artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
美術の中のかたち─手で見る造形 手塚愛子展「Stardust Letters─星々の文(ふみ)」
会期:2015/07/18~2015/11/08
兵庫県立美術館[兵庫県]
既成品の織物から糸をほどく、ほどいた糸で刺繍を施す、といった解体と再構築の作業を通して、絵画と表象、絵画を構成する多層構造の可視化、絵画と手工芸の境界、装飾や図案をめぐる東西の文化的記憶、といったさまざまな問題を提起してきた手塚愛子。本個展は、兵庫県立美術館のアニュアル企画である「美術の中のかたち──手で見る造形」展として開催された。この企画は、視覚障碍者にも美術鑑賞の機会を提供することを目的として、作品に触ることができる展覧会で、1989年度より始められ、今年で26回目になる。
今回の手塚の試みが秀逸だったのは、「点字」を作品に導入することで、「見る」行為における、視覚障碍者とそれ以外の鑑賞者との非対称性を解消したことだ。展示室に足を踏み入れると、天井近くから無数の白い糸が柱のように垂れ下がった光景が広がっている。鑑賞者はこの「糸の森」の中に入って、散策するように歩き回り、糸に触ることができる。さらに、インスタレーションの反対側に回ると、糸の柱は手前にいくほど低くなっており、白い柱の天辺が散らばった星のように見える。だがその配置は、実は点字の形を表わしており、手塚がベルリンから送った手紙が点字に訳されているという。この点字の文章は壁にも貼られており、視覚障碍者は手で触ってその内容を「読む」ことができるが、散りばめられた星屑のようなインスタレーションの光景を「見る」ことはできない。一方、点字を習得していない鑑賞者の眼には、糸の柱の無数の林立は、神秘的な光景として映るのみで、言語記号へと置換されず、手紙の内容を知ることはできない。手塚の作品は、両者にともに「想像すること」の余地と必要性を与えることで、他者のあずかり知らぬ知覚や思考が同居する空間へと想いを至らせる回路を開いていた。
2015/10/30(金)(高嶋慈)
谷澤紗和子×藤野可織「無名」
会期:2015/10/23~2015/11/01
KUNST ARZT[京都府]
美術作家の谷澤紗和子が制作した人形のような陶のオブジェに、小説家の藤野可織が短編小説を書き下ろしたコラボレーション展。子供の粘土遊びのような造形に、目・鼻・口を表わす虚ろな窪みをつけられたオブジェたち。ユーモラスなのか不気味なのか分からない表情で佇む彼らに、1ページずつ文章が添えられ、物語が展開していく。
「名前をつけてはいけない。名前をつけたとたんにお前は死ぬ」。恐ろしげな宣告で小説は始まる。「それもただの死に方じゃない。お前は引き裂かれ、ねじ切られ、ぐちゃぐちゃにつぶされて捏ねくり回された挙句、火でかちかちに焼き固められるだろう」。語られていくのは、名づける行為と存在、名を持たないことと忘却、名前のないものがもたらす恐怖と、名づけることで対象を認識し、分類し、秩序を与えて支配しようとする欲望だ。また、文体の特徴として、「お前」「わたしたち」「彼ら」といった人称代名詞の使用がある。指示対象が括弧の中に入れられて宙吊りのまま、文脈次第で異なる意味が空白に充填される人称代名詞の使用に加えて、冒頭とほぼ同一の文が最後のページに回帰する構造によって、小説を読み返しながら会場を何周も回るたびに、作品の印象がさまざまに変化するのだ。
