2020年06月01日号
次回6月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

福井裕孝『インテリア』

会期:2020/03/12~2020/03/15

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「部屋」という空間単位において、ものとそれが置かれた環境と人(俳優)との相互作用として演劇の上演を捉え直す試み「#部屋と演劇」を行なっている、福井裕孝。「#部屋と演劇」には同世代の演出家、中村大地と野村眞人も参加し、1年間コンセプトを共有しながら各自の作品を上演した。

福井裕孝『インテリア』では、観客は自分の部屋にある「インテリア」をひとつ会場に持ち込み、「部屋」に見立てられた上演空間に配置し、上演を「ものと観る」ことができる。会場に入ると、舞台中央にサイドテーブルと円形ラグ、ティッシュボックスなどの小物が置かれ、ここが「リビング」であるらしいことがわかる。だがその手前の床には色鮮やかなパプリカ、マグカップ数個、ポット、ティーバッグが几帳面に一列に並べられ、黄色い靴下が丁寧に広げて3組並べられている。その光景は「何らかの一定の秩序」に従って几帳面に幾何学的な配置を施されていることがわかるが、「普段の生活空間における配置」の完全な再現ではなく、どこかズレている。また、家具や雑貨、日用品たちはいずれも量販店で買えるような没個性的なもので、「持ち主の強い個性や愛着」を声高に主張するわけでもない。この「リビング」の奥には、大きなビーズクッション、収納シェルフ、加湿器、トイレットペーパーのパックなどが置かれ、壁にハンガーと時計の架けられた空間があり、手前/奥で緩やかに二つの空間が境界画定されている。また、上手側には手前と奥に二つのドアがあり(実際に劇場の「外」に出られる)、ドア付近にはアルコール消毒液や傘が置かれていることから、ここが「玄関」であり、「隣接した二つのワンルーム」の設定が見てとれる。



[撮影:中谷利明]

手前のドアが開き、「ただいま」の声とともにビニール袋を下げた男が入ってくる。鍵を玄関脇に置き、靴と上着を脱ぎ、サイドテーブルの上にある(はずの)電球の紐を引っ張り、リモコンでTVをつけ(るフリをし)、手洗いとトイレを同様にマイムで行ない、ポットで湯を沸かし、マグカップを1個取ってティーバッグのお茶を(実際に)淹れる。ビニール袋からペットボトルを出し、丁寧に折りたたんだ袋の上に置き、脱いだ靴下や淹れたあとのティーバッグも丁寧にティッシュペーパーの上に置く。一連の動作は、毎日の帰宅後の彼のルーティンなのだろう。

男性が部屋を出ていくと、奥のドアからリュックを背負った女性が「帰宅」する。上着をハンガーにかけ、加湿器をセットし、ビーズクッションに座ってスチームを顔にあて、ヘッドホンで音楽を聴いてくつろぐ。同様に帰宅後のルーティンが再現されるが、彼女は手前の空間に侵入し、サイドテーブルのガラス天板を外して奥へ運び、ビーズクッションの横に置き直してしまう。彼女が出ていくと、3人目の女性が客席の通路を通って登場する。この女性(美術作家の西原彩香)は、開演前にロビーに展示してあった自身の作品を舞台=部屋に持ち込み、配置のバランスを考えながら壁や床に「展示」していく。彼女にとってここは「生活空間」ではなく「作品の展示空間」であり、「部屋を構成するさまざまな物体」は存在していないかのようだ。彼女が退場すると、再び手前のドアから男が「帰宅」し、同じルーティンを繰り返す。男、女1、女2の順で、「部屋での行動の再現」が3セット繰り返されるのが本作の基本構造である。



[撮影:中谷利明]

