artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと
会期:2022/05/03~2022/09/04
金沢21世紀美術館[石川県]
2009年に結成され、ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレへの参加など韓国を代表するアーティストデュオ、ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホの日本初の大規模な個展。金沢21世紀美術館での滞在制作を含め、映像インスタレーション6点を展示する。現在/SF的な未来、韓国/北朝鮮、現実/夢や虚構といった二項対立の構造、「過去」「異質な外部」との接触、監視された閉鎖空間、植物の収集や育成といった要素が、商業映画なみのクオリティの映像どうしをつないでいく(実際に有名な俳優が出演している)。
特に、構造の類似性を感じさせるのが、《世界の終わり》(2012)と《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ(News from Nowhere: Freedom Village)》(2021)。《世界の終わり》では、2面スクリーンの左右にそれぞれ、終末を迎えつつある世界で男性アーティストが孤独にスタジオで制作する「現在」と、終末後の世界に生きる女性が「旧世界の遺物」を調査する「未来」が投影される。「未来」の調査ラボは無機質でクリーンな「白」に覆われ、調査サンプルの持ち出し禁止や滞在時間の制限など厳重な規則が課せられている。だが、「現在」で男性アーティストが手にしていた電飾コードの残骸が、再び息をするように明滅し始めるのを見た「未来」の女性は、その「光」を自らの身にまとい(田中敦子の《電気服》のようだ)、トランクに詰め、「外」の世界へ出る決意をする。
「ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと」展示風景、金沢21世紀美術館、2022年
《世界の終わり》(2012)
金沢21世紀美術館蔵[© MOON Kyungwon and JEON Joonho 撮影:木奥惠三 画像提供:金沢21世紀美術館]
《世界の終わり》(2012)
2 channel HD video installation with sound., 13 min. 35 sec.
金沢21世紀美術館蔵[© MOON Kyungwon and JEON Joonho]
一方、《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》では、「現在」と「SF的な未来」の映像が表/裏に背中合わせで投影される。「フリーダム・ヴィレッジ」とは、韓国と北朝鮮のあいだの非武装地帯(DMZ)に実在する、韓国唯一の民間人居住区の通称である。正式名称は大成洞(テソンドン)。1953年の朝鮮戦争の休戦協定後、国連の管理下に置かれ、休戦当時の住人とその直系子孫のみが居住を許されている。GPSには表示されず、住民の生活はさまざまな制約を受け、部外者の立ち入りはほぼ不可能だ。表側の映像では、この「村」で生活する青年の日常──農作物の加工工場での労働、森での植物採集と標本制作──が描かれる。裏側では、SF的なカプセル型居住空間で暮らす「未来」の男性が、「過去の遺物」である「植物標本」をデータ解析する姿が描かれる。だが彼は、宇宙食のような食糧をこっそり「標本」に与え、干からびた命を復活させて育てている。監視カメラが異常を検知し、警報が鳴り響くなか、「植物の苗」を手にカプセルの「外」へ脱出を企てる男性。特殊なマスクを付けた姿は、「外の世界」がなんらかの「汚染」状態にあることを示唆する。
「ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと」展示風景、金沢21世紀美術館、2022年
《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》(2021)
[撮影:木奥惠三 画像提供:金沢21世紀美術館]
