2020年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

天覧美術/ART with Emperor

会期:2020/05/22~2020/05/31

KUNST ARZT[京都府]

アーティストの岡本光博はこれまで、「美術ペニス」展(2013)、「モノグラム美術」展(2014)、「ディズニー美術」展(2015)、「フクシマ美術」展(2016)などのキュレーションを、自身が主宰するKUNST ARZTにて手がけ、表現と検閲、タブー、複製・引用と著作権の問題についてユーモアを交えながら問うてきた。岡本は本展で、天皇制をテーマに設定。本評では、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」に岡本と同じく出品した小泉明郎、そして木村了子の3作品について、「可視化/消去」を軸に分析し、本展の射程を明らかにする。



会場風景 [photo: office mura photo]


日本画家、木村了子の《菊福図》(2009)は、「菊の御紋」と「菊門」という二重の「タブー」を重ね合わせ、去勢された政治的タブーに私秘的な性愛図のリビドーを注ぎ込んで相殺させるインパクトが目を引く。だが、天皇制と美術の関係を扱う本展の導入として重要なのは、青年期の平成天皇を「理想化された美青年」として御真影風に描いた《菊の皇子様》(2020)である(御真影と同様、「礼拝対象」として、鑑賞者が仰ぎ見る高い位置に展示されている)。展覧会タイトルの「天覧」は「天皇が観覧すること」の意味だが、近代以前は「神聖で不可侵の禁域」として秘匿された天皇像は、明治期の近代国民国家の形成過程で、ナショナルアイデンティティの形成と浸透の視覚的手段として、肖像写真や肖像画によって「見られる対象」として可視化されていく。そうした御真影は、「記録性や写実性が高い」とされる欧米輸入の媒体で制作されたが、ナショナルアイデンティティの象徴を「伝統的でよりふさわしい」日本画で描き直す木村の作品は、一種のパロディとしての「回復」であることに加え、ジェンダーの表象と家父長制についての問題提起の射程をもつ。木村はこれまで、美麗で官能性を湛えた男性像を描くことで、「美人画」が内包するジェンダーと欲望の視線の非対称性を批評的に反転させてきた。《菊の皇子様》もまた、(女性からの異性愛的視点で見た)「美的な対象」として描くことで、ジェンダーと表象をめぐる別の政治的闘争の領域に投げ込んでいく。(皇后とのセットや「天皇ご一家」の写真表象により)「近代家族」の規範や家父長制イデオロギーの体現としても機能し、「父(男系継承の、臣民=赤子にとっての)」たる存在であることを体現する天皇像は、美的対象化を被ることで、そうした権威性を脱臼され、解除されていくのだ。



木村了子《菊の皇子様》(2020)絹本着色金彩、裏純金箔
[photo: office mura photo]


岡本光博の出品作《r#282 表現の自由の机 2》(2020)は、韓国の済州島に設置された「平和の少女像」の左肩にとまる小鳥を、監視カメラが見張るなか、3Dスキャンで型取りし、実物大のブロンズ像として「複製」したものを、鳥かごに閉じ込めた作品である。3Dスキャナーを構えた岡本が、少女像と対峙する制作風景の写真も添えられる。鳥かごに閉じ込められた「自由」の象徴は、不自由展の炎上・攻撃と中止に対するストレートな批判的応答だが、本作の問題提起はそれだけにとどまらない。少女像に近づく者が「監視」されることに抗するように、スキャンする視線を向け返すことで、視線の非対称性を反転させること。また、「少女像の(一部分の)複製」を通して、デジタル・ファブリケーションの普及と著作権の問題に言及するとともに、少女像が韓国各地やサンフランシスコなど国外にも複数体設置され、ミニチュアも含めて「複製」され続けている事態のパロディともとれる。「複製」の「複製」──だが、小鳥がとまるべき少女像の「本体」が不在であることは、なぜ「ここ・日本にない」のか? 何によって抹消させられたのか? という問いを突きつけ、歴史修正主義による消去という日本の文脈についても示唆する。



岡本光博《r#282 表現の自由の机 2》(2020)
ブロンズ製鳥(韓国で3Dスキャニングした「平和の碑」(少女像)の肩の鳥のデータを鋳造)、鳥かご、バードミラー


