artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

吉岡千尋「skannata──模写」

会期:2016/02/09~2016/02/21

アートスペース虹[京都府]

本個展では、イタリア旅行の際に撮影した教会のフレスコ画やテンペラ画の一部を模写し、さらにスケールを拡大して模写を重ねた絵画作品が発表されている。小文字で《mimesis》と題された、ほぼ同寸の小さなテンペラ画と、大文字で《MIMESIS》と題された、拡大バージョンの油彩画。同じイメージから派生した大小2枚の絵画が、壁に並べて掛けられる。《mimesis》では、人物の頭部はフレームからカットされ、画家の関心は布地の襞や金箔の装飾へと向かっている。実際に金箔を貼った上にテンペラ絵具で描き、絵具の層をこそげ取って金箔を露出させた部分を金属棒で叩いて凸凹の表情をつける。光を反射して輝く凸凹の表面は、布地に施された金糸の刺繍のように立体的に浮き上がって見える。一方、大文字の《MIMESIS》では、《mimesis》の一部分をさらに拡大させることで、画面は身体の輪郭や物語性を失って装飾模様で覆われ、半ば抽象的なものへと変容する。こちらは、アルミの粉を混ぜた銀色の地の上に油彩で描かれているが、塗り残された地の一部が、光の当たり方によって白く輝いたり、暗く沈んで見える。光の反射と物質性との往還。そこに薄く透けて見える、「拡大」する際に用いたグリッドの線。見る角度によって変化する銀の上に、軽く浮くような筆致で描かれた絵画は、硬質さと柔らかさが同居し、脆く壊れそうな儚い美しさをたたえている。
吉岡はこれまでも、小説の克明な描写から想像した建築物を絵画化するなど、写真や言葉によって情報として媒介されたイメージを、さらに模写するという手法を採ってきた。同一イメージの変奏曲のようなその手法は、イメージの同一性やイメージと記憶・認識という問題とともに、フレーミング、グリッド構造、模様やパターンの反復、レイヤーの出現、塗り残しによる「地」の問題、反射と物質性、ハッチングによる陰影法など、「絵画」をめぐるさまざまな問題が、揺らめきながら多層的に立ちのぼっている。その揺らぎを伴った豊かさが、吉岡の絵画をいつまでも立ち去りがたい魅力的なものにしているのだ。

2016/02/17(水)(高嶋慈)

What Price Your Dance ダンスと仕事とお金についてのおもろい話とパフォーマンス

会期:2016/02/14~2016/02/15

Art Theater dB Kobe[兵庫県]

