2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960‐70年代美術

会期:2022/03/26~2022/05/29

兵庫県立美術館[兵庫県]

1967年にデュッセルドルフでドロテ&コンラート・フィッシャー夫妻が立ち上げたフィッシャー・ギャラリーを軸に、1960年代から70年代のミニマル・アートとコンセプチュアル・アートを振り返る企画展。「規則と連続性」「数と時間」「場への介入」「歩くこと」「芸術と日常」などキーワードごとに2~3作家ずつ紹介し、共通性と差異を見せる。フィッシャー・ギャラリーと関わりのあった18作家の主要作品に加え、作品制作の指示書、ドローイングや図面、書簡、記録写真などフィッシャー夫妻が保管していたさまざまな資料(ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館収蔵)も展示する点が特徴だ。

例えば、「工業材料と市販製品」の章では、カール・アンドレとダン・フレイヴィンを紹介。アンドレはフィッシャー・ギャラリーのオープニング展を飾り、アメリカのミニマル・アートが早い段階でヨーロッパに紹介された。出品作《雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌》(1996)は、同年に死去したコンラート・フィッシャーへの哀悼が込められた作品だ。144個の鉛の立方体を、それぞれ12×12の正方形(結晶)と床に散りばめて(雲)、原子の配列と物質の状態変化、最小限の要素と多彩なバリエーションという作家の思想の核を示すとともに、「鉛」を意味するドイツ語「Blei」のアルファベットを組み替えた「Leib(身体)」、「Leid(悲嘆)」、「Lied(歌)」というサブタイトルは、死者への哀歌を示唆する。



カール・アンドレ《雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌》(1996)


「数と時間」の章では、河原温とハンネ・ダルボーフェンを紹介。河原は、滞在している都市の観光絵ハガキにその日の起床時間をゴム印で記した「I Got Up」シリーズを、1968年から79年まで、毎日2人の知人に送り続けた。本展では、1969年にコンラート・フィッシャー宛てに郵送された計120枚の絵ハガキが展示されている。日付絵画の「Today」シリーズや過去/未来の100万年にわたる年を羅列した「One Million Years」など、河原作品におけるタイポ打ちの数字の無機質性とは対照的に、ハンネ・ダルボーフェンが独自の表記法で計算し続けた膨大な数字や記号は、手書きの痕跡の生々しさを伝え、数字に対する偏執的熱狂はアール・ブリュットにも接近する。また、「歩くこと」の章では、草地の2地点間を繰り返し歩いて「一本の道」を出現させたリチャード・ロングと、路上に敷いた紙の上を歩いた通行人の足跡を作品化したスタンリー・ブラウンは、ともに「歩行」という日常的な行為に基づきつつ、作家自身の主体性や幾何学的な構築性/他者の介入・参加や散漫さという点で対照的だ。そして、展示後半では、プロセス・アート、ランド・アート、ボディ・アート、制度批判への派生的な展開が示されていく。



河原温 会場風景


本展で興味深いのは、「ミニマル/コンセプチュアル」と銘打っているにもかかわらず、ゲルハルト・リヒターが入っていることだ。当初は作家志望だったコンラート・フィッシャーは、デュッセルドルフ芸術アカデミーでリヒターと同時期に学び、資本主義リアリズムを掲げた展覧会などをともに開催した。また、本展出品作家では、タイポロジーの手法を確立したベッヒャー夫妻、既製品の布を縫い合わせてカラー・フィールド・ペインティングを擬態した「布絵画」など「絵画」の構成原理を問い続けたブリンキー・パレルモ、同じくヨーゼフ・ボイスに学び、民族誌学や文化人類学を批評的に取り入れたローター・バウムガルテンもデュッセルドルフ芸術アカデミー出身である。



左:ゲルハルト・リヒター《エリザベート(CR104-6)》(1965) 右:ブリンキー・パレルモ《4つのプロトタイプ》(1970)


