変えるのだ。

関連レビュー

金サジ「STORY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年07月15日号)
金サジ「STORY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年06月15日号)

2020/01/18(土)(高嶋慈)

インポッシブル・アーキテクチャー ─建築家たちの夢

会期:2020/01/07~2020/03/15

国立国際美術館[大阪府]

いわゆる「建築展」が抱えるジレンマや限界は、美術作品と異なり、「実物」の建築そのものを会場に持ってきて展示できないため、必然的に「図面」「模型」「写真や映像」すなわち建築物に付随する周縁部や資料で補うしかない、という点にある。これに対して本展は、20世紀以降の国内外における「未完のアンビルト建築」に焦点を当てることで、「建築展につきもののジレンマや限界」を逆手にとり、解消する試みでもある。

ロシア・アヴァンギャルドのマレーヴィチやタトリン《第3インターナショナル記念塔》(1919-20)で幕を開け、その遺伝子を遠く受け継ぐザハ・ハディド(彼女の卒業制作は《マレーヴィチ・テクトニク》[1976-77])へ至る本展において、プランが未完に終わった理由はさまざまだ。革新性ゆえコンペで落選したプラン(ドイツ初の高層建築を目指してガラスの摩天楼を提案したミース・ファン・デル・ローエ)。コンペ自体への批評性を盛り込んだ挑発的な野心案(「日本趣味を基調とする東洋式」という条件を拒絶し、バウハウスやル・コルビュジエから学んだインターナショナル・スタイルを提案した前川國男の《東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案》[1931]や、4本の巨大な柱から8層のフロアを吊り下げた仏塔のような巨大建造物を提案した村田豊の《ポンピドゥー・センター競技設計案》[1971]。両者はベクトルこそ相反するが、「建築表象による文化的ヘゲモニーの闘争」という側面を合わせもつ)。

さらには、未来的な都市計画としての壮大な構想(連結可能なユニットによる増減可能な構造体として海上都市を描く黒川紀章の《東京計画1961―Helix計画》や菊竹清訓の《海上都市1963》などのメタボリズム。居住空間のユニットをインフラと交通を担うケーブルで連結するヨナ・フリードマンの《可動建築/空中都市》[1956-])。純粋な思考実験に近いもの(牧歌的な風景に航空母艦や巨大なボルトを組み合わせた合成写真を、新たな都市のヴィジョンとして1950年代末~60年代に提示したハンス・ホライン、60年代以降に雑誌上にドローイングやダイヤグラムを発表したアーキグラムやスーパースタジオ)。解体/構築の力学や線の運動を可視化したドローイング(コンスタン[コンスタン・ニーヴェンホイス]による《ニュー・バビロン》の素描[1956-74]、ダニエル・リベスキンドの《マイクロメガス:終末空間の建築》[1979])。



会場風景


また、1933-36年に日本に滞在するも、日本での建築設計例がほとんどないブルーノ・タウトが、現・近鉄(近畿日本鉄道株式会社)から依頼を受け、生駒山頂の遊園施設にホテルと住宅団地を追加する小都市計画を構想していたことを今回初めて知った。タウトが描いた「遠望図」を見ると、ヨーロッパの城塞都市のような景観が山頂から広がっており、もし実現していたら、筆者の住む大阪市内から見える生駒山の風景が今とは異なっていただろうと想像され、興味深い。

未完=潜在的な可能性と捉えれば、そこには現状に対する批評性が胚胎する。例えば、上述のフリードマンは《可動建築》と《空中都市》の構想を今日的な視点から見直し、大幅に修正した《バイオスフィア:ザ・グローバル・インフラストラクチャー》(2017)を発表している。ソーラー・パネルなどの技術的進化によってエネルギーや水の個人による管理が可能になることで、インフラを担う中空の架構が不要になり、ネットによるコミュニケーションや在宅勤務が充実すれば、都市に住む必要性もなくなる。こうした思考において、クラウド化やノマド性を拡張していくことで、「土地の所有」の概念や「国境」「国家」のラディカルな解体へと繋がっていく。


