2022年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

はなもとゆか×マツキモエ『DAISY』

会期:2021/11/18~2021/11/20

京都芸術センター[京都府]

女性としての生きづらさや社会的抑圧を、ダンサブルな楽曲にのせてポップに昇華するダンスデュオ、はなもとゆか×マツキモエ。前作『VENUS』では、全編にわたり安室奈美恵の楽曲が流れ続ける多幸感に満ちた世界で、生殖や世間的圧力のメタファーであるピンポン球=卵が飛び交うなか、「ラケットで球を打ち返す」身振りが脅迫的に反復され、恋バナや合コンについて語るモノローグと、依存から自立への意志を示すダンスが展開された。

主題も構成も『VENUS』の続編と言える本作においても、はなもとゆかが実体験を元にモノローグを語りながら踊る。「愛されたい」一方、社会の要請する型にはめられた「女性らしさ」の強固さというジレンマは、本作でよりエグみを増した。「私、このたび、入、入……入会しました!」とはじける笑顔で語り出すはなもと。婚活サービスに「入会」後、容姿を唯一の基準とする一方的な査定の視線にさらされる。お見合い写真撮影で要求される、型通りの髪型や服装(白かパステルカラーのワンピース)、「控えめな」笑顔。それは「原色が好きで、Tシャツ、パンツ、ポニーテール、リュックにスニーカー、これが私です」と語るはなもと自身とは程遠い。また、会うことになった「42歳の美容外科医」の言葉は、外見や体型への批判的なコメントばかりであり、「女性を一方的に容姿で品評してよい」ルッキズムの典型だ。「こんなことを言われてまだ頑張らないといけないの?」と言い終えてからのソロは、「終始後ろ向きで観客に表情を見せない」仕掛けが効いていた。バレエをベースとした躍動感あふれるソロダンスだが、「一番自分らしいダンス」を踊る喜びを、誰かに見せるためではない笑顔で踊っているのか? それとも、抵抗として表情を硬く封印しているのか? と想像させる。



[撮影:shinz]


また、デュオの強度も増した。はなもとと男性ダンサーは、床を転がりながら密着度の高いコンタクトを繰り出し、次々と体勢を変化させていく。挑発的なアイコンタクトも交えながら、エロティックかつ動物的でしなやかな運動が惹きつける。また、(後述するように)「ドラァグクイーンの登場」が本作のひとつのポイントだが、終盤では、舞台奥にカツラやヒールを脱ぎ捨てたドラァグクイーンが後ろ向きに立ち、手前ではヌーディーな下着姿のマツキモエが硬質かつ高速のダンスを精密機械のような精巧さで繰り出す。直接的なコンタクトもなく、身体の向きも正反対だが、何かを探り、たぐるようにくねらせる腕の動きが共鳴する。そのデュオは、「力強さ=美」であり、「ただ私のために踊る。それがあなたと共鳴する」と雄弁に語っていた。



[撮影:shinz]


最後に、「ドラァグクイーン」に関して、前作からの発展的展開と今後の展望について述べたい。前作『VENUS』では、ダンサーたちと直接交わることなく、一段高い壇上に神のような超越的な存在が君臨し、見守っているのか支配しているのか不明なまま、不気味な存在感を放っていた。一方、本作では、この超越的な存在が「ドラァグクイーン」として明確に実体化され、ダンサーたちと同じ地平に降臨し、トランスジェンダーの女性歌手の楽曲でリップシンクを披露し、力強いメッセージを放つ。舞踏をやっていたという彼/彼女は、「ただ美しくなりたかった。美に性別は関係ない。精神の発露が絶対的な美となり、他人に何を言われても揺るがないその美しさが他人から言葉を奪う。それを認めようとしない世間に、私とあなたで抵抗と祝福を贈りましょう」と宣言する。だが、その傍らでは、はなもと、マツキ、もうひとりの男性ダンサーがスクワットやストレッチ、腕立て伏せやシャドウボクシングなど「美しく引き締まったカラダを作るためのエクササイズ」に従事し続け、「痩せたカラダ=美」という画一的な外見至上主義に囚われているように見えてしまう。