本作の面白さは、女1による「サイドテーブルの移動」、すなわち「もの」の再配置が、同じ動作を反復しようとする男の行動に作用を及ぼす点だ。男の動作は「もの」に規定されるため、基準点となる「サイドテーブル」の位置変更に伴い、電球のあるべき場所もTVをつけるリモコン操作の向きもトイレの位置も変化し、鍵は置かれる場所を喪失して床に落下する。一方、脱いだ靴下やペットボトル、ティーバッグを「並べる秩序」もまた「サイドテーブルを起点とする座標的な位置関係」を順守して遂行されるため、「1セット目」で並べて放置された痕跡を残したまま、新たな場所に「同じ空間秩序」がインストールされ、秩序の(再)構築と痕跡の同時進行が、「生活空間の疑似的再現の場」をカオティックに崩壊させていく。



[撮影:中谷利明]

ここで三者の様態を整理すると、男=「秩序の順守」および「もの」の空間配置による動作の規定、女1=「もの」の移動による空間秩序の再配置、女2=外部から新たな「もの」を持ち込み、別レイヤーの重なり合いの形成と規定することができる。また、この「レイヤーの多重化」は空間だけではなく、時間の圧縮と考えることも可能だ。例えば、「ワンルームの2室の壁が取り払われ、ホワイトキューブのギャラリーに改装された」、その「かつての生活空間」と「現在の展示スペース」が交錯する時空を私たちは見ているのだ、というように。


このように、「ルールの読み解き」や生態観察的な面白さとして楽しめる本作だが、それだけにとどまらない。例えばチェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』(2019)など近年の「ものの演劇」の潮流、代理表象の制度、脱人間・俳優中心的な演劇観に位置づけられるとともに、「ものの配置と秩序の(再)構築による、私的領域の主張(と排除)」という政治性についても考えることができる。「手前と奥の2部屋」に分かれていた空間が、「もの」の移動によって境界線が融解し始め、「私的領域」「テリトリー」が流動化し、「もの」が移動した新たな場所に「元の秩序」を持ち込む男は、「もの」を介した空間の私有地化・再領土化を行なう存在でもある。「室内の私的なインテリア」という「穏当な見かけの物体」はそのとき、インフラや制度のインストールによって地図を書き換え、奪取していく植民地的暴力、あるいは新たな移動先に自身の生活秩序を持ち込んで私有地化の権利を主張する移民的生、その双方のメタファーとして屹立するのである。ここに、演劇論的な実験を超えた本作の射程がある。

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2020/03/15(日)(高嶋慈)

若だんさんと御いんきょさん『鞄』

会期:2020/03/06~2020/03/08

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

安部公房の戯曲『棒になった男』(1969)の第1景『鞄』に対して、3人の演出家がそれぞれ演出した3本を一挙上演する企画。演劇ユニット「若だんさんと御いんきょさん」によるシリーズ企画第2弾であり、昨年は第2景『時の崖』が上演されている。演出違いの3バージョンを見比べることで、戯曲に対するアプローチや解釈の振れ幅が浮き彫りになり、ひとつの戯曲の多角的な鑑賞を通して、多様な読みや上演可能性に開かれた創造的な器としての戯曲のあり方が立ち現われる。


『鞄』は、夫が家の中に置いている鍵のかかった不審な旅行鞄をめぐって、気味悪がる「女」(妻)と「客」(女友達)が交わす会話劇。不審な物音や呟き声を立てる鞄の中身について、女は虫かミイラかもしれないと妄想し、「何をしていてもこの音がまとわりつく」と嫌悪する。女友達がヘヤピンで鍵をこじ開けようとするが、生きているかのように奇妙な物音がして二人は飛び退く。行動の決断力も責任も持とうとしない女は、友人の自尊心を刺激して開けさせようとしたり、どこかに捨ててきてほしいと頼み、心理的な駆け引きが展開されるなか、錠前の外れる音がする。「あとは、あなたの心の錠前だけね」と言い残して友人は去るが、女は鞄に鍵をかけ、夫の帰りを待つあいだ、ラーメンの出前を注文する。


