2021年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

美術ヴァギナ

会期:2021/04/23~2021/05/09

KUNST ARZT[京都府]

「美術ペニス」展(2013)、「モノグラム美術」展(2014)、「ディズニー美術」展(2015)、「フクシマ美術」展(2016)、「天覧美術」展(2020)の企画シリーズをとおして、男性器、著作権、フクシマ、天皇制といった「タブー」や表現規制について問題提起してきたKUNST ARZT。「天覧美術」展が前年のあいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」中止に対する批判的応答であるのに対し、本展の背景には、昨年夏、美術家・漫画家のろくでなし子に対して「わいせつ」と認めた最高裁判決がある。ろくでなし子自身も参加した本展は、表現規制に対する異議申し立てと「表象を自己肯定的なものとして女性自身の手に取り戻す」エンパワーメントという点では評価できる一方、後述するように、ジェンダーの観点からはある種の後退や限界を抱えてもいた。


はじめに、本展の起点にあるろくでなし子の逮捕と裁判について概要を記す。ろくでなし子は、自らの女性器を型どって装飾を施した「デコまん」シリーズの展示と、クラウドファンディングの出資者に自身の女性器の3Dデータを返礼として配布したことを理由に、2014年に二度逮捕された。前者の作品展示については東京高裁での二審で無罪が確定したが、後者は2020年、最高裁で「わいせつ電磁的記録等送信頒布罪」の判決が下された。


会場風景 [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


本展の意義はまず、無罪確定後に裁判所から返却された「デコまん」3点を展示し、「逮捕の対象となった問題作だから見せない」とする自主規制や排除に対峙する点にある。また、3Dデータ配布が問題視された理由には、「第三者による複製可能性」と「ネット上での流通・売買の可能性」があると思われるが、3Dデータを出力した造形物を用いた「新作」の展示は、「これは電子データの配布ではない」として裏をかくしたたかな戦略性を見せる。

性(器)表現への規制や検閲に対する異議申し立てとして、本展は「美術ペニス」展と対をなす企画だが、最大の違いは、女性器(を含む女性の身体)が男性によって一方的に表象され、性の対象として消費され、「淫ら」と断罪されてきた不均衡の構造と歴史がある。誰が表象と搾取の主体で、「わいせつ」の判断や線引きは誰によってなされるのかを問い、「表象を自己肯定的なものとして取り戻す」こと。この点で、ろくでなし子の「デコまん」は、フェミニズムアートの系譜に位置づけられる。「ポップなかわいさ」や「無害なゆるキャラ」を装った「まんこちゃん」のゆるさは、むしろ戦略的である。型どりした女性器をフェイクファーやアクセサリー、スイーツの形のパーツで装飾した「デコまん」は、ネイルアートやデコ電(キラキラのパーツなどで装飾した携帯電話)と同様、「カワイイ」と気分をアゲるために装飾し、装飾パーツの「盛り」によって「隠すべきもの」を自分自身が楽しむものとしてポジティブに反転させる。女性器のモチーフをネイルアートとして表現する宮川ひかるの作品では、「私の身体と性は他人の所有物や消費対象ではなく、私自身のものである」というメッセージが、ネイルチップすなわち実際に身に付ける装飾品であることで、より強化される。



ろくでなし子《押収されたデコまん3点》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]




宮川ひかる《マンネイルサンプルチップ》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


「わいせつな行為と表現」を処罰の対象として規定する現行の刑法の枠組みが明治期の旧刑法で形づくられたように、「わいせつ」の概念が近代化の所産であることを示してみせるのが、山里奈津実と荒川朋子の作品である。山里は、男性向けアダルトグッズの断面図を金泥で細密描写し、軸装によって宗教的な図像に昇華させることで、性器が持つ「聖と俗」の両極性をあぶり出す。そこには、「これは女性器の機能を代替する機械であり、性器そのものの描写ではない」として規制や検閲をすり抜ける戦略と同時に、性の商品化に対する疑義がある。また、原始的な形象の木彫につけまつげやウィッグ用の毛髪を用いて「毛を生やす」荒川の造形作品は、豊穣や多産を祈る古代の祭具や呪術的な神具を想起させる。



山里奈津実 左より《No.23 x》《No.23 y》(2020) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]



荒川朋子《ふさふさ》(2014) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]



