artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:PATinKyoto 第2回京都版画トリエンナーレ2016

会期:2016/03/06~2016/04/01

京都市美術館[京都府]

「版画トリエンナーレ」と冠されているが、出品作家のラインナップを見ると、写真、映像、染織を手がける作家も参加している点が興味深い。つまり、銅版画や木版、シルクスクリーンといった技法・ジャンルとしての「版画」の枠組みにとどまることなく、複製、反復やトレース、情報を複製するデジタルデータと「版」の関係性など、「版(画)」の概念の拡張が試みられているといえる。また、狭義の「版画」メディアにおいて制作する作家においても、例えば、インクの色を変えて100層以上もシルクスクリーンの版を刷り重ねることで、極小の突起に覆われた画面が角度により玉虫色に変化する小野耕石の作品や、白く不透明な蝋の上にシルクスクリーンを施した後に熱を加えることで、溶けた蝋の上でインクが流動化し、波打つように崩壊したイメージをつくり出す金光男など、支持体とインク、イメージと物質、二次元と三次元の往還といった問題への言及が見られる。さまざまなメディアを用いた「版(画)」の概念の拡張と、「版画」の可能性を探究する実験性が交差する機会になるのではないか。また、20名のコミッショナーがそれぞれ1名ずつ作家を推薦する方式が採用され、若手~中堅作家を積極的に取り挙げている点にも期待がふくらむ。

2016/01/31(日)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2016 SPRING

会期:2016/03/05~2016/03/27

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール“アルティ”、京都国立近代美術館ほか[京都府]

6回目を迎える「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」。今回は、2016年1月にリニューアルオープンしたロームシアター京都をメイン会場に迎えるため、例年通りの秋ではなく、春に開催される。
公式プログラム計11演目は4つの軸に沿って構成。(1)「現代舞台芸術の源流を辿る試み」では、舞踏集団・大駱駝艦の近作『ムシノホシ』や、維新派の松本雄吉が演出する新作が予定されている。また、トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニーの初期作品群のオムニバス上演が、京都国立近代美術館で行なわれる。これら1960~70年代の実験精神の延長線上として、トリシャ・ブラウンやマース・カニングハムなど、先行世代を意識して制作している振付家・ダンサーのボリス・シャルマッツ/ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンスによる『喰う』の上演が位置づけられている。
(2)「作家たちの共同作業による新作群」では、東日本大震災と原発事故を題材にしたエルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』で高い評価を受けた、地点と三輪眞弘が再びタッグを組み、イェリネクの『スポーツ劇』の上演に挑む。また、チェルフィッチュは、現代美術作家・久門剛史との共同作業による新作『部屋に流れる時間の旅』の上演を予定。また、ボイスパフォーマー・作曲家の足立智美は、舞台音楽を子どもたちと制作するワークショップを行なうとともに、contact Gonzoとの初顔合わせを試みる。異ジャンルのアーティスト同士のコラボレーションによる、刺激的な相互作用に期待したい。
また、KYOTO EXPERIMENTは、フェスティバルの役割のひとつとして国際的な共同製作やネットワークづくりを掲げており、特に、日本で紹介される機会の少ない南米諸国の現代演劇やダンスを継続的に紹介してきた。(3)「継続的な国際交流プロジェクト」では、チリ演劇界のホープ、マヌエラ・インファンテ率いるテアトロ・デ・チレの『動物園』が上演される。「人間の展示」という主題を通して、西欧の植民地化や軍事独裁政権といったチリの複雑な歴史、異文化の混淆や衝突、観客の眼差しのあり方への鋭い批評となるのではないか。また、シンガポール出身のチョイ・カファイは、アジア諸国のダンサーや振付家へのインタビューを通して、伝統舞踊とコンテンポラリー、現代社会とダンサー個人の身体性といった様々な問題のリサーチを行なう。さらに、フランスのダンサー・振付家のダヴィデ・ヴォンパクは、「カニバリズム」という人間の極限的な行為を切り口にしたダンス作品を上演する。
(4)「デザインと建築の視点によるリサーチプロジェクト」では、デザインと建築の領域で活躍するUMA/design farm と dot architectsが京都の街のインフラを再編集して提示するリサーチプロジェクト、「researchlight」が展開される。
以上の公式プログラムに加えて、外部キュレーター2名の視点から日本の新進作家を紹介するショーケース「Forecast」も予定。劇作家・演出家のあごうさとしが「劇場における身体のあり方」という視点から選んだ3組(岩渕貞太×八木良太、辻本佳、あごうさとし)と、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館学芸員の国枝かつらが選出した音と映像を扱う3名(小金沢健人、田村友一郎、梅田哲也)の作品が上演される。さらに、フェスティバル開催期間中に京都で発表される作品を一挙に紹介するフリンジ企画「オープンエントリー作品」では、45作品が登録されている。3月の週末は、舞台鑑賞漬けになりそうだ。

公式サイト:http://kyoto-ex.jp/

2016/01/31(日)(高嶋慈)

エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ

会期:2016/01/16~2016/03/21

国立国際美術館[大阪府]