一方、小泉明郎は、自身の幼少期のトラウマと、戦後日本が抱え続けるトラウマを重ね合わせた映像作品《Rite for a Dream II(with countless stones in your mouth)》(2017)を出品。「父が連れ去られる悪夢」の原因になったという、特撮ヒーローのテレビドラマの恐怖を煽るシーンをコラージュした映像に、平成天皇の「即位礼正殿の儀」のニュース中継の音声が重ねられる。映像は、悪を倒す正義のヒーローという「中心」を欠いたまま、トラウマ的な恐怖シーンが延々と継ぎはぎされていく。爆発や火災、火だるまの人間、皮膚が溶けたりカビのような胞子で覆われた人体、手術や実験、垂れる血のり、気持ち悪い虫……。これらは何のトラウマなのか? ラストでは、「天皇陛下万歳!」の音声に合わせて、姿の見えない敵に襲われた人々や子どもがバタバタと倒れ、爆発や炎上シーンが畳みかけるように連続し、沖縄やサイパンでの集団自決や手榴弾での玉砕を想起させる。それは、戦後日本が「戦争」の負債を清算できないまま抱える、悪夢のようなトラウマティックな反復の回路である(第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させ、その「語りの失敗」によって「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する《忘却の地にて》(2015)と主題的に通底する)。本作は、「消去」されたヒーロー/天皇という「不在の中心」によって、天皇の戦争責任の隠蔽と、それを抑圧・忘却しようとすればするほど回帰してくるトラウマの回路を、批評的にあぶり出す。

また、冒頭では「父と息子」の写真を映したカットが意味ありげに提示され、クライマックス(?)では捕われの少年が「お父さん、助けて」と叫ぶ。だが、彼を助ける「父」(その代替としてのヒーロー)は現われず、子どもたちは虚しく倒れていく。「父と子」の物語、より正確には「父に見捨てられた子」の物語は、群衆に罵られながらゴルゴダの丘を上るキリストを介して、父(天皇)と子(臣民)の関係に輻輳的に重ね合わせる《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》(2017)に連なっていく。



小泉明郎《Rite for a Dream II (with countless stones in your mouth)》(2017) 映像12分36秒
引用:「仮面ライダー」(1971-73)東映株式会社


このように、木村、岡本、小泉の作品は、近代天皇制の一翼を担った御真影、加害の記憶喪失、世代継承という時間軸を内包しながら、パロディや引用の戦略を用いて、表象というより広義の政治的領域における天皇制や戦後日本社会の病理的構造について深く照射していた。なお本展は、6月2日~20日まで、「皇居編」として東京のeitoeikoでの巡回展が予定されている。

編集部注:eitoeikoでの会期は6/27までに延長されました。(2020年6月16日)

2020/05/23(土)(高嶋慈)

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』

会期:2020/05/16~2020/05/17

『妖精の問題』は、2017年の初演以降、国内外で再演されているQ/市原佐都子の代表作。一部「ブス」が落語、二部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、三部「マングルト」が健康法の啓発セミナーという三部構成で、三つの物語がそれぞれ異なる形式により、俳優の一人芝居で演じられる。通底する主題は「妖精=見えない(ことにされる)もの」、つまりルッキズム、優生思想、社会的有用性、「清潔」信仰、(女性の)性への抑圧などにより、社会的に「異物」として排除や差別、嫌悪の対象とされるものだが、最終的には価値基準が相対化され、生(性)の強い肯定へと転じていく。


「オンライン版」として出演者や内容を再構成し、リアルタイムで配信した本公演は、Zoomのチャットやアンケート回答の送受信機能といった双方向性を効果的に取り込んだ点が秀逸。また、「菌(異物)との共生」「殺菌思想や優生思想の強化がもたらす、差別と排除、不可視化」という根底を貫くテーマが、コロナ禍の状況下で改めて、そしてより強く浮上した。劇場での過去の上演内容についてはすでにレビューを執筆しているので、本評では、(1)コロナ禍の状況に対する批評的応答、(2)Zoom機能の効果的使用による「コミュニケーション」の焦点化、の2点について述べる。