このように、「過去の世界」との接触が鍵となり、遺物が再び「生命」を宿し、禁忌を犯して閉鎖空間の「外部」へ出ようとする姿が「SF」というフィクションを借りて反復される。ここでは、「現在/SF的未来」という時空的隔たりを装って、朝鮮戦争がもたらした分断が扱われている。ある時点で切り離され、「凍結された過去」をパラレルに生きる者の存在。だが、「過去」からのシグナルが、時空の壁を超え、「未来」を生きる者に意志と「脱出」への希求を与える。「どこにもない場所」というタイトルは、ウィリアム・モリスの小説『News from Nowhere(ユートピアだより)』に由来するが、モリスが「夢の中で訪れた未来のイギリス」の姿を借りて当時の社会批判を行なったように、ユートピア小説とは現実を反映する批評的鏡像である。「過去」がパラレルに存在し、「未来」の時制に干渉し、あるいは「未来」が「現在」の鏡像でもある時制のねじれ。従って、無菌室のように管理と監視が行き渡る閉鎖空間からの「脱出」の企ては、出口のないトラウマ的な時間からの「脱出」でもあるのだ。
「フィクションという装置を借りなければ語れないこと」はまた、並置された写真とテキスト、絵画からもうかがえる。「フリーダム・ヴィレッジ」についての資料然としたモノクロ写真といかにも古そうなタイプ打ちのテキストが並ぶが、「村の標識」の写真に添えられた「大洪水で押し流された砂がつくった」という村の起源の語りや、プロレスのマスクをかぶった2人の男の写真に幽霊の目撃譚が添えられるなど、違和感が混ざる(実は写真もテキストも「捏造」である)。「捏造されたアーカイブ」は、「歴史資料の欠落状態」と「村自体の人工性」の双方を指し示し、両義的だ。
さらに、展示室の最奥では、謎めいた巨大な絵画が出迎える。「フリーダム・ヴィレッジ」に暮らす青年が植物採集をしていた冬の森を思わせる絵だ。葉が一枚もない枯れ枝が、神経網や毛細血管のようにうねりながら絡み合い、空虚な空間を満たす。リアリズムなのに非現実感に満ちている、イリュージョンなのに確固たる強度で存在する、枯死しているが旺盛な生命力に満ちてもいる──これらの矛盾が破綻なく存在する場所。それは、どこにもないがゆえにどこにでも偏在する「フリーダム・ヴィレッジ」の似姿を象ったイコンである。
「ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと」展示風景、金沢21世紀美術館、2022年
《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》(2021)
[撮影:木奥惠三 画像提供:金沢21世紀美術館]
2022/07/09(土)(高嶋慈)
アビシニア高原、1936年のあなたへ─イタリア軍古写真との遭遇─
会期:2022/07/07~2022/08/09
PURPLE[京都府]
映像人類学者の川瀬慈が知人を介して偶然譲り受けたイタリア軍古写真を、自身のエッセイとともに展示する企画。古写真は、イタリアによるエチオピア帝国侵略時代(1935–1941)にイタリア軍の兵士が撮影したと思われるものを中心に、200枚余りに及ぶ。撮影されたエチオピア北部と近隣エリア(現在のエリトリア)は、川瀬が長年フィールドワークを行なってきた土地である。トランプ大の古写真が展示台に並べられ、そのうち6点がパネルに引き伸ばされ、川瀬の言葉を添えて展示された。
これらは、イタリアの蚤の市で、ただ同然の値段で売られていたものだという。所有者の手を離れ、出自も撮影者も不明だが、被写体の性格や撮影手法の点でいくつかのまとまりが見えてくる。イタリア軍の活動には、戦車や行軍、兵士たちの日常生活のスナップに加え、凄惨な死体や兵士の墓もある。一方、典型的な植民地写真の群れは、侵略した土地とその住民や動物を「イメージ」として二重に所有しようとする欲望を表わす。現地住民を従えた記念撮影。裸の上半身に首飾りを何重にも巻いて着飾った少女たち。ワニやダチョウなどの野生動物。古代遺跡や雄大な風景。イタリア兵はカメラを意識せずラフに写るのに対し、現地住民は正面向きや直立不動の姿勢であり、眼差しの前に物体化した身体を晒している。
[撮影:守屋友樹]
