2020年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

インポッシブル・アーキテクチャー ─建築家たちの夢

会期:2020/01/07~2020/03/15

国立国際美術館[大阪府]

いわゆる「建築展」が抱えるジレンマや限界は、美術作品と異なり、「実物」の建築そのものを会場に持ってきて展示できないため、必然的に「図面」「模型」「写真や映像」すなわち建築物に付随する周縁部や資料で補うしかない、という点にある。これに対して本展は、20世紀以降の国内外における「未完のアンビルト建築」に焦点を当てることで、「建築展につきもののジレンマや限界」を逆手にとり、解消する試みでもある。

ロシア・アヴァンギャルドのマレーヴィチやタトリン《第3インターナショナル記念塔》(1919-20)で幕を開け、その遺伝子を遠く受け継ぐザハ・ハディド(彼女の卒業制作は《マレーヴィチ・テクトニク》[1976-77])へ至る本展において、プランが未完に終わった理由はさまざまだ。革新性ゆえコンペで落選したプラン(ドイツ初の高層建築を目指してガラスの摩天楼を提案したミース・ファン・デル・ローエ)。コンペ自体への批評性を盛り込んだ挑発的な野心案(「日本趣味を基調とする東洋式」という条件を拒絶し、バウハウスやル・コルビュジエから学んだインターナショナル・スタイルを提案した前川國男の《東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案》[1931]や、4本の巨大な柱から8層のフロアを吊り下げた仏塔のような巨大建造物を提案した村田豊の《ポンピドゥー・センター競技設計案》[1971]。両者はベクトルこそ相反するが、「建築表象による文化的ヘゲモニーの闘争」という側面を合わせもつ)。

さらには、未来的な都市計画としての壮大な構想(連結可能なユニットによる増減可能な構造体として海上都市を描く黒川紀章の《東京計画1961―Helix計画》や菊竹清訓の《海上都市1963》などのメタボリズム。居住空間のユニットをインフラと交通を担うケーブルで連結するヨナ・フリードマンの《可動建築/空中都市》[1956-])。純粋な思考実験に近いもの(牧歌的な風景に航空母艦や巨大なボルトを組み合わせた合成写真を、新たな都市のヴィジョンとして1950年代末~60年代に提示したハンス・ホライン、60年代以降に雑誌上にドローイングやダイヤグラムを発表したアーキグラムやスーパースタジオ)。解体/構築の力学や線の運動を可視化したドローイング(コンスタン[コンスタン・ニーヴェンホイス]による《ニュー・バビロン》の素描[1956-74]、ダニエル・リベスキンドの《マイクロメガス:終末空間の建築》[1979])。



会場風景


また、1933-36年に日本に滞在するも、日本での建築設計例がほとんどないブルーノ・タウトが、現・近鉄(近畿日本鉄道株式会社)から依頼を受け、生駒山頂の遊園施設にホテルと住宅団地を追加する小都市計画を構想していたことを今回初めて知った。タウトが描いた「遠望図」を見ると、ヨーロッパの城塞都市のような景観が山頂から広がっており、もし実現していたら、筆者の住む大阪市内から見える生駒山の風景が今とは異なっていただろうと想像され、興味深い。

未完=潜在的な可能性と捉えれば、そこには現状に対する批評性が胚胎する。例えば、上述のフリードマンは《可動建築》と《空中都市》の構想を今日的な視点から見直し、大幅に修正した《バイオスフィア:ザ・グローバル・インフラストラクチャー》(2017)を発表している。ソーラー・パネルなどの技術的進化によってエネルギーや水の個人による管理が可能になることで、インフラを担う中空の架構が不要になり、ネットによるコミュニケーションや在宅勤務が充実すれば、都市に住む必要性もなくなる。こうした思考において、クラウド化やノマド性を拡張していくことで、「土地の所有」の概念や「国境」「国家」のラディカルな解体へと繋がっていく。