また、前作よりクリアな姿で降臨したドラァグクイーン=超越者と、特にはなもととの関係性が曖昧な点も気になった。直接交わらない両者は、いまはまだ別次元に身を置いているようだ。だが、自虐的なモノローグを繰り出しながらパワフルに踊るはなもとは、すでに力強さに満ち、美しい。美容外科医のつまらないルッキズムにまみれた女性蔑視など吹き飛ばすほどの説得力がダンスにすでに備わっているのだ。超越者=ドラァグクイーンとはなもと自身の関係性が今後どう交差するのか? 内在する神としてはなもと自身と一体化するのか? 期待したい。



[撮影:shinz]


関連レビュー

はなもとゆか×マツキモエ『VENUS』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年12月15日号)

2021/11/19(金)(高嶋慈)

ゲリー・デ・スメット「意図せぬ因果関係」

会期:2021/10/07~2021/11/27

HRDファインアート[京都府]

ベルギー人アーティスト、ゲリー・デ・スメットの、日本初紹介となる個展。写真コラージュ作品「意図せぬ因果関係」シリーズが展示された。かつてのナチスやナチズムの復興を掲げる現在の欧州の極右勢力が自らの正統性のシンボルとして用いる「ルーン文字」の形に台紙を切り抜き、同性や肌の色の違う人どうしの性行為のポルノ画像がその下からのぞく。それは、性的マイノリティや「民族の純潔の侵犯」という意味で、彼らが排斥の対象とするものだ。ドイツではハーケンクロイツ(鈎十字)に加えて、ナチスと関係のあるルーン文字の使用が禁止されており、ベルギーにおいてもルーン文字は、ナチスによる占領の記憶と強く結びつく禁忌的記号である。タブーとタブー、ポルノグラフィーという記号(的なもの)と記号の衝突。それは、自らを正統化しようとするシンボルを通して、排斥の対象そのものを眼差すという矛盾した裂け目でもある。



[写真提供:HRDファインアート]


だが、その裂け目のなかのポルノ画像の多くが、「男性向けにつくられた、女性どうしの濃密なプレイ」であることに注意しよう。さらに、「褐色の肌」がそこに加わることは、例えばアングルが描いた《トルコ風呂》のように、「非欧米圏の女性を『性的に奔放で魅力的な存在』として一方的に表象する」オリエンタリズムを想起させ、二重・三重に他者化されたエロティックなイメージの形成史へと連なっていく。そのとき、「ルーン文字の形に切り抜かれた窓」は、他者として領有されたイメージを「ハーレム」に象徴される密室に再び閉じ込める装置となり、同時に「西洋白人男性」の視線による性的イメージの形成史を批評的に見つめるための「のぞき穴」となる。

正統性の根拠と排斥対象、欲望の眼差しの主体と他者化されたイメージの領有。その両者の表裏一体的な構造こそを本作は指し示す。



[写真提供:HRDファインアート]


2021/11/19(金)(高嶋慈)

ALLNIGHT HAPS 2021「彼は誰の街に立つ」#3 村上慧《広告収入を消化する》

会期:2021/11/13~2021/12/18

東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)[京都府]

制度と共謀しつつ、その間隙を突いていかにクリティカルな制度批判を打ち出せるか。

「広告収入を消化する」と題された村上慧の個展は、肉体を資本とする賃金労働と広告装置が支える消費資本主義のシステムを、自らの身体を文字通り駆使して鋭く照射する。

本展は、夜間に路上からガラス越しに鑑賞する展覧会シリーズ「ALLNIGHT HAPS」の一環。スクリーンに映る村上の裸の上半身が「広告ウィンドウ」となり、もうひとつの映像が入れ子状に投影される。「提供」の2文字とともに、HAPS、京都のギャラリーショップや書店、アーティストの明和電機のロゴが表示。事業の紹介、通販サイトの宣伝、テレビショッピングのノリでグッズ販売を行なう広告映像が流れる。



[撮影:前端紗季]



[撮影:前端紗季]


生ける「広告ウィンドウ」となった村上は、同時に、協賛スポンサーから支払われた「広告収入」でデリバリー注文したフードやドリンクを次々と口に運んでいく。消費価値を作り出す広告を、食料に交換して文字通り「消費・消化」する転倒の操作であり、自身の身体を広告媒体にして報酬を得る行為は、労働と資本の本質的関係をシンプルかつ鮮やかに可視化する。私たちは、自らの肉体を資本とする賃金労働に従事し、報酬として得た金銭で生命維持、すなわち資本としての身体を維持し続けているからだ。そして広告産業とは、消費資本主義を駆動させ続ける動力源にほかならない。

