2020年06月01日号
次回6月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|市原佐都子(Q)『バッコスの信女―ホルスタインの雌』

会期:2019/10/11~2019/10/14

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を換骨奪胎し、「性と生殖」をめぐる現代社会批判をポップかつ網の目のように散りばめた、2時間半の大作。市原佐都子がこれまで主題化してきたテーマ──ロマンチック・ラブ・イデオロギーから切り離された「生殖」としての「性」、女性が自身の「性」を語るタブーへの異議申し立て、「男性」が不在・排除された世界、人間/動物の境界の曖昧化、異種交配への強い衝動、そして最終的には食べることも性も「命の連続」「生」の営みとして全肯定する意志── を、ギリシャ悲劇が描く「子殺し」の復讐劇やその形式性と結び付け、現代社会批判として読み替え、さらに音楽劇として昇華させた。昨年のKYOTO EXPERIMENT 2018で上演された『妖精の問題』も衝撃的だったが、さらに突き抜けた深度をもつ怪作である。


本作では、リビングダイニングを舞台に、一見平凡な主婦と、彼女が生み出した「牛と人間のハーフ」である「半獣」の愛憎劇が描かれる。以前は、牧場でホルスタインの雌を人工授精して繁殖させる「家畜人工授精師」だったという主婦。特に好きでもない男と結婚したのは、家事や性欲の処理という「妻の役割」をこなしていれば、賃金労働に就かずに安楽に暮らせるからだと語る小市民的な人物だ。彼女は結婚前、乱交バーで女性とセックスし、「硬いものを経由しなくても柔らかいものに触れることでダイレクトに自分を喜ばせている」喜びに感動するが、直後に罪悪感に陥り、正しい「生殖」をして子どもをつくろうと思い立ち、海外の通販サイトで「日本人男性の精子」を購入する。彼女のなかでは「性(欲)」と「生殖」は分離されており、後者は普段、自分が牛相手に行なう仕事と同じなのだ。彼女は矛盾や分裂を抱えた奇妙な人物であり、ヘテロセクシズムの規範を逸脱しつつ、「結婚」「妊娠出産」という世間的圧力や「生殖に結びつかない性は異端である」という性規範を内面化してもいる。また、「子どもが外見でいじめに合わないように」「精子の国籍」にこだわる彼女は、人種差別主義者でもある。



[Photo:Shun Sato]


しかし、土壇場で臆した彼女は、購入した精子をホルスタインの雌に注入し、「上半身が人間、下半身が牛」の化け物を生み出してしまう。「牛の本能と成長速度」のために、制御できない性欲と肥大したペニスを持て余し、泣き喚く子ども。「エロ本」を教科書として「しつけ」を施す主婦。この「半獣」は、ひとつの体に牛と人間、理性と衝動、男性と女性が入り混じる「半獣半人かつ両性具有」という複数の境界攪乱的な存在だ。手に負えなくなった「半獣」は育児放棄されるが、「変態向けの性風俗」で生活の糧を得て生き延び、主婦が暮らすリビングダイニング、つまり「規範化・制度化された生殖システム」「女性の再生産労働の現場」のなかに回帰してくる。

成長した「半獣」は、山中で「女性を愛する女性のための牧場」を運営し、「バターマッサージ」で互いに愛撫し合うことで、人工授精で精子を注入される苦痛を濃密な快楽に変え、繁殖しているのだと言う。「半獣」が母を再訪したのは、「人間に母乳を搾取された子牛たちの、そして自身も飲めなかった恨みを癒すため、母と交わって自らの生まれ変わり(子)を産ませ、母乳を独占したい」からだ。「半獣」に誘われ、主婦は牧場へ赴きマッサージを受けるが、欲情した「半獣」に襲われ、引きちぎった肉の棒を手に茫然自失でリビングに戻る。「字幕スクリーン」を突き破って(再)登場した「半獣」は、「解放された」「これは母の愛なのでしょうか」と呟き、彼/彼女の浄化と昇天(さらには理性による獣性の制御)を暗示する。「中国では牛のペニスを食べる」「生臭いがコラーゲン豊富」という挿話を挟み、主婦が愛玩犬と「焼肉」を囲むラストシーンはグロテスクだが、ドラマに併走してきたコロスの合唱によって、食べられることは誰かの一部になって生き続けることであり、生を全肯定するポジティブな意志が歌い上げられる。



