2019年08月01日号
次回9月2日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

山本聖子「白いシロ」

会期:2019/05/24~2019/06/09

Gallery PARC[京都府]

「白」という色彩に着目し、「清潔」「純粋」「無垢」「平和」といった私たちの生活空間におけるポジティブな意味の付与と、「他の色を排除して成り立つ排他性」という暴力性の両側面に言及してきた山本聖子。本展では、物件広告の「間取り」の線を切り抜いて織物のように繋げた作品を起点に、「白」の多彩な面に言及した作品群が展開された。



[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


本展を通覧して、とりわけ2Fのメインフロアの作品群から感じたのは、(ホワイトキューブの「白い壁」が、その物質的存在を消去された「透明な支え」として機能するように)ここで「白」の背後に隠された本当の主題は何か、ということだ。切り抜かれた間取りの線がタペストリーのように連なった平面作品と向き合うのは、市販の女児向けのぬりえ帳である。「アイドル」「ケーキ屋さん」「がっこうのせんせい」「ファッションデザイナー」「フライトアテンダント」といった「憧れの仕事」に就く女性たちのイラストは、輪郭線の内部が修正液で白く塗りつぶされる。あるいは間取り図と同様、切り取られた輪郭線が繋ぎ合わされ、遠目には抽象的な曲線のドローイングのようだが、よく見ると、ドレス、セーラー服、ツインテール、エプロンなどの記号的線であることが分かる。また、切り抜かれた線の内側部分は、白い石鹸で囲まれて台の上に安置され、キラキラの眼、顔、髪、腕や足など身体パーツ(の断片)であることも相まって、彼女たちの死を弔う祭壇のようだ。反対側のスピーカーからは、「白い四角は侵してはならない」「美しい」「純粋」「匂いがしない」「見えない」といった囁き声が聞こえ、「白い四角は」という単語の反復と相まって、脅迫的ですらある。



[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]



[撮影=麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


真っ白で清潔なタオルや衣服、家電製品、食器、エプロン、食品の容器や洗剤のパッケージ。それらで居心地よく満たされた居住空間、すなわち不動産物件の間取りの多くもまた、カップルや核家族を対象にしたものだ。そこでは、「家庭内を美しく、清潔に整え、家族が笑顔と健康でいられるよう平和に保つ」役割は、家事と育児を担う再生産労働者としての女性に担わされてきた。ここで、過剰な「白」への脅迫衝動の背後に隠された「見えない」存在として、「清潔」「純粋」「無垢」「平和」を期待された理想的な女性像を読み込むことも可能である。ちなみに「いろんなおしごと」の例のぬりえ帳には、「母親」はない。

2019/05/25(金)(高嶋慈)

セレブレーション/小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》

会期:2019/05/18~2019/06/23

京都芸術センター、ザ ターミナル キョウト、ロームシアター京都、二条城 東南隅櫓[京都府]

日本とポーランドの国交樹立100周年を記念したグループ展。両国の若手・中堅のアーティスト21組が参加する。日本でまとまって紹介される機会の少ないポーランドの現代アートを見られる貴重な機会だが、メイン会場の京都芸術センターの主な展示スペース(南・北ギャラリー、講堂、フリースペース、大広間)はすべて日本人作家で占められている(経費の問題もあるだろうが)。また、数組のポーランドでのレジデンス経験者以外は、京都市立芸大出身者でほぼ構成され、偏向性や閉鎖性を感じざるをえない。タイトルの「セレブレーション」という身も蓋もない言葉通り、「国交樹立100周年」という記念性を冠しただけの企画に感じた。

本展での収穫は、(ポーランドでのレジデンス経験者/京都市立芸大出身者のどちらにも該当しないのだが)小泉明郎の映像作品《私たちは未来の死者を弔う》だった。今年春の「シアターコモンズ'19」で発表された本作は、公募で参加した若者たちとのワークショップを経て、かつての米軍基地跡地で撮影された。

これまでの小泉作品は、「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、「戦争」という負債を清算できないまま抱え込んだ日本社会の下部構造をあぶり出してきた。特攻隊や出征兵士と「感動」のドラマの共犯関係。第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させ、「加害の記憶喪失」を患う 日本を批判する《忘却の地にて》。反天皇制のデモとそれに対するヘイトスピーチの現場を映し出しながら、複数の「父と子」(キリスト、小泉自身とその父親、天皇と国民)及び「(自己)犠牲」のイメージを多重的に重ね合わせる《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》。そこでは、「演出」の介入や「フィクション」であることの暴露が、虚実曖昧な領域に観客を連れ出しつつ、「戦争」というトラウマの抑圧、虚構だからこそもたらされる心理的高揚、加害の記憶の健忘症、同調圧力といった病巣が浮き彫りにされる。