本展のほぼラストを締めくくるのは、ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JVの《新国立競技場》(2013-15)である。妥当かつ必然的な配置だが、ザハの紹介がこのプランのみであり、「新国立競技場案をめぐるスキャンダル」に収束してしまう点は残念に感じた。実現されなかったほかのプランの展示もあれば、よりザハの思考やその革新性が伝わったのではないだろうか。また、同様に、行政機構との政治的・経済的事情で決定後に白紙撤回となった近年の例として、SANAAによる滋賀県立近代美術館の改修・新棟建設計画にも言及があれば、「美術館と建築」というパースペクティブが浮上し、「美術館で建築展を開催する意義」がより際立っただろう。



会場風景


アンビルト建築はまた、「建築の不在とともに何が不可視化されているのか」という、建築と政治(性)をめぐる問いをネガのように浮かび上がらせる。例えば、1942年の「大東亜建設記念営造計画」のコンペで一等を獲得した、丹下健三の《大東亜建設忠霊神域計画》は、富士山麓に建設した神殿と皇居を「大東亜道路・鉄道」で結ぶことで、強い象徴的存在へと視線が向かうモニュメンタルな空間構成を壮大な都市計画レベルでつくり上げるものだが、この未完のプランの縮小版が「原爆ドーム」へと視線を集約させる広島平和記念公園の設計であることは、すでに指摘されている。あるいは、宮本佳明の《福島第一原発神社》(2012)は、1万年以上にわたって高レベル放射性廃棄物を安全に保管するために、原子炉建屋に象徴的なシンボルとして和風屋根を載せ、「原子炉を鎮める」神社として祀るという構想である。こうした例を含めて考えることで、本展の射程は、ユートピア的なヴィジョンや観念的な思考実験を超えて、よりアクチュアルに深まるのではないだろうか。

関連レビュー

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2020/01/07(火)(高嶋慈)

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梅田哲也 うたの起源

会期:2019/11/02~2020/01/13

福岡市美術館[福岡県]

サウンド、光、重力といった物理現象を取り込み、場所の特性とともに成立させるインスタレーションと、パフォーマンス作品を手がける梅田哲也の、美術館での初個展。看視スタッフの誘導によって鑑賞者が展示可動壁を押し、奥のホワイトキューブ空間で起こる「何か」を体験する作品《うたの起源》のほか、水の重量の移動によって上昇/下降する物体、明滅する光を惑星の回転のように壁に投げかけるライトの運動、回転する三つの拡声器から流れる人声や楽器の音が混じり合うハーモニックな音響など、さまざまな作品が美術館内のあちこちに仕掛けられている。メイン空間のほか、コレクション展示室、入口ロビーと階段、普段は入れない倉庫など複数の空間に作品が設置されているため、「館内ツアー」の側面ももつ。



[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 提供:福岡市美術館]


このツアー的な要素を「ギャラリーツアーを模したパフォーマンス」として昇華した公演が、年末の1日限りで開催された。出演者は、梅田自身に加え、ダンサー・振付家のハイネ・アヴダルと篠崎由紀子、捩子ぴじんら。美術館の外→梅田作品の点在する展示室内→バックヤードという三層構造でツアーは構成されている。