[Photo:Shun Sato]


そしてこの物語は、会話部分とコロスによる合唱を交互に繰り返すギリシャ悲劇の形式を踏襲し、東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるポップで多彩な楽曲が散りばめられる。「雌のホルスタインの霊魂たち」によるコロスは、清冽なハーモニーで、毒の効いた歌詞を繰り出す。とりわけ、「半獣」を演じ、狂気走ったダンスからファルセットの効いたヴォーカルまでこなすダンサーの川村美紀子の怪演は圧巻だ。



[Photo:Shun Sato]



本作において、女性と「ホルスタインの雌」の二重写しは、批判と肯定の両面を含み、極めて両義的だ。しばしば「巨乳」と同義の「ホルスタイン」同様、男性の欲望に支配・搾取される家畜・奴隷状態であることへの批判(だが男性もまた、ランキング化された精子が「商品」として販売される生殖産業においては、牛と同じである)。一方、「人工授精」は、「半獣」の牧場では、生物学的な「男性」が不在の世界でも、女性だけで生殖できるものとして、ポジティブに読み替えられる。「私たちには(も)快楽への欲求や性欲はある、でも『男』は要らない、なぜならずっと男性の欲望や幻想の道具として客体化・家畜化されてきたからだ」という弾劾と自立への強い意志がここにある。

女性が「性」を語ることへの抑圧、性的な搾取に対する異議申し立てに始まり、「エロ本」を教科書代わりに「学習」する男性の性幻想、国境を越えて拡大する生殖産業、性風俗産業、人種差別(人種の「ハーフ」から「人間と動物のハーフ」に拡張される)、食肉・家畜産業/愛玩犬の対照性が示唆する「動物の搾取」など、現代社会に対する問題提起が、「リビング」すなわち「主婦」「家族」にあてがわれた私的領域において語られ、相互参照し合う。いや、むしろそうした私的領域こそ、性と生殖をめぐるポリティクスに浸食され、管理されているのだ。市原がユニット名に掲げる「Q」に込められた複数の意味──クエスチョン(問題提起)、クィア(「正常」に対する疑義)、そして卵子に侵入した精子の図示──をここで改めて思い起こすべきだろう。

また、すべて女性出演者のみで構成される本作が、「すべて男性俳優により、市民=男性観客だけのために上演されていた」古代ギリシャ悲劇に対するアンチでもある点も看過できない。同日に観劇した劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』が、非常に緻密で洗練された手法で「物語の解体・極北」を示し、(あえて)プロセニアム舞台を用いて「上演すべき物語などない」上演批判・物語批判を行なっていたのに対し、(彼ら「ヨーロッパ演劇」の根本たる)「ギリシャ悲劇」の物語や構造を換骨奪胎して、「いや、女性の側から語り直すべきことはまだある」という、強烈なアンチを突き付けていた。来年、ドイツで開催される世界演劇祭への正式招待も決まっている本作だが、国内での再演も強く希望したい。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


関連レビュー

市原佐都子『バッコスの信女─ホルスタインの雌』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年05月15日号)
あいちトリエンナーレ2019(6回目)|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2019年11月15日号)
市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

2019/10/13(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00050800.json s 10158318

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』

会期:2019/10/10~2019/10/14

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、現実/演じられたフィクションが秘かに通底する共犯関係、感情移入の回路とその露悪的な暴露について、「共同体の夢」であるナショナリズムや戦後日本社会が清算できない加害のトラウマと結び付けて提示する映像作品を制作してきた小泉明郎。VR技術を用いた上演形式の作品が、あいちトリエンナーレのパフォーミングアーツプログラムのひとつとして発表された。本作の肝は「二部構成」にあり、「前半30分」で観客がVRのヘッドセットを付けて知覚のめくるめく拡張を体験した後、「後半30分」では、同じ語りが、「見る/見られる」「虚構/現実」の反転とともに、没入/客観視、恍惚/覚醒、知覚の解放感/身体的束縛の落差をもって(再)体験される。

