2021年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

発行所:大福書林

発行日:2020/1/15

本書は、1990年代に台頭した若い女性写真家を中心に、「写真ブーム」を引き起こした潮流──写真評論家の飯沢耕太郎が「女の子写真」と名付けた潮流──を対象とし、代表的写真家のひとりである長島有里枝が、性差を自明なものとするカテゴリー化とそれが内包するジェンダーの不均衡な権力構造の再生産について、徹底した批判的検証を加えるものである。長島は武蔵大学大学院人文科学研究科社会学専攻に社会人枠で4年間通い、修士論文に加筆修正したものが本書である。

章立ては主に時系列順で構成され、「女の子写真」のパイオニア的存在とされる長島の1993年のデビュー、95年のヒロミックス登場を経て、90年代後半にかけて「突然」ブームが出現したのではなく、その「前史」にあたる90年代初頭に、若手女性写真家の台頭がすでに見られたことを掘り起こす作業から始まる。具体的には、1990年と91年に、初めて2年連続で女性写真家が木村伊兵衛写真賞受賞を果たしたことだ。長島は、「ブーム」を時代的な連続性の下で捉え直す視座に立ちつつ、受賞の選評、雑誌や新聞の(大半が男性による)言説を検証し、露骨なジェンダーバイアスや性差別的な眼差しの偏向、論理的破綻を暴いていく。

男性論客による「女の子写真」の言説に対する批判は、ヒロミックスについての言説を分析した4章が中核となる。そこでは、ヒロミックス特集を組んだ『スタジオ・ボイス』1996年3月号の扉に掲げられたマニフェスト「僕らはヒロミックスが好きだ。」がきわめて象徴的なように、「僕ら」=異性愛の男性の視点から、自らの欲望に奉仕するものとして一方的に語り、言説によって飼い慣らそうとする植民地的暴力が糾弾される。飯沢の論調に顕著な「自己中心的」「軽やか」「技術的な未熟さ」といった語り口は、一方でそれを「男性写真家にはない魅力」として称賛しつつ、実質的にはホモソーシャルな連帯とその背後にあるミソジニーの強化にすぎない。また、「女の子写真=技術的未熟さ」の前提とされる「コンパクトカメラなど機材の簡易軽量化」「カメラ機能付き携帯電話の普及」といった言説にも、長島は検証を加える。例えば、長島自身はデビュー当時から一眼レフカメラを使用しており、アンソロジー写真集『シャッター&ラヴ Girls are dancin’ on in Tokyo』(INFAS、1996)に紹介された写真家16名のうちコンパクトカメラで撮影した作品を掲載しているのは2、3名にすぎないこと、また若手写真家登場のピークが97、8年であるのに対し、「携帯電話・PHSの普及率が人口の50%を超えたのは2000年末」という総務省のデータを対置させる。

「未熟で傷つきやすく、(機械にも)弱い『女の子』は、安全で魅力的な庇護の対象であり、支配・所有が可能である」。男性論客たちの言葉遣いの端々には、性差に加え年齢差がはらむ権力関係の隠蔽、自己防衛、覇権争い、父権的構造が、巧妙に埋め込まれている。それらは(恐らく)無自覚だからこそ、より深刻である。またその最大の弊害は、女性写真家の表現が同世代の多くの女性の共感を呼び、「自分にもできる」というエンパワーメントを与えた面を取りこぼしてしまうことにある。

本書を通して長島は、ジェンダー・スタディーズ、とりわけジュディス・バトラーを参照し、身体的性差を唯一の基準とする二元的なジェンダー区分の自明さに疑義を呈する立場から、「女の子写真」というカテゴリー化の自明性と飯沢が論拠とする「女性原理」を切り崩していく。その先に賭けられているのは、「女の子写真」として不当に他者化・周縁化された語りを主体的にどう取り戻すかという企てだ。長島は、同時代的潮流として第三波フェミニズムに着目し、「ガーリーフォト」として記述し直すことを試みている。

本書の問題提起の射程は、90年代日本における女性写真家をめぐる言説だけにとどまらない。それは、写真界のみならず日本社会の男性中心主義が、「若い女性」をいかに抑圧/消費しているかの証左であり、「表現/語りの主体とジェンダー」という広範な問い、とりわけ「強固な二元論的性差を無批判に受け入れて自明の根拠とする語りは、表現されたものの解釈をいかに狭め、歪め、見損ね、見落としてしまうか」を冷静に告発している。

2020/04/24(金)(高嶋慈)

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』

会期:2020/04/19~2020/04/25

YouTube

離れた土地で暮らす人々の、ビデオ電話でのコミュニケーションを描く連作短編通話劇シリーズ「窓辺」をロロが開始した。出演俳優は実際にZoomを使って会話劇ならぬ「通話劇」を演じ、記録映像ではなくYouTube上で生配信される。第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は、3日間で計6ステージが上演=配信された。

