2019年08月01日号
次回9月2日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー

会期:2019/01/12~2019/03/17

兵庫県立美術館[兵庫県]

ポップな脱力感の漂うゆるい展覧会タイトルだが、中身は骨太で硬派、同館としては珍しく攻めた企画展。ハイアート/大衆文化を二項対立的に分離せず、昭和戦前期、戦時期、戦後、高度経済成長期における社会的事象を反映する「視覚文化装置」と捉えて紹介する。「ヒーロー」と対になる「ピーポー」とは、「一般の人々」を意味する本展の造語。消費文化の享受者たる大衆、政治的主体としてのデモ集団、都市を行き交う群集、匿名性や均質性、そして「私たち」の輪郭を問う姿勢は、畢竟、「ネーション」の問題をその深淵において浮上させる。本展は、「集団行為 陶酔と閉塞」「奇妙な姿 制服と仮面」「特別な場所 聖地と生地」「戦争 悲劇と寓話」「日常生活 私と私たち」の5章で構成され、歴史的代表作品とともに、マンガ、紙芝居、特撮、アニメーションなど同時代の大衆文化や資料を紹介する。加えて、ゲスト作家として、会田誠、石川竜一、しりあがり寿、柳瀬安里の4名の新作が、各章の間に配置される構成となっている。

デモの緊張感や運動の躍動感を切り取った、モノクロの構成美が冴える安井仲治や、ブレを駆使した東松照明。労働者のストライキを大画面で描いた、岡本唐貴のプロレタリア美術。都市生活者の類型的外見をつぶさに観察、分類した今和次郎の考現学のスケッチ帳。藤田嗣治、鶴田吾郎の作戦記録画や、川端龍子、宮本三郎の描いた軍人の肖像画は、軍隊での立身出世を戯画的に描いた『のらくろ』の原画やアニメ、軍国色の強い紙芝居や少年向け雑誌、実物の千人針などの資料と並置され、視覚文化がおしなべて動員手段化される事態を映し出す。この「戦争 悲劇と寓話」の章は本展の白眉であり、「ヒーロー」(英雄視される軍人や特攻隊員)の形成が、「ピーポー」を「ナショナルな共同体」へと統合し強化していく回路が、さまざまな視覚メディアによって遂行されたことが示される。

一方、敗戦後の具象絵画(石井茂雄の《暴力シリーズ》、河原温の「浴室絵画」、山下菊二や桂川寛らのルポルタージュ絵画など)は、畸形的にねじれた人体表現のなかに、虚無感や抑圧、現状への告発を表現する。さらに、ハイレッド・センターやゼロ次元による自らの身体を駆使した反権力的なパフォーマンスを経て、『Time』誌の表紙の米大統領とセルフポートレートを接続させる郭徳俊、万歳を叫ぶウルトラマンのフィギュアが鏡に反映して日章旗を形づくる柳幸典の《バンザイ・コーナー》、中国残留孤児の顔写真を切手化した太田三郎、無人駅で即席焼きそばを食べる白川昌生のパフォーマンス、Chim↑Pomなど、社会的・政治的問題を扱う現代作品群が散りばめられている。

また、「ヒーロー」の軸から紹介されるサブカルチャーにおいても、上述の『のらくろ』に加え、東京の街を襲うゴジラ(1954年公開)と「復興のネガ」「空襲の記憶の残滓」、円谷英二の特撮技術の起点が国策映画『ハワイ・マレー沖海戦』にあること、ウルトラマンシリーズの脚本を手がけた金城哲夫と沖縄戦体験など、大衆文化の背後に「戦争」が色濃く影を落としていることが読み取れる。

新作の巨大インスタレーションを発表した会田誠の《MONUMENT FOR NOTHING Ⅴ~にほんのまつり~》は、本展を象徴する作品だ。歯が抜け落ち、痩せこけた幽鬼のような「日本兵」が巨大化し、「墓」となった国会議事堂に手を伸ばす。その姿は国会議事堂に襲いかかるようにも、「戦前」の亡霊に未だにコントロールされる「日本の政治」のカリカチュアのようにも見える。巨大なハリボテの造形は「青森のねぶた」=「祭り」とともに、国会議事堂が象徴する「まつりごと」=「政治」を示唆し、軍隊の最下級である「二等兵」が巨大化して超人的な力を持つ(「ヒーロー」化する)など、本展のタイトルと複数の意味で呼応する。