このように、ひとつのギャラリーを起点に据えることで、デュッセルドルフにおける60-70年代美術の地政学が浮かび上がる。(ミニマル・アートはアメリカとの時間差のある受容だったが)コンセプチュアル・アートは同時代の展開だった。同時進行性を加速化させた要因のひとつに、「スタジオで時間をかけて完成させた作品をギャラリーに輸送するのではなく、飛行機のチケットを作家に送り、アイデアだけを持って現地制作してもらう」「作家が指示書をギャラリーに送り、作品制作を完全に委ねる」というフィッシャー・ギャラリーの基本姿勢がある。指示書、ドローイングや図面、展示プランを伝える書簡などの資料は、物資性の希薄さが輸送の容易さや輸送費の軽減につながる証左でもある。付言すると、「資料群の展示=輸送(費)の問題のクリア」という構造は、(前述のアンドレ作品を除き)絵画や立体、写真作品、インスタレーションなど「実体のある作品」はほぼ日本国内の美術館から借用した本展の構成にも共通する。ここにはコロナ時代の美術展のあり方に対するひとつのヒントも看取できる。



ブルース・ナウマン「イエロー・ボディ/Yellow Body」展(1974)の関連資料


「デュッセルドルフを観測点とした同時代美術の地政学」の提示は、アメリカ中心主義的な歴史観の相対化という役割を持つ。唯一の中心ではなく、複数の観測点をもって眼差すこと。そこに、本展を日本で開催する意義がある。


関連レビュー

「ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展ほか|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年02月15日号)

2022/03/25(金)(高嶋慈)

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注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」

会期:2022/02/26~2022/03/27

兵庫県立美術館[兵庫県]

「蛍光ピンクの猫のキャラクターをかたどった立体作品」といういかにもSNS映えするキャッチーな外観だが、巨大すぎて全貌を画面に収めることができない《デコレータークラブ─ピンクの猫の小林さん》。一見何もない展示空間だが、「壁」を観客が(時に協働して)押すことで動き出し、ホワイトキューブという制度的空間を文字通り揺り動かす《デコレータークラブ─配置・調整・周遊》。展示室の床に置き忘れられたかのように見える、けれどもどこか場に不似合いなカラフルなスポーツバッグを手に取ろうとすると、とんでもなく重くて持ち上がらない《デコレータークラブ─ベリーヘビーバッグ》。飯川雄大が2007年から展開する「デコレータークラブ」シリーズはこれまで、観客の能動的な介入を誘いながら、認識と体験のズレをユーモラスに仕掛ける作品を発表してきた。そこにはつねに視覚の全能性に対する疑いがある。「デコレータークラブ」とは、海草や貝殻など周囲のモノを殻にまとって環境に擬態する習性を持つ蟹を指す。「展示壁や忘れ物のフリをする」ことで美術鑑賞の場に擬態する飯川作品の核心をつく言葉であるとともに、「デコレータークラブ」を発見した観客自身が、それまで「透明な目」として展示空間に溶け込み「擬態」していたことを暴く作用の名でもある。

本展ではまず、展示壁に大きく記された「新しい観客」という文字が出迎える。カラフルなロープで構成された文字には滑車が取り付けられ、滑車から伸びたロープが会場内に張り巡らされている。そして、4台の回転ハンドルを観客が回すと、滑車が回ってロープがゆっくりと引っ張られ、文字を構成するロープの色が次第に入れ替わっていく。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022)[撮影:阪中隆文]



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:阪中隆文]



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022)[撮影:阪中隆文]


さらにロープは展示室の外へと続く。ロープを辿って廊下を抜け、美術館の外へ。すると外壁一面に、「MAKE SPACE USE SPACE」という巨大なロープの文字が掲げられている。筆者の鑑賞時は、展示室内の「新しい観客」という文字はブルー、白、オレンジのロープで主に構成されていたが、外壁のこちらは蛍光ピンク、白、黄色と鮮やかだ。展示室内で観客がハンドルを回すことで、ロープがつながった外壁の文字も少しずつ色が移動し、ある時点で完全に色が入れ替わるという。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:阪中隆文]


