2019年08月01日号
次回9月2日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』

会期:2019/02/10~2019/02/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

劇場とアーティストが協働するプログラム「レパートリーの創造」第2弾として、昨年度の『心中天の網島―2017 リクリエーション版―』に引き続き、糸井幸之介とタッグを組んだ木ノ下歌舞伎。『摂州合邦辻』は、説教節「しんとく丸」、「愛護の若」、能「弱法師」などを元にした人形浄瑠璃、歌舞伎作品として成立し、現代の文学まで語り継がれてきた物語である。

大名の高安家の跡取りに生まれ、才能と容姿に恵まれた俊徳丸は、異母兄に妬まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられる。玉手御前を拒絶する俊徳丸だが、業病にかかり、家督相続の権利と許嫁を捨てて失踪してしまう。彼の行方を訪ねる許嫁が探し当てたのは、両目の視力を失い、醜く顔貌が崩れ、社会の底辺で彷徨う俊徳丸の姿だった。許嫁に横恋慕する異母兄が連れ戻そうとするが、2人は合邦道心という僧侶に助けられ、家に匿われる。この合邦道心は玉手御前の父親であり、俊徳丸を追い求めて高安家を飛び出した玉手御前は、2人が匿われているとも知らず、実家へ身を寄せる。俊徳丸への邪恋を諦めさせようと諭す両親だが、玉手御前は聞く耳をもたない。俊徳丸を連れて逃げ出そうとする許嫁に、襲いかかる玉手御前。元武士である道心は、高安家へ義理立てするために、愛娘を手にかける……。



[撮影:東直子]


舞台は、「許嫁に襲いかかる玉手御前を、父親の道心が斬りつける」というこの緊迫したシーンで幕を開ける。いきなりのクライマックスの提示から、時間を過去へと巻き戻し、ストーリーの進行と過去の回想が時間軸を行き来しながら語られていく仕掛けだ。生と死、愛と憎しみ、聖と俗、真実と嘘が渦巻く重厚なドラマだが、ポップなメロディに乗せて歌い踊る、糸井幸之介によるミュージカル調の演出が、軽やかさと推進力を与える。舞台の前半は俊徳丸の生い立ちや病による凋落に、後半は玉手御前にスポットが当てられる。息も絶え絶えの彼女が真実を吐露する独断場は、内田慈の熱演が光る。実は、俊徳丸への恋慕はカモフラージュのための演技であり、異母兄が俊徳丸の暗殺計画を立てていることを知った彼女は、彼の命を救うため、毒酒を飲ませて業病にかからせた。失踪した俊徳丸をなおも追い求めたのも、恋に狂ったからではなく、自分だけが彼を癒せるからだった。「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の生き血」を飲ませれば病は癒え、まさに自分がそれに該当する女なのだ。玉手御前は後妻になる前は高安家に仕える使用人であり、彼女の行動原理は、恋慕の情ではなく、元使用人としての主への忠誠心と(継)母として子を救う想いだったことが明らかになる。最後の力を振り絞って血を飲ませる玉手御前の周りを、登場人物たちは輪になって囲み、数珠を回して祈りを捧げる。数か月後、病から癒えた俊徳丸は許嫁と式を挙げ、玉手御前の両親は娘を想って空の月を見上げる。



[撮影:東直子]

序盤での群舞とコーラスのシーンは、このクライマックスを念頭に振り返ると、伏線が散りばめられていたことに気づく。例えば、トラが爪を立てて獲物に襲いかかるような手の振りや、真ん中の1人を囲んで円陣を組んで踊る構成だ。また、舞台美術も秀逸。10数本の柱を使ったシンプルなものだが、俳優たちの手で組み替えられる度に、現代の都市のビル群、神社の社、掘っ立て小屋、家の骨組みや敷居へと自在に変化する。冒頭、垂直に立っていた柱の列は、ストーリーの変化に応じて分解され、さまざまに組み替えられた後、再びラストで「垂直の柱の列」に戻り、「秩序の回復」を暗示する。また、後半で運び込まれる大玉は、初め不穏な異物として現われ、玉手御前を囲んで人々が回す数珠になった後、夜空に浮かぶ星へと変貌する。人々の祈りや、超越的な力の顕現を現わすようだ。


