2022年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プロトテアトル『レディカンヴァセイション(リライト)』

会期:2022/06/11~2022/06/12

アイホール(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]

関西小劇場シーンの拠点のひとつのアイホールだが、昨年、税金負担や老朽化、市民の利用率の低さなどを理由に、伊丹市の意向で存続の危機に立たされた。演劇界の署名運動や市民からの声を受け、今後3年間は存続が決定したものの、主催・共催事業は縮小される。10年間続いた若手支援企画「break a leg」も今回が最終。同企画にはこれまで、冨士山アネット、劇団子供鉅人、FUKAIPRODUCE羽衣、コトリ会議などが参加してきた。その掉尾を飾るのが、FOペレイラ宏一朗が主宰する「プロトテアトル」。2015年の短編、2019年の長編化を経てリライトした作品が、凹状に一段下げた舞台、むき出しの壁、天井の高さなど劇場の空間性を活かして上演された。

大きな地震で崩れた、山奥の廃墟ビルが舞台。そこに生き埋めになった3つのグループ──2人の警備員、好奇心で訪れたアウトドアサークルの大学生たち、ネットの自殺スレッドに集った自殺志願者たち──計11人による群像劇だ。瓦礫に埋もれて身動きも取れず、携帯は落としたり圏外で助けも呼べず、暗闇のなか、相手と顔も見えないまま「会話」を続けるしかない。そうした極限状況が、身体を硬直させた俳優たちによって演じられる。構成は明快で、①警備員、サークル、自殺スレッドのメンバーという既存のコミュニティ内部での会話、②余震で床が崩落して落下し、それぞれのコミュニティに「外部からの闖入者」が混ざる、③さらに大きな揺れにより、全員が「最下層の地下駐車場」に集合する、という3パートからなる。建物の階層構造が物語レベルとメタ的にリンクする展開である。冒頭と各パート間に起こる「地震の揺れ」を示す、暗闇に響く激しいドラムの音が鮮烈だ。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]



人物・設定紹介の①を経て、「部外者」がコミュニティに混ざる②の局面では、「普段言えなかった本音」が口に出されて人間関係の修復や和解が生まれ、自殺願望者も死の恐怖に直面した者たちも、状況は何ひとつ変わらないにもかかわらず、最終的に「生きたい」という希望へ向かい、ラストシーンでは頭上から一筋の光が差し込む。物語はひとまずそのように要約できる。そこにはいくつもの二重性が書き込まれている。「顔の見えない相手とのコミュニケーション」は文字通りの暗闇/ネット空間の匿名性であり、誰かの声が聴こえるたびに反復される「救助隊の人ですか?」という台詞は、自殺スレッドのメンバーにとっては、その名も「ホーリー」と名乗るスレッド主が「死による救済」をもたらしてくれる期待でもある。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]


ただ、人物造形やエピソードはステレオタイプで平板に感じた。特に気になるのが、「死から生への転化」の鍵を握る、女性キャラクターの描かれ方の偏向である。「通帳ごと消えた」元彼(=警備員)と再会した自殺志願者の女性は、あっさり彼を許し「もう離さない」と抱きしめる。一方的な思い込みで互いに「相手の理想の恋人」を演じて疲れていた大学生の男女は、本音をぶつけ合い、関係を修復する。いじめが原因で「死にたい」と思っていた女子高校生は、自殺スレッドで知り合い、話を聞いてくれた男性「ホーリー」に「会いたい」気持ちが生きる原動力に転化する。だから彼女は、やっと会えた「ホーリー」が差し出す薬の瓶を、「私が欲しかったのはこんなものじゃない」と床に投げつけるのだ。3人とも、「男性への恋愛感情」のベクトルが、「死から生へと転じる(唯一の)原動力」である。彼女たちは実際には「ただ一人」なのだ。「何が好きで、何に興味があって、どんな人なのか、もっと知りたいから話すんだよ」という台詞が、女子大学生と女子高校生の双方で反復されることが、その証左である。