リアルな手触りの会話劇から、「鞄」のもつ不条理性を立ち上げるにあたり、「鞄」をどう解釈し、どこまで具現化/抽象化するか。この最大のポイントをめぐり、三者三様のアプローチが分かれたことが興味深い。実物の「旅行鞄」を舞台上に持ち込んだのは、合田団地(努力クラブ)。エスカレートする苛立ちとディスコミュニケーションの閉塞感が出口を求めて暴走していく回路が、「会話劇」だが対話相手と向き合わず、二人の女優それぞれが客席に向けて放つモノローグ的な発話の掛け違いとして提示された。感情を喪失したような平坦な棒読みやひきつった笑いの肥大化は生理的嫌悪感をかき立て、対人的な感情の出力がコントロールできない、非人間的な狂気へ近づいていく。「ほかにも苛立たせる物音はあるのに」と言う友人が列挙する「飛行機や車の轟音、風の音」は効果音として流れるのだが、「食事は毎日あげているの?」「家の中で来る日も来る日もこの音に悩まされている」といった台詞は、「具現化されていない音」、すなわち赤ん坊の泣き声を想起させ、妻に一方的にのしかかる育児の負担を暗示する。二人の女の背後で所在なさげにテーブルに座っていた男は、「ヘヤピン」を腹に刺され、女たちの感情の暴発が乗り移ったかのようにうめき声を発し続け、遂に自壊して「鞄」に変容を遂げる。女たちもまた、座っていた椅子にそれぞれ旅行鞄を置いて立ち去り、「鞄」からはなおも機械的な発声の声が聞こえ続ける(ように見える)。自分自身が「怖れや不安」の対象と同一化し、非人間性の塊と化す戦慄的なラストであると同時に、「本来そうではないもの」が「そうであるフリ」をする齟齬を最大化して提示することで、「演劇」へのメタ的な身振りともとれる。



合田団地演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


一方、「主導権を奪おうと互いに牽制し合う二人の女の駆け引きに、実効的な支配力を及ぼし続ける男」という構図を採用したのが、河井朗(ルサンチカ)。河井演出では、俳優の身体性や動きの抽象化により重きを置き、静かな緊張感のなかに粘着質の生理的な体感の生々しさがじわじわと迫ってくる。対面して左右対称やユニゾンで動く2人の女は、自己の鏡像か分身のようにも見え、「彼女たちにはその存在が見えない」男は、異物として疎外されている/侵入してくる。押さえた発話や身振りの浮遊感のなかに、引力と斥力、磁力のような見えない力の作用や流れを可視化する手つきが洗練されていた。



河井朗演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

田村哲男による演出は、3本の中では最も戯曲に忠実でありつつ、ジェンダー転倒という変化球を投げてきた。だが、その仕掛けによって新たな解釈の端緒を開きつつ、最終的に自ら閉じてしまっていた点が惜しまれる。田村演出では、「妻」役をあえて男優が演じることで、関係性は定位せずにつねに揺らぎ続ける。彼らはゲイカップルなのか? あるいは「私たち、昔はうまくいってたじゃない」と言うシーンでは、バイセクシュアルとして女友達とかつて恋人関係だった可能性が浮上する。さらに、「女言葉でしゃべるが外見は男性」を字義どおり受け取るならば、この「妻」はMale to Femaleのトランスジェンダーという見方も成立する。そこでは、彼/彼女を悩ませ脅かす「鞄から聞こえる異音」は、ホモフォビアあるいはトランスフォビアの謂いとなる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]

「仕事の帰りが遅い夫」を待ちながら女友達とおしゃべりして抑鬱を晴らそうとする、「家庭内で夫を待つ妻」。それをあえて男優が演じることで、(50年前という時代差に埋め込まれた)ジェンダー描写の偏向が露わとなる。その偏向は、「ゲイカップル」がヘテロセクシュアルのカップルを前提とした性別役割分業を踏襲していることや、トランスジェンダーがどこまでジェンダー規範や性別役割分業を内面化するのかといった問いの喚起によって、より浮き彫りとなる。