このように見応えある舞台だったが、「古典を現代(の問題として)上演する意義」と「玉手御前の二面性」について最後に考えたい。ラストで明かされる玉手御前の行動原理は、一応の辻褄は合うが、彼女がそこまでの自己犠牲に徹する動機を理解するのは(現代の観客としては)困難だ。むしろ、こう考えた方が良いのではないか。玉手御前はほぼ終始、「恋に狂い、男を追い詰めて滅ぼす悪女」として振る舞う。一方、終盤、いまわの際の告白で彼女は、「貞操深く慈愛に満ちた、自己献身的な貞女の鑑」へと反転する。毒酒によって死に至る業病をもたらす一方、自らの生き血で病を癒す。「(男の)命を奪う悪女」と「癒し、命を与える女」という二面性。「恋と嫉妬に狂い、我が身と男を滅ぼす悪女」(例えば『娘道成寺』で僧の安珍に愛を拒絶され、蛇に身を変えて焼き殺す清姫)と、「命に代えても夫への貞操を守る、自己献身的な貞女」(例えば、自分に横恋慕する男に夫を殺すよう頼み、就寝中の夫と入れ替わって不貞の代わりに自らの命を捧げる袈裟御前)。古典ではおなじみの、両極端な二つの典型像すなわち「テンプレキャラ」を統合し、貼り合わせて造形したのが「玉手御前」である、と。


従って、古典をどう「現代」に接続し、「現代の問題」として上演するのかにあたり、より重要なのは、整合性の高さでも、古典に詳しくない観客でも楽しめるエンターテインメント性でもない。本作の場合、「玉手御前の両極端の二面性は、(男性の)ファンタジーを貼り合わせた産物に過ぎない」という問題こそ問われるべきである。従って、玉手御前の両親が柱の森を彷徨って「あの子はどこにいったのか」とつぶやき、舞台端の柱を背に玉手御前(の霊魂)が無言で佇むラストシーンは、「親子の情」というエモーショナルなオチに帰着する演出に堕しており、「玉手御前など(実は)いない」という彼女の不在性にこそ言及すべきだった。

だが、「現代の問題として古典を上演することの意義」は、少なくとも、木ノ下歌舞伎がKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで上演した『勧進帳』にはあった(外国人やトランスジェンダーの俳優を起用することで、人種や国籍、セクシャリティなどの差異に基づき排除が正当化される構造をメタレベルで示唆する秀逸な上演だった。リクリエーションによる初演版のアップデートである点も大きい)。「古典」は、時代の要請によってアップデートされていくものであり、アップデートの作業が作品を延命させる。例えば今作の場合、ジェンダーに意識的な演出家ならば、「死と破滅をもたらすファムファタル」/「自己犠牲に徹する聖女」という玉手御前の二面性に対して、どう批評性を加えるだろうか。また、木ノ下歌舞伎の今後の可能性として、「古典」にとって外部の視線である女性や外国人の演出家と組む選択肢も考えられる。ただ女性演出家の場合、男性に比べて数が圧倒的に少ないという問題がある。この事態もまた、「誰の視線からの上演なのか」という問題、「繰り返し語られる『物語』を駆動させる政治性」を問う姿勢を妨げている。

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN 木ノ下歌舞伎『勧進帳』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/02/10(日)(高嶋慈)

上田愛「{De}code 」

会期:2019/02/05~2019/02/10

KUNST ARZT[京都府]