キリストの受難を表わす「エッケ・ホモ(この人を見よ)」をタイトルに掲げ、戦後以降の現代美術における人間表象を三部構成で紹介する展覧会。出品作の大半が国立国際美術館のコレクションで占められている。
「エッケ・ホモ」というタイトルが示すように、第二次大戦後、安易なヒューマニズムが成立しえず、合理的精神や理性では規定できない人間存在が提示される。とりわけ戦後美術に焦点を当てた第一章では、犠牲者、戦争という受苦を受けた身体表象、傷を負った生々しい肉体(肉塊)の露出が示される。フォートリエの《人質の頭部》に始まり、鶴岡政男の《重い手》、ルポルタージュ絵画、石井茂雄や池田龍雄が戯画的に描く、抑圧され奇形的にねじれた身体、荒川修作が棺桶に収めた不気味な肉塊や、工藤哲巳が造形した、腐臭を放ちながら機械と融合して培養される肉塊……。なかでも、ウォーホルのシルクスクリーンのシリーズ《マリリン》の前に、戦死広報と拳銃を向き合わせてガラスケースに収めた村岡三郎の《タナトス・D》が置かれていたのは、意表を突かれてはっとさせられた。マスメディアに流通するイメージがさらに版によって反復されることで、「死」の重ささえも(限りなくポップな様相をまといながら)希釈されていく情報資本主義社会の明るく平坦な暴力性と、戦争という国家が犯した罪の犠牲者である個人の死がたった一枚の紙で通告されること。両者は、ポップな明るさ/シリアスな重さ、反復可能性/唯一性においては両極端だが、「死」が扱われる「軽さ」の一点において収束する。
「肉体のリアル」と題された第二章では、身体の欠損、傷(傷痕の残る皮膚を接写した石内都、自らに施した美容整形手術のプロセスを記録したオルラン)、肥満体の女性のヌード(ローリー・トビー・エディソン)など、(女性の)リアルな肉体を提示することで、美とジェンダーをめぐる表象の問題を鋭く浮上させている。ただし、この文脈に、両義的な小谷元彦の作品を入れたことには疑問が残る。出品作の《Phantom-Limb》は、磔刑像を思わせるポーズ、手首の切断のようにも見える赤く染まった掌、少女のまとうワンピースの「白」という色が想起させる「無垢」や「純粋」によって、「無垢で純粋な、聖なる存在としての美少女」への願望が結像するとともに、(握りつぶした果実の果汁で染まった掌の鮮烈な赤が「血」や官能性を喚起するように)無垢で純粋であるがゆえに侵犯したいという欲望がほのめかされているからだ。
また、両足義足のアーティスト、片山真理が登場する映像作品《Terminal Impact(featuring Mari Katayama “tools”)》では、義足を付けた片山が歩いたり腰かけたりする動作を淡々と反復するとともに、黒子が機械を操作して、取り付けられた義足が回転運動や落下を繰り返す。ただし、リビドーの稼働装置のような機械が動き続ける舞台の上で、下着の見える衣装を片山にまとわせることで、義足は身体機能の代替物としての役割を超えて、人格や身体全体から切り離された文字通りの物象化、つまりフェティッシュの対象としても見えてしまう。また、義足を用いた反復行為は、「訓練」さらには「調教」を想起させるだろう。こうした両義的な小谷作品を組み込むことで、オブセッショナルな「美」への願望(男性の視線への同一化)とそこからの解放が、再び「幻想」の領域へと囲い込まれてしまう。
一方、「不在の肖像」と題された第三章は、それぞれの出品作自体は興味深いものの、全体を貫くキュレトリアルな軸が定まらず、散乱・拡散している印象を受けた。身体表象そのものの「不在」によって逆説的に存在の痕跡を喚起する作品(オノデラユキの《古着のポートレート》、塩田千春の黒い毛糸に絡めとられたワンピースなど)、同一性と差異の間で不安定に揺らぐアイデンティティの曖昧さ(顔を前後左右に動かして撮ったセルフポートレートの連作によって、物理的な運動=自己同一性の揺らぎとして提示するブライス・ボーネン)。後者には、ある状況や社会的身分を共有する個人のポートレートを数十人分重ね、ブレの中にひとつの曖昧な「顔」が浮かび上がる北野謙の写真作品も該当すると思うが、こちらは明確な「肖像(画)」を集めた一室に展示されていた。ここでは、トーマス・ルフの巨大なポートレート写真、ゲオルク・バゼリッツの逆さまの肖像画、フィオナ・タンの静謐で美しい映像による動く肖像画と呼べるビデオ作品がある一方で、ジャン=ピエール・レイノーの白タイル貼りの直方体を還元化された人体として提示した立体作品が置かれている。「肖像(画)」というくくりだろうが、ざっくり感は否めず、「不在」はどこへ行ったのかという疑問が浮かぶ。展示のラストは、ヒューマニズムの回復を謳うように、ボイスと島袋道浩の作品で締めくくられる。「約9割がコレクション」という制約もあるかもしれないが、意欲的な展示だっただけに、キュレトリアルな意識の軸線が定まっていないと展示が散乱して見えてしまう点が惜しまれた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)