スマホを手に、「オンライン飲み会」をする30代の男性2人が登場人物。それぞれ地元の仙台と東京で離れて暮らす高校時代の同級生だが、互いに想いを寄せ合う関係性が次第に明らかになっていく。それは、離れて会えないからこそ貴重で愛おしく、言葉にすると脆く壊れてしまいそうな、繊細な感触だ。「どんなに手を伸ばしても届かない相手への、一途で切ない想い」は、ロロが得意として描いてきたが、本作では、「ひび割れたスマホの液晶画面越しに、傷の付いた(ように見える)相手の頬に触れる」というやり取りが効いていた。それは、「修復不可能な亀裂の入った日常」の比喩であるとともに、「Zoomを用いて演じる」設定の消化と物語の消費を超えて、これが「演劇」として成立することの担保としても機能していた。「ひびの入ったスマホで相手の顔を見ながら会話している」設定だが、当然、観客が見ている画面には、その「ひび=傷」は映らない。だがそこにこそ、演劇的想像力の駆動する余白が生まれる。

画面の向こうの相手に繋がろうと、『E.T.』を真似て液晶画面に人指し指を付けて言う「ともだち」から、「友達、パートナー、恋人……。どんな関係でもお互いが納得していればそれでいい」という台詞への繋ぎ方や、冒頭で歌われた鼻歌が「架空の魔法少女アニメの主題歌」として劇中で反復され、「テレポーテーション 窓を抜けて 瞬間で手をつなぐ」という歌詞のメタ性とともに回帰する構造など、20分という短編だが、よく練られていた。

また、「スマホでZoomを介した会話」という本作の設定および実際の使用は、「視聴デバイスによって、観劇体験が左右される」という面に気づかせる(本作の場合、PCやiPadよりも、スマホ視聴の方がより臨場感や親密さが高いだろう)。ロロは今後、5月中旬に第2話、6月上旬に第3話の配信を予定している。シリーズを通して、Zoom演劇の面白さや可能性がどう開拓されていくのか、楽しみに待ちたい。

公式サイト: https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5?fbclid=IwAR3I-4YxVu_p_HHztKIL88VVzmqypEnasPmhVbYu5hgHaDxX9UXlFJFll0A

関連レビュー

ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年05月15日号)

2020/04/22(水)(高嶋慈)

劇団テレワーク:第0回公演 『ZOOM婚活パーティー』と「Zoom演劇」

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舞台公演の延期・中止が相次ぐなか、既存のカンパニー/新たな活動形態として立ち上げた新規団体を問わず、「Web会議サービスZoomを活用した演劇」の試みがさまざまに開始・予定されている。本評では、初動の早い一例として、4月5日に第0回公演がYouTube上でライブ配信された劇団テレワークによる『ZOOM婚活パーティー』を取り上げる。

劇団名が示すように、「出演俳優」はそれぞれの自宅からオンライン上の会議室に入室し、分割表示された画面どうしのあいだで会話が交わされる。「司会」役の進行と仕切りのもと、3名の男女ごとに3組に分かれてチャットを始めるが、次第に不穏な展開になり、各セッションごとに「タワマンに住む金持ちに見えたがじつは会社が倒産」「じつは元カレ」「じつはストーカー」が判明するが、最終的には「カップル成立」のハッピーエンドに回収され、エンタメ重視で気楽に見られる。ただし、「会社の倒産という苦労を経験した男性」に共感して惹かれる女性、「自分に経済的に依存していた元カレの感謝の気持ちを受け入れ、よりを戻す」女性、「根暗なストーカーの女性が『運命の女性』に変わった」という「ハッピーエンド」は、いずれも「男性が癒される物語」である偏向が気になる。また、「自室に侵入したストーカー女性に、キスマークを散らされた男性の顔」は、(彼は満面の笑みであるが)もし男女が逆であれば、「レイプ」の比喩的表象として映っただろう。




本評で考えたいのは、内容面よりも、今後増えるであろう「Zoom演劇」の可能性や制約についてである。「舞台公演が打てない」現状の打開策として始まった試みではあるが、(ニコニコ動画と同様)「観客の反応」がリアルタイムでチャットの表示窓に書き込まれる/再生されることで、「舞台/客席」の固定構造を揺るがす潜在性を持つ。「観客の反応」が(身体と切り離して)可視化され、(疑似的な)同期や一体感を得ることで、鑑賞体験は二重化されたものとなる。書き込みがログとして残ることで、(台本とは別の)スクリプトのタイムラインが形成されていく。この仕組みをメタ的に組み込む、「背景をバーチャルで変えられる」仕掛けを使って虚実を攪乱する、「手話や字幕」を入れるなど、さまざまな実験や手法が可能だろう。

