2021年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

福井裕孝『デスクトップ・シアター』

会期:2021/07/02~2021/07/04

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「デスクトップ・シアター」というタイトルを聞いて想起されるのは、Zoomや動画配信サービスを利用した「オンライン演劇」の四角い画面だろうか。だが本作は、劇場というフレームを問い直すことなく映像の再生フレームに移植しただけの多くの「オンライン演劇」の凡庸さとは異なり、通常は不可視の基底である「舞台のフレーム」それ自体を複層的に問う、優れてメタ演劇的な思考を提示していた。

会場に入ると、計7台の「テーブル」がコの字型に設置され、文庫本、小さな植物の鉢、動物や人型のフィギュア、マグカップ、ペットボトルなどが置かれている。観客はテーブルの外側に「着席」し、アクティングエリアとなるコの字型の内側の空間およびテーブル上で行なわれる、「もの」と出演者のふるまいとの交差を目撃することになる。ここで「テーブル」は、アクティングエリア/観客の領域を区切る境界であると同時に、両者が共有する界面でもあり、両義的な機能を帯びている。



[撮影:中谷利明]


出演者たちは無言で1人ずつテーブルにつき、日常的な/日常を逸脱した「もの」の使用と再配置に興じはじめる。几帳面に整列されていく「もの」たちは街路の整備や拡張を思わせ、角を揃えて積み上げられる本のタワーもまた、擬似的な街並みを形成し、仮構的な「風景」を出現させる。ペットボトルやマグカップ(=建物)、小さな鉢植え(=街路樹)、ミニカー、人型のフィギュアのあいだを縫って、紙袋をゆっくりと移動させていく、ヘルメットを被った男がいる。「Uber Eatsです」という静寂を破る声は、彼が仮構された街を進む配達員であったことを明かす。「テーブル」=舞台、もの=俳優や舞台美術、ものを動かす人間=黒子や演出家によって、「擬態」としての演劇と、それを支える不可視の基底面の露出がまずは提示される(ただし、テーブルの縁に沿って交互に差し出される人差し指と中指が演じる「フィンガー・シアター」や、出演者に実際の「黒子」が混ざる事態は、この単純な図式を攪乱させる)。加えて、複数のテーブルで同時並行的に「出来事」が進行することは、「視線の一点集中」という劇場機構の支配的力学に対するアンチとして機能する。一方、例えばテーブルの前の椅子に座って本を読む、トランプを並べて神経衰弱のゲームをするなど、「テーブル」それ自体も、「概念としての舞台」と「日常的な使用」とのあいだを曖昧に揺れ動く。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


静謐な進行に秘かに亀裂を入れるのは、モノローグの挿入だ。ひとりの出演者が、「壊れた旧式の電気コンロの上に、新しく買ったIHコンロを置いて使用している」と語り出す。一見たわいのない日常的な話だが、「層構造」の示唆を端緒に、物理的な高低差においても「もの」の水平的な移動においても均質な水平レベルを保っていた「テーブル」のあいだに、レベル差が生じ始める。ローテーブルが持ち込まれ、「もの」はテーブル上から床の上へ降ろされ、垂直移動を開始する。ただし、「ものの置かれた秩序」は生真面目に厳密に保たれたままであり、「秩序の再インストール」が可視化される。食器やナイフ、フォークが配置されたテーブル上で語られる「テーブルマナー」についてのモノローグもまた、「テーブル=秩序・ルールが支配する場」であることを示唆する。

後半では、盤石で不動に見えた「テーブル」自体が分割され、切り離された一部が移動を開始する。それは本土から切り離された島か飛び地の領土のように空間の中に新たな位置を占め、床の上に再構築された「もの」の配置の上にも覆い被さる。一方、床ではなく、「テーブル」の上を歩いたり、「テーブル」の上に椅子を並べる者も現われ、テーブル/床の弁別が等価になり、垂直というレベル差がもつ階層秩序も攪乱・上書きされていく。



[撮影:中谷利明]


きわめて具体的な「もの」(テーブル自体も含む)を用いながら、抽象的なレベルにおいて、不可視の基底面の可視化、再物体化、水平/垂直のレベル移動、複層化とその弁別の攪乱、「秩序」の構築と解体の政治学を示した本作。終盤では、「床/ローテーブル/テーブル/床面として使用されるテーブル」のレベル差の複数性とその混乱は保持したまま、「日常の事物の秩序」が回復されていく。リュックを背負って現われた者に、ホテルの設備について説明するフロント係。飛沫防止のアクリル板が置かれたテーブル。マイムでパソコン作業する者。テーブルを挟んで椅子が並べられた、会議室の光景。