こうしたステレオタイプ的な描写は過去作品『X X』でも感じたが、ここで、『X X』と本作を空間構造から比較すると、プロトテアトルの志向性がより明確に見えてくるのではないか。『X X』では、四方を座席が囲むフラットな舞台空間上に、両親と娘の家庭、高校生たちが登下校で立ち寄る商店、交番、ホームレスのいる公園などが点在し、架空の田舎町の中で、孤島のように浮かぶコミュニティの生態が描かれる。水平的なコミュニティの住人が次第に交錯することで、人違いの撲殺事件という「悲劇」が最終的に起こる。一方、本作は「垂直性」に貫かれている。リアリズムベースの会話劇に基づくプロトテアトルだが、むしろ描こうとしているものの本質は、構造の方にあるのではないか。

本作では、まず、「既存のコミュニティ」が前提にあり、各成員はその基盤の上に乗っている「安定」状態が示される。廃墟ビル=(すでに綻びを抱えた)社会全体とすると、各階=各コミュニティのメタファーだ。だが、「地震」という外在的要因によって、その基盤が崩壊し、「普段は交わらないコミュニティ」と否応なしに「接触」させられてしまう。従ってここでは、「生き埋めになり救助を待つ人々の心理劇」の背後で、「地震」すなわち社会基盤を揺るがす大事件によって、異質なコミュニティと強制的に「接触・交差」させられる物語が語られているのだ。彼らは、「力を合わせて」脱出しようと奮闘するわけではない。ただ、「話し続ける」だけだ。暗闇のなかで相手を知ろうとするために。終盤、「まずは自己紹介から始めよう」と、各自が「(本当の)名前」を名乗ることは示唆的だ。閉塞感とともに匿名的な集団に飲み込まれていくのではなく、手探りでも「個人」として存在し始めようとすること。その声に傾聴すること。そこに、ラストシーンの「頭上からの光」が照らし出す希望がある。



[写真撮影:河西沙織(劇団壱劇屋)]

2022/06/12(日)(高嶋慈)

音で観るダンスのワークインプログレス

会期:2022/06/11~2022/06/12

京都芸術センター[京都府]

映画や映像配信で普及しつつある、視覚障害者に音声で視覚情報を補助する「音声ガイド」。「音で観るダンスのワークインプログレス」は、「音声ガイド」に着想を得て、視覚に障害のある人もない人にも「ダンスを見る多様な視点の共有」をめざすプロジェクトである。展覧会企画などを通じて、障害当事者とともに鑑賞の多様性を提案している、プロデューサーの田中みゆきが企画した。2017年からの3年間は、捩子ぴじんのソロダンスとともに実施。5年目となる今年は、ダンサーに康本雅子と鈴木美奈子を迎え、デュオ作品を創作した。上演ごとに構成や伝え方を変え、「音声ガイドの完成」自体が目的ではないため、「ワークインプログレス」と称している。

そもそもダンスは、「物語」や「一義的な意味」に還元されず、言葉による捉えがたさを抱えている。また、見えている人(晴眼者)でも「見え方」は多様だ。そうした本質的な困難さを自覚的に引き受けたうえで、「ダンス」のより豊かな射程を掘り起こしていこうとする点に意義がある。

本公演は3部構成で、①康本と鈴木によるデュオ、②そのダンスに触発された言葉の朗読がダンスに重ねられる「テキストバージョン」、③新たな試みである「サウンドバージョン」が上演された。テキスト執筆は文筆家の五所純子、朗読はダンサーの中間アヤカ、サウンドバージョンはサウンドアーティストの荒木優光が手がけ、コラボレーション的側面ももつ。上演後には、観客との対話の時間も設けられた。①のデュオでは、あえて照明を落とし、新聞紙を動かすカサカサという音や身体が床に打ち付けられる硬質な音が「動き」を想像させる余白を残した。