本展のポイントは、さまざまな被写体に「あなた」と呼びかける川瀬の言葉にある。「あなた(タバコの火を分け合うイタリア兵たち)」は、加害者であり、帝国の野望の犠牲となった被害者でもあった。「あなた(戦車の隊列)」は、19世紀後半に「文明国」がエチオピアに敗けた屈辱を晴らすため、近代兵器の強大な力を示しながら再びこの地にやってきた。王侯貴族のお抱え楽師/道化/庶民の代弁者/社会批評家とさまざまな顔を持つ「あなた(吟遊詩人)」は侵略者を賛辞する歌を歌ったが、抵抗を歌って処刑された者もいた。「あなた(巨大なムッソリーニの彫像)」は、かつてイタリア軍が敗れた街に征服の証として建てられ、兵士たちは「あなた」の前に現地住民を「陳列」して記念撮影した。「あなた」の帽子のかぶり方は、侵略者側に付いた現地住民の傭兵であることを示す。住民の憩いの場であり、争いごとを木の下で話し合って調停する場でもある「あなた(イチジクの巨木)」は、人間の叡智も繰り返される愚かさも見守ってきた。
[撮影:守屋友樹]
川瀬はまた、「イメージはこうやって、おのずからひょっこり私たちのまえに現れるので、おもしろくもあり、やっかいでもある」と書きつける。これは、2度目の「遭遇」である。1度目は、異民族の前に侵略者・征服者として相対し、イメージとして他者を所有しようとする眼差し。そして、そうした欲望の眼差しが焼き付いた写真を、時間的・空間的距離を隔てて再び見つめる眼差し。この2度目の「遭遇」のもとで、第一次エチオピア戦争での敗北(1896)からエチオピア併合(1936)の40年に及ぶイタリア史というナラティブの流れが発生する。写真は常に、遅れてきた眼差しの下でナラティブを生み出す。写真とは、眼差しを何度でも受け止める物質的な層である。それは、イメージとして印画紙の上に固定されつつ、決して固定された時間を生きてはいないのだ。
また、現地住民もイタリア兵も巨大な彫像も古木も「あなた」と等しく呼びかける川瀬の語りは、さまざまな示唆を含む。どんなものでも代入可能な「あなた」は、固有名が失われ、回復不可能な忘却という空白を示す。同時に、いま私とともに私の目の前にある「あなた」という存在を承認し、唯一の固有性を回復しようとする呼びかけは、弔いにも似た行為である。
客観性を装った通常の「歴史資料の解説文」であれば、「私」「あなた」といった人称を欠き、「私とあなた」という親密な関係性も想像的な対話もない。そうした形式をあえて逸脱した川瀬の語りは、再び「征服者」「所有者」としてイメージを奪取するのではなく、被害者として一方的に糾弾する(立場を偽装する)のでもない、「あなた」として向き合う倫理的な態度を示していた。
[撮影:守屋友樹]
2022/07/07(木)(高嶋慈)
コレクション1 遠い場所/近い場所
会期:2022/06/25~2022/08/07
国立国際美術館[大阪府]
コレクションの本気と底力だ。ウクライナへの軍事侵攻と沖縄返還50周年という時事性に基づき、①東欧からロシアの作家群と②沖縄出身の作家(石川竜一、山城知佳子、ミヤギフトシ)をそれぞれ小特集に組み、企画展に負けない見応えがある。①は、共産主義体制の崩壊を経た社会的激動期である90年代以降の中東欧のアートを紹介した「転換期の作法」展(2005)が土台にある。現在のウクライナ侵攻や難民危機について直接言及するわけではないが、ホロコースト、冷戦と共産主義下での抑圧、ソ連崩壊といった20世紀史が通奏低音をなし、この地域の現在につながる歴史的視座を提示する。企画の発案から、リサーチ、貸出の交渉、予算調達、輸送など、実現まで1年から数年間かかる企画展に比べて、状況に対するコレクション展のフレキシビリティの高さを示した好例だ。また、②では、山城知佳子の2000年代の初期作品群(《オキナワTOURIST》3部作[2004]、《OKINAWA墓庭クラブ》[2004]、《あなたの声は私の喉を通った》[2009]など)をまとめて収蔵したことの意義も大きい(なお、これら初期作品群については、「山城知佳子作品展」[2016]の拙評を参照されたい)。
展示室を進むと、多数の民間人を巻き込んだかつての激戦地/現在の戦火に加え、沖縄/本土、旧共産圏/西側という地域的周縁性など、この2つの地域を架橋するつながりの線が見えてくる。例えば、山城知佳子が問う沖縄戦の記憶の継承と、クリスチャン・ボルタンスキーやユゼフ・シャイナにおけるホロコーストの記憶。山城の映像作品《あなたの声は私の喉を通った》では、サイパン戦で家族を自決で失った老人の証言を、山城自身が語り直す。記憶の継承とは、他者(死者も含む)の声の憑依や痛みの分有といった身体的プロセスであることを、山城の目から流れる涙や次第にオーバーラップする2人の声と顔が示す。ウクライナ系ユダヤのルーツを持つボルタンスキーの代表作例《モニュメント》(1985)は、子どものモノクロの顔写真を手作りの祭壇風に設置し、犠牲者の追悼を思わせる。強制収容所から生還した経験をもつユゼフ・シャイナのドローイング《群衆》(1996)は、顔のない人間の上半身のシルエットが無数に集積し、大量死がもたらす匿名性や個人を均質化する抑圧的な社会体制を暗示する。
