2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

瀧弘子「天体」

会期:2022/01/25~2022/01/30

KUNST ARZT[京都府]

自らの肉体を駆使したパフォーマンスや絵画作品によって、アイデンティティの輪郭と多重的な分裂、「(男性の視線による)理想化された女性身体」への疑義をときにユーモラスに提示してきた瀧弘子。例えば、過去作品のインスタレーション《写身─うつしみ》では、暗い展示空間の中、観客が洞窟探検のようにライトを向けながら進むと、床や壁に置かれた鏡に光が反射し、乱舞する。鏡の表面には、瀧が自身の顔や裸身を映しながら輪郭線をなぞったドローイングが描かれており、その像は、観客のライトの動きに従って、揺れながら壁や床に投影=複製される。「現実の複製」「光の反射」という鏡の機能をうまく利用し、自己肯定とアイデンティティの不確かな多重性を示した。また、鏡に身体の輪郭線を「映す」/「写す」/「移す」パフォーマンスも行なわれ、瀧自身の豊満な裸身は、規範化された女性美への強烈な抵抗を示してもいた。



瀧弘子《天体をなぞる》(2022)


本個展では、自らの身体を「天体観測」になぞらえる試みが、写真、パフォーマンス、版画作品によって展開された。皮膚の表面に散らばるホクロやシミを「星」に見立て、線でつなぐことで「星座」を形づくっていく。その行為は、アイライナーやリップペンシルで線を引く化粧的行為を思わせると同時に、線の連なりは刺青にも見えてくる。瀧は、ホクロやシミ、すなわち「美白で除去したり、隠すべきもの」としてネガティブに価値づけられるものを、「化粧」に擬態した行為によって、刺青という装飾、別の美的価値へとポジティブに転換するのだ。



瀧弘子《うつろい》(2022)


また、もうひとつのパフォーマンスの記録映像では、暗闇の中、手に掲げたライトを動かしながら、ゆっくりと回転する瀧の裸身が映し出される。うつろう光に照らし出される身体の凹凸はクレーターのようで、月の満ち欠けを連想させる。輝く星座を持ち、天体として光を放つ身体。ただしその「光」は、誰かに投げかけられるのではなく、自身の手で掲げるものなのだ。



会場風景


2022/01/30(日)(高嶋慈)

Study:大阪関西国際芸術祭

会期:2022/01/28~2022/02/13

グランフロント大阪各所、船場エクセルビル、釜ヶ崎芸術大学、kioku手芸館「たんす」、花外楼 北浜本店ほか[大阪府]

日本国際博覧会(大阪・関西万博)が開催される2025年に予定されている大阪関西国際芸術祭のプレイベント。「アート×ヒト×社会の関係をStudyする芸術祭」というテーマのもと、「アートは、上流国民のものか」「アートは、必要か」「アートは、社会問題に対して無力か」といった問いを掲げている。会場は、大阪駅前の大型商業施設、ビジネス街の解体予定のビル、日雇い労働者の街として知られる西成のあいりん地区など、大阪という都市の多様な面がうかがえる構成だ。

ただ、「国際芸術祭」と銘打っているが、海外作家はポーランド出身かポーランドにルーツを持つ作家に限られ、実質的には「日本・ポーランド二ヶ国展」である。また、コロナ禍もあいまって、ポーランド作家の出品作はすべて映像だ。例えば、ポーランドの現代史や記憶をテーマに制作するミロスワフ・バウカは、アウシュビッツ絶滅収容所に関する映像作品を展示。《アウディHBEF144》では、ドイツ出身のローマ法王ベネディクト16世がアウシュビッツを訪問した際のテレビ放送画面を撮影し、無音の静止画のスライドショーとして解体/再提示する。黒スーツのボディガードに囲まれ、ドイツ車のアウディに乗った法王の姿はカメラに映らず、「見えない権力」の象徴を思わせる。また、リリアナ・ゼイツ(ピスコルスカ)の《強き姉妹たちは兄弟に語った》では、同性愛者やクィアのステートメントを引用しながら、異性愛中心主義の社会構造、異性愛者たちの無理解や特権意識の希薄さ、家父長制や性差別の抑圧、そのなかで醸成された自責の念に対する怒り、そして連帯への希求が、モノローグとして綴られる。ポーランドにルーツを持つ木村リアのミステリアスな絵画では、古典的な肖像画を思わせるポートレートが曖昧にぼかされ、その上を手で塗りたくったような絵の具の跡が覆う。「物理的には一枚の表面/レイヤー構造」という絵画の原理的構造に言及しつつ、イコノクラスム(画像破壊)的な衝動と、「イメージに触れたい」欲望とがない交ぜになった両義性を突きつける。