食卓の配膳、食器棚や本棚の並び順、デスク上の書類やパソコンの配置から「デスクトップ」上のアイコンの整列まで、私たちの日常生活は「もの」とその秩序化によって成り立ち、そこに微細な政治性が宿っている。それは微視的なレンズで見れば「日常の事物を構成する秩序」だが、より巨視的なレンズで抽象化すれば、「秩序のインストールや上書きによる、国家や共同体の成立/排除」へと変容する。福井は過去作『インテリア』においても、「部屋」という個人の私的領域における日常的な「もの」とその再配置を通じて、空間の私有化や(再)領土化の政治学を浮かび上がらせていた。興味深いことに『インテリア』では、「部屋の住人」のルーティンを規定する起点=中心が「テーブル」であったが、本作はさらに、この「テーブル」それ自体を入れ子状に「舞台」のメタファーとして扱い、垂直移動や分割といったより複雑な操作を通して、優れてメタ演劇的な省察を内蔵させていた。


関連レビュー

福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
福井裕孝『インテリア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2021/07/04(日)(高嶋慈)

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声(後編)

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

映像鑑賞後のVR体験空間では、鑑賞者は「茶室」「監獄」「空」そして「座禅室」の空間に入り込み、実際の音読を聴くことになる。4つのVR空間の移動は、「座る=茶室/座禅室」「横たわる=監獄」「立つ=空」というように、鑑賞者の身体の位相に連動する。加えて特筆すべきは、「VR空間への没入=身体と現在時の忘却」ではなく、「鑑賞」に身体的な負荷がかけられ続ける点だ。茶室での座談会の発言を聞くためには、不在化された「5人目の同席者」である「速記者」の身体となり、VRの鉛筆を握る右手を紙の上で動かし続けねばならない。手を止めると座談会の声は消え、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ歌集『アジアの砂』(1971)から、凄惨な戦場の光景や京都学派への辛辣な批判を詠んだ短歌が聴こえてくる。その凄惨さに身じろぎできずにいると、茶室の光景がすっと遠のき、無限に続くような「座禅室」が現われ、自らも座禅で思想鍛錬した西田幾多郎の講演を読む声が響いてくる。床に身を横たえると、汚れた床を蛆虫が這い回る狭い独房に閉じ込められた囚人となり、三木清と戸坂潤の言葉を読む声がそれぞれ左右から聴こえてくる。

「声」を聴く「私」は、次々と異なる身体に憑依し続ける。戦争を正当化する机上の論理を書き留める速記者の身体に、既に中国戦線を経験した彼の脳裏で響く悔恨のフラッシュバックに、超越的な時空間で沈思黙考する思想家に、自由を奪われた虜囚に。



会場の様子[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで、使用されたソースが、(戸坂をのぞき)「座談会や講演」すなわち元々は目の前の聴衆や対話相手に向けて肉声で語りかけた声であることと、映像内のナレーションで「出典情報」に言及していることに留意したい。(西田と田辺をのぞき)これらの講演やテクストは彼らの全集から除外され、座談会の収録本は復刻もなく、現在は一般に流通していない。ホーは、「かつて生身の身体から発せられた肉声」であり、「『戦争協力』として忘却された声」に、二重の意味で再び「声」を与える。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