左:山城知佳子《あなたの声は私の喉を通った》(2009)
右:山城知佳子《OKINAWA墓庭クラブ》(2004)
左:クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》(1985)
右:ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)
また、ボリス・ミハイロフが写す「華やかなショッピングストリートの浮浪者」は、石川竜一のスナップの1枚と共鳴する。ウクライナ北東部のハルキウ出身のミハイロフは、ベルリンと故郷を行き来しながら、社会の変化から取り残された低所得者や路上生活者の姿を捉えた。チェリーを詰めた袋を抱えた浮浪者は、果汁で真っ赤に染まった手と口元が血塗られたようで、強烈な印象を与える。ダイアン・アーバスや鬼海弘雄の系譜に連なる特異な風貌の人々を、強烈な色彩とともに沖縄の路上で捉えた石川の写真集『絶景のポリフォニー』(赤々舎、2014)の1枚では、路上に裸足で座り込むホームレスの男、背後のデモ隊と機動隊、その奥のブランドショップという多層構造が、沖縄の抱える矛盾を示す。
ボリス・ミハイロフ「Look at me, I look at water…」シリーズより(2004/2006)
石川竜一『絶景のポリフォニー』より(2011-2014)
石川の別のスナップはクラブのドラァグクイーンやキスを交わす女性同士を捉え、ミヤギフトシの作品とクィア性においてつながっていく。ミヤギの「American Boyfriend」プロジェクトのなかの映像作品《The Ocean View Resort》(2013)では、アメリカから故郷の沖縄へ戻った主人公の語りが、同性の友人Yへの淡い恋心と、戦争捕虜だったYの祖父と米兵との関係という2つのエピソードを詩的に往還する。同じ音楽を「基地のフェンスを隔ててYの祖父と米兵が聴く」関係が、「レースのカーテンを隔てて主人公とYが聴く」関係として反復される構造により、個人的で親密な関係と、国家や民族、軍事的な境界線というより大きな枠組みが入れ子状に示される。
ここに、基地のフェンスの前でアイスクリーム(=与えられた「甘いもの」)をひたすらなめ続ける山城自身のパフォーマンスを映した《オキナワTOURIST-I like Okinawa Sweet》を並置すると、「沖縄の表象とジェンダー」というもう一つの問題が見えてくる。山城作品では、アイスクリームをなめる仕草や汗で濡れた肌を見せつけるなど、あえて性的に強調してふるまうことで、基地が潤す経済や日本政府の補助金に依存する沖縄の受動性や被支配者性が、「女性」としてジェンダー化されて提示されていた。山城の批評的意図は明快だが、女性ジェンダーを依存性や受動性と直結させることは、別の問題もはらむ。
一方、ミヤギの作品では、「沖縄」の側が「ホモセクシュアルの男性」として表象されることで、政治的な力関係が、「ヘテロ男性の優位性」というセクシュアリティの支配構造と重ねられる。また、「沖縄人らしくないYの容貌」という伏線や「Yの祖父は本土からの漂流兵」という語りからは、「ウチナーンチュである主人公とヤマトンチュの血を引くY」の恋愛の困難さに、別の政治的困難さが重ねられる。「フェンス」「レースのカーテン」は、国家・民族・軍事的分断線、異性愛/クィアという境界線を何重にも示す。祖父の遺品にはさまれていた「真ん中で引き裂かれた若い米兵の写真」は「関係の破綻」を暗示するが、それでも、たとえ束の間の儚い時間でも、「美しい音楽」が両者の隔たりを恩寵のように満たすのだ。
ミヤギフトシ《The Ocean View Resort》(2013) 国立国際美術館蔵[© Futoshi Miyagi]