本展のほぼラストを締めくくるのは、ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JVの《新国立競技場》(2013-15)である。妥当かつ必然的な配置だが、ザハの紹介がこのプランのみであり、「新国立競技場案をめぐるスキャンダル」に収束してしまう点は残念に感じた。実現されなかったほかのプランの展示もあれば、よりザハの思考やその革新性が伝わったのではないだろうか。また、同様に、行政機構との政治的・経済的事情で決定後に白紙撤回となった近年の例として、SANAAによる滋賀県立近代美術館の改修・新棟建設計画にも言及があれば、「美術館と建築」というパースペクティブが浮上し、「美術館で建築展を開催する意義」がより際立っただろう。



会場風景


アンビルト建築はまた、「建築の不在とともに何が不可視化されているのか」という、建築と政治(性)をめぐる問いをネガのように浮かび上がらせる。例えば、1942年の「大東亜建設記念営造計画」のコンペで一等を獲得した、丹下健三の《大東亜建設忠霊神域計画》は、富士山麓に建設した神殿と皇居を「大東亜道路・鉄道」で結ぶことで、強い象徴的存在へと視線が向かうモニュメンタルな空間構成を壮大な都市計画レベルでつくり上げるものだが、この未完のプランの縮小版が「原爆ドーム」へと視線を集約させる広島平和記念公園の設計であることは、すでに指摘されている。あるいは、宮本佳明の《福島第一原発神社》(2012)は、1万年以上にわたって高レベル放射性廃棄物を安全に保管するために、原子炉建屋に象徴的なシンボルとして和風屋根を載せ、「原子炉を鎮める」神社として祀るという構想である。こうした例を含めて考えることで、本展の射程は、ユートピア的なヴィジョンや観念的な思考実験を超えて、よりアクチュアルに深まるのではないだろうか。

関連レビュー

インポッシブル・アーキテクチャー  もうひとつの建築史|村田真:artscapeレビュー(2019年02月15日号)

インポッシブル・アーキテクチャー  もうひとつの建築史|五十嵐太郎:キュレーターズノート(2019年03月01日号)

2020/01/07(火)(高嶋慈)

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梅田哲也 うたの起源

会期:2019/11/02~2020/01/13

福岡市美術館[福岡県]

サウンド、光、重力といった物理現象を取り込み、場所の特性とともに成立させるインスタレーションと、パフォーマンス作品を手がける梅田哲也の、美術館での初個展。看視スタッフの誘導によって鑑賞者が展示可動壁を押し、奥のホワイトキューブ空間で起こる「何か」を体験する作品《うたの起源》のほか、水の重量の移動によって上昇/下降する物体、明滅する光を惑星の回転のように壁に投げかけるライトの運動、回転する三つの拡声器から流れる人声や楽器の音が混じり合うハーモニックな音響など、さまざまな作品が美術館内のあちこちに仕掛けられている。メイン空間のほか、コレクション展示室、入口ロビーと階段、普段は入れない倉庫など複数の空間に作品が設置されているため、「館内ツアー」の側面ももつ。



[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 提供:福岡市美術館]


このツアー的な要素を「ギャラリーツアーを模したパフォーマンス」として昇華した公演が、年末の1日限りで開催された。出演者は、梅田自身に加え、ダンサー・振付家のハイネ・アヴダルと篠崎由紀子、捩子ぴじんら。美術館の外→梅田作品の点在する展示室内→バックヤードという三層構造でツアーは構成されている。

観客はまず、ガイド係の看視員に導かれ、美術館の「外側」を歩く。かつては博多湾の海底だったという説明を聞きながら隣接する庭を抜けて、裏側の搬入口へ。パフォーマーの存在感は、偶然居合わせた通行人と見紛うくらいのささやかさだ。搬入用のエレベーターに乗って館内に戻り、ガラス張りの通路を進むと、「樹のあいだに赤い実が見えますか」とガイドに問いかけられる。ガラス越しに何かを凝視する男が佇む。角度によって現われたり見えなくなったりする「赤い実」は、ガラスに反映した館内の赤いライトだ。コレクション展示室内に入ると、再び看視員のガイドにより、ダリや田中敦子、アニッシュ・カプーアの作品の解説が始まる。だが少し離れたところでは、3人の男女が謎めいた儀式風の所作を繰り返している。梅田作品を通過したあとは、階段を降りてバックヤード空間へ。機械空調室の重い扉を開け、暗闇をライトで探るパフォーマー。機械のたてるノイズ、内臓のように壁を這う太いチューブ、暗闇に明滅する無数の赤い光。天井板を剥がした開口部からは、何かが動く不可解な物音が響く。ドアのない狭い空間に誘導されると、突然明かりが消え、暗闇のなかで一瞬のハミングに包まれる。古美術の展示室で薬師如来像の解説を聞き、ピアノの爪弾きが聞こえるホールを通り抜け、入口ロビーに戻ったときには、胎内巡りを終えて「日常」に帰還したような感覚に包まれていた。