「前半」では、「子どもの頃に見たSF映画の続き」を夢見る、ある男性の語りが、ゴーグル越しのVR映像とともに展開される。徐々に身体が動かなくなり、呼吸も困難になっていったこと。自分の口で最後に言える言葉は「ありがとう」だろうと言う彼は、死後の魂の世界、そして自分の脳がコンピュータと繋がったSF的未来を夢想する。そこでは自己と他者、過去と未来が繋がり、彼は自分の(想像上の)息子と触れ合う喜びについて語る。VR映像は、初めモノリス/棺を思わせる黒い直方体だったものが無数の立方体に分裂し、不安の塊のような黒い球体が増殖した後、死後の世界やSF的未来の想像シーンでは、魂が雲上を浮遊する臨死体験的な感覚や、過去と未来を行き来する高速の光の矢に包まれるような感覚を味わう。



[Photo:Shun Sato]


一転して後半では、観客はVRのヘッドセットを外し、「VR体験空間」の裏に用意されていた、狭い通路上の空間に誘導される。対面する壁には「覗き窓」が開けられ、「次の上演回の前半」を体験中の観客たち(=過去の自分自身の鏡像)を眼差すことになる。また、モニターに流れる映像には、電動車いすに乗ったALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性が、かろうじて動かせる口回りの筋肉を使って、必死に発話する様子が映し出される。

スクリーンの表/裏の同期/ズレに仕掛けられた虚実の反転や「タネ明かし」、「逆再生」という時間的反転による意味の反転といった構造や、それがもたらす後味の悪さや残酷さは、これまでの小泉の映像作品においても顕著な特徴であった(例えば、故郷の母を気遣う電話(に見えたもの)が事務的な応対を繰り返すコールセンターの担当者との不毛なやり取りにスライドする《僕の声はきっとあなたに届いている》、戦地に赴く夫と見送る妻の「感動のドラマ」(に見える映像)が裏側の「メイキング」で暴露される《ビジョンの崩壊》、第二次大戦中に大陸で子どもを殺害した日本兵の証言が、実は事故で記憶障害を患う男性のおぼつかない暗誦であり、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する《忘却の地にて》、「逆再生」により、「宣言」と「蘇生」の儀式が「断罪」と「集団処刑」に反転する《私たちは未来の死者を弔う》など)。

本作においても、こうした反転作用や後味の悪さが複数の層で体験され、見る者にさまざまな問いを突きつける。それは、VR技術(ひいては、集団で虚構世界に没入する「演劇」)そのものや、私たちの知覚や想像力に対する反省的問いでもある。VRの疑似体験によって、知覚を拡張し、あるいは他者の知覚世界や感情をどこまで共有できるのか? それは、ALS患者の男性の独白であることが明かされることで、不可能性と切実な希求の落差として差し出される。また、VRがもたらす全能感にすら満ちた没入体験は、「今ここにいる私の身体」を希薄化し、ほとんど消去するが、その事態は「実際に身体が不随意な障害者」へと反転させられる。その落差を突きつけられる居心地悪さは、「自分自身の鏡像を見ること」に加えて、「無遠慮にまじまじと見るべきでない」とされる障害者の姿を直視し続けねばならないという、二重、三重に増幅されたものとして体験される。知覚が拡張される解放感と、「指示された座席に座り続けねばならない」という束縛。だがこの「束縛」は、(VR装置を外したにもかかわらず)「彼」の身体環境の疑似体験でもある点では、一種の希望の回路でもある。ここに、単なるVR/演劇批判を超えた、本作の真の意義がある。

最後に発せられる「私たちの垣根は無くなる 私たちはひとつになる」という宣言は、他者への共感と包摂に満ちた希望的未来の到来なのか? それとも、「個」が「全体」へと同化吸収されるディストピアなのだろうか。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


関連レビュー

「表現の不自由展・その後」再展示、ほか|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2019年11月15日号)
セレブレーション/小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》(2019年06月15日号)|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/10/13(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00050800.json s 10158317

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』

会期:2019/10/13

名古屋市芸術創造センター[愛知県]