この声の聴取と「憑依」体験が、メタVR論的な省察と交差する秀逸な極点が、「空」のVRである。ガンダムの「量産型ザク」を思わせる戦闘ロボットのモビルスーツを装着し、青い海上を駆ける「私」の周りでは、仲間の機体が次第にバラバラに分解し始める。視点を下に落とすと、「私」の機体も同様に分解し、ゆっくりと粉々の破片に粉砕され、死への怖れの克服と「国家のために死ぬとき、人は神となる」という田辺の講演が聴こえるなか、塵となって空に消えていく。もはや何もない虚空に浮かぶ、身体のない「私=特攻兵士」。「VR世界への没入=身体の一時的消滅」のリテラルな実践が、「英霊」になる擬似体験と戦慄的に重なり合う。「VRにおける身体の一時的消滅」について、「魂が浮遊する天上的空間での一種の臨死体験」と「拘束や重力の負荷」の落差を批評的に突きつける作品として、小泉明郎『縛られたプロメテウス』(2019)が想起されるが、本作にもVR自体に対するメタ的な批評性が胚胎する。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで本作を別の角度から見ると、「アニメーションと戦争」という批評軸が浮上する。本作で「アニメーション」という形式が選択された理由として、戦争協力、ロボットアニメ、セル画の構造という複数の点が絡み合う。《旅館アポリア》でも、漫画家・横山隆一による海軍プロパガンダアニメーション映画『フクチャンの潜水艦』(1944)が引用されていたが、小資本の家内制手工業だった戦前の日本のアニメーション業界は、日中戦争勃発後に戦時色を強めるとともに、軍部の資本提供により産業化の土台が形成された。また、アジア太平洋戦争と「ロボットアニメ」(が描く虚構としての戦争の娯楽的消費)の批評的な重ね合わせとして、藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943)の死闘図の兵士たちを量産型ザクに置き換えた会田誠の《ザク(戦争画RETURNS 番外編)》(2005)が連想される。VR「空」と同様、「特攻」「玉砕」の美学が「量産型ザク=匿名の消費財」に置換されることで、「戦闘ロボットアニメが繰り広げる虚構の戦争」を娯楽として「消費」する私たち自身の眼差しこそがそこでは問われている。

一方、「セル画アニメ」の形式性への言及は、映像「左阿彌の茶室」の重なり合う2枚のスクリーンに顕著だ。セル画アニメは、背景やキャラクターが描かれた透明のセルを重ねる層構造で表現する。視点を斜めにズラすことで出現する「背景=茶室」のスクリーンと「別の視点の語り」は、歴史に対してつねに複層性と視差を持って眼差すことの重要性を指し示す。

このように本作は、単に一枚岩の「戦争協力」として糾弾するのではなく、戦争遂行の背後で駆動していた構造の力学をあぶり出し、アニメとVRという使用メディア自体に対する批評性とともに、複雑に交錯するその力学を立体的・身体的に展示空間に再インストールすることに成功していた。



会場の様子「左阿彌の茶室」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


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2021/07/03(土)(高嶋慈)

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ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

本稿の前編では、「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」の作品体験の前半部分をなす映像パートについて、言及される歴史的資料の基本情報とともに概説する。後編では、映像鑑賞後に用意されたVR体験について、本作の持つメディア論的な批評性の拡がりとともに分析する。

東南アジアの複雑な近現代史について、多様なテクストや映画を引用・接合する手法により、「歴史とは、複製されたイメージの断片が集合的に形づくるフィクションにすぎない」ことを暴きつつ、オルタナティブな語り直しの手法を提示してきた、シンガポール出身のホー・ツーニェン。その作品群は、歴史を語る主体や「国家」のオリジンといった「唯一の正統な起源」への疑義を常に呈しつつ、「声」の多層性の回復に向けて賭けられている。

あいちトリエンナーレ2019で反響を呼んだ《旅館アポリア》は、「展示会場の元料理旅館に出撃前の特攻隊員が泊まった」という史実を起点に、シンガポールも含む日本の軍事侵略に関わる力学を分析し、空間に再インストールした映像インスタレーションである。軍報道部映画班に徴集されてシンガポールに滞在した小津安二郎の映画や海軍プロパガンダのアニメーション映画を引用しながら、特攻隊の遺書や軍歌、京都学派の思想、文化人の戦争協力体制について、ホー自身の所感やリサーチャーとの往復書簡も交え、語りの主体の多重性、スクリーン=視点の複数性を担保しながら語られる。

《旅館アポリア》の続編とも言える本作「ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」は、日本の軍事侵略期と重なる1930-40年代に思想的影響力を持った学際的ネットワーク「京都学派」に焦点を当てるものだ。本作は、それぞれ2面のスクリーンで構成される3つの映像作品「左阿彌の茶室」「監獄」「空」と、VR体験空間「座禅室」からなる。2面×3=計6面の映像作品はすべて同尺の3Dアニメーションで、冒頭で京都学派の説明が同期して流れた後、西田幾多郎を祖とするそれぞれの思想形成を空間のなかに再配置するように、分岐していく。囁き声のナレーションにより、計5つの座談会・講演の概要や時代背景を聞いた後、ヘッドセットを装着して「茶室」「監獄」「空」「座禅室」のVR空間に入り込み、実際の読み上げ音声を聞くという流れだ。