また、しばしばスクリーンの裏面にメイキングや暗喩的イメージが投影され、同期した映像が表/裏に投影されるという空間的二面性も小泉作品の特徴のひとつだが、《私たちは未来の死者を弔う》では、「逆再生」という時間の反転がキーとなる。パフォーマンスを記録した「通常再生」のパートでは、しのつく雨のなか、放射線の防護服を思わせる白いコートを着た者たちが、若者を一名ずつ、死体のように運んでくる。処刑される者のように、膝立ちで両腕を後ろに抑えられた若者は、「私、○○は、何か(家族、子ども、自由など)のために自分の命を投げ出します/何のためにも自分の命を投げ出しません」と宣言し、その理由を述べる。それは一語一句、他の者たちによって復唱され、銃声のような掛け声とともに、宣言した者は蘇生のような身振りを行なう。「見よ、未来の英雄が蘇った」という声が響く。



小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》
[©京都芸術センター 撮影:来田猛]

だが、この「宣言」と「蘇生」の儀式は、「逆再生」のパートにおいて、(解読不能な言語による)「断罪」と「集団処刑」に反転していく。逆再生によって、音声は不可解な外国語か呪詛のように響き、さらに復唱の順番が入れ替わることで、主体的な意志による宣言だったものは、匿名的な集団の声が処刑される者に強要する、罪状と自己批判の言葉のように見えてくるのだ。その「罪の宣告」が何であるかが見る者には把握不可能なことが、より不気味さを加速させる。そして、地面に横たわる「死体」の数は次第に増えていく。

「自己犠牲」をすすんで行なう者が「英雄」なのか、あるいは「自己犠牲」の否認が「英雄」たりえるのか。どちらであれ、主体的な意志を宣言した者が「蘇る」という「通常再生」のパートは、(「処刑」に反転したパートをかいくぐった後では)主体的な意志の発言がバッシングや社会的抹殺を受けて葬られてしまう現状への批判ともとれる。そこでは、権力体制によって、あるいは個人の輪郭が判別しがたい集団的な声によって一度葬られた「死者たち」が絞り出す言葉は、(再び)意味を持った言葉として再生され、私たちに届く。通常再生/逆再生のループを繰り返す操作により、蘇生/処刑、救済/抑圧の両極を行き来する本作は、極めて両義的だ。



会場風景 [撮影:著者]

だが真に不気味なのは、淡々と処刑を遂行する兵士/白い防護服に身を包んだ者たちの平静さではなく、時折カメラに映る、処刑/蘇生の儀式を遠巻きに囲んでただ傍観している者たちの存在ではないか。鏡の反映のように、自らの姿が不意に画面内に映し込まれたような、後味の悪さ。それは、彼らと同じく、光景を「ただ見ている」観客に対して、「見ること」が中立的立場ではないこと、「ニュートラルな視線」など存在しないことを突きつける。私たちは、処刑と忘却の遂行に、「黙認」という形で加担しているのか、それとも蘇生の奇跡の目撃者たりえるのか。

2019/05/25(土)(高嶋慈)

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よみがえる沖縄 1935

会期:2019/04/13~2019/06/29

立命館大学国際平和ミュージアム[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッドプログラムとして開催された写真展。1935年の朝日新聞の記事「海洋ニッポン」(全10回連載)の取材時に撮影された写真のネガ計277コマが大阪本社で見つかり、セレクトされた約100点の写真が、立命館大学 国際平和ミュージアムが所蔵する沖縄関連資料と合わせて展示された。戦前の沖縄の写真の多くが戦災で焼失したなか、10年後の太平洋戦争で破壊される前の街並みや人々の生活風景を伝える貴重な記録である。モノクロプリントに加え、AIの機械学習と住民の記憶に基づいてカラー化した写真も展示された。

