2023年10月01日号
次回10月16日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

コレクション1 80/90/00/10(前編)

会期:2023/06/24~2023/09/10

国立国際美術館[大阪府]

国立国際美術館の昨年度の新収蔵品のお披露目を軸とするコレクション展。目玉となるのが、初収蔵となる村上隆の巨大な絵画作品《727 FATMAN LITTLE BOY》(2017)だ。国内に所蔵される村上作品としては最大級のサイズ。「サブカルチャーの引用」「ポップ」「キャラクター」「美術史の引用・アプロプリエーション」といった村上作品のキーワードを起点に、1980年代から2010年代までの現代美術を紹介する。展覧会タイトル「80/90/00/10」は単線的に時間が進むイメージを与えるが、2010年代から90年代を通過して80年代へと遡行しながら、「ジェンダー」というもうひとつの軸線が浮上していく構成だといえる。

まず観客を出迎えるのが、村上の《727 FATMAN LITTLE BOY》。村上の代表的なキャラクター「DOBくん」が、絵巻物を参照した様式化された雲に乗り、威嚇するように牙をむく。グラフィティを思わせる背景には、長崎と広島に落とされた原子爆弾のニックネーム「FATMAN」「LITTLE BOY」と、「SHOVE IT ALL IN(みんなくたばれ)」というスラングが書かれている。同じ展示空間には、引き延ばした漫画のコマや映画『グレムリン』(1984)のキャラクターの画像をそれぞれシルクスクリーンで複製したロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル、『スーパーマン』の漫画に登場する架空の未来都市をモチーフに彫刻化したマイク・ケリーの作品が並ぶ。「ポップカルチャーの引用」という手法を文脈づけるとともに、その「アメリカのポップカルチャーの受容経験」が戦後日本の自己形成に憧れと強烈なコンプレックスをもたらしたことを示唆し、村上作品の生まれた土壌を補強する。



展示風景


続く展示空間は、村上に加え、「80~90年代の(男子向けの)サブカルチャーを参照した作家」を概観する。日本のプラモデルメーカー「タミヤ」の看板の引用やタミヤ製のプラモデルの兵隊を使用した、村上の初期作品(東京国立近代美術館の所蔵および寄託)。鉄腕アトムを思わせる目鼻のないキャラクターを描いた絵画や、発砲スチロール製の犬が載ったラジコンカーの彫刻をつくった中原浩大。ヤノベケンジの《アトムカー(黒)》(1998)は、コインを入れて実際に走らせることができるが、放射線を10回感知すると止まってしまう。スーパーカーブームのなかで育った國府理の初期作品《Tug Tricycle》(1995)も、重い荷物を牽引可能な三輪車で、実際に可動性を備えている。



展示風景


このように、プラモデル、鉄腕アトム、クルマといった「男子向けのサブカルチャー」の集合とは対照的に、次の展示空間には、少女漫画を参照した西山美なコの絵画作品が展示され、サブカルチャーがジェンダーによって領域化されている構造を突きつける。「デ・ジェンダリズム~回帰する身体」展(1997、世田谷美術館)で発表された《Looking at you》では、輝く大きな瞳、小さな口、細い首、カールした色とりどりの髪にドレスを着た少女たちの肖像が並び、少女性や美の基準を誇張すると同時に、観客を見つめ返す。観光名所の顔はめパネルを少女漫画風に置き換えた《ようこそあなたのシンデレラ・キッチュS》(2004)では、少女漫画の読者がキャラクターに自己投影することで、「王子様と結ばれる(べき)」という夢の世界かつ異性愛規範が強化されること、しかしそれは書き割りのように薄っぺらい虚構にすぎないことが暴かれる。



西山美なコ《Looking at you》(1997)


この西山作品の奥に、スクール水着やセーラー服を着た「美少女」たちが滝で水と戯れるさまを描いた会田誠の巨大な絵画《滝の絵》(2007-2010)が置かれることで、「少女と消費文化」という西山作品の文脈は、90年代がブルセラブームや援助交際など「少女の性的消費化」が加速した時代でもあったことを改めて意識させる。