Q オンライン版『妖精の問題』より 一部「ブス」


まず、(1)について。「なぜ今、その作品を上演するのか」という同時代的アクチュアリティへの切実な応答が最も浮かび上がったのが、三部「マングルト」である。「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開されるのだが、創始者の「淑子先生」が「マングルト」開発に至るまでの自伝的語りが改めて訴えかける。多感な思春期に「性は汚いもの」という価値観を植え付けられ、極端な潔癖症になったこと。喫煙者、病人、障害者などを「不潔な存在」として嫌い、同じ空気を吸わないように息を止め、マスクを三重にし、手洗いするため席を離れたこと。「自分は清潔だ」と思い込むことで自分自身を守ろうとし、「清潔」の強迫観念と「殺菌」思想に憑りつかれた彼女の姿が、「他者」「異物」への排除と表裏一体であることは、まさに今の社会の鏡像だ(そのあと彼女は、抗生物質で善玉菌を殺したことで膣内バランスを崩し、女性器の感染症を発症した経験を経て、「菌との共生」に思考を転換する)。

一方、(2)オンライン版におけるZoom機能の使用は、これまでの劇場上演との比較によって、三部それぞれにおける「コミュニケーション」の異なる位相を浮上させる。まず、女子中学生2人の掛け合いを落語形式で語る一部「ブス」は、「自宅でのZoomによる会話」に置き換えられる。二部「ゴキブリ」では、豚骨ラーメン屋の近くに住む主婦が、ゴキブリ駆除に悩まされる日々、ゴキブリの異常な繁殖力、夫とセックスの意思疎通がうまくいかないこと、夫が勝手に焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまい、「異常」な子どもができたことを、ジャズ調の曲で歌い上げる。俳優は自宅で演技するが、「主婦・妻」の「舞台」はキッチンがあてがわれる。これまでの劇場上演では、「妻」と「夫」のモノローグのパートを一人の俳優が歌い分けていたが、オンライン版では、それぞれ女優と男優が担当。Zoom画面を切り替えて登場するが、「Zoomを使っているにもかかわらず、一切『会話』しない」という齟齬は、「(バルサンを焚くのを相手に伝えなかったように)家事でもセックスでも意志疎通のうまくいかない夫婦」がより鮮明になり、「コミュニケーションの断絶」を逆説的に際立たせる。


Q オンライン版『妖精の問題』より 二部「ゴキブリ」


さらに、三部「マングルト」は、「Zoomセミナー」の形式への変更に加え、チャットやアンケートの送受信といったリアルタイムでの「参加」を、フィクションの仕掛けとしても実際の観客参加としてもうまく取り込んで成立させた。「セミナー参加者からのメッセージの表示」「参加者からの質問に答える」というフィクショナルな仕掛けが、「講師と参加者の(疑似的な)交流」を演出し、臨場感を高める。また、観客は、要所要所で、「発酵食品とそうではない食品のどちらを選ぶか?」「除菌グッズを使用したことがあるか?」「マングルトを汚いと思うか?」といった「質問」に答えるよう促され、「送信結果の集計」がグラフで視覚化され、講師役がコメントする。ポイントの顕在化とともに、観客に主体的に考えさせるこの仕掛けは、(劇場での上演とはまた別の)臨場感をもたらした。



Q オンライン版『妖精の問題』より 三部「マングルト」


『妖精の問題』の戯曲の特徴は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という形式を借りることで、「モノローグ」の虚構性や不自然さをクリアさせた点にあるが、今回のZoomを用いたオンライン版では、コミュニケーションの素朴な肯定、失敗や断絶を経て、観客=視聴者参加型の双方向性へと拡張されていく段階性に特徴があり、「Zoom演劇」の開拓としても意義がある。だがより本質的な意義は、看過されるべきではない。コロナ禍による劇場閉鎖、上演中止・延期の状況下では、「なぜ舞台芸術が必要か?」という問いとともに、「なぜ今、その作品を上演するのか?」という自己反省的な問いに対する根拠が、より強く問われる。もちろん、オンラインを使った新たな表現手法の試みという面も重要だが、単なる代替案でも一過性の消費でもなく、この自己反省的な問いに本公演は真摯に答えていた。

公式サイト: http://qqq-qqq-qqq.com/?page_id=1451

関連レビュー

Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)

市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/05/16(土)(高嶋慈)