ただ、本展企画者でKUNST ARZT主宰の岡本光博の作品と、ろくでなし子の新作には、ジェンダーの偏差的な視線や固定的な規範がこびりつく点で疑問が残る。ダジャレや記号的な遊戯性を駆使する岡本の作品は、「ウェットティッシュの取り出し口が女性器の割れ目の形をした、ピンク色のティッシュボックス」と、購入者のみ内部に封入されたものを覗ける《まんげ鏡》である。「自慰行為のおとも」と「覗き見」の対象であることを疑わない両者は、男性の「エロ」の視線の対象にすぎないことをさらけ出す。

また、ろくでなし子の新作は、「まんこちゃん」のゆるキャラ人形と自身の女性器の3Dデータを出力した造形物を、「子ども用玩具」の無邪気で無害な世界に潜ませたものだ。前者では、ピンク色の「まんこちゃん」がやはりピンクを基調とした女児向けおままごとセットのドールハウスで暮らし、後者では、男児の人形が乗り込むオープンカーや電車、飛行機をよく見ると、人形を座らせる操縦席が割れ目の形になっている。ここでは、女性器(を持つ身体)は「おままごとセットが備えられた家」すなわち「家事=女性の再生産労働の領域」に再び囲い込まれてしまう。また、「3Dデータの作品化」は一見挑発的だが、「女体」=文字通りクルマや飛行機の「ボディ」として、「男性が思いのままに操縦し、またがり、使役する対象」として再び客体化されてしまう。この点で、(例えばろくでなし子自身が乗り込んで操縦する《マンボート》と比べると)、ジェンダーの観点からは批評的退行と言える。

本展をとおして、女性器の即物的な表象のみや、「わいせつか表現の自由か」という二項対立的な図式だけでは不十分なことが見えてくる。本展は、表現規制への異議申し立てを出発点に、問われるべき必要な視座を抽出するためのひとつの通過点である。



ろくでなし子《3D まんこトレイン+3D まんこエアプレイン+3D まんこオープンカー》(2021) [Photo: OFFEICE MURA PHOTO]


関連レビュー

天覧美術/ART with Emperor|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

VvK Programm 17「フクシマ美術」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年01月15日号)

ディズニー美術|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年06月15日号)

2021/04/24(土)(高嶋慈)

崇仁地区をめぐる展示(後編)『Suujin Visual Reader 崇仁絵読本』刊行記念展

会期:2021/04/17~2021/06/20(会期延長)

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

前編から)

後編で取り上げるのは、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでの『Suujin Visual Reader 崇仁絵読本』刊行記念展である。同ギャラリーでは毎年、海外作家を招聘して展覧会、ワークショップ、レクチャーを実施しており、2019年度の招聘作家であるジェン・ボーが行なったワークショップ「EcoFuturesSuujin」が本展の経緯にある。ボーは、1922年に京都で採択された日本初の人権宣言「全国水平社創立宣言」に着目し、この宣言を「雑草や植物を含むすべての種の平等」へと拡張的に更新するための草案をつくるワークショップを行なった。また、崇仁の歴史や魅力を視覚的に伝えるための本の編集にも着手。その刊行記念展である本展では、ワークショップ参加者で崇仁にあるアトリエで制作する森夕香が描いた挿画が展示された。



[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]


柔らかいタッチと色彩で描かれた森の挿画は、現在の街の生活風景で始まり、その歴史を辿り直していく。現在と過去、そのあいだの連続性と断絶を媒介するのが、すでに解体されて姿を消した崇仁小学校の校舎である。前編で紹介した「『タイルとホコラとツーリズム』Season8 七条河原じゃり風流」でも参照された小学校建設のための「砂持ち」に始まり、学び舎の風景、水平社宣言の起草、住民たちが自ら設立した柳原銀行とその移転・資料館設立へと続く。2000年代以降は、小学校でのビオトープ建設、閉校、市民活動の場としての利用、芸大移転に向けたさまざまなアートプロジェクトの展開、新校舎の建築プラン、ボーのワークショップの様子へと続いていく。最終ページには、意味ありげな「何も描かれていない白い余白」が残されている。その空白は、「解体工事による現在の空き地」を物理的に喚起するとともに、それに伴う「記憶の消滅や忘却」を示唆する。一方そこには、「まだ見ぬ未来の可能性の余白」への希望もせめぎ合う。

この白紙のページは、徐々にさまざまな描き込みで埋められ、「空白」があったことそれ自体も忘却されていくだろう。記憶の忘却やジェントリフィケーションにアートがどう対峙しえるのか、今後大きく様変わりするであろう地域の変遷とともに注視していきたい。



[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学]