[撮影:松本成人]


特に、さまざまな点で示唆的だったのが、②の「テキストバージョン」である。手から離したティッシュペーパーが空気の抵抗を受けながら落ちる様子を「ハラハラ、ハラリンコ~」と表現するなど、擬音語や擬態語の面白さ。足でくしゃくしゃに踏まれた新聞紙は「足の裏で読んでみます」、ネギを持って振り回す腕は「腕の筋肉組織が伸びてネギの繊維とつながる」など、触覚や体感、想像力を織り交ぜて描写される。ふくらませたビニール袋を蹴るダンサーと、その横で転がるダンサーは、「うさぎが惑星を蹴ると、カメも転がる」と置換される。また、始めは「CとD」として抽象化されていたダンサーは、途中から「キャメロンとディアス」と呼ばれ、「見る人が自分でキャラクターに変換してストーリーを作ってよいのだ」と語りかける。詩のような比喩や視点の自由さ、言葉のリズム感とあいまって、「ダンスの見方がわからない」という人に対して入り口を広げてくれるだろう。

同時に「テキストバージョン」は、「言語」そのものの可能性と限界、力と脆弱さの両極を改めて顕在化させる。言語化の作業は、視点や切り口の多様さを示す一方で、目の前で起こっていることのスピードと同時多発性に追いつけず、出来事は常に言語からこぼれ落ちてしまう過剰さを抱えている。また、身体に貼りついた新聞紙を「文字がどこまでもしみ込んでくる」、ネギを持って激しく回転するダンサーを「ネギに振り回される」と表現するなど、「主語や主導権」を「ダンサー/モノ」のどちらに設定するか(どちらかにしか設定できない)という問題は、言語自体の構造を逆照射してもいる。



[撮影:松本成人]


一方、③の「サウンドバージョン」は異色とも言える試み。まず、舞台奥にカーテンで上半身を隠したダンサーが立ち、モニターの記録映像を見ながら、自分の行なった動きに合わせて、息の音、言葉にならない声、擬音、ハミングのような声を出し続ける。その声は、ノイズを混ぜつつ、舞台中央の2台の巨大なスピーカーから出力される。さらにスピーカーは台車に乗せられ、台車を押す荒木優光ともう一人のスタッフによって、行き交ったり衝突したりと「モノの運動」を繰り広げる。荒木はこれまで、「録音音声を流すスピーカーを俳優の代替物と見立て、音響とその立体的配置による、俳優不在の演劇作品」を演出してきたが、その「ダンスバージョン」とも言えるだろう。ここでは、「ダンスの身体」の不在の反面、ある種の過剰さを目撃することになる。発声に伴う、ダンサーの下半身や腕の微妙な動きや震え。舞台上を動き回るスピーカーの緩慢な運動。それを動かす荒木らの身体。一方、視覚運動と音の関係が興味深いシーンもあった。「スピーカーが定位置で止まったままぐるぐる回転する」シーンは、ダンサーの回転をスピーカーに置換したものだが、スピーカーが正面向きから後ろ向きになると音が遠ざかって感じられたように、音の出力方向の変化が「位置関係の遠近」に変換され、視覚の絶対性への疑いを提起する。



[撮影:松本成人]


このように、「同じものを3回見た」というより、ダンスをベースにどう新たな表現や視点を派生できるかという実験だった本企画。もちろんここには、「単に『動き』を記述することと、『ダンス』を言葉にすることとの違いは何か」という、より大きな問いがある。また、今回は音楽を使用しなかったが、「音楽は、ダンスの世界観をわかりやすく伝えるための補助的手段なのか」という、ダンスと音楽の関係にまつわる問いも派生する。テキストとサウンドを組み合わせたらどうか、ダンサー2人に「1つの声」ではなく「2つの別の声」を割り当てたらどうか、「朗読もダンサー」ではなく、声の質感をより繊細に表現できる俳優などが担ったらどうかなど、さまざまな発展可能性がまだまだある。「正解はどれか」ではなく、実験と対話を重ねながら、ダンスの見方がより豊かになれば、本企画の意義は汲み尽くせないだろう。