奇妙な軟体動物のような、捻じ曲げられた人体のようなオブジェが台座に載っている。壁にズラリと掛けられたものはお面やマスクを思わせるが、ツノや触覚のように突き出た突起は攻撃性やペニスを連想させる。だが、近づいてよく見ると、綿を詰められ、ぬいぐるみのように柔らかく有機的なフォルムのそれらの表面は、レースやフリル、リボンといった装飾で覆われ、刺繍や愛らしい花柄も見える。全体の色合いも、淡いピンクやベージュ、レッド、パープル、薄いブルー、レモンイエローなどカラフルで華やかだ。上田愛の彫刻作品《Dress code》は、ブラジャーやショーツといった女性用下着を縫い合わせ、綿を詰めて成形して制作されている。



会場風景

元々、大学でジュエリーデザインを学んだ上田は、「装飾」というポイントから「下着」に関心を持つようになったという。他人に「見せる(魅せる)」ことが前提のジュエリーと異なり、下着は通常、不特定多数の他人の目に触れるものではない。だが、ブラジャーやショーツは、下着としての機能に加え、レースやフリル、リボン、刺繍といった装飾性が付加されている。「見せない」「見えない」ものであるにもかかわらず、「見せる」ための装飾が付けられている下着。その曖昧な両義性への関心が、《Dress code》をシリーズとして制作する動機になったという。

私たちは日常生活のさまざまな局面で、社会的要請に従い、あるいはファッションを楽しむために、日々さまざまな衣服をまとい、その都度アイデンティティを形成している。だが、「外皮」としてまとう衣服のさらに内側、「外皮」と自身の肉体との狭間にある中間的なレイヤーである下着もまた、アイデンティティ形成の手段なのではないか。「例えば、喪服を着ていても、セクシーな下着を着けるのは自由」と上田は言う。「見えない」私的な領域だからこそ、ある時はセクシーに、ある時はフリフリのプリンセスに、密かな変身願望を肯定し、皮膚に一番近い存在として内面を支える下着。それは、より複雑かつ微妙な領域においてアイデンティティを可変的に形成/解除する装置であり、ある種の「武器」でもある。上田の作品が、仮面(ペルソナ)や攻撃性を帯びたものとして存在するのは、偶然ではない。



《Dress code No.034》

「(女性用)下着」というと男性は性的な連想を抱きがちであり、男性消費者の欲望を喚起する記号としてグラビアなどで大量に溢れる一方、「女性は性(的なこと)を公に語ってはいけない」という社会的風潮や抑圧から、「下着」は隠すべきものとされ、不可視化されてきた。だが上田は、抑圧され、不可視化されてきた「下着」に、私たちがまだ見たことのない未知の生物のような新しい形を与え、可視化させる。個展タイトルの「{De}code」は、「デコレーション(装飾)」という言葉の残響を内包しながら、「デコード (decode)」つまり「下着」に埋め込まれたさまざまな社会的意味の層の解読と、タブーの解除を指し示しているのだ。

2019/02/10(日)(高嶋慈)

クリスチャン・ボルタンスキー ─ Lifetime

会期:2019/02/09~2019/05/06

国立国際美術館[大阪府]

1960年代後半の初期作品から最新作までを紹介する、国内初の大規模な回顧展。とは言え、年代順に展開を見せる、テーマ毎のグルーピングで区切るといったオーソドックスな構成ではなく、作家自身が「展覧会をひとつの作品として見せる」とチラシなどに明記されているように、会場全体がひとつの巨大なインスタレーションとも言える展示になっている。独立した小部屋に展示された作品もあるが、作品どうしは密に隣接し、ライトの光が別の写真作品の表面に反射し、心臓の鼓動音や風鈴、クジラの鳴き声を模した音響が空間を包み込み、他の作品の領域を浸食する。このように、互いの領域を音や光が干渉、浸食し合う展示構成は、意図的なものだろう。会場入り口には闇に青く輝く「DEPART(出発)」の文字が、出口には赤く輝く「ARRIVEE(到着)」の文字が電球で掲げられ、亡霊たちの蠢く闇の世界をさながら胎内巡りのように歩き回る体験だ。