*緊急事態宣言延長をうけ、5/31まで休館。

関連レビュー

ジェン・ボー「Dao is in Weeds 道在稊稗/道(タオ)は雑草に在り」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2021/04/22(木)(高嶋慈)

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崇仁地区をめぐる展示(前編)「タイルとホコラとツーリズム」Season8 七条河原じゃり風流

会期:2021/03/20~2021/05/05

京都市下京いきいき市民活動センター[京都府]

本稿では、京都市の崇仁地区の地域性や歴史に向き合った2つの取り組みを前編と後編に分けて紹介する。まずその前に、「なぜ近年、この地区でアートが展開されているのか」という背後の文脈について、この京都駅東部エリア(崇仁地区)と隣接する東南部エリア(東九条地区)をめぐる近年の動向を概説する。

両地域ともに、2023年度に予定されている京都市立芸術大学の移転に向けて、大きな変化のただなかにある。移転予定地である崇仁地域は、高齢化や建物の老朽化が進んでいたが、移転に向けて解体工事が進行中だ。同地域では、「芸大移転整備プレ事業」として、移転予定地にある元崇仁小学校の教室を利用したギャラリー(校舎の解体に伴い2020年に閉鎖)での展示やさまざまなアートプロジェクトが展開されている。崇仁地区の空き地を利用した展示の先駆例としては、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015で、廃棄された資材を用いて仮設的な公園の祝祭的空間を出現させたヘフナー/ザックス《Suujin Park》がある。

隣接する東九条地区では、芸大移転を見据え、文化芸術や若者を基軸とした地域活性化をめざす「京都駅東南部エリア活性化方針」が2017年に京都市より打ち出された。今年3月には、契約候補事業者にチームラボが選定され、チームラボの作品を展示するミュージアム、アートギャラリーのテナント誘致、学生や地域住民が利用できるギャラリー、カフェなどを備えた複合施設の開業が計画されている。同地域には、2019年、民間の小劇場THEATRE E9 KYOTOがオープンしており、若手アーティストの共同スタジオが定期的にオープンスタジオを開くなど、崇仁とともに「文化芸術のまち」として今後さらに発展していくことが期待される。一方、両地域は、西日本最大の被差別部落であった歴史や在日コリアンが多く住む地域であることなど、複雑な負の歴史をともに持ち、ジェントリフィケーションにアートが加担することの功罪を考える必要がある。

また、京都市は、2017年度より東九条にて、文化芸術によって多文化共生社会をめざすモデル事業を東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)へ委託して実施。2017年度はダンサー・振付家の倉田翠が、2018年度は美術作家の山本麻紀子が、それぞれ地域の福祉施設や住民と協働して制作活動を行なった。2019-2020年度は対象地域を崇仁に移し、「京都市 文化芸術による共生社会実現に向けた基盤づくり事業 モデル事業」との名称で、主催であるHAPSの企画のもと、山本麻紀子と「タイルとホコラとツーリズム」の2組のアーティストが参加した。



[撮影:麥生田兵吾]


本稿の前編では、上述の2019-2020年度の京都市モデル事業の一環として行なわれたアートプロジェクト「『タイルとホコラとツーリズム』Season8 七条河原じゃり風流」を取り上げる。美術家の谷本研と中村裕太のユニットである「タイルとホコラとツーリズム」は、京都の街中に点在する「タイル貼りのホコラ」の路上観察学的なリサーチを起点に、民俗学、生活史、暮らしのなかの土着的な信仰、ツーリズムと消費といった観点から、分野横断的な制作を行なってきた。

本プロジェクトでは、明治42(1909)年、柳原尋常小学校(崇仁小学校の前身)が建設される際、地域住民が一体となって、鴨川の河原の土砂を運んで建設用地を整備した「砂持ち」に注目した。住民たちは揃いの衣装や仮装によって、土砂を運ぶ「労働」を「祝祭」に変えていたという。谷本と中村がもうひとつ着目したのは、芸大建設予定地や周辺の市営住宅の老朽化・建て替えに伴い、地域にあったお地蔵様のホコラが寺社などに移動されて路傍から姿を消したことである。そこで谷本と中村は、河原から運んだ砂利で、市営住宅の公園の砂場に「お地蔵様のモザイク画」を描き、忘れられたかつての風習を自らの肉体を駆使して再現・再演することで、「労働」と「信仰」の両面から地域の歴史に光を当てた。この試みは、京都~滋賀県の大津を繋ぐ白川街道を、道中のホコラや石仏に花を手向けながら歩き、商品の運搬という「労働」と「信仰」の結びつきを身体的に再体験して伝える過去の取り組み「season3 《白川道中膝栗毛》」などとも共通する。