[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 提供:福岡市美術館]


普段は表から見えない「バックヤード」をあえて見せる。とともに、看視員など「裏方スタッフ」を「パフォーマー」として作品の要素に取り込む。内/外の空間を裏返し、知覚を研ぎ澄ませるよう促し、非日常を通り抜けて日常へと回帰する感覚を味わわせる。その意味で本公演は、劇場空間の機材や裏方スタッフの「運動」そのものを舞台上で見せながら非日常的なイリュージョンの旅を体験させた舞台作品『インターンシップ』の、「美術館バージョン」と言える。


公式サイト:https://umeda.exhb.jp/#event

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TPAM2018 梅田哲也『インターンシップ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年03月15日号)

2019/12/27(金)(高嶋慈)

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村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』

会期:2019/12/18~2019/12/19

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「サンプル」主宰の劇作家・演出家の松井周と小説家の村田沙耶香が共同で原案を務め、それぞれが演劇と小説で発表するプロジェクト「inseparable」。共同体、家族、生殖、性、高度医療、倫理、変態といったテーマの共通性をもつ2人のコラボレーションだ。舞台版では、現代日本社会の縮図のような架空の島「千久世島」を舞台に、温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、人間が遺伝子操作によってイルカと融合するポストヒューマン的な近未来と、古事記の「国産みの神話」を元ネタとする神話的イメージとが交錯する、ぶっ飛んだ世界観が展開された。



東京公演より [© 引地信彦]


舞台となる近未来の日本は、遺伝子医療が高度に発達し、生殖が国家の管理下におかれた、徹底した管理社会として描かれる。体内の遺伝子を改変し、身体機能の強化や疾患治療、アンチエイジングを行なう「ゲノム操作」が普及し、産まれる子どもについても、ゲノムを編集された「カスタム」か「ナチュラル」かを選択できる(ただし課税率が異なる)。だが子どもをもつには、国家による「生殖免許」を取得する必要があり、生殖を目的としないセックスは「野良交尾」として「リビドー防止法」によって禁止されている。また、ゲノム操作に必要な「レアゲノム」の配分は、国民に義務化された成績表である「スコア」の点数で決められる。「東京ではみんな少しでもスコアを稼ごうと、我さきに年寄りを担いで走っている」と揶揄されるほど、エゴと配慮が逆転した社会だ。

そんななか、外界から隔絶した孤島「千久世島」では、世界的に希少なレアゲノムが発見され、ゲノム採掘が島の新たな産業となる。だが島の経済は、東京の企業の資本に依存/搾取され、劣悪な労働条件下にある山中での発掘作業は海外からの技能実習生が担い、ゲノムが出る山地に住む「山のもん」と資源を持たない「海のもん」という共同体間の対立がより浮き彫りになっていく。

島では、レアゲノムの密猟を防ぐため、ゲノムの採掘と供給を独占する東京の企業から派遣された指導員の下、4名の男女が監視を務めている。そのひとり、秀明は、2年前に島の奇祭「ポーポー祭」で弟の宗男を亡くし、弟の昔の恋人と「夫婦」の免許を取得している。だが、死んだはずの弟が戻ってきた出来事を境に、現代社会批判の要素が強かったドラマは加速度的に混迷を深めていく。