川口隆夫、砂連尾理、カンボジアの古典舞踊手のポン・ソップヒープ、マレーシアの古典舞踊手のナイム・シャラザード。国籍、年齢、セクシャリティ、ダンスの経歴、受けた教育、文化的背景もそれぞれ異なる4人のダンサーが、「アジアにおけるアートのための労働とダンスの経済」について言葉と身体による対話を行なう、レクチャー・パフォーマンスである。
冒頭ではまず、「あなたの生計を教えてください」という質問が英語でなされる。非常勤講師とダンス公演とワークショップと答える砂連尾、古典舞踊の教師と音楽のバイトだと言うソップヒープ、翻訳業と舞台公演が半々を占めると言う川口、舞踊団からのギャラで生計を立てていると言うシャラザード。4人の答えはバラバラだ。続けて、「あなたの手、足、胴体で何か見せてください」という質問と、それぞれの身体部位の「値段」が質問される。「値段は付けられない」と言う者、手羽先やスペアリブと比較して冗談交じりに答える者。だが、上半身をはだけた年若いシャラザードが、傍らの川口に「How much?」と問いかけるとき、臓器売買や売買春とのきわどい交差の中に、観客=ダンサーの身体を「見る権利」を買っている存在であることが仄めかされる。
続くシーンでは、「これまでのダンスで得た総額」「月収と支出の内訳」「公演制作費、ギャラの時給換算」「ダンス教育にかかった時間の総計」といった経済、労働に関する質問がなされる。それは、ダンサーの置かれた経済的状況について、「表現、身体、文化的支援、資本主義」に関する問いを投げかける。しかし、「お金」と「時間」と「(身体)資本」という資本主義経済の単位に還元してダンスの価値を測ろうとすればするほど、そこからはみ出さざるをえない豊かな剰余の部分が際立ってくる。それは、ダンス/ダンス以外でのさまざまな差異をもった出演者どうしが、身体的な交流のなかから動きを即興的に立ち上げていくシーンである。砂連尾とソップヒープは、合気道と古典舞踊を互いに教え合う。コンテンポラリー・ダンスに関心をもつシャラザードは、川口に「最初の振付作品を見せて」と頼み、振り写しのなかから即興的な動きが触発されていく。相手の動きを受け取って、どんどん次の動きを生み出していく、緩やかな連鎖反応。一方、砂連尾とソップヒープは、「2人の掌の間に見えないボールがある。その感覚をキープしたまま、空間をゆっくり広げていく」というワークを始め、見えない糸の繋がりが、空間的に隔たった2人の身体を動かしていく。
一方で、ソップヒープが見せるソロは、「ダンスとグローバリゼ─ション」という問題を提起する。彼は、持ち役の「猿の踊り」を力強く披露するが、この役には肉体の俊敏さや若さが求められるため、舞踊団では年齢的にもう踊れないと言う。「カンボジアにコンテンポラリー・ダンスが入ってきたのは2005年頃とまだ新しいが、自分にとってコンテンポラリー・ダンスは貴重な収入源だ」と話す。そして、古典舞踊のテクニックや培われた身体の強靭さをベースに、「砂連尾と一緒に作っている」と言う新しい作品の一部を披露する。それは、古典舞踊の動きや身体観と融合した「新しいダンス」を生み出すのだろうか。それともグローバルな市場においては、古典舞踊のエッセンスは商品価値を高める差異に過ぎず、「新たな商品」として消費の対象になるのだろうか。

2016/02/15(月)(高嶋慈)

イシャイ・ガルバシュ「The long story of the contacts of “the other side”」

会期:2016/01/15~2016/02/28

Baexong Arts Kyoto[京都府]

2016年1月に京都市南区にオープンしたBaexong Arts Kyotoで、イスラエル出身の写真家、イシャイ・ガルバシュの「壁」シリーズが展示された。北アイルランドのピースウォール、韓国の38度線の壁、パレスチナウォール。大判カメラで細部まで捉えられた写真では、ごく普通の住宅街の中に異物のように立つ壁が、鉄条網や「地雷注意」の看板とともに威圧感を与える壁が、写し取られている。北アイルランドのベルファストで撮影された写真では、レンガ作りの住宅のすぐ隣に壁が立ち、その上にフェンスが空高くそびえている。これらの写真は、無人の住宅街や幾何学的な配置が冷たく硬質な印象を与えるが、一方、韓国で撮影された写真では、風景の中に人の気配や痕跡が入り混じり、そのゆるく笑いを誘うような脱力感が、場所の政治性や緊張感を和らげ、あるいは逆説的に増幅させる。軍事境界線の南北に設定されたDMZ(非武装中立地帯)のさらに南側に設定された民間人統制区域内では、防空壕の側に、観光客向けの「撮影スポット」が用意されている。つくりものの鶴とキムチを漬ける壺の背後に描かれた、ペンキの青空。ひなびたハリボテ感と遊園地のような空虚な明るさが、「観光客」向けに用意されたイメージの背後にある政治性を露出させる。一方、北朝鮮との軍事境界線に近い島では、畑の中に場違いな事務イスで「休憩所」がつくられている光景や、過疎化のため打ち捨てられた車の教習所の敷地が唐辛子を干すために無断借用されている光景など、政治的緊張と隣接した中に、日常生活が営まれる場でもあることが示される。そして、道路沿いの草取りしか仕事がない、低所得者の老婦人たちが笑顔で並ぶ写真。国境に近い周縁は、経済的な周縁地域でもある。
境界線を示す「壁」は、物理的な分断、隔離、権力の誇示、攻撃を受けることへの恐怖を体現する。現在の日本には、こうした物理的な「壁」はないが、心理的な境界線はないと言えるだろうか。ここで、展示場所となったBaexong Arts Kyotoの位置する地域が、歴史的にさまざまな差別や抑圧を押し付けられてきたことを考えるならば、本展は、物理的に可視化された「壁」の提示を通して、私たちに内在する見えない「壁」の存在をあぶり出すものであったと言えるだろう。