このように、本展は、コレクション=「現在から安全に隔てられた、消費対象としての過去」ではなく、「進行形の現在」と接続可能であること、そして「現在」を変数として入力するたびに異なる「出力値」が召喚され、読み替え可能な流動体であることを示していた。夏休み期間にもかかわらず、館内設備工事のため企画展は穴が空いた状況だったが、だからこそ、「コレクション展しかやってない」ではなく、「コレクション展だからこそできること」という存在意義を力強く示していた。
関連レビュー
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2017 山城知佳子「土の唄」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年05月15日号)
山城知佳子作品展|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年12月15日号)
2022/07/02(土)(高嶋慈)
越境─収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座
会期:2022/06/17~2022/07/23
京都精華大学ギャラリーTerra-S[京都府]
京都精華大学の学内ギャラリーのリニューアルオープン記念展。前身のギャラリーフロールは変則的な間取りで古さも感じる空間だったが、建て替えられた新校舎内に、床面積630㎡の大型ギャラリーとして生まれ変わった。新校舎自体、ガラス張りで開放感のある今どきの建築だが、ギャラリー名に「テラス」とあるように、池を臨むガラスの壁面からは明るい光が差し込む。本展では、大学が収蔵するシュウゾウ・アヅチ・ガリバー、今井憲一、ローリー・トビー・エディソン、塩田千春、嶋田美子、富山妙子の作品と、若手~中堅の5名のゲストアーティスト(いちむらみさこ、下道基行、谷澤紗和子、津村侑希、潘逸舟)の作品を展示。「ジェンダー/歴史」「身体/アイデンティティ」「土地/記憶」といったキーワードを軸に、作品群がバトンを受け渡すようにゆるやかに結びつく。
「戦争とジェンダー」の問題を問うのが、富山妙子と嶋田美子。富山の「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」シリーズは、少女時代を満州で過ごした記憶と帝国の植民地支配を図像的に描いたものだ。出品作の《祝 出征》では、出征直前に軍服姿で式を挙げる青年と花嫁が、狐に擬人化して描かれる。日章旗と旭日旗を手に「出征」と「結婚」を祝うのは、親族に加え、白い割烹着に「大日本愛国婦人会」のたすきがけをした女性たちだ。割烹着すなわち「母・妻」という家庭内での女性の役割を示すユニフォームにより、「結婚」とは「男児=次代の兵士の補充」であり、「女性の戦争動員の一形態」「国家による性と生殖の管理」にほかならないことが示される。同様に、戦時下の写真を元にした嶋田美子のエッチング作品では、白い割烹着に「満州国防婦人会」のたすきがけをした女性の奉仕活動や、「健康優良児コンテスト」で幼児(もちろん男児である)を抱きかかえて笑顔を見せる母親たちが提示される。写真画像の引用に際し、例えばシルクスクリーンではなく、エッチングを選択した理由は、「版に直接ニードルで刻む」この技法が、「傷」を文字通り想起させるからだろう。
富山妙子《祝 出征(「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」から)》(1995)、京都精華大学蔵
表現メディアとジェンダーの関係を問うのが、谷澤紗和子の切り絵作品である。谷澤は、晩年に精神を病んだ高村智恵子が制作した「紙絵」作品の引用に、智恵子への手紙や「うちなるこゑ」「NO」といった言葉の切り抜きを重ねた。「絵画」/手工芸的要素の強い「切り絵」というヒエラルキーや、美術史における女性作家の周縁化に対して「NO」を突きつけると同時に、「手紙」という親密な文体を借りて、「応答する智恵子の声」への希求を示す。作品は「古い家屋の廃材」でつくった額縁に囲まれるが、古い家制度の解体/なおも残存する強固なフレームの双方を示し、両義的だ。
谷澤紗和子《はいけい ちえこ さま》(2021)