だが、ラストシーンでは、背後のスクリーンに「森友・加計学園」「マイクロプラスチック」「CO2排出量」「グレタ・トゥーンベリ」「非正規雇用」「子供の貧困」「原発再稼働」といった単語が次々と投影され、「鞄」の中身が「現代社会の時事問題」に短絡的に限定されてしまう(そこには「LGBTQ」に関する単語は不在である)。関係性の揺らぎ=想像力を投企できる演劇的余白や、セクシュアリティ・ジェンダーをめぐる問題圏、クィアな読解につながる萌芽はあったものの、掘り下げられないまま、「大きな事象」の羅列の中に拡散してしまったことが惜しまれる。



田村哲男演出『鞄』 [撮影:manami tanaka]


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若だんさんと御いんきょさん『時の崖』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2020/03/08(日)(高嶋慈)

リーディングパフォーマンス 市原佐都子/ジャコモ・プッチーニ『蝶々夫人』

会期:2020/02/29~2020/03/08

新型コロナウイルス感染症対策を受け、「観客も含めた少人数でのリーディング」という上演形態が、「オンラインによる戯曲配信」と「参加者の自主的なリーディング」に変更となった本作。合わせて公開された動画では、前半で市原佐都子自身が登場し、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(1904)の元となったピエール・ロティの小説『お菊さん』(1887~88)を紹介し、美しいが受動的存在として人形に例えられる「ステレオタイプな日本人女性」について解説したあと、後半では、実際のリーディング風景の抜粋が「お手本」として収録されている。筆者はグループでの自主的なリーディング会に参加する機会が得られなかったため、以下の本評は「戯曲の黙読」に基づくものである。

本作の構成は明快で、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』と、市原が書き下ろしたオリジナルの台本が交互に登場する。アメリカから長崎に赴任した軍人ピンカートンの「現地妻」となった15歳の元芸者「蝶々さん」は、3年間夫を信じて帰りを待ち続けるが、彼がアメリカ人の妻を伴って帰還したことを知り、「青い目の息子」を遺して自害する。このメロドラマ『蝶々夫人』のダイジェストの合間に挿入される市原のテクストは、舞台を現代日本に置き換え、オリエンタリズムの眼差しに一方的に晒されてきた「蝶々さん」の側に「私もまた欲望の主体である」という「声」を与えて取り戻しつつ、被抑圧者が「正しい糾弾」を繰り出すのではなく、そうしたPC的な態度に潜む欺瞞に対しても反省的に自覚し、私たちが無意識に抱え込んでいる「差別意識」を突きつける。


市原の書き下ろしは3パートあり、①オペラ『蝶々夫人』をベースにした新作『超蝶々』をドイツの劇場と共同制作中の、女性アーティスト4名から成る劇団「ザ・イエローバタフライズ」の稽古場、②六本木で不倫したビジネスマンのアメリカ人男性による懺悔、③「外人」と結婚した「蝶々ちゃん」の結婚式で祝辞を述べる友人代表、というものだ。このうち、①では、「蝶々さんは、現代では『外人ハンター』(西洋人男性の気を惹くため、ステレオタイプな容姿で六本木に集まる日本人女性)ではないか」という会話に始まり、「容姿を唯一の基準とする女性の優劣化」「見られる対象として相手(西洋人男性/日本人男性)の欲望に容姿を従わせる理不尽さ」に対してルッキズム批判が繰り出されるとともに、「西洋人」への憧れと(コンプレックスの「克服」としての)差別感情があぶり出される。また、ドイツの国際フェスティバルを例に、「非西洋」が文化的植民地として搾取される構造への批判や、「でもフェスから資金が出るから創作できる」=資本主義のマーケットに取り込まれることへの批判が自己言及される。