会場の様子「左阿彌の茶室」「監獄」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


まず、「左阿彌の茶室」では、「京都学派四天王」と呼ばれた西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高による座談会「世界史的立場と日本」(1941)が紹介される。真珠湾攻撃の約2週間前、雑誌『中央公論』の企画によって京都の料亭の茶室で行なわれたこの座談会では、ヘーゲルの歴史哲学の批判的乗り越えと歴史の推進力について論じられ、戦争の道義的目的が作り出された。この「左阿彌の茶室」は重なり合う2枚のスクリーンで構成され、視点を斜めにとると、座卓を囲む4人の思想家を映す半透明スクリーンの背後に、無人の茶室を映すもうひとつのスクリーンが現われる。この「背景」では、彼らの思想的バックボーンである西田幾多郎に焦点が当てられ、「日本文化の発威」を目的に文部省の要請で行なわれた公開講座「日本文化の問題」(1938)が紹介される。また、前面のスクリーンでの「戦争協力」を相対化するように、背面では近年発見された新資料「大島メモ」が言及され、東条英機内閣の打倒と対米関係の是正を目的として京都学派が海軍との秘密会合を開いていたことが語られる。



会場の様子「左阿彌の茶室」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


続く「監獄」では、背中合わせの2枚のスクリーンでそれぞれ、豊多摩刑務所を舞台に、京都学派左派とされる三木清と戸坂潤が紹介される。三木清の談話「支那事変の世界史的意義」(1938)は、日中戦争勃発の翌年、近衛文麿内閣のシンクタンクとして発足した「昭和研究会」で発表され、後に「大東亜共栄圏」に発展する「東亜協同体」の概念の母体となった。また、戸坂潤の論考「平和論の考察」(1937)は、「国内の秩序安定と東洋の平和のために、日本国外での一時的な戦争の必要性」を訴えるパラドキシカルなものだ。逮捕された三木のポストを戸坂が引き継いだこと、ともに閉鎖的なアカデミズムの外部で反ファシズム活動を行なったこと、獄死という共通性が、ナレーションの同期や表裏一体の空間配置で強調される。


そして「空」では、対面する2枚のスクリーンで、田辺元が京都帝国大学で行なった公開講座「死生」(1943)が紹介される。5カ月後には学徒動員が開始される戦局悪化の状況下で、田辺が若い学生たちに語ったのは、死のなかに生を投企する「決死」の覚悟と、「国家のために死ぬことで個人が絶対者つまり神とつながる」という論理である。そして、「青空を駆ける戦闘ロボットアニメ」がスクリーンに映し出される戦慄的な理由は、VR体験で明らかとなる。



会場の様子「空」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]

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2021/07/03(土)(高嶋慈)

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Soft Territory かかわりのあわい

会期:2021/06/27~2021/08/22

滋賀県立美術館[滋賀県]

4年間の休館を経て、「滋賀県立近代美術館」から名称を変え、リニューアルオープンした滋賀県立美術館。オープニング展である本展では、滋賀にゆかりのある若手作家12名が参加する。休館中に県内で展開した若手作家紹介プログラム「アートスポットプロジェクト」の参加作家9名に、新たに3名が加わった。同館では1986-99年度まで、同時代の作家を紹介する企画「シガ・アニュアル」が開催されていた歴史を踏まえ、原点回帰として、「地元と関わりのある若手作家かつすべて新作」というチャレンジングな態勢で臨んだ。「リスクは高くなるが、リスクを引き受けるような美術館でなければ、注目を集める若手作家は関わってくれない。また当館には、そのリスクを楽しめる学芸員がいる」というディレクター(館長)の保坂健二朗の言葉には、同時代の創造の場所としての美術館に対する期待と自負がにじむ。


展示の前半では、廃材の再利用や自然物を媒介的に取り込んだ表現が並ぶ。度會保浩は、昭和の住宅に使用された型板ガラス(ガラスの片面に凹凸の模様を付け、視線を遮断しつつ採光を確保する)の断片を接合し、壺の形態に再構築した作品を出品。西川礼華は、花を包んだ布を土や水に浸し、微生物の分解や風化作用によって遺物化させたものをベースとしてつくる。その生命の痕跡を読み解くように描画した日本画は、エネルギーや気の流れを思わせる繊細な震えに満ちている。藤永覚耶の作品では、スライスした丸太の片面にインクで画像を刷り重ね、毛細管現象により木の内部を通ったインクが、反対面に無数の色の粒となって「像」が出現する。植物組織の現象を利用して、印刷画像の最小単位である「ドット」、複製、時間の痕跡について問う。



度會保浩 展示風景[撮影:artscape編集部]