また、「Zoomならでは」の特性として、PCやスマホの内蔵カメラで撮影するため、基本的にバストアップで、「顔の表情」が大写しになる。だがこれはメリットであると同時にデメリットでもあり、「表情」以外の身体性は縮減されていく。また、設定がワンシチュエーションに固定され、「オンライン飲み会」「オンライン面接」「オンライン会議」など「Zoomを使用して会話するシチュエーション」に限定されてしまい、「舞台設定」も(「外出の自粛」が解かれない限り)「自室など室内空間」の閉塞性や「ネット接続が可能な場所」の物理的制約を受けるため、今後、似たような試みの量産に陥る可能性も懸念される。

より広い視野で見れば、「Zoom演劇」の試みは、「(ライブ配信であれ録画であれ)生身の俳優が演じる行為を、映像として鑑賞する」という、すでに身近になった鑑賞形態を、より浸透させていくのだろうか。映画のNetflix視聴のように、「演劇=動画配信で見るもの」という消費形態が一般化・加速していくのか。DVDでの鑑賞、「シネマ歌舞伎」、2.5次元ミュージカルの映画館での「ライブビューイング」などのように、流通の経路に乗った「コンテンツ」として、商業的な回路に吸収されていくのだろうか。 「Zoom演劇」に限らず、舞台芸術作品のオンライン配信は次々と始まっており、オンラインチケット、有料配信、投げ銭制やドネーションなど「見ることで支援につながる」取り組みとしても機能している。そして、自粛要請や行動制限が解除され、劇場での公演が再開されるようになった将来(それはいつかきっと来る)、ネット視聴で掴んだ観客をどう「生の劇場空間」に還流させるかが、課題となるだろう。

2020/04/10(金)(高嶋慈)

石場文子「zip_sign and still lifes(記号と静物)」

会期:2020/04/10~2020/04/19

Gallery PARC[京都府]

一見ありふれた生活空間のスナップだが、わずかな空間の歪みのような違和感がよぎる。画面を凝視するうちに、玄関ドアに無造作に立てかけられたビニール傘、キッチンに並ぶペットボトルや缶、床を這う電源コード、植木鉢の「ライン」が、周囲から自らを不自然に切り離すように浮かび上がってくる。石場文子の写真作品「2と3のあいだ」「2と3、もしくはそれ以外」のシリーズは、ある特定の視点から見たときに「輪郭線」が成立するように、黒く塗りつぶした線を被写体に施し、撮影したものである。写真が「二次元への圧縮・置換装置」であることに着目し、現実空間への介入を通して錯視を仕掛ける手法は、例えば、廃墟や取り壊し予定の建築空間に彩色を施し、ある一点から見たときに幾何学的イメージとして成立させるジョルジュ・ルースの写真作品を連想させる。建築物という大がかりなスケールのルースと対照的に、石場の作品は、生活用品が散らばる日常空間や室内の静物を被写体とし、より個人的で親密的だ。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


また、新作では、テーブルに敷かれた布や皿の上に果物が配置された、「静物画」風の画面構成がなされている。「輪郭線」で区切られた果物やポットは、原色のカラーパネルの背景のフラットな効果とも相まって、平面的に見え、より「絵画」に接近し、「絵画」と「写真」の境界を攪乱させる。それは、写真が内包する「一点透視的視点の強化」を示すと同時に、画像編集ソフトを用いた写真の加工作業を思わせ、「二次元の画像に取り囲まれた視覚状況」についても示唆する。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]



なお、会場のGallery PARCは、新型コロナウィルスの影響による状況変化が数年に及ぶものとの見通しから、5月以降に予定していたすべての展覧会の中止、現会場の閉鎖、事務所機能の移転を発表した。今後は、アーティストとの協働によるオンラインコンテンツ作成、webショップの整備、過去の展覧会資料の整理、外部での展覧会企画、運営母体の企業のパッケージデザインへのアーティスト起用などの活動やサポートに取り組みながら、展覧会活動の再開を目指すという。ギャラリー開設から約10年、現会場に移転して約2年半あまり。ビルの2階から4階にまたがった階層構造を活かした展示やパフォーマンスの試みも生まれていただけに惜しまれるが、サポート活動の継続と将来的な展示再開を待ちたい。

2020/04/10(金)(高嶋慈)

山下残『インヴィテーション』

会期:2020/03/27~2020/03/29

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

飄々としたユーモアとクリティカルな視線で「ダンス」「舞台芸術」を照射してきた山下残。本作では、パフォーマー同士の「~してもいいですか」「どうぞ/ダメです」「~してください」というやり取りによって、許可/禁止/指示される行為が積み重ねられていく。舞台芸術の制作現場やワークショップにおけるコミュニケーションへの自己言及に始まり、パワハラ、セクハラなどさまざまな関係性におけるヒエラルキーや不均衡な権力構造をあぶり出し、「舞台芸術」を成立させている制度内の/外側の社会構造を解体し、再提示してみせた。その先に浮かび上がるのは、コロナ禍における「自粛」の要請と、(あいトリでの文化庁の補助金不交付問題やオリンピック関連の文化事業においてとりわけ顕在化した)「事前に許可と承認を求める」「忖度」という日本の文化芸術を取り巻く現状だ。またここで、「許可/禁止」の判断の根拠の曖昧さや、判断を下す役を絶えず入れ替える流動性は、その判断の咨意性や責任主体の不透明な曖昧さについても鋭く問うていた。