村上は、自作した発泡スチロール製の「家」を背負って国内外を歩いて旅するプロジェクト「移住を生活する」においても、都市の路上に身体を開きながら、不動産(家)の所有の観念、定住/移住や公/私の境界線をめぐり、既存の社会経済の構造や管理社会の間隙をユーモラスかつ鋭く問い直してきた。CMのスポンサーがギャラリーやアーティストである本展では、アートと商品経済の皮肉な関係も露呈されている。



[撮影:前端紗季]


関連記事

個と公の狭間での実践と、終わらない問い──展示と本を通して見せる「村上慧 移住を生活する」|野中祐美子:キュレーターズノート(2021年06月15日号)
アーティストたちの客観性──高松コンテンポラリーアート・アニュアル vol.08/社会を解剖する|橘美貴:キュレーターズノート(2019年10月15日号)

2021/11/14(日)(高嶋慈)

ホー・ツーニェン「百鬼夜行」

会期:2021/10/23~2022/01/23

豊田市美術館[愛知県]

あいちトリエンナーレ2019で発表された《旅館アポリア》、YCAMとKYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNで展示された《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》に続き、アジア太平洋戦争期の日本をシンガポールという「外部」から再批評するシリーズの第3弾。小津安二郎や海軍プロパガンダアニメ映画の引用、セル画アニメの層構造への言及、ロボットアニメが描く「虚構の戦争」やVRに対するメディア批評を織り交ぜ、強烈な身体経験とともに歴史の力学を緻密に再構築してきた。本展「百鬼夜行」でホー・ツーニェンが召還するのは、アニメや漫画でおなじみの「妖怪」である。

展示前半では、闇の中を練り歩く奇怪な妖怪たちが、恩田晃によるおどろおどろしい音楽を背景に、アニメーションによる絵巻仕立てで紹介される。平安末期や幕末、コロナ禍の「アマビエ」など戦乱や災禍の時代に流行した妖怪が世相批判も担っていたように、既存の妖怪が批評的に読み替えられていく。例えば、山や谷で反響音を引き起こす「山彦(やまびこ)」は、共鳴壁で包囲してイデオロギーを増幅させるプロパガンダ装置の謂いとなる。全身に無数の目を持つ「百目」や障子に無数の目が浮かび上がる「目目連(もくもくれん)」は監視網のメタファーだ。油を欲しがる「油すまし」や「化け猫」は「1942年から45年にかけて東南アジアで多く見られた妖怪」とされ、石油資源を求めた日本の侵略に重ねられる。「塗り壁」は過去への道を阻む障壁、経典を食い荒らす「鉄鼠(てっそ)」は歴史資料を食べる妖怪とされ、歴史の健忘症の要因として読み替えられる。魑魅魍魎が跋扈する奇形的空間としての戦時期日本が現在にまで接続され、「百物語」の灯が消えた瞬間に「妖怪が出現する」演劇的な仕掛けも痛烈だ。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示後半では、百の妖怪のうち「のっぺらぼう」「偽坊主」、そして変幻自在な「虎」に焦点が当てられる。戦争末期、カモフラージュのため多くの日本兵が僧侶に化け、スパイ養成機関「陸軍中野学校」は、変幻自在で顔のないスパイ=のっぺらぼうを生み出した。戦争責任回避のため僧侶に変装した辻政信と、一方、戦友の慰霊のため僧侶として生きることを決意した小説『ビルマの竪琴』の水島上等兵。「マレーの虎」もまた多重的に分裂した像を見せる。シンガポール攻略の司令官の山下奉文と、中野学校出身のスパイから軍の諜報活動に勧誘された日本人の義賊、谷豊の2人である。作品中の映像は、記録画像/映画(フィクション)の引用/アニメが多重露光的に重なり合い、輪郭が曖昧にブレ、虚実の境界を揺るがせることで、「これが(隠された)真実だ」というプロパガンダとの同質化を回避する。彼らの「顔」は匿名的に消去されているが、僧侶姿の元水島上等兵が現地に残る決意を竪琴の演奏で戦友たちに伝えるシーンでは、顔の表情が回復され、「のっぺらぼう」が、戦争による人間性の抹消も示していたことに改めて気づく。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