②では、「不倫を牧師に懺悔するアメリカ人ビジネスマン」の言葉が、「外人」の金とステータスシンボルが目当ての日本人女性を「知性のないサル」と見なす侮蔑と嫌悪に塗り替えられていく。一方、これと対応関係にある③では、「六本木のバーで出会ったピンカートンと結婚した蝶々ちゃん」への祝辞であるはずの言葉が、「外人」(おそらく②のビジネスマンと同一人物)と自身の性行為の赤裸々な描写にすり替わり、「3万円もらった」という言葉が(メロドラマの陰に隠された)「売春」という『蝶々夫人』との共通項を浮かび上がらせる。

形式面を見れば、「牧師への懺悔」「結婚式の祝辞」という形式を借りて、長大なモノローグの「不自然さ」を回避・クリアする手法は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」の形式を借りた『妖精の問題』における問題意識の延長線上に位置づけられる。本作では、この「懺悔」と「祝辞」の双方がお互いへの差別的感情と動物的欲望を赤裸々に吐露するのだが、①の「稽古場シーン」も(市原自身が投影されたと思しき)1人の人物の分裂的な会話にも見える。そのなかで、前作『バッコスの信女―ホルスタインの雌』の海外公演にあたっての経験を自己言及的に引きつつ、「ドイツ人側に対話相手と見られていない」「対等の関係ではない」という台詞が登場する。モノローグの閉塞感の密度をこのまま高めていくのか、あるいはそれを突破してどうダイアローグへと移行するのかが、今後のポイントのひとつになるだろう。


戯曲の段階ではあるが、本作は、これまでの作品との共通項の上に、これからの方向性が見えるものだった。形式的には、オペラすなわち「音楽劇」の要素を含むこと。内容的には、「女性が(見られる・語られる対象ではなく)自身の性や欲望を語ることの肯定」「人種差別」「ハーフ」「ルッキズム批判」に加え、西洋・男性から非西洋・女性に対する「オリエンタリズム」の一方的な眼差しとその反転が加わり、より立体的な拡がりが獲得された。


公式サイト:シアターコモンズ'20 https://theatercommons.tokyo/

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2020/03/07(土)(高嶋慈)

劇団速度『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』

会期:2020/03/05~2020/03/08

新型コロナウイルス感染症対策として公演の延期・中止が相次ぐ厳しい状況のなか、舞台芸術の存立基盤の危機的状況に対する批評的でしなやかな応答も試みられている。本評ではその一例として、京都を拠点とする劇団速度の試みを取り上げる。

劇団速度は3月5日~8日に京都芸術センターで『舞台の実存とスクリーン、間にいるあなたの眼』の上演を予定していたが、12月に延期となった。この作品は、初期作品の沈黙劇のリクリエーションであり、「言葉と俳優の関係」「沈黙、反復、字幕」について扱うものであったという。彼らはこのコンセプトを引き継いだ映像作品を京都市内の路上で撮影し、集客型の劇場作品からオンラインでの動画配信に切り替え、公演が予定されていた計4日間、映像を1本ずつ公開していった。



と言っても、この映像作品『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』は、「(劇場の代わりに)路上で俳優が行なった演技の記録映像」ではない。副題が示すように、単なる「市街劇の記録映像」との違いは、行為を記述/指定する「字幕の介在」にある。映像は①固定カメラによる定点観測、②キャリーカートを引いて歩く俳優のあとを追うカメラ、の2種類から成るが、いずれもキャリーカートに載せられたディスプレイに「字幕」が投影され、「歩く」に始まり、「横切る」「すれ違う」「カバンを背負って歩く」「通勤する」「挨拶する」「目が合う」「振り向く」といった行為が次々と記述されていく。カメラに気づかず行き交う人々の姿は、あたかも「ト書きに指定された行為」を無言で遂行する俳優であるかのように見えてくる。それは「観察と命名」という一見客観的な行為でありつつ、「路上で起こる出来事のすべてを『演劇化』して取り込もうとする」暴力性をまとってもいる。