木村リア 展示風景[Photo: Kohei Matsumura]


一方、本展の特徴は、ローカルな文脈を会場構成に組み込んだ点にある。西成で地域の人々とともに表現活動を行なう「釜ヶ崎芸術大学」とkioku手芸館「たんす」が会場となった。kioku手芸館「たんす」は、美術家の西尾美也が地域の高齢女性たちと共同制作するファッションブランド「NISHINARI YOSHIO」の工房兼ショップである。女性たちの裁縫技術とセンスを活かした個性的な服を、地元男性たちが着こなしたファッション写真の展示や実際の服の販売が行なわれた。


NISHINARI YOSHIO(西尾美也 + kioku手芸館「たんす」)展示風景  [Photo: Kohei Matsumura]


また、2012年に西成のあいりん地区で開講した釜ヶ崎芸術大学は、日雇い労働者の街として知られる釜ヶ崎の街を大学に見立て、地域のさまざまな施設を会場に、年間約100の講座や大阪大学との協働講座などを実施する。別会場のオフィスビルでは、釜ヶ崎芸術大学の活動を凝縮して見せるインスタレーションが展開された。床にはダンボールが敷き詰められ、釜ヶ崎で暮らす人々が書いた習字が壁や天井を覆い尽くす。


釜ヶ崎芸術大学 展示風景[Photo: Kohei Matsumura]


大学を運営するNPO法人「こえとことばとこころの部屋(ココルーム)」の活動拠点であるゲストハウスでは、個室やドミトリーに作品が展示される。講座の講師を務めたことのある森村泰昌と元日雇い労働者の坂下範征の共同制作《Our Sweet Home》では、森村の作品画像やポスターが部屋じゅうに貼りめぐらされる。谷川俊太郎の《詩人の部屋》では、かつて谷川が泊まった部屋で書いた詩「ココヤドヤにて」とともに、宿泊者がその続きを書いたノートを読むことができる。また、コロナ禍のポーランドと釜ヶ崎をつなぐのが、ウーカシュ・スロヴィエツの《ヤコブの階段》である。観光客が途絶えた宿泊施設をホームレスの人々のために開放し、お茶を飲んでくつろぎ、シャワーを浴び、ベッドで眠る様子を静謐な映像で捉える。それは、メタレベルでは、「疎外された他者をアートは招き入れることができるのか」という問いへの応答でもある。


森村泰昌×坂下範征《Our Sweet Home》[Photo: Kohei Matsumura]



ウーカシュ・スロヴィエツ《ヤコブの階段》[Photo: Kohei Matsumura]


横浜、愛知(名古屋)などと同様の大都市圏であるにもかかわらず、これまで大規模な都市型芸術祭が開催されてこなかった大阪。同芸術祭は「『大阪=アート不毛の地』説」という問いも「Studyすべき問題」として自虐的に掲げるが、国内の他の大型芸術祭との差異や独自性をどう打ち出していけるか、3年後の本番に期待したい。


公式サイト:https://www.osaka-kansai.art

2022/01/29(土)(高嶋慈)

矢﨑悠悟×北村成美「リバイバル・リバイバル・サバイバル」

会期:2022/01/07~2022/01/08

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

ダンス作品の本質は、振付に宿るのか、ダンサーの身体にあるのか。あるいは、両者の微妙な配分の上に成り立っているのか。ダンス作品が、時代やジェンダーなどさまざまな差異を超えて手渡されるとき、作品の「継承」には、単なる型の反復に留まらない、どのような批評的創造性が宿るのか。そのとき「コンテンポラリー・ダンス」は、「新しさ」の消費でもポストヒストリカルな地平の「何でもあり」でもなく、どのように普遍性を持ちうるのか。時代を経た「再演」は、新たな「同時代性」をどのように照射しうるのか。本公演は、こうした問いを喚起する機会となった。

「リバイバル・リバイバル・サバイバル」と名づけられた本公演では、矢﨑悠悟(元ヤザキタケシ)と北村成美という関西のコンテンポラリー・ダンス界を代表する2人の振付家が、互いのソロ代表作を交換して踊るとともに、初のデュオとなる新作の3本が上演された。主催のNPO法人DANCE BOXは約10年前に「Revival/ヤザキタケシ」と「Revival/北村成美」を企画し、ソロ代表作や新作を振付家自身と複数のほかのダンサーがそれぞれ踊る試みを上演している。同じソロ代表作が対象となる本公演はその延長上にあるとともに、「ジェンダーの交換」がひとつのポイントとして前景化する。両作とも「ネクタイにスーツ姿の男の悲哀」「赤いパンツを履いたお尻を挑発的に突き出す」という記号的なジェンダー性の強い作品だからだ。