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2022/06/11(土)(高嶋慈)

韓国画と東洋画と

会期:2022/06/03~2022/06/26

FINCH ARTS[京都府]

「国名を冠した絵画ジャンル」を掲げつつ、何らかの差異やズレを示唆する点で、本展タイトルは「『日本画』から/『日本画』へ」展(東京都現代美術館、2006)を連想させる。「『日本画』から/『日本画』へ」展では、天明屋尚、町田久美、松井冬子、三瀬夏之介など、2000年代以降のポップで具象性の高い「日本画」が、歴史との(非)連続性の下に提示された。そこでは、「日本画」という同一の名称が反復しつつ差異をはらんで回帰していた一方、本展タイトルは、「韓国画」と「東洋画」という分裂を抱えている。この分裂や二重性は、日本の植民地統治における文化政策と、韓国におけるその批判的検証がもたらしたものだ。本展は、植民地政策や国家的アイデンティティと美術、美術制度の政治性と教育システムといった歴史的で大きな視点から、韓国の若手ペインター8名を紹介する意欲的な企画である。企画者は紺野優希。



展示風景[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]


明治の近代国家形成期に、それまでの諸流派を再編成しつつ、「書画」からの切り離しや浮世絵を排除し、西洋絵画を取捨選択的に取り入れながらも「西洋画」と自らを弁別する「日本画」が創設され、教育制度や官展という国家による受賞システムによって権威を確立していった。同様のシステムは、植民地統治下の朝鮮半島にも移植され、1922年に朝鮮総督府が創設した官設公募展「朝鮮美術展覧会」では、「西洋画」と区別して、「東洋画」というジャンルが公式化された。以降の植民地期において、日本人主体の運営や審査制度により、内地・中央の近代日本画の規範に従いつつ、「朝鮮の郷土色」「朝鮮らしいイメージ」が求められるというダブルスタンダードの状況が続いた。一方、民主化運動やソウルオリンピックへの機運が高まる1980年代に、「東洋画」に代わる民族的アイデンティティの基盤として公に提唱されたのが、「韓国画」の呼称である。だが、大学の学科名や画家の自称などには、「東洋画」との混用が今も続く。

本展出品作家は、壯紙(韓紙の一種)や墨など伝統的画材を用いる者が多いが、アクリル絵具との併用など技法や素材は多様だ。また、大学での専攻も「東洋画」出身が半数を占めるが、「西洋画」出身者もいる。ひとつの志向性としては、風景(画)の再構築というベクトルに、現代的表現を見てとることができる。例えば、イ・イェジンは、低解像度に落とした風景画像を、色域ごとに層に分けて壯紙を7枚重ねることで、デジタル画像を壯紙のレイヤーとして再物質化する。チェ・カヨンも、画像を元に、雄大な山河の風景を、緻密な筆触とフラットな色面、「空白」の混合体として再構築する。ズレて2枚重ねられたキャンバス、そしてキャンバスの「裏」に貼られた「元ネタの風景写真」の存在は、支持体の物質性や「表/裏」という空間性に言及する。キム・ヘスクは、シャープペンと墨による繊細かつ硬質な線描で建築物を幾何学的秩序に解体しつつ、半透明のレイヤー構造が、建物の表皮に蓄積した時間の層を示唆する。



イ・イェジン《緑の夏色》[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]




チェ・カヨン《山・採石場―Marija Curkから》[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]




キム・ヘスク《Curve》[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]