20世紀半ばの典型的なブルジョワ家庭の家族写真をグリッド状に並べた《D家のアルバム、1939年から1964年まで》。子どもたちのポートレートを複写して引き伸ばし、遺影を思わせるそれらの写真とライトや錆びた金属の箱を祭壇風に組み合わせた《モニュメント》のシリーズ。新聞の死亡告知欄に掲載された顔写真を複写し、壁を覆い尽くすように並べた《174人の死んだスイス人》。同様の顔写真を、錆びた金属箱の表面に貼り付けて大量に並べ、引き取り手のない遺骨や遺品の保管庫を思わせる《死んだスイス人の資料》。大量に吊るされた、あるいは小山のように積み上げられた古着。死神、ドクロ、死の天使、吊られた遺骸を思わせるイメージが浮遊する影絵のシリーズ。磔刑のようなポーズで壁に掲げられたコートは青い電球に縁どられ、その幻想的な光は、遺骸を覆うシーツのように薄布をかけられた女性の顔写真の作品《ヴェロニカ》を包む。この「胎内巡り」で頭によぎるのは、顔貌を「デスマスク」として引き剥がす写真、死体の代替物としての写真や古着、大量死の記録の(不)可能性、遺品保管所、アーカイブという装置(の擬態)、死の舞踏、祭壇、「ヴェロニカ、磔刑像、トリプティック」などキリスト教美術の引用、といったキーワードである。



クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》1986 作家蔵
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Photo © The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner] 無断転載禁止

展覧会初日のトークは開館前に長蛇の列ができ、会場内もかなりの混雑。越後妻有アートトリエンナーレや豊島での制作発表、あるいは自然環境に置かれた風鈴が死者の霊の到来のように音を鳴らす《アニミタス》のシリーズは日本人の死生観と相性がよいからか、ボルタンスキーの人気や知名度の高さがうかがえる。だが、「アジア」の地での回顧展を見て、改めて感じたのは、「ホロコースト」という主題、キリスト教美術と密接に結びついた「死」の表象系、アーカイブやミュージアムといった保管装置の擬態、つまり「ヨーロッパ」の文脈性の強さである。



クリスチャン・ボルタンスキー《保存室(カナダ)》1988 イデッサ・ヘンデルス芸術財団、トロント
[© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Ydessa Hendeles Art Foundation, Toronto, Photo by Robert Keziere] 無断転載禁止

ボルタンスキー作品の本質は、「死者への敬虔な哀悼」を装いつつ、「脱け殻の皮膚」としての古着や「写真=デスマスク」の量的過剰さによって、固有性を奪っていく暴力性にあると筆者は考えている。とりわけ写真の二次使用における固有性の剥奪の「操作」は徹底しており、固有名を消去され、複写された顔写真は輪郭が曖昧に融解し、目鼻は虚ろに空洞化し、あるいは大量に並置されることでグリッドの網のなかに均質化していく。それは、単独かつ固有の「死者」ではなく、常に複数形の「死者たち」なのだ。

だがそれは、「個人の死」を「死者の集合体」へと統合して均していく装置、例えば靖国神社の遊就館に「祭神」として祀られた、壁を覆う大量の戦没者の写真とどう違うのか。もちろん、ボルタンスキーの場合、父がナチスの迫害を受けたユダヤ系という出自も大きく関わっている。だが例えば、日本人作家が「ヒロシマ」の犠牲者のポートレートを用いた作品を制作しても「鎮魂の表現」として(国内では)問題視されないが、他のアジア諸国の作家が「侵略戦争や政治的闘争の犠牲者」のポートレートを作品に使用すれば、「政治的」というレッテルを貼られ、拒絶反応を引き起こすだろう。「写真(ポートレート)」は現実的なコノテーションを含む以上、(被写体の/作家自身の)人種、国籍、宗教といったポリティカルな要素と完全には切り離せない。「ホロコーストの表象」という「遠い事象」として納得するのではなく、「私たち」の(そしてそこに横たわるさまざまな境界線の)問題へとどう引き付け、反転させて考えることが可能なのか。「死者の記憶の追悼」の(演出された)崇高さに浸るのではなく、「展示装置」と政治性、「死(者)」の領有という倫理的な問題など、考えるべき課題を後に残す展示だった。