会田誠《MONUMENT FOR NOTHING Ⅴ ~にほんのまつり~》 写真撮影:多田雅輝

このように、「現在へ警鐘を鳴らす抵抗点として歴史を編み直す」という明確な問題意識に裏打ちされ、質量ともに充実した本展だが、ひとつの深刻な欠落を抱え込んでいることを最後に指摘したい。それは、「ジェンダーの偏差」という問題(もしくは問題化さえなされないという問題)である。「デモ(労働争議、安保反対)」、「戦争(作戦記録画/大衆文化を問わず動員手段となる視覚文化)」、「ヒーロー(仮面や変身/「英霊」)」……ここで駆動しているのは、(扱う事象においても作家の顔ぶれにおいても)徹底して「男の論理(男性の身体を「標準」と見なす行動原理)」にほかならない(唯一の例外は桂ゆき)。それはある意味、「昭和・平成の日本」の典型的反映であるのかもしれない(「制服」のパートで、「女子学生」が登場するが、堀野正雄と安井仲治の写真はともに「均質な集合体」として扱い、中村宏は、顔の見えないもしくはひとつ目のセーラー服の女子学生の身体が乗り物や兵器と合体した様をエロティックなアングルから描く(『艦これ』の先駆?)。いずれも、固有の顔貌を欠いた「女子学生」という記号の生産にほかならない)。

ここで、本展内部および「昭和・平成の日本」の枠組みに文字通り「亀裂」を入れるのが、柳瀬安里の《線を引く》である。この作品は、2015年夏、国会周辺のデモに集った群衆の足元の道路に、「チョークで線を引く」パフォーマンスの記録映像である。気にも留めない人、どうしたのかと心配する人、危ないからと注意する人、戸惑いながら尋問する警察官……声をかける人には「ただ線を引いているだけ」と答える柳瀬は、集団の声に同化するのではなく、その内部を撹拌しながら、「線(境界線)」の持つさまざまな意味をこの場に召喚していく。初めて発表された「フクシマ美術」展(2016)ではシングル・チャンネルの映像作品だったが、今回は、同じ「線を引く」行為を、京都の市街地や美大のキャンパスで行なった映像も並置された。叫び声や音楽の鳴り響く「デモの路上」とは対照的に、人影もまばらな風景のなかを淡々と線を引いていく柳瀬の姿は、警察の規制線、地震の亀裂、「原発20km圏内」や「パレスチナ分離壁」、排除と分断の構造が「どこか遠くにある」分断線ではなく、「日常」のなかに潜在的に偏在していることを想像させる強度に満ちていた。



柳瀬安里《線を引く》

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2019/01/30(木)(高嶋慈)

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裵相順「月虹 Moon-bow」

会期:2019/01/14~2019/01/27

JARFO 京都画廊[京都府]

木炭によるモノクロームの静謐かつ力強い描線で、あるいは陶芸で、「紐」「組み紐」「糸玉」を思わせる半抽象的な形態を表現してきた裵相順(ベ・サンスン)。彼女が繰り返しモチーフとしてきた、絡み合う「紐」や「糸」は、メドゥプ(朝鮮半島の伝統的な組み紐工芸)を連想させ、「手工芸」「装飾」といった女性的な領域を示唆するとともに、その有機的な形態や流動的な線の生成は、血管や神経、髪の毛など人体の組織や伸びゆく植物など、生命のエネルギーも感じさせる。裵は、韓国の大学を卒業後、日本の美術大学で学び、現在は京都を拠点に制作している。

抽象的、内省的な作風の裵だが、近年は、日本人の移住によって近代都市が形成された韓国中部の大田(テジョン)の歴史に着目し、記録資料の収集やかつて大田に住んだ日本人へのインタビューなど、リサーチを行なってきた。1900年代初め、日露戦争に備えて朝鮮半島を横断する鉄道建設を急いでいた日本は、重要な中継地点として大田を選び、都市開発を行なった。鉄道技術者らの移住に加え、商店や工場も建設され、当時の絵ハガキの写真を見ると、日本語の看板が並ぶ日本風の街並みを和装の人々が行き交っていた様子が分かる。敗戦後、日本人は本土に引き揚げ、近代建築物の多くは朝鮮戦争で破壊された。日韓両国の歴史においてほとんど語られることのなかった大田だが、近年は、植民地期の都市形成史を掘り起こす研究が進んでいる。本展では、戦前/戦後/現在の大田の写真、かつての居留者の日本人へのインタビュー映像、家族アルバム、市街地図といった資料とともに、写真作品《シャンデリア》シリーズが展示された。