一方、「日本の着物を着た女性像をキャンバスに油彩で描く」イ・ヒウクの《鏡-image》は一見、異色に見えるが、「鏡」の多義性によるメタ絵画論として読み解け、本展のコンセプトの鍵となる作品ではないか。描かれているのは、落ち葉と枯れ枝の積もる地面に腰をかがめ、四角い鏡を拾い上げようとする着物姿の女性である。鏡には女性自身の顔と青空が映る。だが、この「鏡に映る光景」をよく見ると、「緑の葉を付けた枝」という季節の「嘘」が混じり、女性の頬が映る鏡面に「白い絵具の線」が付着し、この「鏡」自体が「描かれた表面」にすぎないこと、すなわち「画中画」であることを告げる。ここには、「鏡と絵画」をめぐる複数の意味が折り重なっている。「自己を見つめる装置」としての鏡、「外界を映して切り取る窓」としての絵画、「鏡=虚像」としての絵画。そして絵画の虚構性は、「描かれた光景」の虚構性から、国家的アイデンティティや支配システムの基盤としてつくられた「日本画」「東洋画」という絵画制度の虚構性へと及ぶ。イ・ヒウクの本作は、「近代日本画(その象徴としての美人画)」を「お手本」として模倣した歴史を反復し、自己のルーツを見つめつつ、「鏡」をめぐるメタ絵画論を仕掛けることで、絵画の歴史的制度の虚構性にまで踏み込む優れた批評となっている。



イ・ヒウク《鏡-image》[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]


チェ・スリョンの「泰平女」シリーズもまた、「韓国らしさ」「東洋らしさ」を批評的に問うている。映画やドラマに登場する「東洋風」の女性像をモチーフに描くが、彼女たちは目鼻立ちが曖昧で、幽霊のような気配をまとう。つかみどころがなく曖昧で、「現在」と接続できずに浮遊し、追い払おうとしても執拗に残存する亡霊としての「東洋的イメージ」。上述のイ・ヒウク作品と並置したとき、ではなぜ、「東洋的イメージ」が女性像に担わされるのかという問いは、「東洋風の女性像」が二重に他者化されたイメージであることを照射する。



チェ・スリョン《泰平女》(2点とも)[© Artists, Photo by Kai Maetani, Courtesy of FINCH ARTS]


展覧会タイトルの「韓国画と東洋画と」に続く「空白の第三項」に代入されるのは、「日本画」、あるいは北朝鮮での呼称「朝鮮画」かもしれない。タイトルに仕掛けられた「欠如」は、東アジアの近代という俯瞰的視点に立たねば視界から抜け落ちてしまうものがあることを示唆する。このように、「他国」として切り離せない大きな歴史的視座に立って同世代の作家を紹介する展覧会が、日本人によって企画されたことに、本展の指す希望を見た。


参考文献
洪善杓「『東洋画』誕生の光と影」(『シリーズ・近代日本の知 第4巻 芸術/葛藤の現場』、晃洋書房、2002、pp.175-189)
金惠信『韓国近代美術研究──植民地期「朝鮮美術展覧会」にみる異文化支配と文化表象』(ブリュッケ、2005)
稲葉(藤村)真以「研究ノート 韓国画の変遷─葛藤と模索の軌跡をめぐって─」(『美術研究』426、東京文化財研究所、2018、 pp.75-92)

2022/06/03(金)(高嶋慈)

ケダゴロ『세월』

会期:2022/05/26~2022/05/29

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

下島礼紗を主宰に2013年に結成されたダンスカンパニー、ケダゴロ。下島は、「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD 2020」にて受賞し、今年度よりセゾン文化財団の若手支援枠であるセゾン・フェローⅠに採択され、海外公演も予定など、新進気鋭の振付家である。ケダゴロはこれまで、出世作『sky』(2018)では連合赤軍事件とオウム真理教事件、『ビコーズカズコーズ』(2021)では1980年代の整形逃亡殺人犯である福田和子と、センセーショナルな社会事件を着想源としたダンス作品を発表してきた。前者では、オムツ姿で両手に持った氷の塊をダンベル体操のように持ち上げ続け、後者では、頭上に格子状の装置が張り巡らされ、腕の筋肉のみでその上に登って身を隠す/耐え切れずうんていのようにぶら下がる運動が繰り返され、悲鳴や怒号、「ガンバレ」と激励しあう声が飛び交う。ダンサーの身体に過酷な負荷をかけ続けることで、さまざまな集団的暴力(日本社会の同調圧力、規律や権威への絶対的服従、ジェンダーの暴力、そして振付という暴力)を観客に突きつけてきた。