展示風景


こうしたジェンダーとポップカルチャーに対する批評は、さらに奥の展示空間で、80年代へと時間を遡行するかたちで展開される。森村泰昌、シンディ・シャーマン、アストリッド・クライン、やなぎみわ、ローリー・シモンズ、シェリー・レヴィーンら、アプロプリエーションやコンストラクティッド・フォトの手法を用いる作家たちだ。架空の映画のヒロインに扮したシンディ・シャーマンの写真作品の隣には、ブリジット・バルドーの切り抜きに「私はしゃべらない、何も考えない」というテキストを添えたアストリッド・クラインのコラージュ作品が置かれ、「映画」という大衆文化における表象の不均衡性を示す。構築された女性像の虚実の曖昧さや不気味さは、人工的な空間にエレベーターガールたちがマネキンのように佇むやなぎみわの写真作品を経て、ローリー・シモンズの写真作品では被写体が文字通り「人形」となる。色調やライティングを誇張したバスルームやリビングでポーズをとる人形の女性たちは、映画のワンシーンのようにも、窃視的なショットのようにも見える。



左:アストリッド・クライン《無題(私はしゃべらない、、、)》(1979)  右:シンディ・シャーマン《無題 #129》(1983)




左より:ローリー・シモンズ《ブルー・ウーマン/ブルー・ウォーター》(1983)、《レッド・バスルーム》(1983)、《ペイル・ブルー・リビング・ルーム》(1983)
右:やなぎみわ《アクアジェンヌ イン パラダイス II》(1995)


ただ、渋谷の街頭を精緻に写したトーマス・シュトゥルート、昭和の団地の光景をシュールなアニメーションで描いた束芋、精巧な植物の木彫を空間に溶け込ませる須田悦弘、牛乳箱を「貸し画廊」に見立てた小沢剛を紹介する終盤は、焦点がぼけて失速を感じた。ポップカルチャーの引用を経て、ポップカルチャーが再生産するジェンダーの構造への批評という軸線を、さらに掘り下げる余地が同館のコレクションにはあるのではないか。後編では、「展覧会レビュー」の枠を逸脱するが、同館コレクションを通してジェンダーやセクシュアリティを語り直す視座の可能性について考えてみたい。

後編に続く)

公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/collection20230624/

関連レビュー

コレクション1 80/90/00/10(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)

2023/06/23(金)(高嶋慈)

リニューアルオープン記念特別展 Before/After(後編)

会期:2023/03/18~2023/06/18

広島市現代美術館[広島県]

本稿の前編でみたように、「Before/After」展は、美術館の建築構造をベースとして、おおむね、「A棟=建築と作品の保存修復・ケア」「B棟=カタストロフィの前後の時間、館のアイデンティティとしてのヒロシマ」という2つの軸線で構成される。解説パネルに加え、作品どうしの関連キーワードをハッシュタグ群として壁に提示するなど、非常にわかりやすく設計されている。だが、そうした「わかりやすいキュレーション」を一見撹乱するように、1970年代の3点のビデオアートが飛び石的に置かれていることに留意したい。A棟とB棟の展示室の入り口と出口にそれぞれ置かれた3台のブラウン管モニターは、主張しない「小ささ」や作品自体の地味さの一方で、物質的な存在感を強調する。これらの離れた点と点をつなぐことで、「点線で引かれたC軸」と呼びうる、もうひとつの軸線が浮かび上がってくるのではないか。



展示風景 [撮影:来田猛]


1点目は、A棟の展示室入り口に置かれたデニス・オッペンハイムのビデオ作品である。《2ステージ・トランスファー・ドローイング(未来の状態への前進)》(1971)では、上半身裸のオッペンハイムの背中に、彼自身の息子がペンでゆっくりとドローイングを描き、オッペンハイムは背中に伝わるペンの感覚だけを頼りに、目の前の壁に貼られた紙にドローイングを「転写」する。《2ステージ・トランスファー・ドローイング(過去の状態への回帰)》(1971)では、父と息子が入れ替わり、父が息子の背中に描いたドローイングが、息子によって壁に「転写」される。「触覚を介した目隠し状態のドローイング伝言ゲーム」であり、2つのドローイングは、「行為の伝達」「再現」がはらむズレを可視化する。またここには、息子にとっての父(=自分自身の未来の姿)と父にとっての息子(=自分自身の過去の状態)という時間的な相似形がある。「未来」に向けた伝達と、「過去」への回帰は、自己同一性とともに差異をはらむ。この事態は、作品を「未来」へ伝えるための修復措置や交換補充、そのために制作当時の状況の調査など「過去」へ遡及するといった、「保存修復」の問題としてパラレルに読み替えることができる。あるいは、「背中に描かれたオリジナル」はすぐに消え去るが、「別の世代によって別の媒体に伝達されたコピー」は物質的に残ること。このように、オッペンハイムのビデオ作品は、このあとに続く展示室のテーマをメタフォリカルに予告してもいる。