展示は撮影地域ごとに構成され、「糸満」の(埋め立て前の)海と漁師、「古謝」のサトウキビ畑での農作業、「久高島」の墓や風葬の宗教的風習、「那覇」の市場の賑わいなどが活写されている。ただ、これらの写真を「豊かな自然と独自の文化に満ちた島、そこで力強く生きる明るく素朴な人々」として、ノスタルジーの対象として眼差すことには注意が必要だろう。吉浜忍(沖縄近現代史)が解説パネルで指摘するように、国家が戦時体制を固めていく時代状況においてプロパガンダ的側面をもつからだ。例えば、糸満出身者の移民先を記した世界地図を眺める、坊主頭の少年たち。後ろ姿の彼らの表情は見えないが、掲載記事の解説には「糸満人の世界分布図に感激の胸おどらす第二世たち」と記される。地図にはシンガポール、ジャワ島、ハワイなど南洋諸島が記され、移民先が「南進」政策と重なっていることを示す。また、古謝(現沖縄市)の「模範部落」でサトウキビ農作業に従事する青年団や女子青年団を撮影した一連の写真群からは、「労働の組織化による国力増産」というメッセージがうかがえる。報道写真の撮影者の眼差しのなかにある意図を脱色してこれらの写真を見ることは、歪曲にほかならない。

また、「AIの機械学習による古写真の着色」は昨今の流行である。だが今回の場合、沖縄独自の風物については学習素材が少なく、「カラーの再現」に難航したという。例えば、市場で女性が売っているカゴのなかの物が何であるのかが判別せず、別会場での展示の際、来場した高齢の女性から「海藻」だと教えてもらい、色彩が再現できたというエピソードも紹介された。これは再現可能となった事例だが、「記憶の欠落や空洞」を物語るものとして、あえて着色せず残す方法もアリなのではないかと思った。沖縄戦の破壊による消失の傷を「色鮮やかな再現=記憶の蘇生」として癒すのではなく、証言者の不在と「もはや蘇らない」記憶の空白地帯と断絶を指し示すものとして。

公式サイト:http://www.asahi.com/special/okinawa/oldphoto/

2019/05/25(土)(高嶋慈)

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ヤネック・ツルコフスキ『マルガレーテ』

会期:2019/05/17~2019/05/24

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

ポーランドの演出家、ヤネック・ツルコフスキの作品の日本初公開。見知らぬ他人が撮影した古い8mmフィルムを蚤の市で手に入れた彼が、複数のフィルムに登場する女性(「マルガレーテ」)に関心を持ち、フィルムに映ったものの分析やリサーチを経ながら、「彼女は何者だったのか」に迫っていくという筋立てだ。観客数は毎回25名と少人数に限定。じゅうたんの上に置かれた小ぶりのスクリーンを囲んで観客は座り、紅茶を飲んでくつろぎながら、ホームビデオの上映会に招かれたようなアットホームな雰囲気のなか、ツルコフスキが語りかける。観客には受信機とイヤホンが配られ、ツルコフスキの話す英語は、背後のブース内にいる「日本人俳優の吹き替え」によって、あたかも同時通訳を聞くかのように体験される。本作がフィクションであることを逆手に取りつつ、上演のライブ性を損なわない、優れた仕掛けだ。未編集の、あるいは自ら編集した8mmフィルムの粗い映像を見せながら、個人的な体験とともに「マルガレーテ」の謎に迫っていくソロ・パフォーマンスは、「物語る」行為そのものを前景化する演劇の実験的形式であり、「ファウンド・フッテージ」でもあり、真偽の曖昧な領域に観客を連れ出しながら、記録メディアと記憶に関する複数の問いを照射する、親密にして刺激的な試みだった。



[撮影:守屋友樹]


ツルコフスキの語りは、ある個人的な体験を遡ることから始まる。2008年6月、ポーランドの国境に近い旧東ドイツの街に行った際、蚤の市で、誰のものとも知れない8mmフィルム数十本を買ったこと。それらのフィルムを映写機にかけてスクリーンに映し出しながら、その夜、静かな興奮とともに、たくさんのフィルム=誰かの記憶を見た経験が語られる。犬を連れて、林のなかを散歩する男女。友人たちとのホームパーティ。観光旅行で訪れたと思われる、ポツダムのサンスーシ宮殿。バルト海のリューゲン島。ツルコフスキは、フィルムの多くに、同じ白髪の女性が映っていることに気づく。フィルムを収めた箱に書かれていた名前から、彼女を「マルガレーテ」と呼ぶことにしたツルコフスキは、「映像のなかの秘密」の解読に乗り出す。「マルガレーテ」とよく一緒に映っている似た格好の女性は、姉妹なのか。撮影者はどんな人物で、なぜ彼女を執拗に撮り続けたのか。地面に一瞬映った撮影者の男の影を、ツルコフスキは見逃さない。カメラに目線を向ける「マルガレーテ」の手の動きには、どんな意味があるのか。