本作『세월』では、2014年に韓国で起きた大型旅客船「セウォル号」沈没事故を題材としている。304名(うち修学旅行の高校生250名)の死者を出したこの大惨事は、積荷の過積載、乗船員の経験不足、救命道具や避難誘導の安全教育の怠慢、そして乗客へ「待機」のアナウンスを繰り返すだけで避難指示が大幅に遅れたことなど、複数の要因が指摘されている。

開演前から、舞台の上手奥にはオレンジに塗られた平台が山型に積み上げられ、名前のゼッケンのように胸に「세월(セウォル)」と書かれたTシャツを着た出演者たちが、この「船」の両側に佇んでいる。頭上には大きな拡声器が4台吊られ、時折アナウンスが流れる。開演と同時に出演者たちが平台の山から降りると、危ういバランスを保っていた「船」は、「ドーン」という轟音とともに崩壊。拡声器が不穏に傾く。だが彼らは、オレンジの平台=救命ボートには見向きもせず、単調だが中毒性のある韓国語の歌に合わせ、ふざけたノリの振付を集団的統率のもと踊り続ける。交互に韓国語の歌が繰り返し流れ、同調したダンスと、でんぐり返り、腕立て伏せ、2人1組での倒立など、体操的な運動がひたすら遂行される。拡声器から断続的に「カマニイッソ(動かないで)」という韓国語のアナウンスが流れるたび、ダンサーたちは「静止」するが、曲がかかると条件付けのようにダンスを再開する。不気味なまでに規律と指示に従う身体の集団性がただただ提示される。彼らはたびたび「過呼吸」に陥るが、「ヒーッ、ヒーッ、ハァー」という息のリズムまで完全に同期しているのだ。



[撮影:草本利枝]



[撮影:草本利枝]


また、拡声器からは、「上演終了まであと○分○秒です」とカウントする別の声も繰り返し流れ、「そのまま客席でお待ちください」という指示は、「上演終了=沈没」までのカウントダウンの時間を「客席に待機を強いられた身体」として耐えねばならないものとして、観客を「上演」という出来事の共犯者に巻き込んでいく。私たちは、目の前で息を切らして汗だくになっていくダンサーたちを「見せ物」として安全に消費するのではなく、客電が落ちずに舞台と地続きになった明るい光のもと、姿の見えない不可解な「命令」が下す暴力の宛先となるのだ。

後半、オレンジの平台はダンサーたちの手で組み替えられ、階段状の斜面を「緊急脱出シューター」のように一人ずつ転がり落ちたあと、海面に浮かぶ「救命筏」となる。だが、平台は両側から持ち上げて激しく揺さぶられ、筏に乗る者たちは「大波」に足元をすくわれながらも振付を遂行し続けようとする。疲労の蓄積のなか、ランナーズハイのようにさらに熱気と祝祭性を帯びていくダンス。終盤では、平台を裏返すと「オレンジの地に白い十字架」が現われ、ダンサーたちはゴルゴダに向かうキリストのように、一台ずつ背負って重荷に耐え続ける。救命装置が命を奪う負荷になるという究極の皮肉。一人、また一人と耐え切れず床に落とした者が立てる、「ゴトン」という絶命の音。「ガンバレ」と口々に励まし合う声。なおも流れる待機と静止を命じるアナウンスに従ったまま、どこにも進めない虚しい足踏みの音が暗闇に響き、幕切れとなった。