2016/02/14(日)(高嶋慈)

京都市立芸術大学芸術資源研究センターワークショップ「メディアアートの生と転生──保存修復とアーカイブの諸問題を中心に」

会期:2016/02/14

元・崇仁小学校[京都府]

アーティスト・グループ、「Dumb Type」の中心的メンバーだった古橋悌二が1994年に制作した《LOVERS─永遠の恋人たち─》(以下《LOVERS》と略記)。水平回転する7台のプロジェクターによって4つの壁に映像が投影される本作は、コンピューター・プログラムによる制御や、観客の動きをセンサーが感知するインタラクティビティが組み込まれ、男女のパフォーマーによる映像と音響の作用に全身が包まれる。この作品を、「トレース・エレメンツ」展(東京オペラシティアートギャラリー、2008年)で見た時の静かな衝撃をよく覚えている。
京都市立芸術大学芸術資源研究センターでは、文化庁平成27年度メディア芸術連携促進事業「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復/保存に関するモデル事業」として、《LOVERS》の修復を行なった。修復を手がけたのは、アーティストでDumb Typeメンバーの高谷史郎。修復された《LOVERS》の公開とともに、メディアアートの保存修復やアーカイブ事業に取り組むアーティスト、学芸員、研究者による発表とディスカッションが開催された。
修復を手がけた高谷からは、今回の修復の概要と、メディアアート作品に不可避的に伴うテクノロジーの劣化や機材の故障といった問題にどう対応するかが話された。メディアアートの修復作業とは、あくまでも「その時点での技術的ベスト」の状態であり、オリジナルの状態の復元ではなく、どの要素をキープしてどこを変更するかが問われる。さらに、現時点での「修復」の将来的な劣化を想定する必要がある。今回の修復では、主にプロジェクターを最新機器に交換するとともに、「古橋がこう想像していただろう」と考えられるアイデアルの状態を想定し、デジタル化した元のアナログヴィデオの映像をもとに「次の修復」に備えたシミュレーターの作成が行なわれた。つまり、映像をデータとして解析・数値化することで、今回の修復に関わったスタッフがいなくても、プログラマーが読み込んで再現・検証が可能になるという。
このシミュレーターの役割について、同研究センター所長でアーティストの石原友明は、音楽やダンスにおける「記譜」との共通性を指摘した。また、メディアアーティストの久保田晃弘は、メディアアート作品には、技術の更新とともにアップデート・変容していく新陳代謝的な性質が内在しているという見方を提示した。こうした視点によって、メディアアートの保存修復について、時間芸術や無形文化財の保存・継承のあり方と関連づけて考えることが可能になるとともに、現物保存の原則や「オリジナル」作品概念の見直し、技術や情報をオープンにすることの必要性などが求められる。また、ディスカッションでは、これからの課題として、美術館における作品収集の姿勢の柔軟性、メディアアートの修復技術者の養成、「作品の保存修復」を大学教育で取り組むこと、展示状態の記録や関係者のインタビュー(オーラルヒストリー)を集めることの重要性、といったさまざまな指摘がなされた。
タイムベースト・メディアを用いた美術作品の収集・保存に対して美術館が躊躇していれば、数十年前の作品が見られなくなってしまいかねない。これは、将来の観客の鑑賞機会を奪うだけでなく、検証可能性がなくなることで、批評や研究にとっても大きな損失となる。《LOVERS》の場合、エイズの危機、セクシュアリティ、情報化と身体、個人の身体と政治性といった90年代のアートの重要な主題を担っている。歴史的空白を残さないためにも、アーティスト、技術者、美術館、大学、研究者が連携して保存修復に取り組むことが求められる。
暗闇に浮かび上がる、裸体の男女のパフォーマー。水平のライン上を歩き、走ってきてはターンし、歩みよったふたりの像が重なりあい、あるいは出会うことなく反対方向へ歩き去っていく。両腕を広げ、自分自身の身体を抱きしめるように、あるいは不在の恋人と抱擁するように虚空を抱きしめ、孤独と尊厳を抱えて背後の暗闇に落ちていく。歩行と出会い、すれ違いと抱擁を繰り返す生身の肉体を、2本の垂直線がスキャンするように追いかける。線に添えられた、「fear」と「limit」の文字。生きている身体、その究極の証としての愛が、相手に死をもたらすかもしれないという恐怖。情報と愛という二極に引き裂かれながらも、パフォーマーたちの身体は軽やかな疾走を続けていく。今回の《LOVERS》の公開は、修復作業の設置状態での鑑賞だったため、本来は等身大で投影される映像が約半分のサイズであり、床面へのテクスト投影もなかった。今回の修復を契機に、完全な状態での公開が実現することを願う。