デニス・オッペンハイム《2ステージ・トランスファー・ドローイング(過去の状態への回帰)》(1971)


2点目は、B棟地下展示室の入り口に置かれたダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》(1978-1979)だ。主人公の普通の女性が「ワンダーウーマン」に変身して敵と戦うアメコミのテレビ番組を引用し、フェミニズム的視点から映像の消費文化を批評する。視聴者が待ち望む、お約束の「変身シーン」が執拗に反復され続けることで、「ハイライト」の希少価値を無効化し、物語の文脈から切り離し、スペクタクルの空虚さを露呈させる。「変身」のたびにきらめく閃光と、同じく反復される爆発シーンの火焔。その奥に、核爆発の瞬間を描いた岡本太郎らの絵画、広島市内の夜空の花火を描いた木版画やキノコ雲の表象が続くことで、「閃光と爆発の瞬間」をひたすら反復するバーンバウムのビデオ作品は、「宙吊りにされた視聴者のカタルシス」から「トラウマ的な記憶の反復」へとメタフォリカルに変容していく。



左より:岡本太郎《明日の神話》1号原画(1967)、 ダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》(1978-79)、 井上覚造《地球は終りぬ》(1956) [撮影:来田猛]


そして、3点目は、同じ地下展示室の出口に置かれたジョン・バルデッサリ《芸術制作中》(1971)だ。何もない空間に立ったバルデッサリが、ポーズを変えながら「芸術制作中(I am making art)」とつぶやき続けるだけの映像である。コンセプチュアル・アートのトートロジー性や「退屈さ」、既存のアートの否定(その究極の形としての「何もしないこと」)が「アート」として成立してしまう反芸術的態度、身体に過激な負荷をかけるボディ・アートなど、同時代的潮流に対する何重もの皮肉として解釈できる。だが、この作品が「ヒロシマ」「フクシマ」を扱う作品群の最後に置かれたとき、別のメタメッセージを帯び始める。「芸術制作中」という現在進行形の宣言は、「前/後」と明確に切り分けられない時間の連続性のなかに私たちがいること、そして表象不可能性や「当事者/非当事者」の分断の前に立ち尽くして何もしないのではなく、「それでもアートの制作に終わりはない」と力強く宣言すべきであることを示すように見える。



展示風景 [撮影:来田猛]




ジョン・バルデッサリ《芸術制作中》(1971) [撮影:来田猛]


このように、3つのビデオアート作品は、伝達やコピーが生む差異、反復、現在進行形という3つの異なる「時間」の位相を提示することで、「前/後」という時間の切り分けや直線的に進む時間という近代的意識を自己批評する。一方、3点それぞれは各展示室のテーマとメタ的に共鳴し、補強する役割を担う。そして点と点をつなぐことで、「ビデオアートの戦略的な読み替え」のアクロバティックな操作という、もうひとつの軸線が見えてくる。一見すると「わかりやすいキュレーション」を撹乱的に裏切るようで、実は自己批評を書き加えつつ、最終的に裏書きして支えるという、非常に重層的な構成だった。

公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/beforeafter

関連レビュー

リニューアルオープン記念特別展 Before/After(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)

2023/06/18(日)(高嶋慈)

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リニューアルオープン記念特別展 Before/After(前編)

会期:2023/03/18~2023/06/18

広島市現代美術館[広島県]