[撮影:草本利枝]


このように、オレンジの平台というシンプルな舞台装置にさまざまな意味づけを与え、セウォル号事故への示唆を散りばめた本作だが、メタレベルで上演されていたのは、やはり過去作品と同様に、徹底して「日本」という構造的暴力と、(観客も巻き込んだ)「上演」という暴力にあると思う。誤解を恐れずに言えば、セウォル号事故という「題材」は、そのための「設定」にすぎない。土着的な日本の踊りを思わせる振付に一瞬顔を出す、土下座や切腹の身振り=「謝罪」や自己責任の圧力。何度も反復される腕立て伏せは、理不尽な「懲罰」であり、腕と連動した頭の上下は「土下座」でもある。ダンサーたちは頬をふくらませて「息を止めた」状態で振付に従事するが、それは水難と同時に、「ひょっとこ顔」で舞い踊る祝祭性、そして「自由な発言の禁止」でもある。彼らの口を塞ぐのは、水の浸入だけではないのだ。

本作の動機には、下島が昨秋、韓国国立現代舞踊団から委嘱を受けて滞在制作を行なったことにあるという。ただ、セウォル号事故を「日本」の文脈と関連づけて扱う必然性が、本作からは見えてこなかった。特に疑問の中心は、作中で流れた「独島は我が領土」の歌である。セウォル号事故との関連性からは唐突で違和感を感じたが、韓国語を解さない観客にわかるようにあえて「日本語歌詞バージョン」を用いたことは、潜在的な主題が「日本」であることを示す。「反日」に過剰に反応する排他的な集団心理が「われわれ日本人」の一体感を形成することを示したと解すべきだろう。

ダンスサークルや運動部の練習着のような衣裳をまとい、「ゼッケンに書かれた名前」さえも匿名化され、ルール=振付に絶対服従する者たちは、日本社会という集団的狂気を上演し続ける。そこではルールに従う限り快楽がもたらされ、同調を強いる暴力に反転し、規律への服従が再生産されていく。過去作『sky』では、「ルール」を命じる存在が「教祖」「集団のリーダー」として明示され、特権的な男性ダンサーにその役が割り当てられていたが、本作では「拡声器から流れる不在の声」によって、私たちが内面化している証左が突き付けられた。私たちが見続けていたのは、「日本」が「沈没」していく姿にほかならない。だが、なぜ誰も異議を唱えず従い続けるのか?「脱出」するためにはどうすればいいのか?「ダンサーに集団的な肉体負荷をかける」というケダゴロの体質上、何を題材にしても構造的暴力性に帰着してしまう点は否めないが、本作では、(観客も含め)「ルールの内面化」を「拡声器」として可視化させる進化を見せたからこそ、「その先」の方向性に期待したい。



[撮影:草本利枝]


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2022/05/28(土)(高嶋慈)

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』

翻訳:雨沢泰

発行所:河出書房新社

発行日:2020/03/05

「パンデミック・ディストピア小説」ということで気になっていた一冊。原題は「見えないことについての考察」で、1995年に原著が刊行された。作者のジョゼ・サラマーゴは、1922年生まれのポルトガルのノーベル賞受賞作家。

ある日突然、交差点の車内で信号待ちをしていた男性が「視界が真っ白になり失明する病」を発症する。この「白い病」は、原因不明のまま、恐ろしい速さで無差別に人々に感染していく。発症した失明者と、感染が疑われる濃厚接触者は、家族から引き離され、医師も看護師もいないまま、元精神病棟に強制隔離される。兵士が昼夜見張り、脱走者は銃殺。送り込まれる失明者と濃厚接触者の数は増え続けるが、食糧の配給は次第に滞り、限られた食糧とベッドの奪い合いが始まる。元精神病棟は上下水道のメンテナンスもなされておらず、収容者たちは身体を清潔に保てず、排泄物は廊下にまで溢れ、悲惨な衛生状態に陥っていく。