1本目は、矢﨑悠悟振付の『不条理の天使』(1995年初演)を北村成美が踊る。アルチュール・アッシュがしわがれ声で歌う妖艶なシャンソンに乗せて、パントマイムを交えたコミカルなダンスが展開される。拳銃を模した指先は、勢い余って鼻の穴に突っ込んでしまう。オフィスで華麗なブラインドタッチをキメながら、片手でランチを食べ、タバコを吸う仕草は、貪欲に指にむしゃぶりつく欲望を露にする。ランチ後のデスクワークでは、睡魔に負けて椅子から崩れ落ちる無残な姿をさらす。「ハードボイルドな男の世界」を演じきれない滑稽さが、顔の表情を極端に歪める誇張とともに示される。つねに大股開きの両脚も、男性性を強調する。中盤、上着を脱ぎ、椅子=拘束装置から離れて展開されるムーブメントは、彼につかのま許された自由な内面世界だろうか。だが、再び上着を羽織り、椅子の上に縛られた身体へと戻ってしまう。

この振付を北村が踊ることで、「構築された男性性」をなぞっているという奇妙なズレが増幅され、パロディーとしての批評性が生まれる。椅子に上ってロープをかけ、道化的に歪めた顔をさらす首吊りの幕切れは、つねに強い男性性を演じるよう強要する社会の暴力性を浮上させる。それは、「規範的な男性性」を規定する座である椅子が、自らを疲弊させ死に追いやる処刑台となるアイロニーだ。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


2本目は、北村成美振付の『i.d.』(2000年初演)を矢﨑悠悟が踊る。冒頭、赤いパンツを履いたお尻が客席に挑発的に突き出される。上半身は黒い布(まくり上げたスカート)で覆われ、暗闇とほぼ同化しているため、不可解な物体が闇に蠢いている印象だ。身体の断片化と、「シルエットの映像/自身の影」と同期/非同期的に踊る仕掛けにより、「identity」の問いと「independent(自立)」への希求が示される。背後の壁面に投影されるシルエットの映像は、生身の身体を凌駕する巨大さで屹立し、自己の理想像とも抑圧的な幻影のメタファーともとれる。このシルエットの映像=虚構は「生身の身体の影」に取って代わられるが、照明の操作により、3つに分裂したり、再び巨大化し、「私」と完全には一致しない。だが、決意を秘めたようにゆっくり一歩ずつ踏み出すラストシーンでは、生身の身体が黒いシルエットと化し、幻影でも虚構でもない「私自身」を力強く示す。矢﨑は、沸き上がるエネルギーを叩きつける「動」と内に強さを秘めた「静」によって、作品の輪郭をくっきりと描いてみせた。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


そして矢﨑と北村が共演する3本目『ランランラン』では、トレーニングウェアの2人が舞台上をジョギングし、後ろ向きに走ったり、蛇行したりと走り方に変化を付けていくなかから、次第にムーブメントが生まれていく。ぐっと内に力を込めて放出する北村と、流水のように軽やかな矢﨑の対照性。やがて互いの特徴的な動きが共有され、断片の連なりがひとつながりのムーブメントを形成していく。ユニゾン、そしてコンタクトを介したデュオへの展開を経て、ラストは再びジョギングに戻っていく。飾らない関西弁の会話のなかにダンスの個人史の語りも交えることで、2人の走る軌跡はそれぞれのダンス史の軌跡のメタファーとなるとともに、「走り続ける」決意が示された。異なる方向を向き、交差し、時に蛇行や後ろ向きになりながらも、道は続いていくのだ。


[撮影:岩本順平]



[撮影:岩本順平]


2022/01/08(土)(高嶋慈)