一方で、「映像の情報量の圧倒的な多さ」「行為の同時多発性」は、「ト書きによる行為の指定」をすり抜けていこうとするだろう。また、「ラジカセをつける」「音楽」という「字幕」の傍らで俳優が踊ったり、「横になる」「眠る」「リフティングする」という「字幕」どおりの行為を俳優が行なう光景では、確かに「指示どおりの行為」は起こっているのだが、果たしてそれだけで「演劇」が成立するのか? という疑問が浮上する。ここでは、「行為の指定と強制的遂行」に還元された演劇の原理的フレームが強化されつつ、その脆弱性もまた露わとなる。また、(通常の上演においては不可視の)「ト書き」が「字幕」として顕在化することで、「誰がその行為を指定するのか」という権力性や、一方的な関係性がはらむ暴力性も浮上する。

一方で、本来の上演会場であった空間が、「字幕」のディスプレイとともに「無人」で映し出されるシークエンスがたびたび挿入される。俳優も観客もいない薄暗い会場に、ただ「歩く」「すれ違う」「眺めている」「雨が降っている」といった言葉だけが提示されるとき、それは「不在のものの投影、二重化の眼差し」としての演劇を(再び)この場に召喚し、想像力の再起動を促すだろう。また、路上の光景に何度か映る「ビニール傘」「ボール」「ラジカセ」が「無人の劇場空間」に配置されていることは、これらの物体が「小道具」「音響装置」の位置を離脱して「(疑似的な)プレーヤー」の位相へと移行したことを示す点で、「ものの演劇」の潮流、脱人間・俳優中心的な演劇観の更新の試みといえる(劇団速度の主宰、野村眞人は、ものとそれが置かれた環境と人 (俳優)との相互作用として演劇の上演を捉え直す試み「#部屋と演劇」のメンバーでもある)。



このように本作は、「状況による不可避的な要請」を出発点としつつも、単なる代替案を超えて、「演劇」に対するメタ的な思索の試みとして成立している。また、(マスク姿ではあるが)普通に多くの人々が行き交う路上の光景は、その「退屈な日常性」によって、逆説的に「公演延期」に対する密やかな抗議を作品内部に刻印してもいる。こうした経験が12月の上演にどう組み込まれるのか、期待したい。

【劇団速度】『景観と風景、その光景(ランドスケープとしての字幕)』①2020年3月5日


関連レビュー

福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年4月15日号)

2020/03/07(土)(高嶋慈)

村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』

会期:2020/02/22~2020/02/24

パピオビールーム大練習室[福岡県]

ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を演劇に持ち込み、「コミュニケーション(とその断絶)」「再現性と不確定性」「不在と想起」「演劇(本物らしさ)と認知」「モノローグ/ダイアローグ」といった面から演劇を鋭く照射/解体してきた演出家、村川拓也。出世作となった『ツァイトゲーバー』(2011)は、その日の観客から募った「被介助者」役を舞台に上げ、本職の介助者が普段行なっている障害者介助の様子を「再現」する作品である。KYOTO EXPERIMENT 2017で上演された『インディペンデント リビング』(2017)では、この形式を踏襲しつつ、日本、中国、韓国の3カ国からそれぞれ参加した3人の介助者が、順番に普段の介助労働を再現し、介助という営みの普遍性と、言葉の端からわずかに感知される個別的な生のありようが提示された。

