artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

乃村拓郎「On」

会期:2015/11/13~2016/12/27

the three konohana[大阪府]

「日本における彫刻」について考えることを制作の出発点に据えている乃村拓郎。本個展では、近代における「彫刻」の輸入・制度化から排除された存在、例えば「人為を加えない、ありのままの自然美の提示」「自然の造形の見立て」といった態度や、器などの「工芸」を作品内に取り込むことから出発している。
乃村は今回、三つの手法で展開した。(1)材木の端材や流木を展示台や床に置き、木目のねじれが描く曲線やウロ、絡み合う根っこといった自然のままの造形を「美」として捉えてみること。(2)同じく拾ってきただけの石を台に載せ、複雑な起伏をもつ表面の陰影や微妙な色彩のグラデーションを鑑賞すること。ただし、この「石」バージョンには、高精細なデジタルプリントの写真が傍らに添えられている。(3)小さな壺や桐箱のかたちに彫られた木彫。
ここで乃村は、とりわけ(2)と(3)において、「自然美そのままの提示」「工芸」から出発しつつ、相殺するような操作を加え、ネガとして反転させている。(2)では、均一にピントが合わされ、デジタル合成によって肉眼視を超える高精細な写真プリントがワンセットで置かれ、目の前にある実物の「石」を凌駕するリアルな質感をもつ画像が提示されることで、「拾ってきただけの石」が、本物そっくりに精巧に彫られ彩色された「つくりもの」、すなわち人工物であるかのように見えてくる。また、壺や桐箱のかたちに成形された(3)は、滑らかに磨かれた表面、彩色、掌に収まる大きさもあいまって、「工芸」的な見た目をしているが、蓋は開かず、「用途」や「機能」が剥ぎ取られている。従って乃村の試みは、「自然美そのままの提示」「工芸」を相殺・反転させるような介入を行なうことで、西洋の概念・制度としての「彫刻」ではなく、「非 自然美の提示」「非 工芸」という、一度否定されたものの否定形から始まる「もうひとつの彫刻」の可能性を模索していると言えるだろう。それはまた、私たちがものを認識するときの、見た目のイメージと実体の同一性や遊離をめぐっての思索でもある。

2015/12/26(土)(高嶋慈)

渡邊耕一「Moving Plants」

会期:2015/12/15~2016/01/23

The Third Gallery Aya[大阪府]