2020年12月から約2年3カ月にわたり、大規模な改修工事による長期休館を終えた広島市現代美術館。「リニューアルオープン記念特別展 Before/After」では、文字通り「前」と「後」をテーマに、美術館自体がどう変わったのか、経年変化と保存修復、核によるカタストロフィの前後の時間に焦点を当てている。コレクションをベースに、若手作家を中心とする新作を加え、45組の作品を全館に展示。加えて、建築模型、図面、記録写真・映像、新旧のデザイン比較などの資料や解説パネルも並び、大ボリュームの内容だ。



展示風景 [撮影:来田猛]




展示風景 [撮影:来田猛]


本展を企画した学芸員の角奈緒子は、休館前の2019年に開催された「開館30周年記念特別展 美術館の七燈」に関わっている。美術館自身の軌跡、使命や機能、課題を照らし出す7つの導きの灯として、「観客」「建築」「ヒロシマ」「保存修復」「資料と記録」「リサーチと逸脱」「あいだ」といった切り口を設定した。本展ではこのうち、「保存修復」と「ヒロシマ」が2つの軸となっており、続編的な位置づけといえる(「美術館の七燈」展において館の歴史のリサーチから作品を展開させた田村友一郎が、さらに「自作の続編」をつくるという遊び心に満ちた仕掛けもある)。

同館の建築は、中央のエントランスの円形空間から、左右に2つの棟が伸びている。本稿では、展示室A-1~4のある右翼を「A棟」、展示室B-1~3のある左翼を「B棟」と便宜的に呼称する。A棟の第一展示室では、「館のリニューアルを紹介する資料展示」が出迎える。エレベーター増設、だれでも多目的トイレ・ベビーケアルーム・キッズスペースの新設といった来場者の利便性を高める改修。展示室の照明のLED化、両翼の屋根や床を張り替えて防水・排水性を高めるなど、建築や機能のメンテナンス。

続いてA棟では、非耐久的な素材を用いた作品の保存修復と、「保存修復」それ自体をテーマとする現代美術作品が並ぶ。前者は、「美術館の七燈」でも課題として取り上げられていた田中功起の初期作品《everything is everything》(2005-2006)。劣化しやすいプラスチック製の日用品・消耗品と、その「逸脱的使用」を収めた映像で構成される。本展では、田中と学芸員が実際に展示室に構成物を配置しながら、劣化した物の交換補充や再展示についての指針を話し合い、そのプロセスの記録映像を「インストラクション」として並置した。また、後者の「保存修復」自体を主題化した作品としては、ブロンズ彫刻の保存修復工程をニンジンに施す髙橋銑、壊れた日用品を薄い布でくるみ、傷やヒビ割れの部分を絹糸で縫い合わせるように刺繍する竹村京らが並ぶ。



田中功起《everything is everything》(2005-06) [撮影:来田猛]


このように、時間作用が建築/作品にもたらす劣化にメンテナンスを施し、時代に応じた新陳代謝を促す営みは、「ケア」の領分といえる。そして来場者へのケア・配慮として、ピクトグラムのデザイン更新のなかでも、画期的な試みとして特に注目したいのが、トイレのジェンダー記号である。「それぞれの性に割り振られてきた特徴にできるだけ頼らないよう努めました」と解説パネルが述べるように、「女性=赤、スカート、Aライン」/「男性=黒や青、ズボン、Iライン」という差別化を排し、あえて「わかりにくい」ピクトグラムを採用している。だが、来場者を立ち止まらせる「わかりにくさ」こそ、公共空間がいかに既存のジェンダー秩序を視覚的に強化・再生産しているのかについての自覚を促す。「どちらに入ればいいか迷っている方々へ」というパネルの呼びかけは、むしろ「普段は決して迷うことがない人」に「なぜ自分は迷わないのか」という見えない特権性を自覚させ、「迷わざるをえない状況」を強制的に擬似体験させるためにこそある。



トイレのピクトグラム変更についての解説パネル


一方、B棟への橋渡しとなるのが、新規収蔵のお披露目となるシリン・ネシャット《Land of Dreams》(2019)。アメリカ先住民の居住地であり、原爆を開発したロスアラモス国立研究所や核実験場のあるニューメキシコ州で撮影された。若いイラン人の美術学生を主人公とする2チャンネルの映像では、「夢の収集」という非現実的な作業を通して、左右のスクリーン、夢と現実、自己と他者、研究所/アーカイブ、ネシャットの出身地のイランとアメリカといったさまざまな境界が交錯。「悪夢として語られる、核開発がもたらしたトラウマ」と、記憶を管理・抑圧する権力機構を詩的にあぶり出していく。



