artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
林勇気「STAND ON」
会期:2015/11/24~2016/12/19
ギャラリーほそかわ[大阪府]
林勇気は、パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りして緻密に合成することでアニメーションを制作している映像作家である。本個展では、モニターに流れるアニメーション、壁面に投影された実写映像、3Dプリンターで制作した立体がそれぞれ互いに入れ子状に関係し合い、現実と仮想空間の境目が曖昧化した空間が立ち現われていた。
アニメーションでは、輪郭線だけの男性が、部屋から出て、街を歩き、トンネルを抜けて林、崖の上、野原を歩いていく様子が描かれる。一方、壁面に大きく歪んで投影された実写映像では、街路樹、コンクリートの壁、フローリングの床、草むら、石などをノックする手が映る。現実の確かさや手触りを確かめ、自分の存在を誰かに伝えようとするかのように、何度も反復される行為。よく見ると、ノックされた樹や石などの被写体は、アニメーションの仮想世界を構成するパーツとして、現実世界から「移植」されていることに気づく。
このように、現実と仮想世界の境目が曖昧化した空間で、「不確かさ」の象徴として登場するのが、サイコロである。アニメーション内では、男性の進路は手にしたサイコロの目で決められる。また、実写における「ノックの回数」は、林自身がその場でサイコロを振って出た目の数に従っているという。そして、このサイコロ自体、3Dプリンターでつくった立体物として展示されている。だが、3Dスキャンの際にデータが読み取れなかった底面だけが、「目」がなく空白のままだ。実物からデータ化の過程を経て再構築されることで、生み出された歪みやひずみ。それはまた、映像の展示方法においても、歪みや不安定さとして反復されている。
現実の確かな手触りへの希求と、予測不可能な不確かさの間で揺れ動く世界。実写の断片がフィクションの世界を形づくる。あるいは、フィクションの世界を微分すると、個々の要素は現実の断片でできている。そうしたどちらにも定位できないあてどなさや浮遊感は、ポスト・インターネット時代の知覚や身体感覚を浮かび上がらせている。
2015/12/05(土)(高嶋慈)
プレビュー:《Showing》03 映像 伊藤高志 上演作品
会期:2016/01/23~2015/01/24
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
《Showing》シリーズの企画意図は、「『公演』における各要素の中で、複製技術を持つメディア(音、写真、映像など)を取り上げ、それぞれの視点から劇場へと向かう創作を試みる」と掲げられている。過去2回の開催では、音響作家・荒木優光、写真というメディウムの特性を自覚的に扱う美術作家・加納俊輔による上演作品が発表されている。
《Showing》第3回目では、映像作家・伊藤高志による上演作品を予定。80年代以降、写真をコマ撮りした魔術的なアニメーション作品で知られる伊藤は、舞台人とのコラボレーションとして、ダンサーの伊藤キムとの『ふたりだけ』(2002年)、山田せつ子との『恋する虜─ジュネ/身体/イマージュ』(2008年)、寺田みさことの『アリア』(2013年)などを手がけるとともに、川村毅作・演出による『現代能楽集AOI/KOMACHI』(2003年)などで映像演出を行なっている。コマの連続による静止画の運動、フレーミング、フィルムの物質性など、「映像」を成立させる構造に自覚的に言及してきた伊藤だが、本公演では、そうした再帰的な思考が、「演劇」あるいは「劇場」という空間へどのように差し向けられるのだろうか。
2015/11/30(月)(高嶋慈)
川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』
会期:2015/11/28
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
故・大野一雄の残された公演の記録映像から、川口隆夫が動きを分析して再現し、「完全コピー」を試みるという公演。土方巽の演出による大野の代表的な3作品、『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)、『私のお母さん』(1981年)、『死海、ウィンナーワルツと幽霊』(1985年)、そして1969年の映画『O氏の肖像』が参照された。