同名の写真集の刊行に合わせて開催された個展。渡邊耕一は、「イタドリ」という日本では普通に見られる雑草が、「侵略的外来種」としてヨーロッパやアメリカ各地で繁殖している姿のドキュメントを、文献調査と地道なフィールドワークによって、約10年間撮影し続けている写真家である。本展では、イタドリが生い茂る風景写真に加えて、イタドリが海外へ「移動」した歴史的経緯と現代のグローバルな生花市場を捉えた写真を合わせて提示することで、グローバル資本主義、さらには駆除の対象としての外来種=移民の排除を示唆し、より広範な現代的問題へと射程を広げている。
元々は東アジア原産の植物であるイタドリは、19世紀、長崎の出島のオランダ商館医であったシーボルトにより、多数の動植物の標本や種などと一緒にオランダ本国へ送られ、園芸用植物として商品化されたことで、ヨーロッパ各地へ拡散し、さらにアメリカ大陸へと広まった。アフリカやアジア地域の植物を調査し、薬用や園芸用になる「有用植物」は植物園で栽培し、自国の気候に馴化させた後、商品化する。植民地経営と資本主義が両輪となって、獲得した「外来種」の商品化を推し進め、物流や移動手段の発展がさらに加速させる。その構造は、現代でも変わらないことが、明晰な展示構成によって示されていた。シーボルト商会の商品カタログの価格リストを映した映像の上に、現代の世界最大の花市場である、オランダのアールスメール花市場の映像が重ね合わせられる。また、東インド会社の帆船の模型、出島の商館内部、花市場から出荷していくトラックを写した写真が並置されることで、運搬手段は変わっても、より新しく魅力的な商品への欲望が、植物を「移動」させる原動力となってきたことが示される。
渡邊は、そうしたイタドリの拡散の足跡を、植物学者のリサーチのように丹念に辿っていく。オランダのライデン大学付属植物園に始まり、イギリス、ポーランド、アメリカへ。どこにでもある路肩や草原の風景の中にある、イタドリの茂み。あるいは、廃屋を今にも崩しそうな勢いで覆い尽くす姿。茂みの中に入って撮影した写真を見ると、巨大なイタドリの森の中にいるようだ。旺盛な生命力や天敵不在といった要因により、異常に成長したイタドリは高さ2、3mに達し、元の生態系を破壊するため、「侵略的外来種」にリスト化され、巨額の費用をかけた駆除の対象になっているという。
元々は、ある土地に根づいた在来種であったものが、人為的な移動によって、移住先の土地に順応し、群生=コミュニティを作って増殖・拡大するが故に「ローカルな植生を脅かす」侵略者とみなされ、駆除の対象となること。ここに、「イタドリ」の移動という個別的な事例を超えて、移民の排除についての比喩を読むことも可能だろう。渡邊の仕事は、路肩に生い茂る雑草や林の中の群生など、(駆除業者は別として)誰に注視されることもない雑草を、ありふれた風景の中に丁寧に眼差しながら、現実の風景の変容のドキュメントであることを超えて、「現実」の基底層にある様々な力学のダイナミズムをも照らし出している。


(c) Watanabe Koichi「Moving Plants」

2015/12/23(水)(高嶋慈)

あごうさとし『純粋言語を巡る物語──バベルの塔II──』

会期:2015/12/18~2016/12/21

アトリエ劇研[京都府]