くものうえ⇅せかい演劇祭2020 キリル・セレブレンニコフ『The Student』

会期:2020/05/05~2020/05/06

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の中止を受け、開催予定だった4月25日~5月6日の期間、映像やトーク企画などの配信を行なう「くものうえ⇅せかい演劇祭」が開催された。『OUTSIDE-レン・ハンの詩に基づく』を上演予定だった、ロシア出身の演出家・映画監督のキリル・セレブレンニコフは、カンヌを始め世界各地の国際映画祭で評価を得た長編映画『The Student』(2016)を映像配信した。セレブレンニコフの映画作品は、日本初公開となる。

原作は、ドイツの劇作家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲『Märtyrer(殉教者)』。主人公の男子高校生ヴェーニャは、水泳の授業をさぼったことが原因で母親と口論になる。問い詰める母親に対し、ヴェーニャは母が思ってもみなかった理由を口に出す──「水泳の授業は、自分の信仰と反する」。彼の「宗教的理由」は認められ、ヴェーニャはプールサイドでひとり、聖書を読みふける。だが、社会の縮図である学校は多様性の容認や異なる価値観の共存へと進む代わりに、「聖書の正しい言葉」を後ろ盾にヴェーニャが唱える原理主義に次第に染まり、さまざまなマイノリティ差別の構造を露わにしていく。

本作で描かれるのは、狂信的な原理主義とリベラルの対立の構図である。日和っているうちに感化され、「正しい」と思い込んで扇動されていく周囲の教師たち。ヴェーニャは、堕落と不貞を戒める聖書の語句を引用し、「ビキニは水泳の授業に相応しくない」と主張。女子生徒たちはカラフルなビキニの代わりに、黒いスクール水着と水泳帽を着用させられる。その光景を聖書を手に二階席から見下ろして微かにほくそ笑むヴェーニャは、大人や教師に従うべき「生徒」が、「大人たち」を支配しているという逆転構造を優越感とともに露わにする。「聖書=正義」の言葉が自分に権力を与えているという実感は、彼が「生徒」だからこそ、その歪さがより際立つ。


一方、ヴェーニャと徹底的に対立するのが、リベラルな生物学教師のエレナである。進化論の授業、セクシュアリティの多様性やセーフ・セックスについて講義するエレナに対し、ヴェーニャは畳みかけるような聖書の引用によって論戦を仕掛ける。「神はすべての造物主」、「同性愛は死に値する」、「婦人は男に教えたり、男の上に立つな」、「アダムはエヴァより先に生まれた」「女は、子を産むことによってエヴァの犯した罪から救われる」……。「聖書は2000年も前に書かれたもので、現代の価値観や科学とは相いれない」と反論するエレナに対し、ヴェーニャは彼女の名前がユダヤ系だからキリスト教を嫌悪するのだと言い返す。また、ヴェーニャを秘かに慕う同級生は、「足の障害を治す」奇跡を起こそうと、自分の足に触れて祈りを唱えるヴェーニャに欲情を覚えるが、「あらゆる病は懲罰」「女と寝るように男と寝るな」といった聖書の引用を投げつけられる。このように、聖書に依拠した彼の「正義」は、同性愛差別、女性差別、女性の「性の自己決定権」の否定、「進歩的」な性教育へのバックラッシュ、民族・人種差別、障害者差別といった「マイノリティ」を攻撃・排除する論理として作用し、社会の不寛容や根強い排他意識の病巣をあぶり出す。「大人・教師が生徒を管理する」閉じたコミュニティ、すなわち社会の比喩である「学校」を舞台に描く本作は、その意味できわめてリアリズムと言える。

ここで、ヴェーニャの台詞が「聖書の引用」で構成される点も重要だ。引用すなわち「自分自身の言葉ではない」ものを、自分の主張に合わせて都合よく切り貼りし、利用すること。また、ヴェーニャに「反論」を試みるエレナが、聖書を読み込んで「彼の主張」を切り崩す論拠に使おうとするくだりは、自説の論拠が反撃相手にも使用されるという両義性や脆弱性を示す。「相手の用いた言葉自体のなかに、反論や矛盾の根拠を見出そうとする」態度はまた、例えば歴史修正主義者の常套手段をも想起させる。