また、「虎」は、時代の要請を受けて変幻自在に何度でも蘇る。千人針に縫い込まれた「虎」。「マレーの虎」のひとり、谷豊は戦時中にプロパガンダ映画で英雄化され、1960年代のテレビドラマや、日本が経済的にアジアに進出した80年代には映画で、「怪傑ハリマオ」として蘇る。タイガーマスクや『うる星やつら』のラムちゃんなど、ヒーローや超自然的能力を持つ存在もこの列に加えられ、時代の無意識的な欲望とその亡霊性が示される。



ホー・ツーニェン《百鬼夜行》(2021)[©Ho Tzu Nyen, Photo: ToLoLo Studio]


展示全体を通して、「過去への遡行」としての妖怪像を提示する本展。ちなみに、百の妖怪のうち、家の障子を震わせる「家鳴(やなり)」は《旅館アポリア》で展示会場の日本家屋を暴風雨/空襲のように揺らす仕掛けも示唆し、「不可知の雲」のビジュアルは《未知なる雲》(2011)のセルフパロディであるというように、ホー自身の「過去作」も取り込まれている。

妖怪が見せる変幻自在なトランスフォームは、アニメが得意とするところであり、本展は、《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》の前2作に比べると、エンターテイメント色が強く楽しめる。だが、なぜそもそもホーは、戦時期日本を対象化するにあたり、「妖怪」を参照したのか。例えば、「道に迷った」を「狐に化かされた」と言い換える表現があるように、妖怪(姿が見えず、人智の及ばない存在)のせいにすり替えることで、主体や責任の在りかを曖昧化してしまう。「さまざまな妖怪が戦前の日本に取り憑き、現在も目を眩ませて健忘症を引き起こす」、すなわち「行為の主体性と責任」が見えないことこそが、本作の指し示す、真に恐るべき事態である。

関連レビュー

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)

2021/11/06(土)(高嶋慈)

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KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN 和田ながら×やんツー『擬娩』

会期:2021/10/16~2021/10/17

京都芸術センター[京都府]

「舞台上で行なわれる行為は、すべて擬似的な再現である」という演劇の原理を忘却・隠蔽しないこと。「儀礼」という演劇の起源のひとつへと遡行すること。この2つの秀逸な交点にあるのが、『擬娩』である。「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」という実在の習俗「擬娩」を着想源とし、演出家も含めて出産未経験の出演者たちが「妊娠・出産を身体的にシミュレートし、他者の身体に起こる変容や痛みを想像すること」が、本作のコンセプトだ。本作のもうひとつのクリティカルな核は、手垢にまみれた「感動的な出産のドラマ」を消費することを徹底して排除し、「産む性」と切り離して「妊娠・出産」という行為を極私的に想像しようとする点にある。

2019年に初演された本作は、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMNにて、出演者と舞台美術のコラボレーターを大きく入れ替えてリクリエーションされた。初演の出演者は30代の男女の俳優・ダンサー4名だったが、今回は初演の2名(うち1名は声のみの出演)に加え、公募による10代の出演者3名が新たに参加した。また、舞台美術はメディア・アーティストのやんツーが新たに担当した。筆者は初演時のレビューを執筆しているが、大きく印象が変わったリクリエーション版について、本稿では、初演との比較を行ないつつ、大幅なアップデートが見られた点とジェンダーの視点からは批評的後退と感じられた点について述べる。


出演者たちが自身の身体的特徴を列挙しながら、「個体差」のなかに次第に第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)が登場し、つわりの症状の多様性へと展開していく。「私のこの身体」にフォーカスしつつ、同時に匿名性を帯びる語りの並置と集積が、初演の前半部分を構成していた。一方、リクリエーション版では、出演者たちはそれぞれ、起床、着替え、朝食、通学、授業や部活、家事や仕事、帰宅、入浴、夕食、友達への電話など普段の日常生活のルーティンを同時多発的にマイムで淡々と再現していく。一周目が終わると「妊娠検査薬のシミュレーション」が挿入。「陽性反応の線が出た」出演者たちが二周目、三周目を繰り返す日常生活が次第に変容を被っていく。「つわりによる吐き気でご飯が食べられない」「階段がきつい」「部活に参加できない」「頭が重くてテスト勉強に集中できない」……。「実際にはそこに存在しないが、『ある』と仮定して振る舞う」演劇の原理に、「妊娠による体調・体形・体重・知覚の変化」というレイヤーがもうひとつ加わる、秀逸な仕掛けだ。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