観客はまず、ガイド係の看視員に導かれ、美術館の「外側」を歩く。かつては博多湾の海底だったという説明を聞きながら隣接する庭を抜けて、裏側の搬入口へ。パフォーマーの存在感は、偶然居合わせた通行人と見紛うくらいのささやかさだ。搬入用のエレベーターに乗って館内に戻り、ガラス張りの通路を進むと、「樹のあいだに赤い実が見えますか」とガイドに問いかけられる。ガラス越しに何かを凝視する男が佇む。角度によって現われたり見えなくなったりする「赤い実」は、ガラスに反映した館内の赤いライトだ。コレクション展示室内に入ると、再び看視員のガイドにより、ダリや田中敦子、アニッシュ・カプーアの作品の解説が始まる。だが少し離れたところでは、3人の男女が謎めいた儀式風の所作を繰り返している。梅田作品を通過したあとは、階段を降りてバックヤード空間へ。機械空調室の重い扉を開け、暗闇をライトで探るパフォーマー。機械のたてるノイズ、内臓のように壁を這う太いチューブ、暗闇に明滅する無数の赤い光。天井板を剥がした開口部からは、何かが動く不可解な物音が響く。ドアのない狭い空間に誘導されると、突然明かりが消え、暗闇のなかで一瞬のハミングに包まれる。古美術の展示室で薬師如来像の解説を聞き、ピアノの爪弾きが聞こえるホールを通り抜け、入口ロビーに戻ったときには、胎内巡りを終えて「日常」に帰還したような感覚に包まれていた。



[撮影:山中慎太郎(Qsyum!) 提供:福岡市美術館]


普段は表から見えない「バックヤード」をあえて見せる。とともに、看視員など「裏方スタッフ」を「パフォーマー」として作品の要素に取り込む。内/外の空間を裏返し、知覚を研ぎ澄ませるよう促し、非日常を通り抜けて日常へと回帰する感覚を味わわせる。その意味で本公演は、劇場空間の機材や裏方スタッフの「運動」そのものを舞台上で見せながら非日常的なイリュージョンの旅を体験させた舞台作品『インターンシップ』の、「美術館バージョン」と言える。


公式サイト:https://umeda.exhb.jp/#event

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2019/12/27(金)(高嶋慈)

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村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』

会期:2019/12/18~2019/12/19

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「サンプル」主宰の劇作家・演出家の松井周と小説家の村田沙耶香が共同で原案を務め、それぞれが演劇と小説で発表するプロジェクト「inseparable」。共同体、家族、生殖、性、高度医療、倫理、変態といったテーマの共通性をもつ2人のコラボレーションだ。舞台版では、現代日本社会の縮図のような架空の島「千久世島」を舞台に、温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、人間が遺伝子操作によってイルカと融合するポストヒューマン的な近未来と、古事記の「国産みの神話」を元ネタとする神話的イメージとが交錯する、ぶっ飛んだ世界観が展開された。



東京公演より [© 引地信彦]


舞台となる近未来の日本は、遺伝子医療が高度に発達し、生殖が国家の管理下におかれた、徹底した管理社会として描かれる。体内の遺伝子を改変し、身体機能の強化や疾患治療、アンチエイジングを行なう「ゲノム操作」が普及し、産まれる子どもについても、ゲノムを編集された「カスタム」か「ナチュラル」かを選択できる(ただし課税率が異なる)。だが子どもをもつには、国家による「生殖免許」を取得する必要があり、生殖を目的としないセックスは「野良交尾」として「リビドー防止法」によって禁止されている。また、ゲノム操作に必要な「レアゲノム」の配分は、国民に義務化された成績表である「スコア」の点数で決められる。「東京ではみんな少しでもスコアを稼ごうと、我さきに年寄りを担いで走っている」と揶揄されるほど、エゴと配慮が逆転した社会だ。

そんななか、外界から隔絶した孤島「千久世島」では、世界的に希少なレアゲノムが発見され、ゲノム採掘が島の新たな産業となる。だが島の経済は、東京の企業の資本に依存/搾取され、劣悪な労働条件下にある山中での発掘作業は海外からの技能実習生が担い、ゲノムが出る山地に住む「山のもん」と資源を持たない「海のもん」という共同体間の対立がより浮き彫りになっていく。

島では、レアゲノムの密猟を防ぐため、ゲノムの採掘と供給を独占する東京の企業から派遣された指導員の下、4名の男女が監視を務めている。そのひとり、秀明は、2年前に島の奇祭「ポーポー祭」で弟の宗男を亡くし、弟の昔の恋人と「夫婦」の免許を取得している。だが、死んだはずの弟が戻ってきた出来事を境に、現代社会批判の要素が強かったドラマは加速度的に混迷を深めていく。