冒頭、劇場のバックステージに通された観客は、ブルーシートや木の枝、ホースや脚立、ペットボトルや雑多なゴミと戯れる川口の姿を目撃する。観客も巻き込んで無邪気にゴミと戯れる川口は、突然、服を脱ぐとゴミを身にまとい、着ぶくれしたホームレスのような奇怪な姿で劇場の中へ姿を消した。鳴り響くバッハのオルガン曲と「『ラ・アルヘンチーナ頌』 1977年 死と誕生」という字幕。観客は舞台上に仮設された席に案内され、空っぽの劇場の客席に向かい合う。その闇の中から、ゴミを脱ぎ捨て、生の身体を露わにした川口が現われる。『ラ・アルヘンチーナ頌』が約10年間、舞台公演から遠ざかっていた大野の「復帰」公演であったこと、ジュネの戯曲を参照して土方が与えた「年老いて病んだ男娼」という役柄、そして川口の身体へと再び召喚される大野……複数の「復活」の意味が重層的にはらまれた、印象的な幕開けだ。舞台上には、ラックに掛けられたさまざまな舞台衣裳、帽子や靴などの小道具、全身を映すスタンドミラーが用意されている。川口は、舞台上で着替えやメイクを行ないながら、各10分ほどの抜粋されたシーンを次々と踊っていく。手に持った一輪の花を力強く天に捧げる、磔刑のようなポーズでグランドピアノにもたれかかり、息絶え絶えに肺を上下させる、哀愁を帯びたタンゴの調べとともに無邪気な幼女のように軽やかに舞いながら、何かを探し求めるかのように両手を震わせる……。
ここで、「大野一雄の完全コピー」という企てに挑む川口は、それが単なる「精巧なモノマネ」の域に堕さぬよう、「作品」として成立させるために、いくつかのメタ的な仕掛けを戦略的に展開している。まず、観客自身を舞台に上げ、空っぽの客席に相対させることで、劇場という空間の虚構性を否応なしに意識させる。また、「冒頭で川口自身の肉体を観客の目にさらす」「衣装の着替えやメイクという変身のプロセスを舞台上で見せる」ことによって、「ここで踊っているのは大野一雄です(ということにしてあります)」と記号的に了解することを妨げる。つまり、「川口隆夫」という身体の固有性を消去して見るのではなく、「川口隆夫」という身体の肉体的現前とここにはいない不在の大野とを常に二重写しになった状態で見るように要請するのだ。だがそれは完全に一致することはない。大野という強烈な個性を持った肉体の特異性に加えて、即興性や「加齢・老齢」というファクターも存在するからだ。したがって川口の試みは、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いへと向かう。そのエッセンスを抽出するために、記録映像から川口が描き起こした、ポーズのデッサンに詳細なメモが付された舞踏譜も展示された。
振付の強度を抽出する川口の実験的な試みは、「大野一雄」を脱神話化しつつ、現実の時空間の中に再び受肉化するという両義的な性格をはらんでいる。本人からの「振り写し」ではなく、記録映像という媒体を通した客観化・解体の作業は、「魂」「宇宙」といった内面論・精神論や「大野自身の語った言葉」の呪縛からダンスを解き放つ試みでもある。それはまた、オリジナル/コピーという二元論(およびそこに付随する質的判断)を超えて、もはや映像の中にしか存在しない大野の踊りを、ふたたび今・ここへと受肉化する試みであり、生身の肉体的現前によってその都度命を吹き込まれる舞台芸術の原理性そのものを照らし出す。さらには、「型の反復や身体的トレースによる本質の会得」という点では、コンテンポラリーダンスと古典芸能の隔たりを架橋する観点を提出するものと言えるだろう。
このように、川口の作品は、「オリジナルとコピー」「型の反復、身体的トレース」「コンテンポラリーダンスと古典芸能」「振付という概念」「舞台芸術とアーカイブ(映像)」「一回性と複製」など、身体的パフォーマンスに関する広大な問題圏を提示するという意味で、優れてメタダンス的な作品である。
2015/11/28(土)(高嶋慈)
吉本和樹「撮る人」
会期:2015/11/24~2015/12/06
Gallery PARC[京都府]