展示風景

「糸」はこれまでの裵の造形作品の主要なモチーフだが、《シャンデリア》シリーズでは、暗闇のなか、絡まり合う無数のカラフルな細い糸を撮影し、写真作品として制作している。素材には韓国と日本の錦糸が用いられ、ほどいた糸を絡めてもつれさせている。それは、戦前に大田で生まれ育ち、敗戦や引き揚げを経て、戦後は日本国内での差別から朝鮮半島生まれであることを語らずに生きてきた人々の、容易には解きほぐしがたい記憶のもつれを思わせる。インタビューに応じた日本人は、平均年齢80歳であり、生まれ育った「故郷」と「日本(人)」というナショナルな枠組みの狭間で、70年以上も引き裂かれながら生きてきたのだろうと察せられる。また、絡み合う「糸の束」が色とりどりの糸から出来ていることに目を向けると、大田というひとつの都市に移住し、行き交い、去っていった無数の人々の人生の軌跡が交錯するさまをも連想させる。さらにそれは、もつれて絡まりあった複雑な両国の歴史のメタファーでもあり、大田が鉄道建設の拠点として作られた都市であることを考え合わせると、帝国主義的欲望とともに拡張されていく線路、その瘤のように肥大化した欲望の姿をも想起させる。個人の記憶と国家的欲望、ミクロ/マクロの多層的な意味やメタファーが重なり合い、一義的な意味の決定を拒むところに、《シャンデリア》シリーズの魅力、ひいてはアートとしての可能性がある。



《選択された風景》2019

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展覧会タイトルの「月虹」とは、月の光(月に反射した太陽光)によってできる虹を指す。それは、暗がりにかすかに光る、見えづらい「虹」だ。作品タイトルの「シャンデリア」もまた、通常想起される富や権力の象徴ではなく、反語的な意味をはらむ。裵の「シャンデリア」は、抑圧され語られてこなかった個人の記憶に耳を傾けることから出発し、国家の歴史から葬られてきた植民地支配の記憶を、かすかな明かりで照らし出す。

2019/01/27(日)(高嶋慈)

KAC Performing Arts Program『シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ』

会期:2019/01/25~2019/01/27

京都芸術センター[京都府]

「戯曲の上演」を、演劇の演出家ではなく、あえてダンサーやパフォーマンス集団に託した意欲的な企画。カゲヤマ気象台による「都市」をテーマとした三部作の戯曲『シティⅠ』『シティⅡ』『シティⅢ』をもとに、京都を拠点とする3組のアーティストがそれぞれパフォーマンス作品を発表した。3つの戯曲には直接的な繋がりはなく、抽象度の高い難解な印象だ。だが、例えば、「きれいで真っ白なまま、廃墟になった街」「私たちは地面の下に夢を押しこんだので、この国はときどきすごく大きく揺れる」「その後、この国は隣の国と小規模な武力衝突をした」(『シティⅠ』)、カタカナ英語の人物が「約10年前に恐ろしい出来事が起こり、以後は英語を話す。ジャパンと呼ばれた国については何も覚えていない」と語る(『シティⅡ』)など、3.11(及びその「健忘症」や想像される近未来)に対する応答として書かれたことを示唆する。

『シティⅠ』は、ゆざわさな(ダンサー)がプロデュース、渡辺美帆子(演劇作家)がドラマトゥルク、川瀬亜衣(ダンサー)が振付を手がけるという複合チームで制作。「姉」と「弟」の会話やモノローグが大部を占めるが、台詞を「無音の字幕」でスクリーンに投影し、相対した出演者たちが画面を見つめたり、「手紙」の形で読み上げる。また、『シティⅡ』においても、ベタなカタカナ英語で発声された台詞を、一言ずつ「日本語の通訳」で反復するなど、「書かれた台詞」を自らに引き付けようとするのではなく、戯曲の言葉からどう距離を取り、どう異化してみせるかがさまざまに試みられていた。『シティⅠ』では、家電や家具など生活用品が散乱し、荒廃感や終末感がどことなく漂う空間で、男女のダンサー2名と小学生女子、それぞれの身体性を活かしたしなやかなソロやユニゾンの時間が流れていく。ただ、「お…」「た…」「かえり」「だいま」の応答のラストシーンを、「食事をよそう母」と「帰宅した家族」が食卓を囲む「一家団欒の風景」のノスタルジーに帰着させてしまった「演出」は、やや安易ではないか。