「カラオケルームのような暗い部屋で、モニター越しに現世を見ていた」と臨死体験を語る宗男。その暗い空間に、プレッピーな学生スタイルの兄の秀明が現われ、「卒業試験のためのプレゼン」と称して、荒唐無稽な「国産みの神話」を紙芝居風に説明し始める。その昔、「ポーポー神」が混沌の塊のような黒い球体から自らの分身をつくった。この神は下半身に「とんがった部分とくぼんだ部分」を持つ両性具有だった。だが、分身には肛門が無かったので、糞詰まりで膨張して苦しんだ。そこで神は「とんがった部分」を尻に刺して口まで貫き、消化管をつくった。肛門から流れ出た水が海となり、最初の子ども「イルコ」(ヒルコのもじり)は海へ流され、そのあと、突起を突き刺す度に、日本列島、動植物、人間が産まれたのだという。こうしてできた「この世界」とは、実は秀明が手にする「カプセルの中で培養されるゼリー状の物体」であり、彼が「神様の世界の卒業試験」をパスできるかどうかは、その培養物の存続/崩壊にかかっているのだ。もしパスできなかったら、「就職できず、結婚もできず、親の資産頼み」とぼやく秀明の姿は、「管理社会を入れ子状に制御しているメタ世界もまた厳然たる管理社会である」という皮肉を示す。

崩壊が進む「この世」では、地球温暖化による気候変動と海面上昇を生き延びるため、遺伝子操作によるイルカとの融合化が進み、動物/人間の境界が融解する。「イルカのゲノムを入れた」秀明の妻の背中には背びれが生えて変態していく。イルカ語が公用語になり、イルカ相手の性風俗が島の新たな産業になり、イルカと人間の交尾の常態化が暗示される。一方、一度死んで「この世」と「あちら」を行き来できる宗男は、「この世界の糞詰まりから人類を救う」ため、ボイスの「社会彫刻」をもじった「ソーシャル・エネマ(社会浣腸)」を提唱する。そこには、高度遺伝子医療が進展して「自然死」がなくなった結果、循環が停滞した糞詰まり状態になり、逆説的に滅びに向かうという皮肉が示唆される。

また宗男の死の原因は、祭の高揚感のなかで「野良交尾」した際、崖から落下したことも語られる。崖を転がり落ちながらも「生の実感」に溢れ、「自分たちはもっと動物に近いはず」と言う彼は、遺伝子操作や国家による性と生殖のコントロールの枠外の象徴だろう。だがゾンビのような身体を引きずる彼は「死ぬことができない」ため、島民たちに自分の体を食べるように頼む。「今年の祭の代わりに」島民たちが彼の腹から内臓を引きずり出して食べるラストシーンは、共同体存続のための「祭」「儀式」の虚構性とともに、グロテスクながらもその原初的な美を示していた。ポストヒューマン的な新人類にとって「前時代」の象徴である彼は、新たな創世記の「神」として昇華/消化されたのだ。



東京公演より [© 引地信彦]


タイトルの「変半身(かわりみ)」には、音読が示唆する「下半身」も含め、複数の意味が交錯する。遺伝子操作による異種混淆。人間/動物、人間/神の融合。両性具有。そして、自らの「半身」への思慕。弟の宗男は、同性で兄である秀明への思慕を押し殺して生きてきたことを告白する(じつは宗男は、「あちらの世界」の秀明が自らの細胞から培養し、「この世」に飛ばした半身だったことが明かされる)。「下半身」つまり性の欲望が徹底して抑圧・管理される社会と、ヘテロセクシャルの規範から逸脱する、生殖に結びつかない性。国産みさえ、イザナギとイザナミという「男女」の神ではなく、両性具有神と性別不明の分身とが浣腸=肛門性交を行なうことで成立したのだ。現代日本社会批判、ディストピア的な近未来像、土着的な神話世界、性(生)と倫理への問いを情報過多なほど混ぜ合わせた怪作だが、「最愛の人に看取られて死ぬ」というラストは、救いととるか、エモーショナルに回収したオチととるかで、評価が分かれるだろう。