オランダ南部を拠点に、青少年向けの劇団として約30年間活動している劇団アルテミス。同じくオランダ南部を拠点とする演劇カンパニー、ヘット・ザウデライク・トネールとつくり上げた本作は、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ演劇部門で銀獅子賞を受賞した最新作である。「劇場に住み着いた先住民」「トランプ一家(に見えるオランダ人家族)」「オブジェの劇」「『旅するものがたり』についての物語」という四層構造を通して、シュールな笑いを緩衝材に物語批判、上演批判、劇場批判に徹しつつ、「物語」が解体された極北の果てに、「(子どもの持つ/演劇の原初としての)想像力」への希求を提示した。


観客が席に着くと、すでに舞台の幕は上がっており、機材や舞台裏への扉が剥き出しになった舞台上には、「先住民」たちが陣取り、黙々とそれぞれの作業に従事している。「演劇」「劇場」という概念を持たない彼らにとって、劇場空間は生存のための自然的環境であり、「客席=獲物を釣り上げる狩場」にすぎない。実際に「先住民」たちは四足歩行で客席内に侵入したり、釣り竿を垂らして、奪ったカバンや靴を装飾品やブリコラージュの一部にしてしまう。



[Photo:Shun Sato]


そこに、「ハンス」「リア」の両親と8歳の息子の「サンダー」というオランダ人一家がピクニックにやって来る。だが彼らの姿は、トランプ大統領、歌手のビヨンセ、サッカー選手のロナウドの巨大な写真を板に貼ったハリボテであり、アテレコの声に合わせて口パクでしゃべる。固有名と人格を備えたオランダ人一家という設定だが、観客の目に映る物理的実体は「そうは到底見えない」というズレ(の極端な誇張)。それは、「演じる役者自身の身体」と「表象される役」のズレ/二重化という「演劇」が原理的に抱える矛盾を突き付ける(この「ズレ」は、アテレコを担当する俳優の性別を役と逆転させる仕掛けによってより強調される)。



[Photo:Shun Sato]


また、好奇心旺盛な息子に対して父親が諭す「(舞台の)縁の向こうに行ってはいけない」「(舞台の)額縁に気を付けろ」という台詞や、言いつけに背いて「縁の向こう」を覗いた息子が「人がたくさん座っているみたい」と言う台詞は、「劇場」という物理的空間、「舞台/客席」を分かつ不可視の境界線にメタ的に言及する。だがこの「境界」は、「唾を吐いて誓う」父と息子による男同士の儀式が、巨大な紙人形の「口」から客席に向かって「実際に水が飛び出す」仕掛けにより、暴力的に攪乱されていく。

こうしたハリボテの登場人物、物理的実体と役柄の乖離、自己言及的なセリフ、「第四の壁」の破壊は「演劇」に対するメタ批判だが、そもそも「演劇」「表象」という概念のない「先住民」にとっては、彼らもまた、現実の物理的世界に属するただの(時々動く)物体であり、食べられる「獲物」なのか、自分たちを攻撃してくるのかといった基準で判断される。最終的に彼らは「先住民」の手で文字通り解体され、「戦利品」として持ち去られてしまう(操作とアテレコを担当していた「中の人」も「露出」するシーンは爆笑を誘う)。



[Photo:Shun Sato]


そこに、第三の要素として絡むのが、「オブジェの劇」だ。立方体や三角形のカラフルなオブジェや発光体が、時折、舞台上を横切っていく。「トランプ一家(演劇・表象の世界の住人/政治的支配者・成功者)」にとっては、「先住民」と同様、「動くオブジェ」もまた意思疎通のできない、不可解な存在にすぎない。これらの「オブジェ」は政治的弱者や半ば不可視化された排除の対象であり、それらが「人間の形すらしていない」ことは、「トランプ一家(が象徴する支配機構)の視線に投影された世界」を「モノ化された演劇」として鮮やかに提示してみせる。ここには、客席から舞台上へと「表象を投影する視線」によって成り立つ演劇的営みが、さらに「舞台上」でも入れ子状に反復されて遂行されている。