劇場空間の中央の床に、約3m四方の白い正方形が敷かれている。4つの角に置かれた、背丈ほどの高さの4つのスピーカー。対角線上には、同じく背丈ほどの高さで縦長のモニターが向かい合う。その周囲を取り囲むように、さらに4つの横長のモニターが置かれ、正面の壁一面に映像がプロジェクションされる。客席はなく、観客は自由に移動して好きな場所から眺めることができる。スピーカーやモニター、すなわち音声と映像の再生装置に取り囲まれたこの奇妙な空間で「上演」されるのが、本作である。ここでは生身の俳優はいっさい登場しない。
開演のアナウンスの後、あちこちに散在したモニターに、ト書きが字幕で映し出される。「人物 夫 妻」「時 晴れた日曜の午後」「所 庭に面した座敷」。そして「台詞」が正面の壁一面にプロジェクションされる。ヒマを持て余した日曜の午後、倦怠期を迎え、自分の気持ちが相手にうまく伝わらないことに互いに苛立ち、すれ違いの会話を続ける夫と妻。ト書きを見ると、「二人は対角線上に対峙する」とあり、対角線上に向かい合ったスピーカーからそれぞれ「夫」と「妻」の声が流れ出す。「不在」の俳優の代わりに擬人化されたスピーカー、その位置関係と距離が、本来二人の間に横たわっている空間性を「再現」する。さらに、対角線上に設置された縦長のモニターにも、「夫」と「妻」らしき人影がぼんやりと映し出されるが、顔はぼやけてはっきりと識別できない。だんだんと、苛立ちをつのらせる二人。モニターに表示された、「妻は夫の周りをぐるぐる回る」というト書きと呼応して、スピーカーから聴こえる声と映像内の人影がぐるぐる回り出す。生身の俳優はいないのに、目に見えない亡霊のような気配に取り囲まれているような感覚だ。通常の観劇体験のように、ある一定の距離を隔てて舞台を一方的に「見る」のではなく、舞台上で生起する出来事のただ中に身を置いているかのような錯覚に包まれる。
劇中、すれ違いを続ける二人の気持ちが、同じ方向へリンクする幸福な瞬間がある。ふとした言葉のきっかけから、二人が空想の鎌倉旅行に行く「ごっこ遊び」が始まるのだ。キャラメル、サンドウィッチ、カルピスといったハイカラな食べ物、タクシーや海浜ホテルといった贅沢な装置が登場し、二人は海で戯れる。この瞬間だけ、映像ははっきりとした海のイメージを結ぶ。しかし、会話が再びほころび始めると、モニターは唇や手足のアップといった身体の断片しか映さない。揺れ動く二人の感情の強度やベクトルに合わせて、映像イメージやその出力レベルが変化していく。
本作で用いられているのは、岸田國士の三つのテクスト、すなわち『紙風船』(1925年)と『動員挿話』(1927年)という戯曲二本と、岸田が大政翼賛会文化部長に就任時に書いた「大政翼賛会と文化問題」(1941年)である。ここで、あごうの関心は以下の二軸にまたがっている:(1)演劇の複製の(不)可能性、(2)岸田のテクストの(不)連続性。この2軸は、「観客の身体」という相において最終的に交差し、祝祭性や一体感、感情喚起力といった、演劇が観客の身体や感情に働きかける根源的な力を明らかにする。
まず、(1)演劇の複製の(不)可能性について。あごうは、生身の俳優の身体的現前を消去することで、演劇を構成する力学それ自体の可視化を試みる。テクスト(ト書きと台詞)、音声、映像(俳優の身体の動き/想像内の心的イメージ)。演劇を構成要素に分解し、空間的に再配置することで、(単なる記録映像にとどまらない)各要素の有機的な関係が立ち上がる生成の空間を、観客に聴覚的・視覚的・身体的に体験させるのだ。
同時に、ナマの観劇体験とは異なる質感が立ち上がる。例えば、俳優の発した台詞は、「録音された声」、すなわち「過去」のものであり、発した身体から切り離された声は、反復・再生可能であるとともに、エコーなど機械による変形や加工が加えられ、物質化していく。
このように、複製技術の使用によって何度でも反復・再生可能な「上演」のただ中にあって、唯一複製不可能なもの、それは、(通常の観劇体験においては意識から遮断されている)観客自身の身体である。視線の拡散や気ままな歩行といった、観客の身体の様々な揺らぎ。本作において、視線を一定方向に束縛するプロセニアム型の対面舞台ではなく、客席がなく「自由に」歩き回れるという鑑賞形式が設定された必然性がここにある。あごうの試みにおいて、「演劇」の「一回性」を担保するのは、この観客の身体なのだ。しかし、観客自身の身体性への自覚は、(逆説的にも)「大政翼賛会と文化問題」という岸田のテクストへの暴力的な介入によって達成された。
そしてここに、(2)岸田のテクストの(不)連続性が関わってくる。『紙風船』のラストに、唐突に接続されるもうひとつの戯曲『動員挿話』。台詞だけを見ると、コミュニケーションのズレを埋められない夫婦の日常会話の続きのように見えるが、実は後者は、日露戦争への出征をめぐって、上官に従う決心をした夫と引き留めたい妻の間で交わされた会話なのである。地続きに見える二つの会話の間に横たわる、「戦争」の見えにくさ。そして終盤、大音量のダンスミュージックがかかる中、「大政翼賛会と文化問題」のテクストが壁一面に映され、朗読する声がDJ風に流される。ト書きは告げる。「人々、立ち上がってリズムをとり始める」「人々、一体感に包まれる」。私が観劇した回では、軽く身体をゆする観客はいたが、皆が一体となって音楽にノる祝祭的な空気は生まれなかった。これは、戦前の大衆心理の熱狂的空間を出現させるという演出上の仕掛けとしては、「失敗」かもしれない。
しかし、「観客の行動の心理的・身体的な誘導」があらかじめ劇の「台本」に指示として書き込まれていることは、逆説的に、演劇的空間における圧力の存在を露呈させる。観客が劇場内でどのように振る舞うべきかを規定し、扇情的な言葉や音楽にノることで一体感を醸成しようとする圧力が、演劇的空間には潜在すること。それを自覚するとき、観客の身体は、一定方向へ誘導する力に支配される危うさに晒されつつも、ささやかな抵抗になりうるかもしれない。「劇場外」と地続きの私たちのリアルな身体と思考に働きかけてこそ、演劇の持つ批評的な力は正当に発揮されるべきなのだから。