[撮影:麥生田兵吾]




[撮影:表恒匡]


完成したモザイク画は、市営住宅の上階から撮影され、大きく引き伸ばした写真が地域内の市民センターの外壁に見守るように掲げられた。また、制作過程の記録写真を、「砂持ち」やお地蔵様にまつわる聞き取りとともに掲載する「かわら版」が制作され、発行毎に地域の全戸へ配布することで、プロジェクトの成果が地域へと還元された。この「かわら版」は、下記のウェブサイトでPDFが閲覧できる。

HAPSウェブサイトhttp://haps-kyoto.com/tht8_jarifuryu/

後編に続く)


関連レビュー

タイルとホコラとツーリズム season3 《白川道中膝栗毛》|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015|高嶋慈:artscapeレビュー(2015年05月15日号)

2021/04/22(木)(高嶋慈)

桐月沙樹・むらたちひろ「時を植えて between things, phenomena and acts」

会期:2021/04/17~2021/06/13

京都芸術センター[京都府]

「作品が内包する時間」は、どのように可視化されうるのか。木版画/染色という表現媒体や技法は異なるものの、この問いに共通して取り組む、桐月沙樹とむらたちひろによる二人展。副題に「between things, phenomena and acts」とあるように、元は樹木である版木の表面がもつ木目、「線を彫り足しながら刷る」という連作的行為、染料が布に「染まる」という現象、その時間の痕跡を示す滲みなど、マテリアル、現象、行為との相互作用によってイメージが揺らぎながら立ち上がる瞬間が交錯する。

透明感ある色彩の美しさが目を引くむらたちひろの染色作品は、大画面の伸びやかなストロークや、干渉し合う色の帯の重なり合いが、例えばモーリス・ルイスのようなカラー・フィールド・ペインティングを想起させる。作品に近づくと、浸透した染料が干渉し合い、境界線が滲み、両者が混じり合った「第三の色」の領域が出現していることがわかる。4枚のパネルで構成される《beyond 05》では、類似したストロークの反復のなかに、ロウによる防染のコントロールと、完全には制御不可能な物理的現象がせめぎ合い、反復と差異がイメージの豊かな変奏を生み出す。



むらたちひろ 展示風景 [撮影:吉本和樹]


桐月沙樹は、この「反復と差異、時間的連鎖」を「版画」というメディアそれ自体への自己言及的な考察へと展開させている木版画家である。桐月の作品の特徴は、1)版木の木目を、「緩やかに蛇行する線」としてイメージの一部に取り込むこと、2)「素材である樹木が内包する時間」の痕跡を示すその線の上に、「少しずつ線を彫り足しながら、刷り重ねていく」連作的行為、3)「物理的には同じ1枚の版木から、彫りの進度が異なる複数のイメージを発生させる」ことで、「版」と「複製性」の結びつきを批評的に断ち切る、という点にある。



桐月沙樹《dance with time》[撮影:吉本和樹]


その名も《dance with time》と題された出品作は、同じ1枚の版木から刷られた、計9枚の木版画で構成されている。1枚目から順に辿っていくと、木目が写し取られた黒い地の中に断片的な線やイメージが現われ、2枚目、3枚目、4枚目…と彫り足しては刷る行為を重ねていくうちに、成長する植物のように線が伸び、新たな芽吹きのように出現し、絡まるロープやリボン、木目を見立てた川面の上に浮かぶ人影や壺、カーテンのように揺らぐグリッドなどが姿を現わす。だが、繁茂する線は次第にその表面を浸食し、白い線が自己破壊的なまでに画面を塗りつぶしていく。変奏曲のような時間的構造とともに、「線を彫る」という行為が、イメージの生成と同時に消滅につながっていくという暴力的なまでの両義性が提示される。それは、「おぼろげな記憶が次第に像を結び、やがて忘却へ至る」という心理的メタファーを思わせると同時に、「表面に付けられた傷である」ことを文字通り可視化する。

同時にそこには、「複製」「コピー」「エディション」といった概念との結びつきを自明のものとする「版(画)」というメディアに対する、優れた反省的思考がある。通常は1枚の版から同一イメージの複製を生み出す版画において、物理的基盤である「版木」の存在は、写真のネガのように限りなく不可視化されている。だが桐月は、同一のものの複製・コピーではなく、差異・複数性を発生させる装置として「版」を用いる。それは言わば、「唯一のオリジナル」が存在しない「1/9」という版画のエディションを、「9/1」へと反転させる操作であり、「版木」に対する意識を顕在化させる。