シリン・ネシャット《Land of Dreams》(2019) [撮影:来田猛]


そして、反対側のB棟では、核によるカタストロフィの前/後に焦点を当て、「ヒロシマ」の表象や記憶の継承という自館のアイデンティティを再確認する。鉄腕アトムをデザインソースとする放射線感知服《アトムスーツ》を着てチェルノブイリに赴いたヤノベケンジ。キリストの血の象徴であるワインをカラーフィルター代わりにして広島市街を撮影し、「真っ赤に染まる現在の都市風景」のなかに「被爆直後の燃え上がる市街地」を二重写しのように幻視させる和田礼治郎。地下に降りると、岡本太郎《明日の神話》1号原画、原爆開発にまつわるアメリカ各地の風景に「極小のキノコ雲」を出現させる蔡國強、絵本『おこりじぞう』で知られる四國五郎の原画やスケッチ、原爆ドームと周囲の景観を定点観測的に撮影した土田ヒロミらが続く。同館の毎夏のコレクション展の恒例テーマの拡張版といえる。



展示風景 [撮影:来田猛]


特筆すべきは、終盤の石内都の新作写真だ。原爆資料館所蔵の遺品をカラーで撮影した「ひろしま」シリーズではなく、2019年に台風で浸水被害を受けた川崎市市民ミュージアムに収蔵されていた自作を再撮影した「The Drowned」シリーズを展示。浸水し、カビに侵され、ただれた皮膚やかさぶたを思わせる写真の表面は、「被爆者の傷ついた皮膚」のメタファーとしての衣服を想起させる。同時に、「災害による作品の損傷と破壊」はA棟のテーマへと円環的につながり、「ケアの場所としての美術館」を再浮上させていく。

後編に続く)



石内都《The Drowned #1~6》(2020-22) [撮影:来田猛]


公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/beforeafter

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リニューアルオープン記念特別展 Before/After(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
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2023/06/18(日)(高嶋慈)

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香川裕樹「置いたものを見る方法」

会期:2023/05/03~2023/05/27

NEST[大阪府]

関西で活動するアーティストやクリエイターによって2020年4月に立ち上げられた「Birds」。これまではインタビューサイトとしてオンライン上で活動してきたが、今年2月に拠点として「NEST(ネスト)」を大阪の寺田町にオープンした。この新スペースでの初の展覧会が本展である。NESTは活動方針として、ただ展示するための場所ではなく、作品制作のための実験的な試みを行なう環境づくりを目指している。本展は、アーティストの香川裕樹が既製品や日用品を会場に持ち込み、試行錯誤しながら組み立てていく搬入期間を約1ヶ月間設けて開催された。

ビルの一室にある会場に入ると、空間をほぼ占めるように、祭壇のような、あるいは建築マケットのような構造体が置かれている。構成要素はすべて、100均ショップやホームセンターで買える、規格化された安価な大量生産品だ。作家の手の痕跡を加えず、規格サイズの既製品だけを用いることで、どれだけ自由を創出できるか。一方、規格化された単位の反復、厳格な左右対称性、グリッド構造は、「モノを並べる行為」が「秩序の創出」でもあることを可視化する。「画像のコピーを上下左右に反転させた写真」が加わることで、ユニットの反復と左右対称性という秩序の構築が、脅迫観念的なまでに強調される。裏側へ回ると、「白いグリッドの金網」の上に、その画像が額装して提示され、グリッドが増殖的に複製されていく。金網を組み立てた空間の中にひとつずつ置かれた白いキャップは、均質な檻に閉じ込められた匿名的な個人の比喩のようだ。



会場風景


規格化されたモノ、それらで構築された規格化された生。構造物の全体は、巨大なショッピングモールの建築マケットと、その内部を満たす商品陳列棚を二重化して重ね合わせたように見えてくる。正面の壁を飾る写真は巨大な広告ディスプレイ、床に規則的に配置された人工観葉植物の列は植え込みの緑地帯、そして向かって左側の遊具のような構造物は、付属するアミューズメント施設だろうか。いずれも、「消費のために捧げられた祭壇」の周囲を彩り、補強する装置だ。これから建設される場所を均質化していくこの「消費の祭壇」のマケットは、だが、よく見ると結束バンドやクリップなどで「仮止め」された状態にすぎない。その脆弱性は、あるいは希望なのかもしれない。