ひとつの視点では把握できない全貌を、ある作用が別の場所にもたらす出来事を、想像すること。加えてここには、社会構造に対するポジティブなメッセージを読み解くことも可能だ。個人が能動的に働きかけることで、少しずつ色が入れ替わって変化していく。社会構造は変えることができる。ただし、1人だけの力では色を完全に入れ替えることはほぼ不可能である。複数の人の力が合わさることで構造全体が変化していくのだ。

また、キャスターに乗った《ベリーヘビーバッグ》を観客が展示室の外へ持ち出し、神戸市内の美術館から、飯川が参加する「感覚の領域 今、『経験する』ということ」展が開催中の大阪の国立国際美術館まで運ぶという「作品」も、2つの点をさまざまな想像でつなぎ、示唆的だ。重いバッグに疲れ、観客が故意にもしくはうっかりどこかに放置してしまったら? 事故などで破損したら? 盗難にあったら? 「アート作品」として売ろうとする人が出てきたら? こうした想像は、観客もまた、(解釈ではなく物理的運搬というかたちで)「作品」の成立に責任を負う存在であることをリテラルに突きつける。あるいは、キャスターに乗ったバッグを運ぶ観客を、「旅行者」に擬態させる。それは、「移動」が制限された状態に対する、想像力を介した抵抗の身振りでもある。さらに想像をたくましくすれば、「避難民」への擬態は、今この瞬間にも「ここではない別の場所」で起こっている出来事を「ここ」へと強制的に転移させる。物理的なアクションと想像の作用の両方により、「観客を動かす」秀逸な展示だった。



注目作家紹介プログラム チャンネル12「飯川雄大 デコレータークラブ メイクスペース、ユーズスペース」
兵庫県立美術館の展示風景(2022) [撮影:飯川雄大]

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2022/03/19(土)(高嶋慈)

若だんさんと御いんきょさん『すなの』

会期:2022/03/05~2022/03/06

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲3部作『棒になった男』(1969)から毎年1本ずつ選び、同じひとつの戯曲を3人の演出家がそれぞれ手がける演出違いの3本を連続上演するシリーズを、3年間にわたり企画してきた「若だんさんと御いんきょさん」。これまでは30代の演出家を招聘してきたが、今年は現役作家の戯曲をお題に、20代の若手演出家3名を迎えて一新した。上演される戯曲は、コトリ会議の山本正典による短編『すなの』。ある午後、リビングで、テーブルに置かれた「砂がいつまで経っても落ちきらない不思議な砂時計」をめぐって夫婦が交わす会話劇だ。

「気づくと砂がいつのまにか上に上がっていて落ちきらない」と言う妻。「砂がピンクいからかな」と言う夫。だが砂時計のガラスも透明ではなく緑色をしており、「本当の砂の色」は「緑ひくピンク」か「ピンクひく緑」かで2人の意見は食い違う。砂の色を確かめようとして前のめりになった夫は、浮いたお尻の下に「幸せの丸いの」があると言う。そして「幸せの丸いのはピコピコはねてすぐにどこかに行ってしまう」とも。コーヒーを淹れに席を立った夫が突然つぶやく、「どこにもいかない」という意味深げな台詞。聞き返す妻に、「どこにもいかない砂」と言い直す夫。夫は、コーヒーを淹れる際に転がり落ちた「幸せの丸いの」を、「見つからないけど探す」。やがて会話は、お湯を沸かす機械が「電気ポット」か「ケトル」かで再び言い争いになり、「ケトルって何語? フランス語?」と言う妻に対し、夫は突然「ごめん」と謝り、「行きたかったな、フランス」とつぶやく。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」という会話を最後に、砂が落ちる「すーーーー」という音だけが静かに響き続け、「真っ白い木の額縁に入った妻の写真」がテーブルの上にあることをト書きが告げる。