最後に、第四の要素として挿入されるのが、「『旅するものがたり』についての物語」だ。砂漠で生まれ、海を渡り、孤独で困難な旅を続ける「ものがたり」の物語は、ナレーションで語られるが、しばしばノイズが混入して中断され、「機能不全」に陥っていることが示される。「ものがたり」は長旅の果てに「海辺の街(=名古屋)」に辿り着くが、その存在に気付く者はおらず、人々は「光るスクリーン(=スマホ画面)」に没入している。SNS内のコミュニケーションにその座を奪われたことへの皮肉だ。だが、「この劇場」を見つけ、「人々の脚の間」を潜り抜け、舞台上に辿り着いた「ものがたり」の(見えない)存在に、少年だけが気づき、会話することができる。「子どもの想像力」が演劇の原初であり、自己批判を潜り抜けてなお最後の希望であること。青少年向け劇団として子どもとのコラボレーションも行なう劇団アルテミスの本分が示されるシーンだ。だが、「ものがたり」は消滅し、「ものがたりさーん」という少年の必死の呼びかけと、観客に「一緒に探して」という懇願とが空しく響くばかりだ。

ラストシーンでは、消滅した「ものがたり」の代わりに、オブジェの発する光や回転運動が、「先住民」の飛ばすシャボン玉とともに、つかの間の美しいイリュージョンを発生させて終わる。「演劇」「劇場」「物語」の外側にある存在、「人間」から排除された者たちが集合的に紡ぐそれは、「物語」への希求を響かせつつ、人間的尺度を超えた視点から捉え返そうとする企てを指し示していた。



[Photo:Kurt Van der Elst]


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


関連レビュー

あいちトリエンナーレ2019(6回目)|五十嵐太郎:artscapeレビュー

2019/10/13(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00050800.json s 10158316

HANA’S MELANCHOLY READING 〈風〉

会期:2019/10/05~2019/10/06

green&garden[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019 フリンジ「オープンエントリー作品」。HANA'S MELANCHOLYは、一川華が戯曲執筆を、大舘実佐子が演出を分担する演劇ユニットである。東京を拠点とする彼女たちが、2020年の上演を目指し、京都の俳優たちと新作戯曲『風』のリーディング上演を行なった。初見のユニット、しかも上演に先駆けてのリーディングだが、「性風俗と女子割礼を取り扱う」という戯曲の問題設定に興味があり、足を運んだ。


手作りの洋服を着せ、自分の望むままの人形のように振舞うことを期待する母親に反発し、「自分の身体は母親のものではなく、自分のものだから」と背中に大きな龍の入れ墨を彫った「奈菜子」。だがその身体は、恋人には拒絶され、働き始めた性風俗店では「低ランク」とされ、他の女性より安い給料しかもらえない。

個室の中で客からの指名の電話を待つ彼女のもとに、ある日突然、「ルーシー」という黒人の少女からの電話がかかってくる。「ルーシー」は他の少女たちと納屋に監禁され、結婚相手の男性の希望を叶えるために、「身体に付いていたらいけない呪い」とされる外性器を切除させられるのだと言う。「奈菜子」は「ルーシー」を助けるため、身体を売って得た札束を「紙ひこうき」にして彼女のもとへ飛ばし続ける。それは「奈菜子」の妄想の世界かもしれず、だからこそ美しくも儚い。

現代日本の性風俗産業において、「商品価値が低い」ものとして扱われる、入れ墨=傷のある「奈菜子」の身体。一方、アフリカの農村部において、結婚の条件として女性器切除を受けさせられる「ルーシー」の身体。遠く隔たったように見える両者に通底するのは、「男性によって一方的に、女性の身体が性的な商品として価値付けられる」という構造的暴力だ。戯曲は両者の同質性を通して「(女性の)身体は誰のものか」「価値基準を決めるのは誰か」という問いを投げかける。その糾弾には深く賛同するが、「ルーシーからの電話が突然、かつ偶然に繋がる」という設定は唐突で、強引な接続に感じた(特に前半はリアルベースの会話劇であったことも大きい。もちろんここには、「奈菜子」が待つ「客からの指名コール」との連続性をもたせるという意味で、「電話がかかってくる」ことの必然性もあるのだが)。