香川裕樹《正面か、それ以外》(部分)




香川裕樹《正面か、それ以外》(部分)




香川裕樹《正面か、それ以外》(部分)



公式サイト:https://birdseatbread.jp/kagawa-soloexhibition/

2023/05/27(土)(高嶋慈)

劇艶おとな団プロデュース『9人の迷える沖縄人~after’72~』

会期:2023/05/20~2023/05/21

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

沖縄の本土復帰50周年にあたる2022年から今年にかけて、マームとジプシー『Light house』と『cocoon』再演、兼島拓也作・田中麻衣子演出『ライカムで待っとく』、神里雄大/岡崎藝術座『イミグレ怪談』など、「沖縄」を主題にした良質な演劇作品の上演が続いている。そのなかでも本作は、本土復帰に焦点を当て、「1972年の復帰直前の沖縄で、9人の市民が復帰をめぐる討論会に参加した」という設定のフィクションと、「それを演じる現代の沖縄の劇団員たちの稽古場」という入れ子構造に特徴がある。過去と現在、役柄とそれを演じる俳優の往還を通して、「沖縄の抱える矛盾や葛藤」を異質な声のぶつかり合いとしてあぶり出していく。2015年の沖縄での初演後、再演を重ね、「CoRich舞台芸術まつり!2022春」でグランプリを受賞。那覇市を拠点とする「劇艶おとな団」の代表作だ。戯曲は『悲劇喜劇』2022年9月号に掲載されている。

討論会の参加者は、司会者(仲嶺雄作)、有識者(國仲正也)、復帰論者(犬養憲子)、独立論者(島袋寛之)、沖縄へ移住した本土人(当山彰一)、文化人(宇座仁一)、主婦(上門みき)、老婆(伊禮門綾)、若者(与那嶺圭一)の9名。開始早々、「本土」復帰か「祖国(=琉球)」復帰か、どちらの言葉を使うべきかで、復帰論者と独立論者は口論になる。アジアの経済ネットワークのハブとなって経済力をつけ、貿易立国として日本から独立すべきだと主張する独立論者。就業人口の25%が基地経済に依存する現状から脱して経済発展するには、高度経済成長の波にのる日本と一緒になるべきだと主張する復帰論者。議論のかたちを借りて、沖縄に基地が集中する前提にある日米安全保障条約と日米地位協定についてもわかりやすく解説される。当時の佐藤栄作首相が使った「本土並み」という言葉に、「基地も本土同様に減る」ことを期待する主婦。「戦死者に加え、基地建設の費用に20億ドルも払って手に入れた沖縄をアメリカが手放すはずがない」と突き放す本土人。米兵から中古家電を安く譲り受け、違法の転売ビジネスで儲けている本土人の本心は「基地がなくなったらビジネスとして困る」というエゴにある。「自分の夫は基地で潤う25%には入らないため貧しいが、子どもには本土並みの教育を受けさせたい」と貧困からの脱却を訴える主婦。「本土化して、ウチナーグチも失われたら、誇りまで失ってしまう」と訴える文化人。ヒートアップした口論は、沖縄戦で2人の子どもを亡くした老婆の「もう戦は見たくない」というつぶやきで中断される。シリアスなテーマだが、ユーモアと笑いが包む会話劇でもある。



[撮影:久高友昭(沖縄公演)]