2019/02/09(土)(高嶋慈)

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イスラエル・ガルバン+YCAM新作ダンス公演『Israel & イスラエル』

会期:2019/02/02~2019/02/03

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

卓越した技術を誇るフラメンコダンサー、振付家のイスラエル・ガルバンと、彼の神髄と言えるサパテアード(足の裏全体、かかと、爪先などでリズムを刻むテクニック)を機械学習したAIが共演するという、異色のダンス公演。ガルバンとYCAMは約2年間かけて共同制作を行なった。まず、観客に手渡すデバイスの振動を通じてサパテアードを触覚的に伝えたり、照明や音響の変化へと拡張する試み。また、ガルバンの全身の動きをモーションキャプチャーで記録し、そのデータを元に「新たな生命体」が踊る映像も制作された。さらに、徳井直生を中心とするクリエイティブスタジオ「Qosmo」が参加。フラメンコシューズに組み込んだセンサーで足の部位やステップの強さを解析し、AIに学習させてサパテアードの生成モデルを作成し、開発したソレノイド(電磁力によって機械的な運動をするデバイス)が床を叩くことで、ガルバンのサパテアードを「再現」した。

冒頭、現われたガルバンは、小石が敷き詰められたスクエアのなかで、複雑かつ高速の華麗なステップを次々と披露していく。足さばきとともに飛び散る小石の音と軌跡が、水面に広がる波紋や水しぶきのように、彼のサパテアードを聴覚的、視覚的に増幅させる。身体の運動のみをシンプルに提示した導入部の後、サパテアードは、会場全体を体感的に包むような重低音や、照明の色やパターンの変化へと拡張される。中盤では、AIが学習したサパテアードをソレノイドが床を叩いて表現し、「分身」あるいは「もうひとりのダンサー」としてガルバンとの「かけ合い」を見せた。終盤、ガルバンは姿を消すが、「無人」となった舞台上では、蠢く細胞の分裂のような映像をバックに、ソレノイドの刻むリズム、その音響的増幅、そしてめくるめく照明の変化が音と光の饗宴を見せる。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

単体で踊る身体の提示から、テクノロジーとの共演を経て、もはや生身の身体が存在しない世界でどこまで「ダンス」を感じられるか。ストーリーは明快で、もちろんガルバンの驚異的な技術も堪能できる。だが、本公演を見る限り、「ガルバンのサパテアード」を「リズム」という音楽的な要素に還元し、音響と光の饗宴として増幅し、スペクタクルとして拡張しただけの印象は拭えない。学習したAIは、人間のダンサーが生み出すパターンよりも複雑かつ多彩なステップを生成できるのか? 模倣を通した学習は「オリジナル」を越えていくのか? AIに「即興」という概念は理解できるのか? 「肉体的疲労や衰え、死」の概念のないAIに「ダンス」の創出は可能なのか? こうした問いの触発には至らず、身体表現とテクノロジーをめぐる問いの深化には繋がらなかった点が惜しまれる。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

むしろ興味深かったのは、上演中/上演後のポストトークにおける、「(女性)通訳者」の置かれた位相(とその反転)である。中盤、YCAMスタッフの大脇理智が登場し、自己紹介を語るシーンがある。エンジニアとしてデバイス開発に携わったこと、ダンサーとしての活動も個人的に行なっていること、ガルバンの舞台を見た印象などだ。彼の言葉は、傍らに立つ通訳者により、英語とスペイン語に変換される。だがその声は、ガルバンが刻むサパテアード(及びその機械的増幅)と、「通訳」を遮って話し続ける大脇の声によって二重、三重にかき消されてしまう(この「自己紹介」は何度も執拗に繰り返される)。