本作『Pamilya』も、『ツァイトゲーバー』→『インディペンデント リビング』の系列に位置づけられる作品である。だが、「観客のひとりを被介護者に見立て、本職の介護士が介護を再現する」という枠組みは共通するものの、1)個人の「家」ではなく介護施設が舞台であること、2)ALS(筋萎縮性側索硬化症)など重度身体障害者の介助ではなく認知症の高齢者の介護であること、3)日本で働く「外国人介護士」が登場すること、4)「現在の再現」ではなく時間軸の推移を含むこと、5)介護士が自身の人生や被介護者への想いを語ること、といった複数の要素が加わることで、かなり異なる印象を受け、より作品の枠組みが広がったと感じた。先取りすればそれは、「1日の介護のダイジェスト」の背後に幾重にも積み重なった時間的レイヤーの層──介護士と介護される高齢者、2人の女性それぞれの人生に流れた時間、現在の介護労働者の供給地/かつての侵略地域──を通して、「家族」「介護労働の担い手(専門労働者/家庭内労働者)」について問い、その先に「観客の眼差しこそが舞台上に(不在の)存在を現前させている」という演劇の原理を浮かび上がらせていた。



[撮影:富永亜紀子]


冒頭、(『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』と同様に)村川が舞台に上がり、この作品には「フィリピンから来た外国人介護士のジェッサさん」が登場すること、彼女が介護を担当した「エトウさん」という女性の役を女性の観客の希望者に担ってほしいことを告げる(なお、上記2作品とは異なり、被介護者役の観客には「3つの願い事」を好きなタイミングで発話するタスクは課せられていない。私の観劇回では、50代くらいの中年女性が「エトウさん」役を担った)。

ベッドと椅子が置かれただけの簡素な舞台上に、リュックを背負って自転車を押した若い女性が現われる。彼女はゆっくりと舞台を一周し、キーロックの解除、ドアを開ける、ロッカーの扉を開けるといった動作をマイムで、靴の履き替えと着替えは実際に行なう。「おはようございます」というほかの職員への挨拶。ベッドに横たわる「エトウさん」に近づき、「よく眠ったばい?」と九州弁で声をかける彼女。通勤と着替えの準備から始まり、「介護施設での1日の労働」が淡々と再現されていく。ベッドから車椅子への移動、洗顔と身支度、朝ごはんの配膳と介助。入浴。ラジオ体操と、レクリエーションのカラオケタイム。夕食、再びベッドへの移動。そして退勤。「エトウさん」役の観客は、ベッドや椅子に身体を預けたまま、基本的にほぼ無表情で無反応だ。



[撮影:富永亜紀子]


彼女は介助の傍ら、そんな「エトウさん」にずっと声をかけ続ける。「手で食べないで。もうべちゃべちゃ」「自分で食べた方がおいしいよね」、「昨日、娘さんが来たと。良かったね」、「(車椅子に身体を固定する)ベルト外すね。ごめんね、嫌いやね」……。時にぶっきらぼうな口調のなかに、「他人」「お客様」ではない、自身の家族に接するような親密で温かい距離感がにじみ出る。その理由は、介護場面の合間に挿入される、ジェッサ自身のタガログ語による語りによって徐々に明かされていく。

約3年前にフィリピンから二国間EPA(経済連携協定)介護福祉士候補生として来日したこと。「エトウさん」の力強い目に惹かれたこと。噛みついたり手を叩こうとする彼女が、闘おうとしているのだとわかったこと。フィリピンではすべての家に水道があるわけではなく、お風呂の習慣もなく、水辺や雨水で身体を洗うこと。子ども時代に可愛がってくれた祖母が倒れたが、日本で働いているため、世話もできない自分への自責の念。長期休暇のあいだに「エトウさん」が亡くなり、祖母と同じく最期を看取れなかったことへの後悔。最後に会った頃の「エトウさん」は衰弱が激しく、手を差し伸べても叩こうとしなかったこと。

「エトウさん」に自身の祖母を重ねるジェッサの言葉は、だが、至近距離にもかかわらず「マイク」を介して発せられる。一見するとそれは、距離感やコミュニケーションの不成立を強調する「断絶の装置」として残酷に映る(『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』においても、介助者は「マイク」を介して被介助者に語りかける)。だが本作で興味深いのは、「施設内のほかの被介護者や職員に話しかける(フリで発話する)際には、マイクを使用しない」というルールである。「エトウさん」に話しかけるときにだけマイクを使用するという対比性が際立つことで、「こんなに近いのに声が届かないが、それでもいま目の前にいる「あなた」に語りかけている」という、断絶ではなく声を届ける装置として「マイク」の役割が肯定的に反転して感じられた。