終盤、ヴェーニャは「殺人」と「虚偽の告発」という二重の罪を犯すが、最終的に「裁き」は下されない(前者は「事故」と片付けられ、「女性教師のエレナに身体を触られた」という後者は、校長はじめほかの教師たちが信じてしまう)。クビを言い渡されたエレナは、自分の足を靴ごと釘で貫いて床に打ち付け、「それでも私は出ていかない、ここは私の居るべき場所だから」と叫ぶ。この壮絶なラストは、原作戯曲のタイトル「殉教者」の方がわかりやすいだろう。それは、エレナはリベラルで進歩的な思想の持主だが、彼女自身もまた、自らの信念に狂信的な「殉教者」であるという両義性をつきつける。




「聖書の語句を引用しまくる緊迫した論争シーン」は長回しで撮影され、激しい長台詞の応酬は演劇的であると同時に、「台詞それ自体が『引用』である」という自己言及性は、一種の演劇批判でもある。一方で映像は、表向きは禁欲主義的なヴェーニャの態度とは裏腹に、カラフルなビキニで泳ぐ少女たちの伸びやかな肢体を、揺らぐ水中で下から捉えるカメラの躍動的な浮遊感や、「足を治すために触って祈ってほしい」とズボンを脱ぐ(脱いで誘惑する)同級生の太腿の窃視的なカットなど、エロティックな映像美が目をひく。「姦通するな」と聖書の言葉で「防御」しつつ、性に揺れ動く思春期のヴェーニャの内面的な危うさを、映像によってすくい上げていた。

公式サイト: https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

2020/05/05(火)(高嶋慈)

Emergency Call

会期:2020/04/30~緊急事態宣言解除まで

美術家の大岩雄典が企画した、「電話で聴く」という異色の展覧会。展覧会ウェブサイトに記載された番号に電話をかけ、計45分25秒の「展示」を鑑賞することができる。会期は4月30日から、日本国内の緊急事態宣言が解除されるまで。参加者は、大岩をはじめ、アーティスト、音楽家、歌人や俳人、SF作家、建築家、そしてラジオ体操第一が流れるなどバラエティに富んでいる。

本展の意義は、展示発表の場の代替案だけにとどまらない。コロナ禍を受けて支援金やDVなど各種緊急支援・相談の電話窓口が開設されている状況下で、「アートもまた、緊急時に(こそ)必要とされている」というメッセージ自体を発することに、まずもってその意義がある。また、電話番号の下に記載された「自分が安全だと思う時間・場所でお電話ください」という文言は、「これは『本当の』緊急コール先ではないですよ」というジョークの反面、「今、『安全』な場所はどこにあるのだろうか?『安全』とは何を指すのだろうか?」というシニカルな問いを発する。

「参加作家自身が電話に直接出るわけではない」とわかっていても、電話をかける際に緊張感が走る。通話がつながると冒頭の自動音声案内に続き、ウェブサイトの記載順にそれぞれの「作品」が流れる。ノイズや音楽、時事性を盛り込んだ詩歌の朗読。ラジオ放送のDJ風の「お便り紹介」、ラジオ体操第一、戦前のラジオ英語講座を「再現」した3作品は、電話よりも「ラジオを聴く体験」に近い。肉声もあれば、人工音声もあり、SFのショートストーリーでは、「惑星統合管理委員会」から地球人類に向けて発せられる、「言語の執行権限を強制的に剥奪する」という警告が、「宇宙からの電波」という体裁で人工音声によって語られる。一方、「もしもし?」で始まり、「親しい相手への電話」の体裁をとった親密な語りもある。肉声/人工音声に加え、ラジオ放送/(未知の存在からの)電波の受信/(親しい人への)電話というように、公共性/親密性の振れ幅と、「『声』を聴く、『声』で聴く」さまざまなシチュエーションが提示される。

最も切実さを持つのが、イタリア在住の俳優、大道寺梨乃からの「電話」である。今これを話している4月中旬、一ヵ月以上家にいること。幼い娘と散歩はしていたが、家から出たくなくなり、「外国人で小さな娘の母親」としてふるまうことの期待に疲れたという心境。イタリア人の夫の家族の感染や居住区の封鎖。「電話」に割り込む娘の声がリアルだ。「近しい人にメッセージを送りたい」という彼女の声と、電話というメディアが内包する「遠さ・距離」の乖離が露わに迫ってくる。