[撮影:守屋友樹 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

一方、ポストトークで彼女は、ガルバンの話すスペイン語を日本語に通訳する。ここでやや珍しく興味深いのは、女性通訳者がガルバンの言葉を伝える際、「私」ではなく「僕」という一人称を用いていたことだ(言い慣れなさの印象と相まったこの奇妙さは、通訳者が男性の場合は特に意識されないだろう)。性差と主体を撹乱させるような一人称の使用は、彼女を、単に他者の言葉を媒介する通訳者としての副次的な立場から、演劇性を帯びた存在へと接近させる。「サブ音声」として文字通り抑圧された状況から、「演劇的なプレーヤー」への接近。ガルバンと対話相手の狭間で、彼女だけがただ一人、別の異なる位相で「発話」しているように見えた。彼女はその一人称の(確信犯的な)使用を通して、他者の言葉のただ中に身を置きながら、その内部において、自らの置かれた位相の転換を密かに図っていたのではないか。公演の本題とは離れたメタな位相で、「通訳、媒介、言語の所有者、一人称とジェンダー、その逸脱的使用と演劇性」についての問いを触発される機会だった。

2019/02/03(日)(高嶋慈)

遠山昇司 フェイクシンポジウム『マジカル・ランドスケープ』 ロームシアター京都

会期:2019/02/02~2019/02/03

京都市北文化会館[京都府]

「フェイクシンポジウム」、つまり「演劇」としてシンポジウムを「上演」する斬新な試み。演出と構成の遠山昇司(映画監督)は、誰かの水曜日の出来事が書かれた手紙を転送、交換する参加型アートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」(2014)のディレクターを務めるなど、舞台や展示のプロデュースも手がけている。「フェイク」と冠された本シンポジウムでは、実際の研究者、作家、編集者らが基調講演やパネリストを務める一方、遠山による複数の秀逸な仕掛けにより、京都をめぐる都市景観論や生活史についての議論としても、「リアル」と「フェイク」の境界を問う試みとしても非常に刺激的なものだった。

会場に入ると、舞台下手には講演台とマイク、中央にはスクリーンが設置されており、いかにも「シンポジウム」然とした設えだ。暗い舞台上に、冒頭、詩的な朗読を行なう女性の声が流れてくる。かつて、目の前に広がる自然を「風景」と呼んでいたこと。霧深い森を抜けて海へ、昇る朝日を誰よりも早く目にする鳥、海辺に打ち上げられたクジラ。彼は弱まる鼓動とともに、地球の反対側で沈む太陽を想像する。「その風景が、私の名前です」と声は告げる。スクリーンには丸い黄色の光が柔らかく投影され、網膜に映る光=視覚の獲得の謂いのようにも、明滅しながら弱まる光は命の鼓動と終焉のようにも見える。静かな導入に続き、開会のアナウンスとともに、スクリーンには「第一部 基調講演」の文字が表示される。だが、ライトに照らされた講演台は無人のまま、姿を見せない「声」だけが響く。2ステージある公演は、初日と2日目で登壇者の顔ぶれが異なり、私が観劇した初日では、基調講演『「京」の輪郭』を惠谷浩子(奈良文化財研究所景観研究室研究員)が行なった。



[撮影:松見拓也]

惠谷の講演は、京都という都市景観の生成を、周囲を山や琵琶湖に囲まれた盆地という自然条件に基づき、「地方(じかた)=生産の場」「町方(まちかた)=消費の場」、そして両者の境界であり橋渡しとなる「エッジ=集積と加工の場」という構造から分析する、クリアなものだった。盆地内の市街地と山間部との境目に位置する「エッジ」の集落のフィールドワークが紹介され、山間部から運ばれた自然物資がそこに集積し、数寄屋文化を支えた北山杉、祇園祭のちまき笹、鞍馬炭など商品として加工され、市内へ運ばれて消費されていたことが示される。市内とは徒歩約2時間の距離で結ばれていた「エッジ」は、京都の文化の「ブランド」を支えていた。また、明治期、岡崎に開発された琵琶湖疏水も、琵琶湖の水を市内に供給する浄水池としての役割に加え、発電所での電気の生産や、疏水の水を使用した近代庭園の誕生など、産業と文化の両面で機能していたことが分かる。さらに、ブラックバスなど外来種の放流で絶滅の瀬戸際にある琵琶湖の魚が、疏水を通ってこれらの庭園の池に生息しており、「エッジは地方の生き物のレフュージア(待避地)」でもある」という指摘も興味深い。