フライヤーのメインビジュアルにも採用され、鮮烈なイメージで目を引くのが、河野愛の写真作品《こともの foreign object》である。まだ体毛も生えそろわないような滑らかな乳児の皮膚のあいだで光る、一粒の真珠。それは、今まさに乳児の体内からこぼれ落ちる汗や涙の結晶のようにも、皮膚の上に生まれたばかりの神聖な吹き出物のようにも見え、乳児の体自体が新たな生命の萌芽を宿しているようにも見える。貝の中に「異物」が入る(人工的に入れる)ことでできる真珠と、母体にとっての「異物」である胎児。コロナ禍の直前に出産した河野自身の経験が着想源だというが、「異物」との共存や循環的につながる生命について、美しくも静謐なイメージで語りかける。



河野愛《こともの foreign object》[撮影:artscape編集部]


また、「琵琶湖」へ言及するのが石黒健一と井上唯。石黒は、滋賀県立近代美術館(当時)の開館展で初公開されたブランクーシの彫刻《空間の鳥》の制作年と、特定外来生物に指定されている淡水魚「ブラックバス」が日本に移入された年が同じ「1925年」であることに着目。石膏の原型からブロンズ鋳造され、世界中に複数体存在する《空間の鳥》を3Dスキャナでデータ化し、縮小サイズでアクリル製の「ルアー」として複製した。実際に琵琶湖にこの「ルアー」を投入した映像も制作。それは、かつて《空間の鳥》が「工業製品」と見なされた歴史をパロディとして反復しつつ、同年に異郷の地に持ち込まれたものの子孫たちの思いがけない邂逅の物語を夢想する。一方、井上唯は、琵琶湖の湖岸で収集した貝殻、流木、木の実、漁網、陶器の破片など自然と人工物が入り混じったさまざまな漂流物を用いて、繊細かつ壮大なインスタレーションを構成。砂浜に打ち寄せる波のようなベールが包み込む空間の中に、都市や樹木の生態系を思わせる造形物が展開する。



石黒健一《百年後に見る鳥と魚の夢》[撮影:artscape編集部]




井上唯《環》[撮影:artscape編集部]


最後に、展覧会タイトルにある「テリトリー」や「集団の形成と排除」について、薬師川千晴と井上裕加里の作品に注目したい。薬師川の作品は、デカルコマニーや掌での描画による「筆触」の否定と再肯定、構造の(非)対称性、折り畳んだ「画布」の襞構造など、抽象絵画の可能性の探求と解されるが、そこに同時代的な省察を読み取ることも可能だ。例えば《右手と左手の絵画》は、右手と左手に異なる色の顔料を付け、画面の左右半分ずつを単色で塗り分けた作品。それぞれの「領域」を主張する色どうしが真ん中でぶつかり合うも、混じり合って第三の領域を形成することなく、両者の「境界線」が出現する。



薬師川千晴 展示風景[撮影:artscape編集部]


井上裕加里の映像作品《grouping》は、日本と韓国の高校の教室で、教師の指示により、生徒たちが1人ずつ人数を減らしていくグループ分けのゲームの記録である。机と椅子ごと移動しながら、まず5人グループをつくり、4人、3人、2人とグループから1人ずつ排除されていく。ここで戦慄的なのは、韓国と日本の対照性だ。終始、席替え中のように賑やかで会話の絶えない韓国の高校生たちに対し、ほぼ無言のまま、会話も議論もなく、「空気を読んだ」者がすっと身を引いて退場していく日本。シンプルな仕掛けだが、「排除と選別が強制的に実行される場である教室」「理不尽なルールへの一方的な従属」、そして「空気を読むことで成り立つ日本社会」が鮮烈にあぶり出される。「誰をどのような理由で排除するのか」の議論も、「そもそも理不尽なルールに黙って従うべきなのか」という異議申し立ても起こらない。社会の縮小構造である「教室」が「排除を容認し、自分の意見や疑問を口に出す場ではない」ことの露呈は、日本社会における民主主義の機能不全の証左を突きつける。



井上裕加里《grouping》[撮影:筆者]


一方、屋外に設置された井上の《こうさするこうえん》は、公園の遊具を模したつくりのなかに、「コミュニケーションの必要性」を希求する。90度で交差するブランコは、お互いが交互に漕がないとぶつかってしまう。登り口が2つあるが滑り台が途中で合流する遊具もまた、相手とのコミュニケーションを取ることで遊びが可能になる。「遊具」という、より低年齢かつ身体感覚に訴える仕掛けを通して、「個人と個人のコミュニケーション」を図ろうとする作家の姿勢に希望を感じた。