この「版木」の物質性への意識は、本展において、文字通り「作品」化する試みとして新たな展開をみた。展示空間には、一見「ただの丸太」に見える3本の木の柱が直立し、あるいは床に置かれている。これらはそれぞれ、「先端の切断面を版木に用いた丸太」、「過去作品の版木を円柱状に丸めて再加工したもの」、「虫食いの跡が抽象的な彫りの線に見える丸太」である。人為的な加工を加えない自然のままの素材をファウンドオブジェのように「再発見」する行為、あるいは自身の作品に用いた版木を「再作品化」する行為が等価に並べられる。「素材自体や制作行為が内包する時間」というテーマが、新たな側面から光を当てられていた。



展示風景 [撮影:吉本和樹]



桐月沙樹《1/3020-3/3020 -3m2cmの版木より》 [撮影:吉本和樹]



*緊急事態宣言延長をうけ、5/31まで休館。


関連レビュー

教室のフィロソフィー vol.12 桐月沙樹「凹凸に凸凹(おうとつにでこぼこ)─絵が始まる地点と重なる運動―」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

むらたちひろ「internal works / 境界の渉り」|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年07月15日号)

むらたちひろ internal works / 水面にしみる舟底|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

2021/04/18(日)(高嶋慈)

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西條茜「胎内茶会」

会期:2021/03/23~2021/03/31

京都市営地下鉄醍醐車庫[京都府]

元小学校をリノベーションした京都芸術センターでは、建物内にある茶室を活かし、美術作家、舞台芸術や伝統芸能のパフォーマー、研究者、建築家などが席主をつとめてもてなす「明倫茶会」を2000年より継続的に開催している。コロナ禍で開催ができないなか、芸術家支援事業の一環として、オンラインで参加する「光冠茶会(ころなちゃかい)」が2月~3月に開催された。参加者には、席主が選んだお茶とお菓子が事前に届き、各会場からのライブ配信を視聴しながらそれらを味わうというものだ。本評で取り上げるのは、そのうちのひとつ、陶芸家の西條茜による「胎内茶会」。ただし、オンライン茶会ではなく、配信会場である京都市営地下鉄の醍醐車庫で開催された個展のほうを取り上げる。

受付で検温や消毒を済ませ、コンクリートに囲まれた薄暗く狭い階段を降りていく。降りた先に広がるのは、地下の広大な空間だ。そこに配された西條の陶芸作品は、多彩な釉薬が重ねられた艶やかな表面と、ラッパ状の口や穴をいくつも持つ有機的な多孔体や管構造をしており、奇妙な金管楽器や原始的生物、人体の臓器のようにも見える。その展示空間に、鈍い金属音の残響が響き、巨大な空洞を満たしていく。この音はオンライン茶会でのパフォーマンスの記録映像から流れており、パフォーマーたちが西條の作品に実際に息を吹き込んで、楽器のように音を鳴らしている。それは、楽器の演奏であると同時に、文字通り呼気を吹き込んで生命を与える行為であり、作品を抱きかかえるように、あるいは作品の中に身を埋めるようにして息を吹き込むパフォーマーたちは、硬いはずの作品と境界が溶け合って一体化しているようにも見えてくる。



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]



[撮影:守屋友樹]


都市の地下に穿たれた巨大な空洞である地下車庫の空間、内部が空洞である陶磁器、呼気が音となって排出される管楽器、人体もまた口から始まって肛門へと至る消化器官が体内を貫く一本の管である。そうした何重もの入れ子構造や転換の作用が体験の強度を支える本展において、鑑賞者は自身の身体への反省的な意識へと導かれる。そこに、「オンライン企画の付随物」ではなく、本展がリアルの場において開催・公開されたことの意義がある。

同時に、「生でパフォーマンスを体験したかった」と強く感じられた。たとえば、複数の穴や開口部を持つ作品では、どこから息を吹き込むのか、あるいは1人で息を吹き込む場合と2人以上で行なう場合では、音が違うのか。どのくらい音程的な変化が付けられるのか。作品の配置とポリフォニーの形成は、どのような関係を結びうるのか。造形と聴覚体験を組み合わせた「パフォーマンス作品」としての発展可能性も感じられる個展だった。

西條茜:https://akane-saijo.jimdofree.com

2021/03/30(火)(高嶋慈)

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