2015/12/19(土)(高嶋慈)

岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』

会期:2015/12/17~2016/12/20

京都芸術センター[京都府]

岡崎藝術座を主宰する神里雄大の書くテクストは、戯曲というよりむしろ小説を朗読しているように聴こえる。一人称の視点で語られる長大なモノローグ。詩の言語のように、唐突に接合される語句と語句。その飛躍や比喩の密度は詩的なイマジネーションを喚起し、畳みかけるような演説調の語りとあいまって、俳優の身体から発せられる言葉の熱量を高めていく。
本作『イスラ!イスラ!イスラ!』では、「イスラ(スペイン語で「島」の意)」を連呼するタイトルが示すように、「諸君!」という呼びかけで始まる長大な「演説」という体裁を取ったモノローグが、5人の俳優によって順番に語られていく。水槽や観葉植物、紐のれんが設置され、枠組みだけのドアで内と外を区切られ、「室内」に見立てられた空間に、5人の俳優たちは履き物を脱いであがる。彼らは動物や鳥をかたどった呪術的でカラフルな仮面をかぶっているが、服装はTシャツや綿パンなどカジュアルで現代的だ。動物や鳥の鳴き声を口々にたてた喧騒の時間の後、仮面の語り手たちは、一人ずつ順番に長大なモノローグを語っていく。それは、遥か古代から現代に至るまでの、ある「島」の壮大な歴史である。
意識が世界から分離する以前の、混沌とした、悠久の、神話的な時間。大海原と溶け合って波間を漂う何者かの意識は、やがて海流に運ばれ、ある島に漂着する。意識の覚醒。それは人格神のような存在であり(プライドが高く喜怒哀楽が実に豊かだ)、「王」を名乗って統治を始め、「野蛮」で「言葉を介さない」島民たちに「第1号」「第2号」「第4号」……と番号を振って管理下に置こうとする。統治の第一段階は、文明化に費やされる。学校、病院、監獄といった施設を建て、教育を施し、「清潔」や「善悪」の観念を植え付けようと奮闘する。
第二段階では、異質な外部との接触による様々な変化が島にもたらされる。たまたま漂着して島に根付き、産業化や観光化といった「発展」をもくろむ者、捕鯨船の拠点や貿易の話をもちかける者。外部からの移住者も増え、様々な文化や言語が持ち込まれる。そして第三段階では、この島にも加速する近代化の波が押し寄せ、戦争による爆撃や開発・埋め立てによる「私の身体」の変容が語られる。つまり、一人称の話者は、「島」そのものであることが明かされるのだ。
時代の変遷とともに交替する語り手は、交替の度に、歌や足踏みといった儀式的所作が繰り返されることで、「王」すなわち統治者の代替わりを思わせる。それは、祖霊信仰やアニミズムのように、死者の魂が島全体と一体化していることを示唆し、そうした地霊のような島の声は、仮面をかぶってヒトならざる者へと変化(へんげ)した語り手によって、私たちの元に送り届けられる。その声は、文明化に始まり、交易、移民、産業化、植民地、戦争、開発といった人類の歴史が凝縮された物語の内に、多人種・多言語・多文化の交錯する島の姿を描き出すとともに、人間中心的な視点を相対化してみせる。
そうした架空の島の歴史を想像することは、詩的跳躍力を豊潤に湛えた言葉により誘われつつも、一方で、目の前で繰り広げられる光景との落差が、想像力の駆動に絶えず介入し、演劇的なイリュージョンの生成を拒む。豊穣な詩的言語が想像へ誘う引力に対して、目の前の物理的空間や俳優の身体的現前が、絶えず現実へと引き戻そうとする斥力のように働き、一種の異化作用をもたらすのだ。履き物を脱いであがる、日本のワンルームの室内空間。カジュアルな普段着。とりわけ、劇中でただ一人、終始、足漕ぎペダルで自家発電を行なってライトを点灯し続ける俳優が、特異な存在感を放つ。俳優の肉体によって現前で行なわれ続ける労働は、「光」を生み出すが、それはアニミズム的な「神」の威光を示す装置であると同時に、この閉鎖的な室内空間をあるがままに照らし出す。多人種・多言語・多文化の混淆した、ある種のユートピアとしてのハイブリッドな「島」への想像と、しかし、「ここ日本の平均的な日常空間」という閉鎖空間にあってはいかにそれが困難か、ということが同時に露呈されている。だから終幕で、俳優たちは履き物を履いて敷居をまたぎ、舞台設定としての「部屋」、「ハコ」としての劇場、さらには閉じた想像力という閉鎖空間の「外部」へとつながる通路を求めて、歩き去っていくのだ。