「マルガレーテ」の映ったフィルム以外にも、ツルコフスキの興味を引くものがある。例えば、共産主義時代に行なわれていたパレード。1989年、共産主義体制の崩壊を14歳で経験したツルコフスキにとって、その映像は複雑な感情を呼び起こすものだ。オークションでポーランドのほぼ同時代のフィルムを入手した彼は、旧東ドイツとポーランド、それぞれで撮影されたパレードの映像を比較する。カメラアングル、人々の動き方、道路の曲がり具合……。

また、フィルムの「焼け」の質感が好きと言うツルコフスキは、「焼け」の部分だけをつなぎ合わせて1本のフィルムを編集し、元々はサイレントだったものに音楽を付けて上映してみせる。甘く郷愁を誘うような音楽は、フィルムの粗くざらついた質感や、斜陽が差し込んだようなオレンジ色に染まった「焼け」の効果と相まって、ノスタルジーへの誘いを加速させる。それは、「共産主義時代」がすでにノスタルジーの対象、すなわち「安全に眺められる過去」になったことを示唆する。



そして後半、「マルガレーテ」の謎が明らかにされていく。箱に書かれていた「ルーベ(Ruhbe)」という苗字が珍しい姓であることを手掛かりに、「親類.com」というサイトや電話帳で調べ、彼女がある特別養護老人ホームに「いる」ことを突き止め、会いに行く。だが、まもなく100歳になるという「マルガレーテ」は、会話も覚束ない状態で、もう目もよく見えないという。100歳の誕生日に、30年前に撮られた、彼女と双子の姉の誕生パーティの映像を見せるが、「思い出せない」と彼女は言う。そしてラスト、再び蚤の市を訪れた映像が流れ、フィルムを売った店主は言う。「誰がフィルムを売りにきたかは不明だが、唯一確かなことは、フィルムが手に入ったのは、彼女が死んでからだよ」と。「マルガレーテ」の実在性、ツルコフスキ自身の語りの真偽を宙吊りにしながら、「映像記憶の亡霊性」を突きつけるラストだ。



見知らぬ他人の記憶を盗み見するという好奇心とともに、サスペンス仕立てで観客を引きつけつつ、より深い審級の問いを開いていく本作。「物質的に窮乏」「抑圧されていた」という画一的なイメージを抱きがちな共産主義時代にも、家族や友人との談笑や旅行など、穏やかな日常生活があったこと。アナログフィルムの粗い質感とノスタルジー化の共犯関係。共産主義時代の無害なノスタルジー化。プライベートなフィルムが、蚤の市のみならずネットオークションでも日々売買されていることへの倫理的問い。アマチュアフィルムの凡庸さと、それらが潜在的に秘める物語の可能性。「対面して物語る」こと、すなわち「演劇」の発生への探究。「ファウンド・フッテージ」の形式を借りつつ、真実の究明が同時にフィクションの構築でもあるという両義性。そして、映像の記録性と被写体本人の忘却とのあいだで宙吊りになった、記憶の確かさと不確かさ。被写体自身の記憶が消滅しても、さらに被写体の肉体がこの世を去った後も、アナログフィルムからデジタル信号へと変換されてメディアを乗り換えながら、スクリーンの皮膜の上に留まり、こちらに眼差しを向け続ける、そうした亡霊的存在を「マルガレーテ」と名付けよう。


2019/05/19(日)(高嶋慈)

生きられた庭

会期:2019/05/12~2019/05/19

京都府立植物園[京都府]

京都府立植物園の広大な敷地内に点在する作品を、「キュレーターによるガイドツアー」形式で鑑賞する、異色の企画展。約1時間のガイドツアーは1日7回行なわれ、記録映像をウェブ上に公開・保存するなど、実験的な形式性に富んだ企画だ。キュレーターの髙木遊は東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻に在籍し、本展は同研究科の「修了要件特定課題研究」として開催された。