井上裕加里《こうさするこうえん》[撮影:筆者]

2021/06/26(土)(高嶋慈)

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あごうさとし×能政夕介『フリー/アナウンサー』

会期:2021/06/23~2021/06/25

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

俳優とは異なる領域で「声」に関わる仕事をする「アナウンサー」という存在を、実際に舞台の上に乗せた演劇作品。劇場が位置する東九条に近年引っ越したフリーアナウンサーの能政夕介が出演する。演出はあごうさとし。日本のアナウンスの歴史を辿りつつ、能政自身の個人史、スポーツ実況中継やコミュニケーション講座の実演、「アナウンサー」の仕事に対する思いを織り交ぜ、東九条という地域の実況的な語りが交差していく重層的な構成は、ドキュメンタリー演劇的でもある。

序盤では、1925年に日本で最初に放送されたラジオ放送「あーあー、聞こえますか?こちらは東京放送局であります」に始まり、1930年代、50年代、60年代と時代を辿って2020年代まで、炭坑事故、大阪万博、半導体の輸出戦争、バブル崩壊、BSデジタル放送開始、パンデミックなど時代を象徴するニュースが、当時の発声の抑揚やスピード感を再現して読み上げられていく。戦前から戦後にかけては、語尾を上げた調子で畳みかけるような発声が特徴で、日本語だが異質に聞こえる。



[撮影:金サジ]



[撮影:金サジ]


次に、一転して能政は、普段のスポーツ実況中継を実演しつつ、仕事上の心がけや普段は表に出さない思いを語っていく。どちらのチームにも偏らないバランスを心がけていること。特に声が良いわけでもキャラの面白さが強みでもない自分は、現場で一歩引いて気を配る役割に徹していること。「情報を正しく伝える」だけで良いのかという自問。SNS上での視聴者からの一方的な批判。そこに「対等な関係」はないという苦い思い。

中盤では、東九条を歩いて見える風景が、実況的に素描されていく。フェンスで囲われた空き地、路上に放置された車。再開発による新しい景色と古い歴史が重なり合った土地だと能政は言う。路上で拾った、公園の整備に関する住民アンケートの紙と、多様な住民の声。過去の(負の)歴史を切り捨てず、未来を開拓することは両立するのか。後半では、1978年の京都市による「世界文化自由都市宣言」が祈願の舞いの奉納のように読み上げられ、京都市立芸術大学の移転に伴って進む再開発と新たな文化芸術の発信地となることへの期待が込められる。スーツ姿に樹木が絡み付いた能政自身が「ご神木」となり、この町を末永く見守るというラストシーンだ。



[撮影:金サジ]


本作が秀逸なのは、「声(とその抑圧)」をめぐる重層性のなかに、回復への希求を込める点にある。媒介者である「アナウンサー」は、感情や自己主張を出してはならない(能政自身が語るように、ネットで叩かれてしまう)。「全体のバランスを重視し、空気を読み、自分を出さない」という仕事上の指針は、個人の声を封殺する日本社会、そしてコロナ禍で子どもの声が消えた公園の風景とも重なり合う。繰り返される「聞こえますか?」という呼びかけは、「アナウンサー/視聴者」の一方的な関係を超えた、対話への切実な希求だ。

「声」を公共に届ける仕事だが、個人としての「声」を奪われた存在としてのジレンマは、自身の思いを吐露していく終盤で一気に解放されていく。そこでは、中盤で実演された「コミュニケーション講座」がリテラルに実践される。「自分が何を言いたいのか」の自己理解が最も重要であり、スキル(滑舌)はあくまでその上に乗っかるものに過ぎないと述べていた能政。「何を考えているのかわからないからこそ、互いを知るために、対話と問いかけていくことが必要だ」と自身の考えを語りながら、アナウンサーとして日々鍛えているスキル(滑舌)を自ら手放していく姿は、感動的ですらある。「濁りなき」を文字通り濁点を消し去り、「私はにこりなきフリーアナウンサーの能政夕介てす」と、濁点の消えた日本語で語り続ける能政。「正しい日本語の発音」という規範や抑圧から解放され、「フリー」になった「アナウンサー」は、私たちにとって未知の、だが力強い言葉で、対話への希求を投げかけ続けるのだ。

2021/06/24(木)(高嶋慈)

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