[撮影:松見拓也]

続く「第二部 パネルディスカッション」では、モデレーターを福島幸宏(京都府立図書館)、パネリストを惠谷、遠山、大月ヒロ子(IDEA R LAB代表)、影山裕樹(編集者)、星野裕司(熊本大学准教授)が務める。ここでも登壇者たちは姿を見せず、「声」のみが流れる。ディスカッションでは惠谷の議論を引き継ぎつつ、越境、循環、景観の保存、文化的遺伝子、ランドスケープとそれを支えているシステム、平面上の横移動/地層を剥いでいく縦の軸、「エッジ」の形成がセンターを明確化するという反転、「エッジ」の持つ曖昧さや弱い景観をどう読み解くか、といった多彩なトピックスが提示された。ここで興味深いのは、スクリーンに(一見無関係に見える)写真のスライドショーが淡々と投影される仕掛けだ。それらの写真は、京都市内や近郊と思われる路上や建築、寺社、段々畑、水辺、お盆の光景などのスナップなのだが、姿の見えないパネリストたちの「声」が響き続けるなか、もうひとつの「声」として併走し、雄弁に語り始める。あるいは、暗闇で語り続ける「声」が、自然条件と人為的営みが重層的に作用した「風景」の表層を、視線を貫通させて見るように要請し、意味の複層を剥いで読み取る視線がじわじわと醸成されてくる。スライドショーには、ガレキの山、原爆ドーム、海軍兵学校のあった江田島に残る砲塔、歴史記述について問題提起を行なうモニュメントなどが挿入され、「京都の景観」に留まらず、「景観と政治性」の複雑な問題へと思索を誘う。

そして「第三部 マジカル・ランドスケープ」では、ピアノの伴奏にのせ、豊かな自然を歌詞に盛り込んだ校歌が聴こえてくる。スクリーンの上昇とともに、背後を覆っていた幕が開き始める。すると、ピアノの弾き語りをする女性と、テーブルに着席した「パネリスト」たちの姿が幕の向こうに現われた。「事前録音を流しているのか」「覆面ではないか」という疑問がよぎる講演やディスカッションは、幕を隔てて、リアルタイムで進行していたのだ。素朴な調べ、崇高感さえ漂う照明の光線と相まって、奇妙な高揚感に包まれる時間が流れた。



[撮影:松見拓也]

ラストで初めて「幕が上がる」という仕掛け。「幕の向こう側(=虚構の世界)にリアルがあった」という反転。「フェイク」と「リアル」を何重にも転倒させる秀逸な仕掛けだ。この仕掛けは、「フェイクとリアルの境界はどこにあるのか」「フェイクであること(またはリアルと感じさせること)を担保するのは何か」という問いを次々に喚起させる。また、あえて「フェイク」と冠し、「シンポジウム」を「演劇」と見なすことで、「シンポジウムの形式の異化と拡張」という両側面の効果がある。1)「シンポジウム」という学術的なフレームの異化。進行台本の用意、「司会」と各パネリストに期待される「役割」の割り振りや「キャラ付け」(例えば盛り上げるための「反論者」)は、演劇的なフレームへと接近する。2)詩の朗読や映像の投影、音響や照明効果など、「演劇」の枠組みを使うことで、「シンポジウムで語られる話題」を感覚的・身体的に拡張し、想像的な余白を広げることができる。「レクチャーパフォーマンス」は舞台芸術の一形式として定着しつつあるが、その多人数バージョンとも言える「フェイクシンポジウム」には、アカデミックな場の拡張としても、演劇形式の更新としても、さらなる可能性が潜んでいるのではないか。そう思わせる可能性と刺激に満ちた公演だった。

2019/02/02(土)(高嶋慈)

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