「カラオケルームのような暗い部屋で、モニター越しに現世を見ていた」と臨死体験を語る宗男。その暗い空間に、プレッピーな学生スタイルの兄の秀明が現われ、「卒業試験のためのプレゼン」と称して、荒唐無稽な「国産みの神話」を紙芝居風に説明し始める。その昔、「ポーポー神」が混沌の塊のような黒い球体から自らの分身をつくった。この神は下半身に「とんがった部分とくぼんだ部分」を持つ両性具有だった。だが、分身には肛門が無かったので、糞詰まりで膨張して苦しんだ。そこで神は「とんがった部分」を尻に刺して口まで貫き、消化管をつくった。肛門から流れ出た水が海となり、最初の子ども「イルコ」(ヒルコのもじり)は海へ流され、そのあと、突起を突き刺す度に、日本列島、動植物、人間が産まれたのだという。こうしてできた「この世界」とは、実は秀明が手にする「カプセルの中で培養されるゼリー状の物体」であり、彼が「神様の世界の卒業試験」をパスできるかどうかは、その培養物の存続/崩壊にかかっているのだ。もしパスできなかったら、「就職できず、結婚もできず、親の資産頼み」とぼやく秀明の姿は、「管理社会を入れ子状に制御しているメタ世界もまた厳然たる管理社会である」という皮肉を示す。

崩壊が進む「この世」では、地球温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、遺伝子操作によるイルカとの融合化が進み、動物/人間の境界が融解する。「イルカのゲノムを入れた」秀明の妻の背中には背びれが生えて変態していく。イルカ語が公用語になり、イルカ相手の性風俗が島の新たな産業になり、イルカと人間の交尾の常態化が暗示される。一方、一度死んで「この世」と「あちら」を行き来できる宗男は、「この世界の糞詰まりから人類を救う」ため、ボイスの「社会彫刻」をもじった「ソーシャル・エネマ(社会浣腸)」を提唱する。そこには、高度遺伝子医療が進展して「自然死」がなくなった結果、循環が停滞した糞詰まり状態になり、逆説的に滅びに向かうという皮肉が示唆される。

また宗男の死の原因は、祭の高揚感のなかで「野良交尾」した際、崖から落下したことも語られる。崖を転がり落ちながらも「生の実感」に溢れ、「自分たちはもっと動物に近いはず」と言う彼は、遺伝子操作や国家による性と生殖のコントロールの枠外の象徴だろう。だがゾンビのような身体を引きずる彼は「死ぬことができない」ため、島民たちに自分の体を食べるように頼む。「今年の祭の代わりに」島民たちが彼の腹から内臓を引きずり出して食べるラストシーンは、共同体存続のための「祭」「儀式」の虚構性とともに、グロテスクながらもその原初的な美を示していた。ポストヒューマン的な新人類にとって「前時代」の象徴である彼は、新たな創世記の「神」として昇華/消化されたのだ。



東京公演より [© 引地信彦]


タイトルの「変半身(かわりみ)」には、音読が示唆する「下半身」も含め、複数の意味が交錯する。遺伝子操作による異種混淆。人間/動物、人間/神の融合。両性具有。そして、自らの「半身」への思慕。弟の宗男は、同性で兄である秀明への思慕を押し殺して生きてきたことを告白する(じつは宗男は、「あちらの世界」の秀明が自らの細胞から培養し、「この世」に飛ばした半身だったことが明かされる)。「下半身」つまり性の欲望が徹底して抑圧・管理される社会と、ヘテロセクシャルの規範から逸脱する、生殖に結びつかない性。国産みさえ、イザナギとイザナミという「男女」の神ではなく、両性具有神と性別不明の分身とが浣腸=肛門性交を行なうことで成立したのだ。現代日本社会批判、ディストピア的な近未来像、土着的な神話世界、性(生)と倫理への問いを情報過多なほど混ぜ合わせた怪作だが、「最愛の人に看取られて死ぬ」というラストは、救いととるか、エモーショナルに回収したオチととるかで、評価が分かれるだろう。

公式サイト:
http://samplenet.info/inseparable/ [演劇版]
https://www.chikumashobo.co.jp/special/kawarimi/ [書籍版]


関連レビュー

村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年1月15日号)

2019/12/19(木)(高嶋慈)

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