『シティⅠ』 撮影:前谷開

一方、『シティⅡ』は、野外での「フィールドプレイ」を通して土地やモノを身体的に触知していくパフォーマンスを展開するhyslomが担当。戯曲の内容を身体をはって愚直なまでに実行していくのだが、縄梯子にぶら下がりブランコのように揺らして落下する、水を張った巨大な釜に顔面ダイブする、ふんどし姿になり、吊られた氷の塊を炎で炙って溶かすなど、ナンセンスの極みのようなパフォーマンスへと変換される。「遊び」の無邪気な装いのなかに、見る者の平衡感覚や皮膚感覚、痛覚を刺激するような不穏感がじわじわと醸成されていく。



『シティⅡ』 撮影:前谷開

捩子ぴじん(ダンサー)による『シティⅢ』は、第17回AAF戯曲賞受賞記念公演のリクリエイション。佐久間新と増田美佳の2名のダンサーによる、時に危険性さえはらむデュオが、強度のある時間を立ち上げる。とりわけ意表をつくのがラストシーン。「背景」として掛けられていた、ビル群を描いた「絵画」が取り外され、倒れかかるのを受け止める、横倒しの回転ドアのようにクルクル回し、その下をくぐり抜ける、裏面に組まれた支えの角材に手足をかけロッククライミングのようによじ登る、といった逸脱的な運動が繰り出される。「表と裏と言うと二次元のイメージだが、実はもっとたくさんの次元での表と裏があるのではないか」という台詞に対する、身体レベルでの呼応とも取れる。



『シティⅢ』 撮影:前谷開

「書かれた戯曲」と「実際の上演」のあいだには、逐語的な再現だけではなく、無限とも思える「伸びしろ」が広がっている。そこに、自らの身体でどう介入し、あるいはズラし、意味の層を上書きし、未知の風景を立ち上げていくか。3組の公演を通して、「戯曲の上演」ではなく、「戯曲と上演」の(従属的ではない)創造的な関係について再考を促す機会となった。

2019/01/26(土)(高嶋慈)

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン『犯罪部族法』

会期:2019/01/13~2019/01/14

京都芸術劇場 studio21[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNにて、太田省吾の「沈黙劇」の代表作『水の駅』を演出し、反響を呼んだインドの演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワラン。再び京都で、「身体と言葉の創造的行為を巡って──インド/京都による国際共同研究」公開研究会において、最新作『犯罪部族法』が上演された(シアターコモンズ ’19にて東京公演も開催)。

ヴェンカテーシュワランはインドの大学で演劇を学んだ後、シンガポールの演劇学校へ留学し、2007年に劇団シアター・ルーツ&ウィングスを旗揚げ。ヨーロッパの演劇シーンで活動するとともに、多民族・多言語国家であるインド国内でも文化的周縁部であるケーララ州に劇団の拠点を置いている。対外的/国内的にも多文化・多言語状況に常に直面する制作状況は、作品にも先鋭的に反映されている。『水の駅』では、一切のセリフを排した「沈黙」によって、人間存在の本質とともに、統一的なナショナル・ランゲージを持たない多言語状況をネガとして浮かび上がらせていた。一方、本作『犯罪部族法』では、徹底して「対話」を重ねつつ、やり取りが逐次通訳を挟むことで、「翻訳」と媒介性、国際語である英語/ローカル言語の非対称性、間接話法と直接話法、主体の交換・転位の(不)可能性といった問題を浮上させ、インドの社会構造への批判とともに、「言語」に依拠する演劇それ自体に内在する問題へと深く切り込んでいた。

冒頭、無言で行なわれるシーンは美しく象徴的だ。ゆっくりと円を描くように、箒で丁寧に床を掃き清めていく男性。「何もない」かに見えた舞台上の中央に、細かな赤土の砂が集められていく。掃除=汚れの除去ではなく、今まで「あった」のに「見えていなかった」存在を可視化する静かな身振りが、導入として示される。続いて、もうひとりの男性が登場。二人は無言のまま、観客一人ひとりと視線を合わせていく。簡素な舞台上には、テーブル、椅子、小さな平台が置かれているだけであり、二人は立ち位置を交換するたびに、互いに見交わし、観客がそこにいることを承認するように、一人ひとりと視線を交わす。立場の交換や流動性と、存在の承認。穏やかな時間とともに上演は始まった。