要所要所で夫の台詞は不穏さを暗示するが、2人のあいだに具体的に何があったのかは明示されず、会話の「余白」からどう解釈するかは演出家に委ねられている。この戯曲を演出する最大のポイントは、「砂時計」を舞台上にどのように存在させるかという点にある。3つの演出作品は、上演順に「砂時計」の実体化が進む一方、「砂が落ちきらない砂時計」が何を指すメタファーなのかをめぐって解像度が上がっていく構成が興味深かった。

1本目の木屋町アリー(劇団散り花)による演出は、舞台正面の壁いっぱいに「落ちる砂」の映像を投影。またト書きのナレーションを、舞台奥の暗がりに身を置く3人目の人物に語らせる。ストレートな演出だが、焦点が曖昧で未消化感が残った。2本目の葉兜ハルカ(でめきん/旦煙草吸)による演出では、「幸せの丸いの」を異化するような「白い立方体」が舞台上に散らばる。それは妻の手で捏ねられ、砂時計の形に実体化する。ラストシーンでは、白い立方体を積み上げて長方形のフレームを形づくり、その中に妻の顔が収まることで「遺影」が示唆される。



木屋町アリー演出『すなの』



葉兜ハルカ演出『すなの』


そして3本目の泉宗良(うさぎの喘ギ)による演出では、テーブルの上に実物の「砂時計」が出現した。泉演出が衝撃的なのは、「妻」役の俳優がマイクに向かって「すーーーー」という細い息の音を出し続ける点だ(「妻」の台詞はスピーカーから出力され、録音音声と会話する夫の様子は「不在感」を強調する)。「砂時計」とは字義通りには「不可逆的な時間の流れ」であり、夫の意味深げな台詞や「テーブル上の妻の写真=遺影」の示唆は、「砂時計=妻の命の時間」を暗示するだろう。「妻」がマイクに吹きかけ続ける「息」の音は、命の持続を示す「呼吸」そのものであり、その規則正しくもか細い音は、人工呼吸器から漏れる息の音をも思わせる。そして「砂時計をひっくり返す」夫の介入は、「妻の命の砂が落ちきるのを止めたい」という叶わぬ願望だ。だが、夫は「妻」の方を見ず、誰もいない不在の空間に向かって話し続ける。「こんなに静かな時間があったかな」「俺も覚えてない」というラストシーンの会話を冒頭と終盤で反復し、「妻」が舞台上から去った終盤では、同じ台詞が夫の一人言のように響く仕掛けは、すべてが夫の回想であることを示唆する。円環状に始めと終わりがつながる、出口のない閉じた時間。そのトラウマ的時間の「不在の中心」こそ、砂時計すなわち「妻の身体」の代替物にほかならないことを、幕切れのスポットライトは鮮やかに示す。それは同時に、「演劇とは表象の代行制度である」ことをメタレベルで宣言する。

このように戯曲の要請を鮮やかにクリアしてみせた泉演出だが、「砂時計=妻の身体」のメタファーには別の問題が浮上する。それは、女性の身体を物象化し、オブジェクトとして一方的に眺め、所有する視線にほかならない。「真ん中でくびれを描く砂時計の曲線のライン」は、まさに女性のボディラインのメタファーとして召喚されているのだ。「砂時計=妻」のメタファーを戯曲から読み解いて用いるのであれば、妻を喪った夫の切ない回想を超えて、そうしたジェンダーに対する視線の構造の暴力性を批評し、戯曲が内包する問題を内破していれば、泉演出の意義と射程はより深まったのではないか。



泉宗良演出『すなの』


関連レビュー

若だんさんと御いんきょさん『棒になった男』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年03月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『鞄』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
若だんさんと御いんきょさん『時の崖』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2022/03/06(日)(高嶋慈)