そして、女性への抑圧を、「貧困」「肥満」といった差別構造の交差の視点から問うのが、いちむらみさことローリー・トビー・エディソン。自身も東京の公園のテント村に暮らし、ホームレスの女性の支援活動を行なういちむらは、シェルター/暴力の再生産の場所でもある「家」、炎、墓など暴力を暗示するモチーフを赤い絵具で描き、映像を重ねたインスタレーションを展示。一方、ファット・フェミニズム(肥満受容)運動に関わるローリー・トビー・エディソンは、代表作の「Women En Large」シリーズを展示。堂々と自信に満ちた太った女性たちのポートレートに彼女たちの自己肯定的な言葉を添え、「肥満=醜」とする画一的な美の基準にアンチを突きつける。
ローリー・トビー・エディソン《デビー・ノトキン(「ウィメン・エン・ラージ」シリーズより)》(1994)、京都精華大学蔵
一方、「自身の体重を同じ重さの物体へ還元・置換する」という手法の共通性を示すのが、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーと潘逸舟。コンセプチュアルな手法で自己の存在や身体を扱うガリバーは、体重と同じ重量のステンレス製の球体を長椅子に乗せた《重量(人間ボール)》を展示。潘逸舟もまた、体重を「同じ重さの石」に置換するが、より有機的だ。映像の画面いっぱいを占める「巨大な石」がわずかに上下に動き、それを腹に乗せて横たわる潘の「呼吸=生の証」を伝える。この「石」を、神戸港から出身地の上海に向かうフェリーに載せて「旅」をさせた映像では、石を不安定に揺動させるのは、個人の肉体ではなく、国境を超える船すなわち「移民」という社会的様態だ。そして、秤の上に置いた食器を箸やスプーンでつなぎ、円環状に配置した《あなたと私の間にある重さ─京都》では、「重さ」とは何を指すのか(身体?記憶や精神?)、それは計測可能なのか、他者と交換可能なのかと問いかける。さらに、「食器」が危うい均衡を保って円環状につながる様は、気候変動や軍事侵攻がもたらす食料危機も想起させ、「本当に平等に分配されているのか?」という問いをも喚起する。
左:シュウゾウ・アヅチ・ガリバー《重量(人間ボール)》(1979)、京都精華大学蔵
右:潘逸舟《呼吸_蘇州号》(2013)
潘逸舟《あなたと私の間にある重さ―京都》(2022)
「芸術大学の学内ギャラリー」というと、学生や卒業生、教職員の展示という「学内向け」の役割をイメージしがちだ。だが、質の高いコレクションをもっていること、そしてそれを指針として、若い世代の作家の作品と対話的な関係を構築していく姿勢を示していた本展は、「学内コレクションの活用」という点でも示唆的だった。
関連レビュー
谷澤紗和子「Emotionally Sweet Mood─情緒本位な甘い気分─」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年05月15日号)
2022/06/25(土)(高嶋慈)
プロトテアトル『レディカンヴァセイション(リライト)』
会期:2022/06/11~2022/06/12
アイホール(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]
関西小劇場シーンの拠点のひとつのアイホールだが、昨年、税金負担や老朽化、市民の利用率の低さなどを理由に、伊丹市の意向で存続の危機に立たされた。演劇界の署名運動や市民からの声を受け、今後3年間は存続が決定したものの、主催・共催事業は縮小される。10年間続いた若手支援企画「break a leg」も今回が最終。同企画にはこれまで、冨士山アネット、劇団子供鉅人、FUKAIPRODUCE羽衣、コトリ会議などが参加してきた。その掉尾を飾るのが、FOペレイラ宏一朗が主宰する「プロトテアトル」。2015年の短編、2019年の長編化を経てリライトした作品が、凹状に一段下げた舞台、むき出しの壁、天井の高さなど劇場の空間性を活かして上演された。
大きな地震で崩れた、山奥の廃墟ビルが舞台。そこに生き埋めになった3つのグループ──2人の警備員、好奇心で訪れたアウトドアサークルの大学生たち、ネットの自殺スレッドに集った自殺志願者たち──計11人による群像劇だ。瓦礫に埋もれて身動きも取れず、携帯は落としたり圏外で助けも呼べず、暗闇のなか、相手と顔も見えないまま「会話」を続けるしかない。そうした極限状況が、身体を硬直させた俳優たちによって演じられる。構成は明快で、①警備員、サークル、自殺スレッドのメンバーという既存のコミュニティ内部での会話、②余震で床が崩落して落下し、それぞれのコミュニティに「外部からの闖入者」が混ざる、③さらに大きな揺れにより、全員が「最下層の地下駐車場」に集合する、という3パートからなる。建物の階層構造が物語レベルとメタ的にリンクする展開である。冒頭と各パート間に起こる「地震の揺れ」を示す、暗闇に響く激しいドラムの音が鮮烈だ。