2015/12/19(土)(高嶋慈)

林勇気展

会期:2015/12/04~2016/12/05

FLOAT[大阪府]

ギャラリーほそかわでの個展と同時期に開催された、映像作家・林勇気の個展。林は、パソコンのハードディスクに大量にストックした写真画像を、1コマずつ切り貼りしてアニメーションを制作することで、現実と仮想世界の境目が溶解したポスト・インターネット的な感覚を提示する。また、画像の収集方法は作品毎に異なっており、林自身によるデジカメ撮影、一般公募で集めたもの、インターネットの画像検索という3パターンがある。つまり、パソコンやデジカメ、携帯電話のメモリといった個人の所有する記録媒体、あるいはネット上の共有空間に日々膨大な画像が蓄積され、共有され、消費されていくというメディア状況が、まさに可視化されている。
本個展では、元倉庫という空間の広さを活かし、壁面に加えて床や廊下、さらには開けた窓の奥の空間へと映像が浸透/浸食していくような展示がなされ、映像と現実の物理的空間が、ギャラリーほそかわでの個展とは別の形で交錯し合っていた。壁いっぱいに投影されたアニメーションでは、建物、樹木、草花、家電製品、食べ物、車など、切り抜かれた無数の画像が、川面を漂うようにゆっくりと流れていく。床には本の束や箱、ミラーボールが一見雑多に置かれているが、これらの影は、アニメーションの上に街並みやTV搭のシルエットを描き、影絵のレイヤーを形づくる。一方でアニメーションの映像は、廊下や床にまで映り込み、現実の物理的空間の表面を浸食していく。しかし、廊下の突き当りで振り向くと、プロジェクターの眩しい光が視界を襲う。映像の非物質性、そして映像とは光を見ていることに他ならないことを再認識させる仕掛けである。
また、展示場所のFLOATは、元倉庫のアーティスト・ラン・スペースだが、2015年12月末でクローズとなった。別の映像作品では、倉庫の内外で撮影したスナップ写真の上に、小さく切り抜かれた無数の画像がふわふわと漂っていく。倉庫として使用された履歴、いくつもの展示の記憶を内包した場所の性格に加え、ミラーボールやアンビエントな音楽など、空間を感傷的に満たす光や音の作用も影響して、匿名的な記憶の断片が織りなす川の流れや星雲のようなイメージ、その儚い美しさが際立っていた。


林勇気《もうひとつの世界003》

2015/12/05(土)(高嶋慈)