「ガイドツアー」は、個別の作品解説に加え、京都府立植物園の歴史や特色ある取り組みについても多く触れるものであり、個人的には後者の方が興味深かった。園内のさまざまなエリアを巡りながら、この場所に堆積した歴史の重層性とともに、「庭」のもつ多義的な意味(境界画定、人為的管理と「自然」の同居、多様性の共存)が語られていく。

園内にある神社をとりまく一帯の「なからぎの森」は、園内唯一の自然林であり、原植生がうかがえること。また、正門を入ると出迎える「くすのき並木」は印象深いが、敗戦後の1946年から12年間、植物園はGHQに接収され、家族用住宅建設のために多くの樹が切り倒された。返還後の60年代に新たに植樹されたものは樹高が低く、樹の高さが歴史を物語る。また園内には、倒木や切り株が点在する。これらは、昨年9月の台風の被害の物理的証言であり、「自然災害の爪痕を教訓的に残す」意味合いと、「倒れた木や切り株が苗床となり、新たな命を育む様子を「展示」として見せることで、生と死の循環や両者の切り離せなさについて考えさせる」狙いがあるという。

また、「日本の森・植物生態園」のエリアでは、日本各地に自生する植物の多様性を、九州と四国の暖地性植物、関西から中部、関東にかけての植物、東北と北海道の寒地性と亜高山帯の植物、水辺の植物ごとに植栽。だが、本来はそれぞれ異なる環境や気候に属する植物をひとつのエリアで育てることは難しく、人間の管理がより必要だという。私たちを取り巻く人工的に管理・演出された「自然さ」について問うとともに、「多様性社会」を考える上でも示唆に富む。


このように、「京都府立植物園」という固有の場所の持つ歴史の重層性や、「庭」が喚起するメタフォリカルな意味は大変興味深い。だがそれらは、「府立植物園についてのガイドツアー」で与えられる情報であり、展示作品がこうした歴史性やテーマに応える力を持っていたかどうかは疑問が残った。

植物園の空間性を活かした展示としては、例えば多田恋一朗は、単色に塗られた変形キャンバスを、苗床となった切り株の上に設置した。また、山本修路は、ピンホールカメラのような木箱を各所に設置。小さな穴を覗くと、節くれだった樹の根元、遠くの山並みなど風景の一部がピンポイントで丸く切り取られる。「新鮮な視点の発見」とともに、カメラのフレームが「フレーム外の要素の排除」「視線の強制」でもあることを示し、両義的だ。また、石毛健太の《Not just water/ただの水ではない》は、噴水の真上に仮設の小屋を設置し、「噴水の頭」を観客が間近で眺められる作品。狙いは映像の方にあり、「93年にメキシコで撮影された、川の濁流の上を飛び跳ねるエビのような謎の生物」についての検証が、「PCのデスクトップ上に次々と映像の再生ウィンドウが立ち上がる」という自己言及的な形式によって展開される。都市伝説を生んだ「未確認生物」の正体は最後に明かされ、コマ数の少ない家庭用ビデオカメラで撮影した際、水しぶきの残像が「飛び跳ねる謎の生物」に見えたからだという。「映像上のみに存在する未確認生物」をめぐるそれ自体真偽の曖昧な話を、次々と重なり合う「動画再生ウィンドウ」によって展開し、ネット上における映像の流通や消費、知覚について自己言及的に問う姿勢は興味深いが、例えばヒト・シュタイエルのそれを容易く想起させる。



多田恋一朗《「君」に会うための微細な毒》



山本修路《風景を読む》


こうしたなか、本展での収穫は、積み上げた巨大な段ボールが自重で崩壊していく、野村仁の初期の代表作《Tardiology》(1968-69)の、野外での再制作だった。京都市美術館の屋外敷地で初めて発表されたこの作品は、美術館のホワイトキューブでは何度か再制作されているが、野外での再制作は25年ぶりである。さらに、今回の設置場所は、台風で枝を失った樹や切り株に囲まれた場所であり、「時間とともに姿を変える非永続的な作品」の「(再)生と死」を考える上でも示唆的だった。「作品の保存=延命装置」である美術館の静的環境ではなく、生きている樹、倒木や切り株、それら死を糧として再生する命、そうした循環する自然の動的な相の元で本作の再制作を見られたことは、極めて意義深い。



野村仁《林間のTardiology》


公式サイト:https://ikiraretaniwa.geidai.ac.jp/

2019/05/19(日)(高嶋慈)

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