初演の出演者たちはプロのパフォーマーであり、嘔吐の苦しげなうめき声、膨れたお腹を抱えた歩行の困難さ、そして分娩の耐え難い痛みの表現は迫真的であった。一方、リクリエーション版の10代の出演者たちは、不快感や痛みを懸命に表現しようとするが、演技としてはぎこちなさや硬さが残る。だがその「懸命に想像しようとしているが、『リアル』に再現できない」ことのリアリティこそが、「演技としてのリアルさ」よりも『擬娩』という作品の核に迫るものだったと思う。「私に属するものであるのに、私の意思で完璧に制御できない不自由な身体の他者性」を否定せず、引きずったまま存在することこそが、「理不尽な身体的変容」としての妊娠・出産と通底するからだ。

ぎこちない身体を(文字通り)引きずる出演者たちとともに並存するのが、やんツーによる舞台美術=自動化された機械の運動だ。擬人化されたセグウェイが舞台上を徘徊し、「5人目の出演者」としてつわりや日常生活の変化を想像的に語る。ルンバが床上を旋回し、台車の上では臨月へ向かって赤い風船が次第に膨らみ、3Dプリンタが上演時間の90分をかけてゆっくりとリンゴの形を成形していく。舞台美術として効果的・多義的に作品に奥行きを与えていたのは初演の林葵衣の方だが、ドラマトゥルギーに回収されない「異物」と舞台上でどう共存するかという点から新鮮な投げかけを与えていた。

ラストシーン、初演では出演者たちは手枷をはめ、出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という社会的圧力などを呪詛のように唱え続け、「管理と搾取と暴力と闘争の場」としての女性の身体をめぐる政治的力学へと一気に跳躍した。一方、リクリエーション版では、出演者たちは一列に並んで客席と相対し、「ははも ははのははも…そのまたははも はらんではるはらにはらはらしながらはるばるとつきとおか…」という言葉遊びの詩のような一節を唱和し、語感の軽やかさやリズム感も相まってポジティブな印象を残した。また、上演を通じて舞台中央にはスマホ画面を模したスクリーンが屹立し、つわりの症状緩和の検索に始まって、アドバイスのまとめサイトや出産経験を綴ったブログ、「#マタニティマーク」「#陣痛バッグ」などさまざまなハッシュタグが次々と表示され、痛みの緩和対策や便利アイテムなど妊娠・出産経験者からの膨大な助言が経験知の集合的蓄積として表示されていく。(何かに対して闘っているわけではないので「連帯」という言葉は適切ではないかもしれないが)それでもやはり経験知を共有する連帯的な場としてのネット=「現代の妊娠・出産」像を示していた。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


このように何重にもアップデートされたリクリエーション版だが、最後に、ジェンダーの視点から批評的後退と感じられた2点について指摘したい。上述の「擬人化されたセグウェイ」は、「妊娠・出産から最も程遠い存在としての、性別のない機械身体」という点でポストヒューマン的な視点を切り開いたと言えるが、「女性の声」で話すことの意味や必要性がどこまで考慮されていたのか疑問が残る。「産む機械」の文字通りの実装による批判性が見えてこなかった。

また、「クライマックス」としての分娩シーンを担うのは、初演時は男優であったが、リクリエーション版では女子高校生に変更された。日常生活の再現マイムで「鼻歌を歌いながら鏡の前で楽しそうにメイクし、付き合っている彼と一緒に下校」する彼女の振る舞いは、「シスジェンダーかつヘテロセクシュアル女性であること」を強く印象づけ、出演者のなかで最も「妊娠・出産の現実的可能性が高い」人物にあえて担わせた点に疑問が残る。「他者の身体に起こったことを習俗/演劇のフレームを借りて想像的に引き受ける」ことが本作の要だが、いったん(機械を含めて)限りなく広げた想像の域を、再び「自然的性」(と想定されるもの)に閉じ込めてしまったのではないか。例えば、分娩シーンを複数人でリレー的に分担する、いっそセグウェイに演じさせてみる、などの選択肢もあったのではないかという思いが残る。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]



関連レビュー

したため #7『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)

2021/10/17(日)(高嶋慈)

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