ホームビデオ・プロジェクト「テールズアウト」

会期:2022/02/02~2022/03/21

大阪中之島美術館[大阪府]

建設構想から約40年を経て、2022年2月に開館した大阪中之島美術館。開館プレイベント「みなさんの『ホームビデオ』を募集します!」で家庭に眠るホームビデオを一般市民から募集し、集まった300本超のビデオテープや映像データを用いて、現代美術作家3名が新たな作品を制作した。参加作家は、荒木悠、林勇気、柳瀬安里。展覧会タイトルの「テールズアウト」とはテープの巻き方を指す言葉に由来する。収録済みテープの最終部がテープの巻き終わりになっている状態を「テールアウト」と呼び、その続きから現代作家たちが新たな物語を紡ぎ出すことが企図されている。また、美術館建設構想が始まった1983年は、一般家庭向けのカムコーダ(ビデオカメラ)が登場した年でもあり、以降、小型化と長時間録音が可能となったビデオカメラの普及が進んでいく時代が、開館までの美術館の歩みと重ね合わされている。

主に家庭内で撮影され、子どもの成長や行事を記録し、家庭内でプライベートに鑑賞されるホームビデオ。8ミリビデオからデジタルデータに及ぶ記録媒体の変遷と、社会や家族のあり方の変化。普遍性や交換可能性と、個人性の強い刻印とのせめぎ合い。他人の私的な映像を見る行為の倫理性。記憶や時間についての省察。「ホームビデオ」から派生する問題に対し、荒木、林、柳瀬は三者三様のアプローチを見せた。

荒木悠の《HOME / AWAY》は、空港の出発ロビーをイメージした空間に、天井から3台のモニターが吊られている。モニターには、モノクロ、カラー、鮮明なデジタル映像と異なる時代のホームビデオが流れるが、映された光景は、旅行、動物園、運動会と共通し、「ホームビデオのお約束の主題」を指し示す。同様の試みとして想起されるのが、フィオナ・タンのファウンドフォト・インスタレーション「Vox Populi(人々の声)」だ。展覧会開催地の住民から収集した写真を、構図やポーズ、主題などでグルーピングし、「アマチュア写真の無意識的なコード」のマッピングを提示する。荒木も集合体から類型化を抽出し、3つの異なる時代や記憶媒体を並列化することで、普遍性と差異を浮かび上がらせる。


荒木悠《HOME / AWAY》[撮影:小牧寿里]


一方、ホームビデオが撮影・鑑賞される「家庭」という空間や、他人の私的な映像を見る行為の倫理性を問うのが柳瀬安里だ。《ホーム_01》《ホーム_02》では、黒い箱の中にミニチュアの家具を配置した「リビングルーム」が設えられ、被写体の顔にライトを当てて消した映像が投影されている。映像は(遠足や旅行、運動会や発表会、海やプールなど「家庭の外」を除外した)「家庭内の親密な光景」に限定され、画質の荒さから時代感がうかがえる。この「黒い箱」は、かつてホームビデオが鑑賞されたブラウン管モニターを指すと同時に、家庭という閉域の「のぞき箱」でもある。また、被写体の子どもの顔を匿名化する操作は、「それは私自身だったかもしれない」という交換可能性や既視感と同時に、SNS上でシェアされたプライベートな画像・動画を思わせる。時代感のあるホームビデオがSNS上にアップされているかのような奇妙なアナクロニズムは、逆説的に、時代を超えた普遍的な欲望を浮かび上がらせる。


柳瀬安里《ホーム_02》[撮影:小牧寿里]


上記の2作品はサイレントだが、「フィクショナルな語り」の上書きによって、記録媒体や時間の複数性、記憶のあり方についての多様なメタファーを示唆するのが、林勇気の《瞬きの間》である。真っ黒な画面中央には、円形の映像が映り、不安定に揺らぐ映像をよく見ると、さまざまなプラスチックのコップに満たされた水を通して映し出されていることがわかる。日常的なプラスチック製コップと、DVDやフィルム、磁気テープなどの記録媒体の原材料が同じ化石燃料であることに着目した仕掛けである。