二人はまず、自己紹介を始める。都市部のデリー出身で主に英語を話すルディと、農村出身で主にカンナダ語を話すチャンドラ。二人は、大英帝国による植民地支配下で1871年に制定された「犯罪部族法」についてのリサーチに取り組んだと話す。これは、植民地支配の円滑化のため、カースト制度という既存の社会構造を利用して、非定住民の約150のコミュニティを「犯罪部族」と指定した差別的な法律である。この法律はインド独立後に廃止されたが、カースト制度および「制度外」の不可触民への差別や排他意識はなお現存することが、二人の「対話」によって語られていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

本作はそもそも、チューリッヒで開かれた演劇祭への参加作品であったため、ヨーロッパの観客の受容を念頭に制作されている。そのため、「犯罪部族法」及びカースト制度について、俳優自身が自らの出自や経験を交えつつ分かりやすく語る「レクチャーパフォーマンス」の体裁がとられている。カーストは四層の大きな建物に例えられること、この建物には入り口も階段もなく別の階へは行けないこと、そして「建物の外」に住む不可触民がいること。不可触民は「カースト内」の人々の家に入ることを禁止され、居住区には境界線があり、彼らが触った物にも触れてはならず、食堂では食器が区別されていること。農村出身のチャンドラはカースト外とされる出自で、一方ルディは、都市部出身の英語話者で「カーストをほぼ意識せず育った」と話す。ルディ(=欧米の観客の近似的存在)が投げかける質問にチャンドラが答える形で、「対話」は進んでいく。

ここで注目すべきは、チャンドラが話すカンナダ語は、「字幕」に一切表示されず、「彼は『~だ』と言っている」とルディが英語で逐次「通訳」して伝える点だ。チャンドラが身振り手振りを交えて語る内容は、(欧米でも日本でも)ほぼすべての観客にとって「理解できない音声」として浮遊し、英語を介さなければ「伝達」されず、「聴こえない声」として抹殺されてしまう。インド国内における多言語状況や植民地支配者の言語による抑圧とともに、グローバルな流通言語としての英語と、ローカルな言語との非対称性が浮き彫りとなる秀逸な仕掛けだ。

また、この「通訳」の介在と「字幕」の表示/非表示という操作は、言語や翻訳をめぐるポリティクスのみならず、「演劇」に内在する問題も照らし出す。チャンドラの経験を「通訳」するルディは、「彼は『~だ』と言っている」という間接話法からかっこを外し、「僕は~だ」と直接話法で話してしまい、代名詞の間違いを指摘される。この「混乱」は、他者の言葉を媒介する「翻訳」という行為が、「自分ではない誰かを表象する」演劇という営みにすり替わる臨界点を示し、翻訳者や俳優の帯びる媒介性、主体の交換可能性を指し示す。それは、「自分ではない他者の立場に身を置く」という想像力の発露であるとともに、「他者の言葉の奪取」という危うい暴力性も孕む。 主体の交換・転位が暴力的な形で噴出するのが、中盤、チャンドラの農村での少年時代の経験を「再現」するシーンだ。炎天下での農作業、耐え難い喉の渇き。淡い恋心を寄せる少女が水を渡そうと近づくが、そのコップに触れることは禁じられている。誘惑と罰を受ける恐怖を振り払うように、鍬を振り下ろし続けるチャンドラ。だがそれは「ルディ」によって演じられ、「チャンドラ」は少女の役から怒号を飛ばす雇い主へと変貌し、ヒステリックな叫びと鞭の音は次第にエスカレートしていく。



『犯罪部族法』京都公演 [撮影:松見拓也]

「対話」によって(俳優同士の、舞台上と観客との、隔てられたコンテクスト間の)相互理解の橋をかけ渡そうとしつつ、本作は安易な解決を提示しない。チャンドラが床にチョークで描いた、村のコミュニティを分断する境界線の図は、冒頭と同じく箒で掃く所作によって線が薄れていくが、完全に消えることはない。テーブルに置かれた水がめから自由に水を飲めるのはカースト内の「ルディ」だけであり、「チャンドラ」は渇きを癒せない。ラスト、ルディは水がめを渡そうと差し出すが、チャンドラの手に触れた途端、落下して割れてしまう。苦い後味の残るラストシーンだが、見終わった後に重苦しさよりも希望が感じられたのは、ヴェンカテーシュワランと俳優たちの誠実な態度と、レクチャー/通訳/ロールプレイングといった複数の形式を横断して「演劇」を自己批評的に問う緻密な構造のなかに、社会への批判的視線がしっかりと織り込まれていたからだ。