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幻想の質量

会期:2016/01/25~2016/02/06

2kw gallery[大阪府]

通貨、住空間、言語といった具体的なモノや素材を扱いながら、社会の共通観念を静かに揺るがすような3名の作家によるグループ展。山本雄教は、一円玉のフロッタージュの濃淡によって、画像の粗いドットを表現することで、高額紙幣の「絵」を描き出す。そこには、社会に流通する通貨の中で最小単位である一円玉が、高額紙幣に置換されるという転倒が起きているが、その像はモザイクがかけられたかのように曖昧にぼやけている。また、松井沙都子は、木目がプリントされた内装材やカーペットといった、建築の表面を覆う薄い表層と照明器具を組み合わせ、住空間の一部や家具を思わせる立体によって、暖かみを喚起させつつも空虚で薄っぺらい「虚」の空間を出現させている。それは、鉄骨やコンクリートといった無機質な骨組みの表層を覆い隠し、見かけだけは「居心地良く、暖かそうに」設える皮膜であり、私たちの居住空間はそうした表層の均質性に覆われているのだ。また、森村誠は、英語の辞書からアルファベットの「g」だけを切り抜いた作品を出品している。認識やコミュニケーションの基盤をなす言語の体系、その象徴的存在である辞書は、恣意的なルールによって虫食いのような様相を呈している。切り抜かれたおびただしい極小の紙片は、グラム数の表示とともに傍らのガラス容器に詰められている。わずか数十グラムというその「軽さ」は、均質な住空間の表面に囲まれて暮らし、国家が保証する通貨の価値を信じて経済活動を行ない、言語的コミュニケーションによって意思疎通を図っていると疑わない私たち、その共同幻想に支えられたシステムの仮構性をシニカルに照らし出していた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)

男女群島・女島篇

会期:2016/01/23~2016/02/13

+Y GALLERY[大阪府]

「男女群島・女島篇」という謎めいたタイトル。ギャラリーの壁には、一見同じに見える6枚の地図が展示されている。近づいて目を凝らすと、1枚目は印刷された既成の地図図版だが、2枚目以降はトレーシングペーパーに鉛筆で転写されたものだとわかり、枚数を追うごとに、次第に線や文字の輪郭が曖昧にぼやけ、微細に震える線の運動の中に溶け合って融解していく。
これは、北辻良央が1971年に制作した、男女群島北部地図を鉛筆でトレーシングペーパーに転写する行為を繰り返した作品を、同じ手法を用いて、南部の「女島」の地図を使って制作した新作である。男女群島は、長崎県の五島列島の南西に位置し、東シナ海に浮かぶ実在の群島である。その地図を転写した1枚目のトレーシングペーパーの上に2枚目を重ねて転写し、その2枚目の転写の上にさらに3枚目のトレーシングペーパーを重ねてなぞっていく、というように、ひとつ前の転写像をトレースするというルールの反復によって、計5枚の「手製の複製地図」がつくられている。転写の転写の転写、複製行為の連鎖を重ねていくこと。それを手作業で行なうことで、複製される度に情報は劣化してズレを増幅させていき、最後の5枚目の転写では線も文字もグニャグニャした短い線の連なりと化し、「島」の実在性が不確かなものになっていく。
ここには、二つのレベルにおける「トレース」が認められる。転写した像の再転写、そして70年代初頭のコンセプチュアルな試みを、45年後に再び自身でトレースする、という「行為」自体の反復性である。それは、同時代的な潮流の中で行なわれたコンセプチュアルな方法論の有効性を測ろうとする試みであるとともに、それを「現在時」の軸の下で見つめ直してみたとき、モチーフが「島」、とりわけ東シナ海に浮かぶ島であることに留意すべきだろう。地図のトレース、つまり領域確定行為の執拗な反復によって、逆説的に、固有の輪郭と名前を持った「領土」が曖昧に溶解しながら海中に溶けていくという事態は、(作家の意図はさておき)東アジアにおける領有権問題へのシニカルな批評的応答としても解釈できる。
さらに、「過去の自らの行為の再演」であることは、必然的に記憶の問題へとつながっていく。70年代初頭に撮られたモノクロ写真の上に、2016年の現在時のテクストを重ね書きした一連の作品群は、まさにこの「記憶」の問題に対応していた。展示会場で自作を前に話す自身のスナップ写真の上に、「誰に何を話しているのか今だに想い出せないでいる」もどかしさが綴られた作品。記憶の手引きとなるはずの「写真」が、むしろ忘却の証となる逆説性がここに露呈している。また、モノクロの風景写真の上に、散文詩のようなテクストが綴られた作品群では、暗めのプリントの写真内に保存された、忘れ去られたようなイメージの断片がトリガーとなって(この場合は、河川敷や水たまりなど「水辺の光景」)、記憶の中の別の光景への追想を引き寄せていく。写された過去の光景と現在からの追想が、共鳴しながら完全には重ならない、不可解な断層を差し出していた。

2016/01/30(土)(高嶋慈)