公式サイト:
http://samplenet.info/inseparable/ [演劇版]
https://www.chikumashobo.co.jp/special/kawarimi/ [書籍版]


関連レビュー

村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年1月15日号)

2019/12/19(木)(高嶋慈)

飛鳥アートヴィレッジ2019

会期:2019/11/23~2019/12/15

飛鳥坐神社、奈良県立万葉文化館、南都明日香ふれあいセンター 犬養万葉記念館[奈良県]

公募で選出された作家が、奈良県明日香村でのアーティスト・イン・レジデンスを経て成果発表を行なう「飛鳥アートヴィレッジ」。6回目となる今回は、2ヵ月以上という例年より長い滞在制作の時間が充てられた。3名の作家の展示からは、明日香村の風景やモノと向き合いながらそれぞれの思考を深めていった、充実した過程を見ることができた。

佃七緒は、飛鳥坐神社の境内に、米の脱穀に使われていた古い農機具、竹や藁、古代米などを組み合わせ、架空の農耕の神事を思わせるインスタレーションをつくり上げた。古代米が奉納された祭壇のような装置に付いたハンドルを回すと、ガラガラという音とかすかな風が起こる。神社での参拝の行為を、「道具の交代とともに消えていく動作」に置き換え、場所や道具のもつ機能と人の行為の関係性に光を当てている。装置の背後には、竹や藁など自然の素材でできた不思議な造形物が、白布とともに吊られている。民具や供物を思わせる一方、ひらがなの形にも見え、四角い枠は原稿用紙のマス目を思わせ、解読できない古代の文字で書かれた呪文のようだ。佃によれば、農業に関する土地の言葉が入っており、飛鳥が万葉仮名の発祥の地であることから、「かな」をモチーフに使ったという。



佃七緒《てとよふむはゆなたさかあ》 [Photo : Yuji Yamada]

野原万里絵は、ユーモラスで謎めいた有機的な黒い形象と、それを計測・分割するような赤い直線を組み合わせた平面作品を、明日香村の風景が見渡せる奈良県立万葉文化館のガラス壁に展示した。野原の関心を引いたのは、子孫繁栄、五穀豊穣、悪疫退散を願って飛鳥川に毎年掛け替えられる「男綱」づくりの作業だったという。一本の藁という「線」を寄り合わせて「面」を形づくり、立体物をつくっていく過程にデッサンとの共通性を見出したことが、制作の出発点となった。野原は、メインの大型作品とともに、そこに至るまでの複数のプロセス──デッサンによる形の抽出、アウトラインの正確なトレース、原寸大の「型」、さらに拡大した「型」──も併せて展示した。デッサンの対象となったのは、家屋のラインや田んぼに残る黒い焼け跡など、「具体的に何を表わすのかは不明だが、形として認識できるもの」、具体的な風景や事物から抽出されたゲシュタルトである。野原の関心は一貫して、「絵を描くための道具」として雲形定規のような「定規」やステンシルのような「型紙」をつくることにある。それは、野原にとって初めて触れる土地や事物に接近するための方法であるとともに、「形態の認識」「二次元化という圧縮作用」「定規や型=描画のための共有可能なツールの開発」をめぐる造形的な実験でもある。



野原万里絵《拡張の方法~無題の形~》 [Photo : Yuji Yamada]