一眼レフカメラを構える西欧人男性。コンパクトカメラを構える、リュック姿の若い女性。中年の日本人男性もいれば、ベールをかぶったイスラム教徒の女性や、腕に入れ墨をした若い西欧人男性もいる。年齢、性別、人種も様々な彼らは皆、緑豊かな公園の中で、カメラをやや上方に向けて構えているが、視線の先にある被写体そのものはフレーム内から排除されている。
吉本和樹の写真作品《撮る人 A-bomb Dome》は、「原爆ドームを撮影する人」の後ろ姿を撮影したシリーズである。今年6月の二人展「視点の先、視線の場所」で見てとても気になっていた作品だが、本個展では同シリーズをまとまって見ることができた。《撮る人 A-bomb Dome》は以下の3つの観点から考えられる:(1)「撮影する人」のタイポロジー、(2)「ヒロシマ」を形成する視覚的イメージへの批評、(3)「盗撮」及びそのリスクを回避する身振り。
タイポロジーという視覚的文法は、同質性の中に差異を浮かび上がる構造を持つ。吉本の《撮る人 A-bomb Dome》の場合、「眼差しを向ける行為そのものを被写体とする」という入れ子状の構造の中に、年齢、性別、人種、カメラの機種、構え方といった様々な差異があぶり出される。一方で、同質性、つまり「眼差しを向ける行為」が集合化され前景化されることによって、この地が視線の欲望の強力な磁場であることが示される。ここで、吉村の手つきは二重、三重に両義的である。眼差しの過剰さに言及しつつ、視線の対象そのものはフレーム外へ排除することで、「ヒロシマ」という記号を視覚的に形成する力学を露わにしつつ、イメージの消費に陥ることを巧妙に回避しようとするのだ。また、一様に「原爆ドーム」というアイコンにカメラを向ける人々の後ろ姿を、真後ろから/左斜めから/右斜めからといった様々な角度から撮影し、空間的に並置することで、視線の均質なベクトルを解体し、多方向に拡散させてしまう。どこに視線を向け、何を撮っているのかが曖昧なまま、視線の過剰さだけが散乱する空間。撮影する彼らの姿を経由して、「何が視線の欲望を発生させるのか」「私たちは、いったい何を見ようとしているのか」という根本的な問いを吉本の写真は突きつける。
同時にまた、「後ろ姿を盗撮する」という行為は、予告なしに見知らぬ他人をイメージとして瞬間的に捕獲する路上スナップが、「肖像権」「プライバシー保護」といった論点から「盗撮」として断罪されることを巧妙にかわす、スリリングな身振りでもある。《撮る人 A-bomb Dome》は、視線の欲望、「ヒロシマ」の表象、「盗撮」といった、写真をめぐるアクチュアルな問題群を批評的に問い直す、優れたメタ写真である。
2015/11/28(土)(高嶋慈)
Works-M Vol.7『クオリアの庭』 progress.4 Kyoto「past_」
会期:2015/11/21~2015/11/23
京都芸術センター[京都府]
Works-M Vol.7「クオリアの庭」は、「移動をつづけながらクリエーションを行う」というコンセプトのもと、三浦宏之が作・構成・振付・美術を手がけるダンス作品。昨年11月の神戸公演progress.1「lie_」に始まり、今年8月の秋田公演、10月の岡山公演を経て、京都でのprogress.4「past_」と、各地でワーク・イン・プログレス公演を重ねてきた。来年1月には横浜にて、最終成果として「クオリアの庭」の上演が予定されている。
音・美術・ダンス、つまり非物質的な現象と物質的存在と運動が、空間内に同一のレベルで共存しつつ拮抗する。ミニマルに抑制され、計算された演出の洗練からは、そうした印象を受けた。斜めにピンと張られたいくつもの赤い糸が空間を立体的に交差する。落下し続ける白い砂や振子の運動が、時間の流れを可視化する。様々に移り変わる音響もまた、時間の持続や断絶とともに、具体的/抽象的な風景を召喚する。ハーモニックに重なり合う声、規則正しい電子音、不穏なノイズ、外国語の飛び交う街頭の喧騒、木漏れ日や小鳥のさえずり、荒野を渡る風……。その空間の中に存在する5人のダンサーたちの身体は、時に共鳴してユニゾンを描いてはふっと離れ、同期とズレを繰り返す様子は音叉の共鳴や和音を思わせ、距離を隔てた伝播や共鳴を互いに見せながら、この空間自体を少しずつ調律していくように感じられた。音、身体、美術、どこかで生じた運動が他の要素を振動させ、ふっと風景が立ち上がってはたちまち消えていく。その生成と消滅の繰り返しの中に、それぞれの意志を持って空間を生きる5つの身体があった。
2015/11/22(日)(高嶋慈)