陶のオブジェたちは、ある時は、目鼻がとれた焼け焦げた死体や拷問で変形した身体のように見え、物体へと還元されて固有名を失くしたもの、フォートリエの《人質》シリーズのように暴力の痕跡として立ち現われる。またある時は、生命を宿したばかりの胚のように見え、不定形で混沌としたエネルギーの蠢く塊、まだ名前を持たない存在を思わせる。あるいは、目鼻だけを彫った稚拙な地蔵像のように、プリミティブで集合的な祈念の形象化のようにも見えてくる。無為なのか底なしの暗闇なのかわからぬ窪みをのぞき込むと、釉薬のように色づいた表面が照り光っている。これは、貝殻を陶土に埋め込んで窯入れすることで、焼けた貝殻が釉薬のように色と光沢感をもたらすのだという。ここで、二枚貝が女性器の象徴として用いられてきたことを思い返すならば、頭部や腹部にぱっくりとした割れ目をもったオブジェたちは、解剖された標本のような不気味さのなかに、密やかなエロスを開示する。マジカルな仕掛けを駆使した小説との相互作用により、谷澤の陶オブジェは、そうしたさまざまな連想を許容する包容力を備えていることを示していた。
2015/10/24(土)(高嶋慈)
大竹竜太展
会期:2015/10/03~2015/10/07
SUNABA GALLERY[大阪府]
一見シンプルなモチーフと構図だが、違和感がじわじわと染み出してくる不穏な絵画群だ。
何もない白い壁と床(ホワイトキューブの空間を思わせる)の前に立つ、女性像と男性像がそれぞれのキャンバスに描かれている。第一の違和感は、ジェンダーの区別に対応して採用された描写モードの落差である。ゲーム・アニメ風の美少女キャラクターとして描かれる女性に対し、妙にリアルに描かれる中年男性。無個性的で消費される記号として描かれる女性イメージと、現実に対応する固有性を備えた男性イメージ。その対比や落差は、一見「美少女キャラの萌え絵」をなぞりながら、その欲望の送り主たちの「現実の」姿を反転像として浮かび上がらせ、表象システムがはらむ視線の偏差や欲望のコード(「かわいらしく無害な美少女」)をあぶり出す。女性たちが虚構世界の住人であることに対し、男性像が「現実」と対応していることは、彼らとともに画中に描かれた、何かの部品か箱のような謎めいた白い構造体が、立体作品として絵画の前に置かれていることからも分かる。一方、女性たちには、水の溢れる水槽やバケツが配され、性的なコノテーションを伴うことが明らかだ。
第二の違和感は、人物たちの足元から立ち上がる「影」の形態である。白い壁を背に立つ人物たちは、どこか舞台の構造を思わせるが、強い照明を当てられたかのように彼ら/彼女らの足元から伸びる「影」は、手足のポーズや手に持った小道具から派生しつつ、不自然に歪み、半ば自律的な領域をひとりでに生き始める。三次元の物体の二次元への投影像であることをやめ、人物たちを背後から脅かすような不定形の塊や動物のようなシルエットへと変貌していくのだ。
これら全ては、滑らかでマットな乳白色の質感を持つ、独特の画肌とともに描かれている。これは、透明メディウムとアクリル絵具を何層も塗り重ねることでつくられているという。このように大竹の絵画は、二次元と三次元の往還やズレ(物体/影、キャラ/リアルな人物像)を根幹に据えながら、そこにジェンダー表象の問題を含ませ、マチエールの重層性、さらにはホワイトキューブという空間をも示唆し、様々な問題が多重的に重なり合う場としての絵画空間を構築していた。
2015/10/07(水)(高嶋慈)
花岡伸宏「Statue of clothes」
会期:2015/09/26~2015/10/18
MORI YU GALLERY[京都府]
90度回転した少女の頭部の木彫像に木の棒が突き刺さり、台座から宙に浮いている。上部を覆う古着の花柄は、木彫の表面へと浸食する。同様の少女の頭部像は、ある時は真っ二つに切断され、顔面を布で覆われて倒立し、別の木彫の一部(?)や布で梱包された謎の塊、木の棒、彩色された板、果てはマンガ雑誌の背表紙などと脈絡なく接続される。花岡伸宏の作品は、彫刻と絵画、ジャンクや日用品と彫刻、作為と無作為の狭間を確信犯的に行き来しながら、コラージュというよりは、突発的な事故のように強制的な不接合を見せる。だが、これまた端材やがらくたの寄せ集めのような「台座」に載っていることが、かろうじて「彫刻」であることを担保している。