だが、収容者のなかにただ一人、目の見える女性がいた。第一発症者を診察し、自身も失明した眼医者の妻である。「自分も失明した」と機転をきかせて夫を搬送する救急車に乗り込み、夫以外には秘密を打ち明けないまま収容所で暮らすことになったのだ。読者は、彼女の「眼」をとおして、この強制収容所=社会の縮図の闇を見つめることになる。社会から排除された者の人権を顧みない国家権力の発動。見えない者どうし、すなわち他人の監視の視線がなくなることで、盗みに始まり、良心や罪の意識が崩壊する。食糧の配分や遺体の埋葬をめぐり、人間の尊厳や倫理をどう保てるか。

ただし、「これは無秩序状態ではない」点に、本書の描く真の恐ろしさがある。「全員失明者」という平等性のなかに、自らの生存をより優位にするため、暴力で他者を支配しようとする者たちが出現する。左右の病棟と各病室という空間秩序が体現する支配構造は、仮の平等性を打ち砕く。最底辺の犠牲者となるのは、各病室への食糧の配分と引き換えに性暴力を強要される女性たちだ。「あちこちで本能のまま乱交状態になる」のではなく、各病室=社会集団内で男たちによる「集団的合意」の下で性暴力が遂行されることの方が、本質的な恐怖である。

登場人物の固有名がないことは、「個人としての尊厳も固有の顔貌も奪われた状態」を指すと同時に、寓話性を高める。「私たちには人間の本性が何も見えていなかった」という辛辣な批判/外見に惑わされず「真実の姿」に気づくというヒューマニズムを、「盲目状態」の両義性として本書は語る。

だが読み終えて強く感じたのは、本書は「ケアについての寓話」としても読めるのではないかということだ。なぜ、最後まで唯一失明しないのが「医者の妻」すなわち「女性」なのか。この疑問が導きの糸となる。「集団的な失明」が意味するのは、「監視の視線と道徳心の崩壊」と同時に、「自身のケアができない状態への強制的移行」である。収容所に医者も看護師も不在であること、つまりケアする者がいない環境設定の前半と、困難な旅路の末に自宅=私的な家庭領域に舞台を移した後半の双方において、「医者の妻」には、夫に加え、同じ病室の収容者たちに対し、食糧の確保、導線の誘導、傷の手当て、身体を洗う、衣服の洗濯から「就寝前の本の朗読」まで、あらゆるケア労働が降りかかってくる。そこには、自身も性暴力を受けながらも、被害者の女性たちの身体を洗い清めるという過酷な役目も含まれる。さらに作者は、「ケアする者」の(心の)ケアを担う存在にも目配りをきかせる。後半、さらに悲惨な状況に置かれる「医者の妻」の頬を伝う涙をなめ取り、無言で寄り添ってくれる「涙の犬」である。だが、この「涙の犬」も両義的だ。ケア労働の担い手とされるのは、性役割としての「妻」、そして見返りを求めず自身の言葉を持たない「従順な動物」なのだ。

「視界を覆う白い輝き」しか見えなくなった人々は、人間の本質的な闇の部分を「見ていなかった」と同時に、「他人のケアがないと人間的な生を持続できない」ことを「見ていなかった」寓話でもある。ラストで、人々は失った順番に再び視力を取り戻す。「医者の妻」は「今度は自分が失明する番だ」と恐れるが、彼女に失明は訪れない。なぜなら世界は「ケアを担う者」を永久的に必要とするからだ。失明から回復した人々は再び秩序や都市機能を取り戻すだろう。だが、「自分たちに本当に見えていなかったもの」が何だったか気づくだろうか。「医者の妻」がアパートの窓から視線を落とすと、「町はまだそこにあった」。これはディストピアの終わりを告げる希望ではなく、「ケアの終わりのなさ」の続行という絶望である。

2022/05/13(金)(高嶋慈)

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