また、のぞき穴、カメラのレンズ、トンネルの先に見える光景を思わせる「円形の窓」によって、私たちは、かつてレンズ越しに被写体に親密な眼差しを向けた撮影者、窃視者、時空のトンネルを超えた目撃者という複数の多重的な立場に立たされる。そしてコップは、形を持たず、儚くこぼれ落ちてしまう記憶を物質的にとどめたいという欲望や記録媒体の謂いでもある。キャラクターの絵柄付き、取っ手の有無、コップ自体の形の多様性は、それらが使用される家庭の個別性と同時に、記録媒体の多様性のメタファーでもある。


林勇気《瞬きの間》[撮影:小牧寿里]



林勇気《瞬きの間》[撮影:小牧寿里]


さまざまなホームビデオを断片的に繋ぎ合わせた映像にオーバーラップされるのは、20年前、実家の庭に兄とともに埋めたタイムカプセルを掘り出すため、車で故郷へ帰る男性のモノローグだ。タイムカプセルには、兄が撮ったHi8(ハイエイト)のビデオテープがあると語られる。かつて子ども時代に撮影され、家庭内のどこかに眠るホームビデオはまさに「タイムカプセル」であり、男性の車と平行に走る列車の線路は「異なる複数の時間の流れ」を示唆する。洞窟内で野宿し、焚き火の明かりで洞窟の壁に投影した影絵=映像の原理。回転する車輪=フィルムやビデオテープのリール。焚き火の火が燃え移り、溶けて燃えてしまうプラスチックのコップ=記録媒体の物質的な可燃性や損傷性。「画像や映像にオーバーラップさせたフィクショナルな語りのなかに、記憶や時間についての自己言及的なメタファーを散りばめる」という近年の林の手法が凝縮されていた。

関連レビュー

林勇気「15グラムの記憶」|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年10月15日号)

2022/02/27(日)(高嶋慈)

地域の課題を考えるプラットフォーム 成果発表「仕事と働くことを演じる」(演出:村川拓也)

会期:2022/01/30

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

本職の介助労働者が、その日の観客から募った「被介助者」役を相手に、日々の重度身体障害者介助の仕事を実演する『ツァイトゲーバー』(2011)。日中韓の3カ国から参加した3人の介助者が同様に出演する『インディペンデント リビング』(2017)。この形式を踏襲した『Pamilya』(2020)では、フィリピンから来日して老人ホームで働く外国人介護士が出演し、介護を担当した高齢女性への想いや自身の人生を語ることで、個人的・歴史的射程が広がるとともに、「外国人労働者に依存する介護現場」「シングルマザー」といった社会的課題を浮かび上がらせた。さらに、『事件』(2021)では、「スーパー」という消費空間を舞台に、従業員、管理する店長、買い物客の行為を(当事者ではなく)俳優がマイムで再現。マニュアル通りの機械化された動作の空虚な反復を通して、消費資本主義社会と組織の中で抑圧された身体によって「快適」に保たれた日常の不気味さが提示された。これらの作品群に通底するのは、「日常生活を支えるものであるにもかかわらず、社会的/個人の意識内において透明化された労働」をまさに観客の目の前に差し出す点である。

ロームシアター京都の事業「地域の課題を考えるプラットフォーム」の一環として開催された本公演も、こうした村川拓也のドキュメンタリー的手法の系譜に連なるものだ。本公演は、「ワークショップ参加者が実際に経験した仕事」を元につくられた演劇作品である。「ワークショップ成果発表」と銘打たれているが、これまで培った手法の新たな展開を示す、完成度の高い作品に仕上がっていた。