一方、徳本萌子は、「ミシンで木の葉を縫う」行為を通して、明日香村の風景への介入を試みている。展示会場の中庭に立つ木の葉は、霜で銀色に光るように見えるが、じつは細い銀の糸で葉脈をなぞるように縫われている。「朽ちていく存在や自然のなかの一瞬の美を、縫う行為を通して留めたい」気持ちが込められた繊細な作品であり、アンディー・ゴールズワージーの作品を想起させる。また、寺跡の草原を舞台に、村の住民がミシンを持ち寄って参加し、巨大な「葉っぱの輪」をつくり上げた作品も発表された。地元の素材、幅広い層の住民との協同、ミシンの輪=「人の輪」の連想といった点だけを見ると「レジデンス成果作品」の教科書的模範解答に映るが、徳本の試みは、それだけにとどまらない。「手芸」すなわち女性性の領域と結びつけられやすい「手縫い」ではなく、「ミシン」がもつ工業性や機械的な匿名性。また、「家庭用ミシン」を「家の外」の公共的な空間へ持ち出す越境的な行為は、ジェンダーの文脈における批評性を合わせもつ。



徳本萌子《ミシンで輪になり、葉を繋ぐ。葉っぱのロープで、土地を囲む。》公開制作風景/映像撮影:矢木奏 [Photo : Koji Sawa]

このように、各作家が充実した発表を行なうことができた背景には、滞在制作期間の長さに加え、制作場所の好環境も大きく影響していたと思われる。廃校になった幼稚園(現在は村の公民館として活用)の建物が制作場所として提供され、広い空間で制作に集中することができた。その結果、制作場所の確保を必要とする造形タイプの作家がじっくり制作に取り組めたのではないか。例えば、徳本は、「葉っぱの輪」の作品は過去にも制作しているが、一般の参加者を募っての屋外での大がかりな制作は、今回初めて実現できたという。このように、作家にとってはステップアップにつながる機会となり、明日香村にとっては単に消費されない関係が積み重なれば、「質の高い展示が実現できる/見られる」ことが作家/観客双方にとって強い魅力になり、「飛鳥アートヴィレッジ」自体の意義や評価も高まっていくだろう。

2019/12/15(日)(高嶋慈)

shelf『AN UND AUS | つく、きえる』

会期:2019/12/12~2019/12/15

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

『AN UND AUS | つく、きえる』は、ドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒが2013年に新国立劇場の委嘱を受け、東日本大震災と福島第一原発事故を取材して書き下ろした作品である。とはいえ、震災や原発を直接的に指し示す言葉も固有名詞も登場せず(唯一の例外は「いわき」)、抽象度が高く、詩的なイメージと寓話性に満ちている。

登場人物は、それぞれが不倫関係にある3組の夫婦、彼らの不倫現場である海辺のホテルに勤務する「眼鏡をかけた若者」、そして彼の恋人である「自転車を持っている娘」の8名である。A氏とZ夫人、Y氏とA夫人、Z氏とY夫人は決まって月曜日に、海辺のホテルで情事を重ねる。ホテルに勤務する若者の恋人は、湾岸警備の仕事のため高台を離れることができず、2人は携帯電話のSMSで連絡を取り合っている。


上田公演より[撮影:安徳希仁]


だがある月曜日、「明かりが消えて、またついた」あと、彼らは自分自身の身体がすっかり別のものに変容してしまったことに気づく。「頭が二つになった」と言うZ夫人、「口がなくなった」A氏。身体が重くなり「石になった」A夫人、彼女を魅了する魅惑的な肉体を持っていたが「心臓が燃え上がって止まらなくなった」Y氏。「黒い雨が降ったあと、翅が生えて蛾になった」Y夫人、「死んだ魚になった」Z氏。これらのメタモルフォーゼと状況説明が、自分自身を客観的に観察・報告するような第三者的な語りにより、独白の連鎖として連なっていく。「窓の外に魚が見える」という台詞は、海辺のホテルが水の底に沈んだことを暗示する。だがそれは、メタファーに変換された現実ではない。起こった出来事が理性的な理解の範疇をはるかに凌駕してしまっているため、リテラルに描写しようとする行為はメタファーとして誤変換され、あるいは事実の過酷さゆえにメタファーとしてしか語りえず、彼らはみな、「自分にとってはそう感じられる」切実さと理解されなさの狭間で引き裂かれながらしゃべり続けるのだ(「サメだ」「BMWよ」)。