本作が秀逸なのは、この72年の架空の討論のシーンと、それを演じる現代の俳優たちが休憩中に交わす雑談のシーンが、交互に演じられる二重構造である。「舞台裏」も「本番」同様に議論が白熱し、「本土復帰を経験した年配世代」と「復帰前後を知らない世代」との対話を通して、世代間の差異や断層、「沖縄の本音」をあぶり出す。「フィクショナルな過去の再現」で起きる「口論」「対立」が、「現在の稽古場」でも起きてしまうことで、「過去の問題ではない」こと、そして「ウチナーンチュ」が一枚岩ではないことが強調される。また、後半では、イデオロギーの対立構造から「個人の内面」に焦点がシフトし、ひとりのウチナーンチュのなかにもイデオロギーや理屈では割り切れない矛盾や葛藤があることが描かれる。軸となるのが、「若者」と「有識者」(をそれぞれ演じる俳優)どうしの対立。政治・経済・文化に無関心な若者役を演じていた俳優は、「いつまでも被害者ヅラしている沖縄の自虐性が嫌だ」と怒りをぶちまけ、(役と同様に)有識者役の俳優と激しく対立する。だが彼もまた、基地から受ける恩恵と犠牲の両面で板挟みの状態に悩みながら演じていたことが「本番シーン」で吐露され、復帰前の過去と現在、フィクションと現実の境界が曖昧に揺らいでいく。「今」は72年なのか、現在なのか? 演劇ならではの操作により、アメリカ、そして日本国家との不均衡な関係は変わらないことをあぶり出す。



[撮影:久高友昭(沖縄公演)]




[撮影:久高友昭(沖縄公演)]


劇中世界/休憩、フィクションの内部/外部を切り替える暗転では、戦闘機や輸送機の轟音が頭上をかすめるように鳴り響く。この轟音もまた、切断と同時に、「復帰後も鳴り止まない音」として過去と現在をつなぎ直す機能をもち、複雑さを帯びている。

このように緻密に練り上げられ、俳優陣も魅力的な本作だったが、潜在的な可能性と疑問として、①「冒頭の空席の椅子」と、②ウチナーグチとイントネーションの戦略的な使い分けについて考えたい。冒頭、「72年の市民討論会」に集まったのは8人であり、1つの椅子が空席のままだった。実際には、ウチナー芝居の役者である文化人が「遅刻」し、「沖縄のゆるいマイペースぶり」を本土人が毒づくという脚本だったが、私が想像したのは、この「9人目の席」を「不在」のまま残す演出の可能性である。「まだ語られていない声がある」、「沈黙でしか語りえない声がある」。抑圧され、可視化されない声があることへの想像だ(例えば本作では、「基地問題」は性暴力とは結びつけて語られない)。あるいは、「もし自分がその席に座って討論に参加していたら?」という想像。「そもそも沖縄について語る場に参加する資格はあるのか」、「いや、そのような問いこそ“自分は無関係”という無意識の表われではないのか」……。こうした想像や思考が展開する余地を、「不在の空席」は秘めていた。

2点目が、ウチナーグチとイントネーションの戦略的な使い分けの問題である。劇世界では、ほぼ一貫してウチナーグチで話すのは「文化人」「老婆」の2人だけである(字幕がないので、重要な台詞以外は意味がほとんど理解できない)。「着物の衣装」によっても差別化されたこの2人には「伝統」「旧世代」「政治からの距離」という役割が割り当てられている。一方、劇世界/稽古場ともに、唯一沖縄のイントネーションでしゃべり、ウチナーグチ/標準語の中間的な立ち位置にいるのが「主婦」だ。「本土並み」の教育によって子どもを貧困の連鎖から断ち切りたい主婦は、本土の経済成長の波にのるべきと主張する復帰論者に強く賛同し、「これからの時代は女性も勉強して自分の意見を言うべき」という点でも彼女に共感し、対立し合う男性たちのなかで、シスターフッド的な面も見せる。一方、主婦と同じく若い世代で非知識人層である「若者」は、イントネーションも含めて完全に標準語で話すことに注意したい。「標準語」と「方言」の戦略的な使い分けは、「キャラづけ」としての有効性の反面、地域的な周縁性が時間的な後進性に結びつきかねない危うさをはらんでいる。「復帰論者の先生の発言を聞いて目覚めた」主婦の発語にのみ響く沖縄のイントネーションには、「ジェンダーの劣等性」が密かに埋め込まれているのではないだろうか。

なお、「1960~70年代の冷戦期の出来事を、現在において再演する」構造は、偶然だが、同時期に開催された「Re: スタートライン 1963-1970/2023 現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係」展とも共通しており、同評をあわせて参照されたい。


公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/102662/

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2023/05/20(土)(高嶋慈)

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