2016/02/14(日)(高嶋慈)

河合政之「natura : data」

会期:2016/02/06~2016/03/19

MORI YU GALLERY KYOTO[京都府]

宇宙空間に輝く星や銀河のように、無数の白い光が暗闇で瞬いている。床に敷かれた白い砂は、凍りついた雪原のように見える。月面に立って星の瞬く宇宙を眺めているような感覚。映像インスタレーション《Calcium Waves》は、美しいが、静寂と死の世界を思わせる。だが実はこの作品には、「カルシウムウェーブ」という、人間の肝臓やすい臓などの分泌細胞内で起こっている現象を光学顕微鏡で捉えた映像が用いられている。床の砂や小石は、炭酸カルシウムの結晶でできた石灰石や大理石だ。
一方、対置された《Video Feedback Configuration》シリーズの作品では、20~30年前の中古のアナログヴィデオ機器が無数のケーブルで接続され、中央のモニターにサイケデリックで抽象的なパターンが生成されている。「ヴィデオ・フィードバック」の手法、すなわちアナログなヴィデオ機器を用いて閉回路システムをつくり、出力された電子信号をもう一度入力へと入れ直し、回路内を信号が循環・暴走する状況を作り出すことで、無限に循環するノイズが偶然に生み出すパターンが、多様な形や色の戯れる画面を自己生成的に生み出していく。それは、極彩色の色彩とあいまって、下から上に吹き上げる生命エネルギーの噴出のようだ。また、箱の中に収められ、絡み合うコードに繋がれた機器は、血管や神経で接続され、人工的に培養された臓器のようにも見えてくる。それらが、もう製造されていない古いアナログヴィデオ機器であることを考えれば、技術の進展とともに古びて「死」へ向かう旧メディアを、つかの間「延命」させる装置であるとも言えるだろう。
無機質で生命のない世界に見えたものが、実はヒトの体内細胞の現象であり、有機的に見えたものが電子的なノイズである、という逆転。河合政之は、電子信号/生体反応という違いはあれ、微細なパルスを拾ってデータとして可視化することで、無機と有機の世界を架橋し、「データの交通」という共通性のもとに捉えてみせる。その手つきは、データの観測・認識という科学的手法を取りながら、絶対的で単一の客観性へと向かうのではなく、可視化された世界を微分し、私たちの認識を複数性へと開いていく。普段は意識すらされない体内の生体反応も、「意味の世界」として受容している映像も、その表層を剥いだ下には、見えていないだけで微少なデータの波や流れが行き交っているのだ。


河合政之《Calcium Waves》
©Masayuki Kawai photo:Kenryu Tanaka
Courtesy of MORI YU GALLERY


河合政之《Video Feedback Configuration no.5(Fudo-myo-o)》
©Masayuki Kawai photo:Kenryu Tanaka
Courtesy of MORI YU GALLERY

2016/02/07(日)(高嶋慈)