上演会場はオールスタンディングで、舞台の壇も客席のひな壇も取り払われたフラットな空間を40-50人ほどの観客が取り巻く。虫の触覚のような装置を頭につけたパフォーマー(音響担当のおおしまたくろう)が登場し、「ご来場ありがとうございます。只今より山下残振付・演出作品『インヴィテーション』を始めます」とどもりながら告げる。彼が身体を動かすと、触覚状のセンサーが振動を拾い、不穏な音響が響く。だがその「前説」は、「トイレ行っていいですか」という唐突な声によって遮られ、作品の「開始」「輪郭」もまた曖昧にぼかされていく。あるいは、おおしまが何度も登場するたびに繰り返す「前説」によって、「開始」はずるずると遅延させられていく。

「トイレ行っていいですか」「タバコ吸っていいですか」と許可を求める声の積み重なりは、その日常的な行為のたわいのなさゆえに、「わざわざ許可が必要か」という不穏さを次第にまとっていく。許可と指示の言葉は、「左腕を上げてください」「耳を触ってください」「腰を回してください」といった具体的な動作と、「海をつくってください」「橋を架けてください」「入道雲になっていいですか」といった抽象的・詩的な言葉によって、「舞台芸術の制作現場やワークショップにおけるコミュニケーション」の様相を呈し始める。だが、「海をつくる」ために床に唾を垂らし続けるパフォーマーや、「その海に橋を架ける」ためにブリッジの姿勢を取り続けるパフォーマーの姿、そして強い調子で度々発せられる「もっとイマジネーションを使え」という(演出家の? ワークショップ講師の?)声や禁止の命令は、時に理不尽な要求や身体的な過酷さを強いる振付や演出がはらむ権力性や暴力性を浮上させ、舞台芸術の制度への自己批判とともにパワハラへの危うい接近を見せる。また、男性パフォーマーが女性パフォーマーに「身体の部位を触ってもいいですか」と低い声で言うシーンはセクハラを匂わせ、ジェンダーの不均衡に基づく権力関係が追記される。一方的で理不尽な要求のエスカレート、こなしきれない多重のタスクを課された身体は、次第に暴走的な様相を呈していく。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]

このように本作は、行為遂行的な言葉のやり取りがはらむ、(微温的な/だからこそ不穏な)権力の在りかをさまざまに浮上させつつ、「許可/禁止/要請」を発話する役割はパフォーマー間で絶えず交換される。その流動性は、ヒエラルキーの固定化に抗う一方で、誰が「許可を与える権力の主体」なのか? を曖昧に拡散させ、責任主体の見えにくさについても問いかける。また、反復される「前説」は、劇場に集った観客を迎える「インヴィテーション」の言葉であると同時に、「ここは舞台である」というメタ的な言及の繰り返しは、「人が集まること」という舞台の成立基盤と、それが「禁止」「自粛要請」されていく現状を照射する。「換気」のためと称して何度も解放される「扉」からは新鮮な外気が流れ込み、パフォーマーたちはラストで、開け放たれた扉から「劇場の外」へと歩み去っていく。



[撮影:中谷利明]


「入場料無料」という点も戦略的だ。それは一方では、「舞台作品にお金を払う価値とは」「観客は何を見たいと思って劇場に来るのか」という問いを投げかけ、「見たい」欲望と金銭的価値の交換、劇場・上演批判を繰り出す。だが他方では、スタッフワークの比重を下げ、照明や音響を出演者自身が操作することで、「低資金でも公演が実現可能」「無料で見られる」という、劇場利用者と観客の増加を共に目指す試みの希望的提示でもある。

山下によるこのポジティブな提示は、2019年6月に新しくオープンしたTHEATRE E9 KYOTOという劇場に対する強いメッセージでもある。同劇場は、関西圏のほかの多くの劇場が公演中止や延期を決定するなか、換気やアルコール消毒、客席の間引きなどコロナ対策を講じながら、3月末の本作まで初年度のプログラムをやり切った。もちろんここには、劇場スタッフや各公演団体の尽力があったことは言うまでもない。日々厳しさを増す状況のなか、1年目を最後までやりとげ、そしてこの作品で締めくくったことは、大きな意義があったといえよう。

2020/03/28(土)(高嶋慈)

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