プレビュー:レパートリーの創造 市原佐都子/Q「妖精の問題 デラックス」

会期:2022/01/21~2022/01/24

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

劇場のレパートリー演目の製作を念頭に、アーティストに新作やリクリエーションを依頼するロームシアター京都のプロジェクト「レパートリーの創造」。第五弾では、『バッコスの信女─ホルスタインの雌』で第64回岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家、市原佐都子の代表作のひとつ『妖精の問題』がリクリエーションされる。2016年の相模原障害者施設殺傷事件をきっかけに創作された『妖精の問題』では、老人介護、ルッキズムに基づく女性差別、障害者、害虫、体内常在菌、女性器といった現代日本社会で「見えないもの=妖精」とされるタブー的事象が俎上に載せられ、美醜、善悪、有用性、清潔/不潔の価値基準や優生思想、見えない抑圧や偏見に対して問いを投げかけていく。一部「ブス」、二部「ゴキブリ」、三部「マングルト」の三部構成からなる本作は、初演版では女優の一人芝居により、それぞれ「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という(演劇の外部の)異なる形式で演じられる点も大きな特徴だった。2020年には、コロナ下の状況で、出演者たちがZOOM上で演じる「オンライン版」が国内外で発表された。特に、「菌=不潔」ではなく、体内常在菌との共生について語る三部は、「視聴者参加」を巧みに組み込んだ構成もあり、コロナ下で加速する「異物・他者の排除」を絶対的善とする思想を改めて問うものだった。

「デラックス版」と銘打たれた今回は、一人芝居の形式を解体し、公募やオーディションで選出された7人の俳優が演じる。初演版では落語として演じられた一部「ブス」は、漫才の形式として大幅に改稿され、ほぼ書下ろしの新作になる。また、ドラマトゥルク、音楽、舞台美術、衣裳も大きく変更。音楽は初演版に続き額田大志が担うが、ピアノ伴奏による歌謡ショーの二部を、4人編成のバンドとして再構成する。ドラマトゥルクにパフォーマンス批評の木村覚、衣裳に「お寿司」主宰の演出家・衣裳作家の南野詩恵を迎える。「下半身はオムツを履いただけ」という初演版のショッキングな衣裳が、南野の独創性によってどう再提示されるか。また、舞台美術は建築家ユニットのdot architectsが新たに担当。これまでの市原の作品は、舞台と客席を二分した正面性の強いものだったが、観客も舞台に参加しているような構造になるという。オンライン版での「視聴者参加型」をリアルの場へ実装させる展開であり、「傍観者」であることを揺るがし、観客自身が内に抱く偏見や嫌悪の感情を身体的にあぶり出す仕掛けになるのではと期待される。



「妖精の問題 デラックス」[撮影:中谷利明]

関連レビュー

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)
Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)
市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)
Q『妖精の問題』|木村覚:artscapeレビュー(2017年10月01日号)

2021/12/30(木)(高嶋慈)

Choreographers 2021 次代の振付家によるダンス作品トリプルビル&トーク
KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020 受賞者公演

会期:2021/12/30

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

上演とトークを通して「振付家」に焦点を当てる、NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)の企画シリーズ「Choreographers」の第1弾。2020年にスタートしたコンペ「KYOTO CHOREOGRAPHY AWARD(KCA)2020」の受賞振付家3名による3つのダンス作品が一挙上演された。ロームシアター京都のサウスホールという広い空間での再演にあたり、尺や出演者の変更などのリクリエーションを経て、より練り上げられた再演となった。

横山彰乃/lal banshees『海底に雪』は、ポップで歯切れのよい振付のなかに、可愛らしさと不穏さが同居する。おそろいのチェック柄のツーピースに、青い靴下と白い靴を身に付け、機械のようにシンクロして動く女性ダンサーたちは、記号的な少女性や制服的な匿名性を思わせ、アイドルへの近似性も感じさせる。浮遊感と不穏さが同居するビートにピタリとはまった精緻な振付は魅力的で、トリオとしてのシンクロ、時にズレる動きの緩急、ソロやデュオへの編成のなかに、無邪気な少女たちの遊戯が顔をのぞかせる。だが、舞台下手には、上演開始からうつ伏せに倒れたままの4人目の身体が横たわっており、少女たちの世界はこの死体が見ている出口のない夢なのかもしれない。正面の壁には、水の入ったペットボトルの列がずらりと吊り下げられており、照明の変化や指先でそっと触れるダンサーに反応し、水面のようにキラキラと光を放つ。死体の擬態という「静」と対置させることで、トリオの「動」を引き立たせる、計算に満ちた夢幻的な世界を見せた。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