素材もジャンルもバラバラな断片の不接合、無軌道な建て増し工事のような継ぎ接ぎ感、自己同一的なアイデンティティを持たない構築物。そこに、近代以降の日本の「彫刻」への自己言及的な批評を見てとることは可能だろう。だが、「実体なき空虚」「均質な被膜に覆われたヴォイド」としてではなく、あくまで空間的に質量を占める「物体」として、ナンセンスな乾いた笑いとともに提示している点に、例えば金氏徹平や鬼頭健吾といった作家たちとの相違点を見て取ることができる。
2015/10/03(土)(高嶋慈)
したため#3「わたしのある日」
会期:2015/10/01~2015/10/04
アトリエ劇研[京都府]
演出家・和田ながらのユニットであるしたための特徴は、予め用意された台本を用いず、出演者との会話を積み重ねるなかから言葉を引き出し、時空間を構築していく方法論にある。本作では、「昨日、使ったお金はいくらですか」「昨日、嗅いだ匂いは何ですか」「昨日、待ち時間の合計はどのくらいでしたか」といった質問が投げかけられ、出演者たちは淡々と答えていく。具体的な数量や商品名として発語される回答は、断片化された情報の羅列にすぎず、観客に背を向けたままの出演者たちは匿名的な存在に留まり、微視的でありながらも個別的な相は立ち上がってこない。台本を用いず、出演者自身に取材し、個人的な経験や記憶から演劇を立ち上げていく手法はポストドラマ的と言えるが、ここでは、「日常」を丁寧に掬い上げてそのかけがえのなさを観客の前に差し出すというよりも、むしろ、些末な情報の断片や交換可能な無人称性として提示される。翌日になれば忘れてしまうような、些細でどうでもいいあれこれ。それらに執拗に向けられる質問。記憶=自己のアイデンティティを失うことへの不安感か?
「昨日のこと、覚えていますか」「忘れたくないものは、何ですか」。このように問えば、とかくノスタルジックに傾きがちだ。だが本作を覆っているのは、良い意味で暴力的な、明るい虚無感だ。質問内容は、「昨日、見つからなかったもの」「昨日、できなかったこと」といった欠落感や挫折を漂わせる。出演者たちは、微妙な距離感と匿名性を保ったまま、コミュニケーションを取ろうとするが失敗し、「伝えたかったこと」と「伝達されなかったこと」との間の溝が乖離していく。あるいは、居酒屋での注文を思わせるやり取りでは、1人だけ違う飲み物を注文した者が、皆と同じメニューを言うまで、「ビール!」の絶叫的な大合唱が反復される。一見たわいないシーンに見えるが、異なる意見を徹底的に無視し、同調性へと強制的に回収しようとする暴力が噴出する瞬間は、寒気を覚えさせた。
個別的な輪郭を持った「個人」でもなく、「集団」にもなりきれない彼らはやがて、一人ずつ倒れていく。暗転とともに、眠りや死の暗示。ここで「余韻」を残してしっとりと終わっていれば凡作だ。だが、「♪新しい朝が来た 希望の朝」という歌詞で始まる合唱曲が(歌詞の清新さをかき消すような)大音量でかかり、一時の休息も空しく、彼らは無理やり起こされ、自動的に新たな一日が始まってしまう。「明るい健全さ」という虚無的な暴力が蔓延し、彼らは抗う術を知らないのだ。
そして最後に、時制が奇妙な反転を見せる。「明日のこと、覚えていますか」「明日、買いそびれたものは何ですか」「あさって、初めてだったことは何ですか」「しあさって、また聞いた言葉は何ですか」。徐々に遠ざかる未来のことが、「過去形」で質問され、答えが返される。ここで一気に、演劇的な虚構の強度が立ち上がる。いやむしろ、彼らは、想像のなかで「明日」を反復している。予測・想像可能な範囲の延長線上にしか「未来」はなく、他人との微妙な距離感やコミュニケーションの挫折感を抱えたまま、その繰り返しにすぎないのだ。だが、空白の「今日」は一体どこにあるのだろうか。
2015/10/03(土)(高嶋慈)