この「両者が接続される回路の唐突さ、強引さ」は、実際の上演では「演出」によってクリア可能かもしれない。だがここには、作劇上の粗さやリーディング公演の段階であることにとどまらず、より本質的な問題が横たわっているのではないか。「ここ」と「そこ」、「日本」と「アフリカの僻地」のあいだにある「隔たり」──そう思い込んでいるが、本質的には同じ構造的暴力を有する──を架橋するには? それは、私たち自身の想像力の貧困の問題でもある。戯曲の問題提起の要でもあり、最大の難関をどうクリアするか。「かかってくる電話」の必然性を担保しつつ、どう強引さの違和感を払拭するか。上演に向けて期待と課題を記したい。



[撮影:大舘実佐子]


2019/10/06(日)(高嶋慈)

小嶋崇嗣「PARFUM」

会期:2019/10/01~2019/10/06

KUNST ARZT[京都府]

消費社会において、物理的実体としての「商品」に付随する「脇役」を用いてジュエリーを制作し、さまざまな価値の転換を図る作家、小嶋崇嗣。本個展では、プラモデルのランナー(組み立て前のパーツを枠の中に固定・連結する棒状の部分)と、「シャネルN°5」の香水瓶の蓋、それぞれを用いた2つのシリーズが展示された。

プラモデルのランナーを素材に用いたブローチのシリーズでは、通常は組み立て後に捨てられる端材を「ジュエリー」に仕立てることで、「無価値なゴミ」を「高価な宝飾品」へと転換させる。いずれも、突起のついた棒を立体的に交差させた構築的なデザインだが、それぞれのカラーリングは、ガンダム、エヴァンゲリオンなど戦闘ロボットアニメのメカを想起させる。実体的な機体がなくとも、特徴的なカラーリングによって「キャラクター=商品」を識別させる。例えば、コンビニ各社が看板に用いるカラーバーをミニマル・ペインティングに擬態させた中村政人の作品のように、「色という記号の抽出によって、ブランドやキャラクターを非実体的に想起させる」という点で、二重の意味での消費社会批判となっている。加えてここでは、一般的には「男性向け」であるプラモデル(の端材)を、女性が身につけるジュエリーに作り変えることで、「商品に内在するジェンダー」を転倒させるという戦略性も指摘できる。



RUNNER_brooch [撮影:畔柳尭史(Polar)]


一方、「シャネルN°5」の香水瓶の蓋を用いたジュエリーのシリーズ《PARFUM》では、多面カットが施されたガラスの蓋を宝石に見立てて、ネックレス、リング、ブローチが制作されている。ガラスの蓋は爪留めでセットされ、留め具などのパーツもすべてシルバーで作られ、ジュエリー制作の技術が基盤にあることがうかがえる。香水瓶は、香水を販売するための容器だが、消費者の欲望を刺激するためのブランド戦略の象徴とも言える装置だ。小嶋は、実体的な商品そのもの(液体としての香水)ではないが、消費を促すための記号として商品価値を支える存在を「ジュエリー=商品」に変換するという転倒の操作によって、「私たちの欲望や価値を支えているものは何か」「付随的な周縁部分にこそ商品の本質が宿るのではないか」という問いをあぶり出す。だがここで、シャネル自身が実は「イミテーションの宝石」を売り出した事実を思い出すならば、単にパロディや引用による消費社会批判にとどまらない、批判とオマージュを兼ね備えた両義性を見出せるだろう。



model: TANI MAO


加えて本展の構成は、「(不在の)身体と記憶」へと言及する拡がりを持っている。「N°5」が発売されたのは1921年であり、約100年間、世代や時代を超えて無数の女性たちがこの香りを身につけてきた。小嶋の作品は使用済みの香水瓶を用いており、身にまとうと、見知らぬ誰かの残り香が漂う。ジュエリーに使用した蓋以外の瓶でつくったシャンデリアが天上から吊られ、「N°5」が発売された時代のクラシックな壁紙が張られ、ジュエリーの置かれた背後の壁には、鏡が長年置かれていたような跡が残る。消費社会への批判とともに、「かつて身につけていた女性」への想像を促す、親密な空間が立ち上がっていた。



会場風景 [撮影:畔柳尭史(Polar)]


2019/10/01(火)(高嶋慈)

文字の大きさ