[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]
人物・設定紹介の①を経て、「部外者」がコミュニティに混ざる②の局面では、「普段言えなかった本音」が口に出されて人間関係の修復や和解が生まれ、自殺願望者も死の恐怖に直面した者たちも、状況は何ひとつ変わらないにもかかわらず、最終的に「生きたい」という希望へ向かい、ラストシーンでは頭上から一筋の光が差し込む。物語はひとまずそのように要約できる。そこにはいくつもの二重性が書き込まれている。「顔の見えない相手とのコミュニケーション」は文字通りの暗闇/ネット空間の匿名性であり、誰かの声が聴こえるたびに反復される「救助隊の人ですか?」という台詞は、自殺スレッドのメンバーにとっては、その名も「ホーリー」と名乗るスレッド主が「死による救済」をもたらしてくれる期待でもある。
[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]
ただ、人物造形やエピソードはステレオタイプで平板に感じた。特に気になるのが、「死から生への転化」の鍵を握る、女性キャラクターの描かれ方の偏向である。「通帳ごと消えた」元彼(=警備員)と再会した自殺志願者の女性は、あっさり彼を許し「もう離さない」と抱きしめる。一方的な思い込みで互いに「相手の理想の恋人」を演じて疲れていた大学生の男女は、本音をぶつけ合い、関係を修復する。いじめが原因で「死にたい」と思っていた女子高校生は、自殺スレッドで知り合い、話を聞いてくれた男性「ホーリー」に「会いたい」気持ちが生きる原動力に転化する。だから彼女は、やっと会えた「ホーリー」が差し出す薬の瓶を、「私が欲しかったのはこんなものじゃない」と床に投げつけるのだ。3人とも、「男性への恋愛感情」のベクトルが、「死から生へと転じる(唯一の)原動力」である。彼女たちは実際には「ただ一人」なのだ。「何が好きで、何に興味があって、どんな人なのか、もっと知りたいから話すんだよ」という台詞が、女子大学生と女子高校生の双方で反復されることが、その証左である。
こうしたステレオタイプ的な描写は過去作品『X X』でも感じたが、ここで、『X X』と本作を空間構造から比較すると、プロトテアトルの志向性がより明確に見えてくるのではないか。『X X』では、四方を座席が囲むフラットな舞台空間上に、両親と娘の家庭、高校生たちが登下校で立ち寄る商店、交番、ホームレスのいる公園などが点在し、架空の田舎町の中で、孤島のように浮かぶコミュニティの生態が描かれる。水平的なコミュニティの住人が次第に交錯することで、人違いの撲殺事件という「悲劇」が最終的に起こる。一方、本作は「垂直性」に貫かれている。リアリズムベースの会話劇に基づくプロトテアトルだが、むしろ描こうとしているものの本質は、構造の方にあるのではないか。
本作では、まず、「既存のコミュニティ」が前提にあり、各成員はその基盤の上に乗っている「安定」状態が示される。廃墟ビル=(すでに綻びを抱えた)社会全体とすると、各階=各コミュニティのメタファーだ。だが、「地震」という外在的要因によって、その基盤が崩壊し、「普段は交わらないコミュニティ」と否応なしに「接触」させられてしまう。従ってここでは、「生き埋めになり救助を待つ人々の心理劇」の背後で、「地震」すなわち社会基盤を揺るがす大事件によって、異質なコミュニティと強制的に「接触・交差」させられる物語が語られているのだ。彼らは、「力を合わせて」脱出しようと奮闘するわけではない。ただ、「話し続ける」だけだ。暗闇のなかで相手を知ろうとするために。終盤、「まずは自己紹介から始めよう」と、各自が「(本当の)名前」を名乗ることは示唆的だ。閉塞感とともに匿名的な集団に飲み込まれていくのではなく、手探りでも「個人」として存在し始めようとすること。その声に傾聴すること。そこに、ラストシーンの「頭上からの光」が照らし出す希望がある。
[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]
2022/06/12(日)(高嶋慈)