松木萌『Tartarus』は、タイプの異なる音楽の巧みな使い分けのなかに、黄金に輝くチューバ、白い花束、個人のテリトリー/ベッド/船/扉/墓標へと変貌する平台といった小道具を駆使して、生と死と性をめぐる抽象的なドラマを繰り広げる、男女デュオ作品。冒頭、闇に響く霧笛のように規則的に響き続ける重低音は、目覚めの合図だ。次第に闇のなかから金色に輝き出すチューバの物質感。それを挟んで対峙する男と女。舞台中央に敷かれた長方形の平台の上で、女(松木)は伸びやかなソロを繰り広げる。それは、「私だけの領域」にいることの自由さと、その限定された狭さを同時に突きつける両義性に満ちている。限られた安全な領域を奪い合うように、平台の上から女を何度も蹴って転がす男。闇のなかに伸ばされた手に握る花束は、誰かの手に渡ることはなく、虚空に孤独なストロークを描く。平台はやがて小船へと変貌し、男の乗った船板を女は苦役のようにロープで引っ張る。暗く駆り立てるような弦楽合奏、南無妙法蓮華経を唱える荘厳な声明しょうみょうと音楽が次々と入れ変わり、軽快なキャバレー音楽に合わせて女は孤独なチャールストンを踊る。垂直に立てられた平台は別世界への扉か墓標を思わせ、その頭上では宙に浮いたチューバが動かない金色の旗のようにきらめく。目覚め、愛と憎しみ、苦難の生、孤独、葬送と死の予感。絵画的な世界のなかに、凝縮されたドラマを見せた。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


トリを飾った下島礼紗/ケダゴロ『sky』は、2018年の初演から国内外で再演を重ねている怪作にして問題作。連合赤軍事件(1971-)とオウム真理教事件(1988-)にインスピレーションを得て創作されたというが、中心的な主題は「集団と暴力」をめぐる外延であり、その批判の矛先は「ダンスという暴力」へと向けられていく。白いオムツを履き、同様の素材で胸を覆っただけの女性ダンサー10名が、口々に悲鳴を上げながら舞台上に転がり込んでくる。ただ一人、赤いフンドシで区別された髭面の男が悠々と登場。オムツをずり下ろし、半ケツ状態で露出された女性たちの尻をピシャリと叩いていく。「痛ッ」という悲鳴の連鎖。女性たちは赤く腫れた尻を剥き出しにしたまま、ダイナミックな群舞を繰り広げる。それは一糸乱れぬ軍隊的な規律のようにも、恐怖と群れの本能につき動かされる奇妙な動物のようにも見える。活を入れる/懲罰を与えるケツ叩きと群舞の反復のなかに、不穏なサイレンと赤く染まる照明、「君たちは完全に包囲されている」というアナウンス、そして革命歌「インターナショナル」の調子外れの大合唱が挿入される。

後半、女性たちは両手に大きな氷の塊を持って登場し、ダンベル体操のようにそれを持ち上げ続ける。「痛い」「もうダメ」という弱音がもれるたび、「頑張れ」「まだいける」と励まし合う声が運動部のノリで飛び交う。「極厳修行は楽しい」「必ず解脱するんだ」というリフレインをポップな音頭に乗せて歌うオウム真理教の「極限修行者音頭」が流れ、肉体の鍛錬/教祖が指揮する修行/不可解な命令への一方的従属に、ダンサーたちはひたすら従事し続けるが、一人、また一人と氷を床に落とし、脱落していく。



[Photo by Toshie Kusamoto]



[Photo by Toshie Kusamoto]


具体的なモチーフのレベルでは、指導者への絶対的忠誠や内部粛清を繰り返した集団的狂気だが、フンドシやハチマキ、紅白や音頭のリズムといった「ムラ」「祝祭」「前近代的共同体」を連想させる仕掛けによって、日本社会の持つ同調圧力と排除の暴力があぶり出されていく。そこには同時に、「ダンスのサークル」「体育会系」の集団内部の暴力性が重ね合わされる。ここで、「特権的なただ一人の男性と、彼に従順に従い、暴力=指導を受け入れる女性たちの集団」という構造は、さまざまな社会集団の権力構造が、ジェンダーという暴力も含むものであることを物語る。「ケツを叩く指導者の手」が「尻を執拗に撫で回す手」に変わる瞬間は、権力関係を利用した性暴力を示唆する。さらに、左翼運動をもじり、「私は、この作品から逃げたことをソウカツする!」という出演者の「自己批判」は、批判の矛先を「振付家」へと向けていく。最終的に露呈するのは、「規律と権威への服従」という集団的暴力と、ダンスカンパニーの同質性である。肉体への過酷な負荷と乾いた笑いとともに、集団のはらむ同調/排斥の暴力、ジェンダーの暴力、そして振付という暴力を見る者に突きつけた。

ラストシーンで、自身も出演する下島は、氷ではなくドライアイスの塊を手に再登場する。火山の噴煙かテロの爆発を思わせる、もうもうと噴き上がる白い煙。それは、ダンスに対する革命の狼煙だ。



[Photo by Toshie Kusamoto]


公式サイト:https://choreographers.jcdn.org/

2021/12/30(木)(高嶋慈)

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