この「同じ出来事を共時的に経験しつつ、わかり合えない」意思疎通の困難さは、背後の壁に投影されるト書きによって補強される。自身に起こった身体的変容について語ろうとしつつ、彼らは「言うのをためらう」「どう表現したらよいのかわからない」「理解してもらえないと思っている」葛藤を抱えており、しかし不倫相手の目には「いつもと同じ」に映るのだ。

彼らのパラレルな共時性と交わらない孤絶は、今回のshelfの矢野靖人による演出では、「横一列に並んだ椅子の上に俳優を配置する」という操作によって、端的に提示されていた。俳優たちは、あてがわれた椅子の上に縛り付けられ、自由に移動できない。モノローグの内容をなぞるような/逸脱するような身振りの傍らでは、彫像のように凝固した者、ゆっくりとポーズを変えていく者、語る声に呼応したかのように動き出す者たちが、緊張感に満ちた運動の磁場を作り出すが、彼らの視線はけっして交差することはない。



上田公演より[撮影:安徳希仁]



そして、椅子の足元に、「脱ぎ散らかされた靴」が転がったままであることに注意しよう。椅子の上で身じろぎする俳優たちは、裸足を宙に浮かせており、「床(現実)から遊離した」彼らの身体は、それが死者のものであることを示唆する。彼らが唯一「移動」するのは、「揺れたときの避難」の再現場面である。互いにぶつかり合いながら、狭い座面の上を綱渡りのように歩く危うさは、それが生と死の境界線上の歩行であることを想起させる。この「避難」を挟んだ後半では、男女の並びが入れ変わり、「本来の正しいカップル」が復元され、以前の平和な日常生活の回想が語られる。だが、足元に転がる「靴」は以前の並びのままであるため、齟齬をきたす。秩序の回復への希求が示されつつ、「完全な回復」ではないことを暗黙裡に告げる仕掛けだ。



上田公演より[撮影:安徳希仁]


Y氏が語る「燃え上がる心臓」は原発炉心のメルトダウンを、Y夫人が語る「黒い雨による蛾への変態」は放射性物質による身体の奇形化を、A夫人が語る「石化」やA氏が語る「口の消滅」は感情を喪失した鬱状態や失語症を、Z氏の語る「死んだ魚」は津波に飲まれたことを指すのだろう。椅子の上の彼ら=死者を挟む構図で両端に「立つ」若者と娘は「生存者」と思われるが、「身体が透明になって空を飛んでいく」と語る若者は、空席だった七つめの椅子の上に靴を脱いで上がり、死者への仲間入りを暗示する。ここで最後に、「自転車の娘」の異質性が、行為と語りの双方において露わとなる。無造作に転がった靴を丁寧に揃える彼女の行為は、持ち主が不在の抜け殻となった靴=遺体の埋葬の担い手である。また彼女は、若者をクジラに、自身をミツバチに例えた神話的な壮大な物語の語り手となる。高台へ向かおうと空を飛んだクジラは、太陽に焼き尽くされて海に落ち、一方、クジラに会うために月に乗って海へ潜ったミツバチは、海中で月に押し潰されてしまう。「語ること」がつねに出来事から遅れて生起する事後性とともにあること、それは同時に死者の弔いでもあること、そして「物語」の形式でしか語りえない出来事があること、それは「演劇」の存在基盤でもあること。メタモルフォーゼ、メタファー、そしてメタ批評。本作が単に「震災と原発事故を題材にした作品」であることを超えて、「語ること」そのものについての物語であることを照射する、秀逸な上演だった。

2019/12/14(土)(高嶋慈)

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