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KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN シャンカル・ヴェンカテーシュワラン/シアター ルーツ&ウィングス『水の駅』|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/01/14(月)(高嶋慈)

神楽岡久美「身体と世界の対話 vol.2」

会期:2018/12/20~2019/01/26

ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]

中国の纏足、西洋のコルセット、カヤン族の真鍮リングによる長い首……洋の東西を問わず、女性たちの身体は、人工的に骨格を矯正する器具を装着することで、拘束の苦痛や不自由さと引き換えに、絶対的価値としての「美」への恭順を課せられてきた。自らの意思を持った主体ではなく、男性の欲望の眼差しによって成形可能な「物体」として。では、現代の女性は、身体の拘束を代価として得られる美の追求から解放されたのか? 現代の女性の身体は、どのような「美的変形への欲望」をまとっているのか? この問いに取り組むのが、神楽岡久美が現在制作中のシリーズ作品《美的身体のメタモルフォーゼ》である。本展では、第1作《What is Beautiful Body?》が展示された。

展示台の上には、冷たい光を放つ金属と重りやバネでできた奇妙な器具が陳列されている。背後のスクリーンには、実際にそれらの器具を装着しながら、機能と効果を解説する映像が流れる。ヘルメットのように頭部に装着し、骨格を矯正して「小顔」へと引き締め、クレーンで鼻の骨格を高く伸ばす「美顔矯正ギプス」。3kg(!)の重量のドーナツ型の器具を首にはめ、首を細長く成形する「首ギプス」。3つのバネで肩甲骨を内側へ寄せ、背筋を伸ばす「猫背防止ギプス」。筋力トレーニングのようにバネを伸ばす運動をすることで贅肉を落とす「二の腕引き締めギプス」。左右の足をバネで連結し、両足の歩幅を美しく整える「モデル歩行ギプス」。また、骨格図やレントゲン写真を参照して器具をデザインした設計図のドローイングも展示されている。

これらの器具はいずれも「~ギプス」と命名されており、マンガ『巨人の星』に登場する「大リーグボール養成ギプス」を連想させる。だがそれらは、「筋肉」すなわち男性性の象徴たる肉体的強さの錬成を装いながら、「女性の身体美」の養成に奉仕するものであり、強烈なアイロニーをはらむ。

身体の鍛錬や拘束と美へのオブセッション、器具の装着による人為的な身体拡張やメタモルフォーゼ、人工的な畸形性とエロス。系譜として、例えば、マシュー・バーニー、レベッカ・ホルン、小谷元彦(バイオリンを模した器具でピアニストの指を矯正する《フィンガーシュパンナー》や小鹿の脚に矯正具を付けた《エレクトロ(バンビ)》)が想起される。とりわけ、ヤナ・スターバックの《Remote Control》 は、「美」に奉仕させられる女性身体の拘束を扱う点で、神楽岡作品を考える際に示唆に富む(《Remote Control》はクリノリン・スカート型の電動の歩行器だが、檻を思わせる形状の立体作品。装着者はクリノリンのなかに吊り下げられ、リモコンで自ら動きを操作しつつ、鑑賞者によっても操作される)。

纏足やコルセット、クリノリン・スカートは既に滅んだが、「痩身」「二重まぶた」「バストアップ」「O脚矯正」といったさまざまな美容整形の謳い文句は街頭にもネット広告にも溢れ、いまも目に見えない規範として女性の身体を縛り続けている。「小顔」「細い首や二の腕」「すらりと伸びた背筋」「ランウェイを歩くモデルのように優雅な歩き方」……。神楽岡の作品は、単に実装可能な器具のデモンストレーションを超えて、「女性はこのように美しくあるべき」「男性の視線の要請にそって身体を成形すべき」という、女性の身体を常に取り囲む規範を可視化し、拷問用具のようなグロテスクな拘束具として具現化してみせるのだ。



[撮影:中澤有基]

2019/01/12(土)(高嶋慈)

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