スピーカー、パイプ椅子、スタンドマイクのみが登場する、ほぼ素舞台に近い、何もない空間。5名のワークショップ参加者が順番に登場し、普段の(あるいは過去に経験した)労働をマイムで淡々と再現する。具体的な仕事名は告げられないが、接客の言葉や同僚との会話、動作の節々から、カフェの店員、おせち製造工場の従業員、別の工場の従業員、図書館の司書、ごみ収集作業員であることがわかる。点描を重ねていくことで、規律化された労働者の身体(と俳優との同質性)、外国人技能実習生、そして労働とジェンダーの問題が重層的に浮かび上がっていく。


[撮影:金サジ(umiak)]


カフェや工場では、「スピーカー」から流れる注文の合図や現場監督の指示に、機械のようにただ従う身体が提示される。それは同時に、「不在の演出家の声」に動かされる俳優の身体への批評でもある。また、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「クレームゼロ!」といった文句や会社のモットーを、誰もいない空間に向かって復唱し続ける姿は、規律化された労働の異様さを強調する。注文の合図や指示の声は次第に間髪を入れずに響き続け、その速度に追いつけない労働者の身体はバグを起こしたように機能不全に陥ってしまう。一方、組み立てラインや箱詰め作業といった、身に染みついた動作の再現は流れるように滑らかで、無対象で抽象化された動きはダンスを見ているようでもある。


[撮影:金サジ(umiak)]


おせち製造工場で主題化されるのは、「日本人の快適な生活」が外国人技能実習生に支えられている構造だ。(姿の見えない)同僚との会話から、複数の国の出身者がいることや残業問題が示唆される。従業員の周りを取り巻く「見えない外国人労働者」は、まさに私たちの意識の問題でもある。一方、休憩時間の挿話は、「国籍」という個を捨象する枠組みから「個人」への眼差しの移行を示し、示唆的だ。出演者は休憩中、隣席の外国人労働者に「あなたの、くには、どこですか?」と尋ねるが、日本語が通じない(メタレベルでは「答えてもらえない」)。だが、退勤の際、失礼な質問を謝り、「あなたの名前は?」と聞き直すことで、個人としての関係を結べるようになる。

また、労働とジェンダーの関係に焦点を当てるのが、図書館司書が読み聞かせる「絵本」の内容である。「お父さんの仕事」と「お母さんの仕事」の2冊の絵本は、ジェンダー化された労働を如実に示す。「お父さん」は、家では「パパ」「お父ちゃん」と呼ばれるが、仕事中は「現場監督」「係長」「工場長」「配達員」などと呼ばれ、公/私の明確な境界と「社会的地位の高さ」を示す。一方、「お母さん」が従事するのは、家事や育児、保育士、ウェイトレスやスーパーのレジ係などパートタイムや低賃金の労働である。


[撮影:金サジ(umiak)]


終盤、ごみ収集車に乗り込んだ作業員は、市街地を離れ、一面の雪景色を目撃する。娘のためにスマホで写真を撮り、「きれいやなあ」とつぶやく。つかのま出現した銀世界は、一瞬後、暗転に飲み込まれた。徹底してドライな本作だけに、余韻と抒情性を残した終わり方は鮮烈な印象を与えた。

ただ、労働とジェンダーの問題の扱い方には疑問も残る。上述の「読み聞かせ絵本」の選択は確信犯的だが、一方、ワークショップの募集要項には「有償の仕事であること」という条件が書かれ、実際の再現も賃金・雇用労働に限られていた。家事や育児といった家庭内での再生産労働もまた、男性中心主義社会では「見えない労働」である。障害者介助や老人介護、外国人労働者、スーパーの店員、ごみ収集作業員など「生の持続を支えているにもかかわらず、社会的にも私たちの意識内でも透明化された労働」を扱ってきた村川だが、「再生産労働という不可視化された労働」への言及があれば、その射程と批評的意義はより深まるのではないか。

関連レビュー

村川拓也『事件』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年06月15日号)
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)
村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)

2022/01/30(日)(高嶋慈)

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