[撮影:富永亜紀子]


コミュニケーションへの切実な希求は、「エトウさん、私の手を叩いて」という何度も反復される言葉で示される。祖母と「エトウさん」の重なり合い、そしてジェッサ自身の人生と「エトウさん」の人生が重なり合うのが、中盤のカラオケタイムでジェッサが歌う歌謡曲「瀬戸の花嫁」だ。生まれ故郷の島と家族から離れ、海を渡って別の島に嫁ぐ花嫁の心境を歌うこの曲の歌詞に、労働者としてフィリピンから日本へ渡ったジェッサと、おそらく実家を離れて嫁入りしたであろう「エトウさん」の人生が重なる。だが「花嫁/労働者」というズレは、「家族と介護労働の担い手」という問題を浮かび上がらせる。作品タイトルの「Pamilya(パミリヤ)」はタガログ語で「家族」を意味するが、ジェッサ自身の家族についての私的な語りは、より広い社会的文脈へと接続される。家庭内労働者としての「嫁(女性)」が担っていた仕事を、海外からの専門労働者が担うこと。さらに、その労働力の供給源がかつて侵略した被占領地域であることは、日本の近現代という、より長い時間的スパンを射程に含む。


最後に、「観客のひとりが被介護者の役を担う」仕掛けが内包する、複数の役割について考えたい。1)まずそれは、(プロの俳優が登場するのとは異なり)、舞台を見る観客自身の身体と舞台上で起きていることを地続きに連続させる。2)リハーサルも準備もなく舞台に上げられた素人が見せる、どう振る舞ってよいか戸惑う表情の硬さや緊張した無表情は、本人の意志表示やそれを表情から読み取ることが困難なALS患者や認知症の高齢者に接近し、「コミュニケーション」の問題を浮上させる。3)(プロの俳優ではない)介護士の振る舞い方に影響するであろう、「被介護者役をどんな人が引き受けるのか」という最重要素を本番開始までブラックボックスにしておき、演出家のコントロール不可能な状態に置くことで、「いま目の前で起きている事態」のリアリティの度合いが最大限になる。「日々繰り返される労働現場の再現」だが、上演のたびに「被介護者役」とその微妙な反応が異なるため、原理的に「再現不可能な一回限りのナマの出来事」に近づくのだ。「再現可能性」(=演劇)を設定したうえで、「再現不可能性(出来事の一回性)」の予測不可能なリアリティが侵入し、後者が前者の枠組みを揺らす。しかし同時に見る者は、戸惑いや緊張のためにこわばり、プロの俳優のように「動けない」被介護者役の身体に、(不在のはずの)「エトウさん」の身体を投影し、想像的に重ね合わせるという、演劇的行為を行なっている。つまり、いったん「演劇」の内部に予測不可能な出来事の一回性の亀裂を入れたうえで、再び「演劇」を再起動させている。そしてそこで再起動の鍵となる、被介護者役の身体のぎこちなさや硬さは、それを一方的に見つめる私たち「観客の視線」がもたらしていることに気づいたとき、「観客の眼差しこそが舞台上に(不在の)存在を現前させている」という、演劇の原理を突く鋭さに、身震いを覚えるのだ。

キビるフェス2020公式サイト:https://kibirufes-fuk.localinfo.jp/


関連レビュー

村川拓也『インディペンデント リビング』|山﨑健太:artscapeレビュー(2017年12月15日号)

村川拓也『ツァイトゲーバー』|木村覚:artscapeレビュー(2013年03月01日号)

2020/02/24(月・祝)(高嶋慈)

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