また、本展は、内容面とは別に、「展覧会の構造設計」を通して、鑑賞行為を「拘束性と不自由さ」から捉え直す視座を開く。「オンライン上で(聴きたい)作品を(好きな順で)クリックして聴く」手軽で消費的な体験とは異なり、あえてアナログな電話回線を用意したこと(そのアナログ感は、「ラジオ性」の高い作品によってより増大する。「ラジオ」もまた、災害時・緊急時と親和性が高いメディアだ)。「電話で聴く」鑑賞体験は、リニア・単線的であり、(「つまらない」と思っても)スキップや一旦停止ができず、一度電話を切ると、もう一回かけ直して最初から聴く必要がある。鑑賞者は、「45分25秒」というそれなりに長い時間の束縛と、ひたすら傾聴する受動的態度に徹することを強いられる。それは、「長い映像作品を途中で飛ばす」といった(とりわけ映像展や国際展では常態化した)振る舞いを反省的に自覚させ、消費的態度に異議を唱えつつ、「展示装置」が有するある種の強制力や拘束性についても自己言及的に開示している。

[編集部注] ラジオ体操第一の部分は5月11日に取り下げられ、再構成されている。


公式サイト: https://euskeoiwa.com/2020emergencycall/

2020/04/30(木)(高嶋慈)

隔離式濃厚接触室

会期:2020/04/30~無期限に延長

「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とするオンライン展覧会。会期は、「4月30日の24時間」限定(ただし、いったん「会期終了」後、「無期限」に変更されている)。本展では、企画者であるアーティストの布施琳太郎と、詩人の水沢なおの作品が展示されている。

美術でも舞台芸術でも、コロナ禍で発表の場が奪われたことの代替手段として「オンライン公開」「バーチャルツアー」「無観客での配信」「Zoomを活用した演劇」などさまざまな試みが行われている。本企画がそれらと一線を画する点は、「オンライン=アクセスの平等性とシェアの思想」を無批判に是とする態度に対する批評的距離である。他人との「濃厚接触」を避け、「ソーシャルディスタンス」を適切に保つため、ひとりずつなどの「入場制限」が課される。そうした現実空間における物理的制約を、「アクセスの平等性が保証されている」はずのオンライン空間に戦略的に持ち込み、反転させること。そこでは、私の「鑑賞の自由」は、見知らぬ誰かの「排除」「鑑賞の不自由」と表裏一体である。あるいは、私の「鑑賞の自由」を阻害する入室者がいても、互いに匿名的存在であり、「排除された誰か」の姿もその数もうかがい知ることはできない。制約と不可視性に根ざした本展の意義は、「社会的隔離」を「ネットによるつながり」によって回復し癒すのではなく、むしろ「分断」を生むという屈折した回路によって「ネットと公共性」の議論を喚起しつつ、「(無数の)他者の排除によって成り立つ自由」という倫理的課題を突きつける点にある。

筆者は4月30日、会場URLを何十回とクリックしてアクセスを試みたが、その都度「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しているため、アクセスできませんでした」というエラーメッセージが表示され、見られなかった。だが、「見られなかった」こともまた、本展のコンセプトに鑑みると、それもまたひとつの鑑賞体験と言えるのではないか。ここで比較対象として想起されるのは、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内で、2015年3月11日から開催されている「Don't Follow the Wind」展である。現実空間/オンラインという差異はあるものの、放射能汚染/コロナ禍という外的要因によって、「展覧会」の鑑賞のあり方そのものが変容を被ること。物理的制限を課されつつ、想像のなかで体験すること。そこには、「展示内容」だけでなく、「実際にアクセスできた鑑賞者とできなかった鑑賞者とのあいだに生まれる分断」「共有の不可能性」、そして「私の占有と引き換えに排除された(無数の、不可視の)他者について想像すること」も含まれている。

(追記:会期が「無期限」に延長後の5月3日に、アクセス成功。詳述は控えるが、「オンライン=共有」を徹底して拒む仕掛けにより、「鑑賞体験の一回性・個別性」「隔離と監視」についての問いが、凍結した世界とともに展開[転回]する。死にうっかり触れたような感触を、水沢の詩が、対極の性殖へとじっとり湿らせていく)


公式サイト:https://rintarofuse.com/covid19.html

2020/04/30(木)(高嶋慈)

文字の大きさ