artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

stereotypical:西山美なコ・川内理香子展

会期:2016/01/26~2016/02/07

Gallery PARC[京都府]

西山美なコと川内理香子による二人展。川内の平面作品では、即興的な鉛筆の線で描かれたラフな人体の一部が生肉のように赤黒く着色され、性器を思わせる肉の割れ目や突起が、よく見るとグロテスクな人の顔になっている。肉を食べることと、相手の肉体の一部を体内に取り込む/取り込まれること。食べることとエロスの同質性。乾いた筆致のなかに、性器が顔と人格をもってしゃべり出し、相手の肉を食いちぎるかのような、性的な妄想が描き出される。
西山美なコは、シュガーペーストでつくったピンクのバラの花を2ヶ月半放置し、空気中の湿気で次第に溶けていく過程を写真に収めた。実際のインスタレーション作品《~melting dream~》は、2014年の「六甲ミーツ・アート芸術散歩2014」で展示されている。森の中のガラスの温室内に、結婚式の披露宴のような豪華なテーブルセッティングがなされ、ファンシーな色彩のバラが、ウェディングケーキのようにこぼれんばかりに盛り付けられている。しかし時間の経過とともに、腐りかけの生肉のように水滴を滴らせ、腐臭の代わりに甘美な砂糖の匂いを漂わせながら、グロテスクに溶け合って色が混濁していく。西山は、ピンクという色彩、「女性への贈り物」を連想させるバラの花、披露宴の演出スタイルといった要素を組み合わせ、砂糖でできたバラが溶けていく様子を見せることで、「幸せな結婚」「幸せな花嫁」という甘い幻想やステレオタイプが儚く溶けていく過程を、甘美にしてグロテスクに出現させている。

2016/02/07(日)(高嶋慈)

作家ドラフト2016 近藤愛助 BARBARA DARLINg

会期:2016/02/02~2016/02/28

京都芸術センター[京都府]

「作家ドラフト」は、若手アーティストの発掘・支援を目的に、隔年開催される京都芸術センターの公募企画。アーティスト、建築家、劇作家・演出家など、各分野で活躍する表現者1名によって、提出された展示プランの審査が行なわれる。今回の審査員は小沢剛で、近藤愛助とBARBARA DARLINgのプランが選出された。本評では、プロブレマティックにして秀逸なBARBARA DARLINgの映像作品《BETWEEN #01》についてレビューする。
《BETWEEN #01》は、1組のカップルが、東京・新宿から、本州最北端に位置する青森・大間崎までの海岸沿いをドライブする旅を撮影し、「愛している」以外のふたりの会話を削除して編集した映像作品であり、上映時間は約10時間に及ぶ。彼らが通過する地点は、一時間ごとのタイムスケジュールとして記され、「10:00 東京都新宿区」から始まり、「11:00 福島県双葉郡楢葉町」といった原発周辺地域を通過し、「14:00 宮城県牡鹿郡女川町」「15:00 岩手県陸前高田市気仙町」「16:00岩手県下閉伊郡山田町」といった津波の被災地を経て、青森県へと北上する。
壁面いっぱいに投影される映像は、「ロードムービー」という(青春)映画の形式を借りながら、しかし、劇的な出来事は一切起こらない。後部座席に固定されたカメラは、フロントガラス越しに流れていく道路と沿線の風景を淡々と捉え、カーナビ画面とハンドルを握る手が映るだけで、運転席と助手席の人影はほとんど映らない。時折、サイドウィンドウからの映像に切り替わり、下車したふたりがタバコを吸って休憩したりする場面が挟まれるが、遠景からのショットのため、表情も不明で会話も聞こえない。つまりここに映し出されているのは、ドラマの圧倒的な不在であり、全編を通して見ることがほぼ不可能な長尺の「上映時間」が、見続けていても「特に何も起こらない」退屈な時間を引き延ばしていく。
全てを見続けることが苦痛を強いるほどの、上映時間の長尺さと退屈さ。それは、「物語」として消費されることへの抵抗であるとともに、5年前は多くの救急車両が行き交い、冠水や地割れで分断された道が、今や「ロードムービー」が撮れるほどになった、その平和な忘却の明るさを映し出す。ドラマの圧倒的な不在は、「もしかすると、見られなかった他の時間帯では何か出来事が起きているかもしれない」という期待を抱かせ、「目の前で今起きていること」よりも、「ここで起こらなかったこと」へと意識・想像を向かわせる。しかしそれが、スクリーンの表面を流れていく、更地になった土地や復興工事の現場と伴走するとき、かつて「ここで起きたこと」の想起へと、反転してねじれを伴いながら差し戻されていくのだ。
しかし車中のカップルは外の風景に無関心で、微温的な空気だけが覆っていく。《BETWEEN #01》の「主人公」たちは、1960年代~70年代のアメリカン・ニューシネマの主人公たちの逃避行のように、ロックカルチャーやドラッグカルチャーとも関わりながら、自由や性の謳歌、暴力的行為を通して、社会制度への反抗を表わしているわけではない。彼らが下車したときだけ、海岸の波の音や通り過ぎる車の音が聴こえるが、映像の大半を占める「車内」は無音であり、「外部」から完全に遮断された空間であることを示す。つまり、「外」の風景に関心を示さず、車の中という居心地よく密閉された個人的空間にいるカップルは、震災と原発事故を忘却しつつある今の日本社会の鏡像である。そう、この「ロードムービー」は、震災以降という「現実」からの逃避行なのだ。そこでは、恋人という親密な関係や「車内」という空間のプライベート性/震災という出来事の社会性、恋人どうしの旅というフィクション/風景の記録としてのドキュメントといった界面が衝突し、裂け目を露わにしている。
また、機械的に淡々と車窓の風景を映し取っていくカメラは、Googleストリートビューの撮影車の存在を想起させる。その風景が「普通の住宅地」であろうと「被災地」であろうと、データを集めるだけのカメラにとっては変わりない。「通行可能な道」として視覚化し、シームレスに連続したものとして平坦化し、所有しようとする欲望。それを、パソコンや携帯電話の画面上に「開いた窓」として召喚し、部屋にいながらでも「車窓の風景」のように楽しみ消費することができてしまう私たちの視覚環境や映像メディアについての批評としても、本作は機能していた。

2016/02/07(日)(高嶋慈)

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碓井ゆい「SPECULUM」

会期:2016/01/20~2016/02/20

studio J[大阪府]

鏡に自分の姿を映す。それは、自分の存在を視覚的に認識する手段のひとつだ。そして「わたし」という言葉は、言語による認識である。碓井ゆいは、視覚と言語による自己認識を奇妙なかたちで入れ替え、美しく親密な作品のなかに閉じ込めてみせる。壁に掛けられた数十個の、陶製のフレームの手鏡。淡い色彩で彩色され、手製のいびつな形の一つひとつには、世界中のさまざまな言語で「わたし」を指す言葉がエッチングで記されている。ただし、左右反転した「鏡像」として。日本語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ハングル、タイ語、アラビア文字……。何語か判別できない文字もある。パールがかった、淡く輝く表面の上に、たくさんの「わたし」が映っている。だが、鏡に映った「わたし」の像は、常に歪みやひずみをはらみ、他者の承認がなければ、「わたし」は空虚な記号でしかない。碓井のインスタレーションは、自己認識やアイデンティティの危うさを問いかける。
碓井の過去作品《empty names》は、従軍慰安婦に付けられていた「日本語の名前」を、美しい字体でラベルに記して香水瓶に貼りつけた作品である。手鏡と同様、香水瓶もまた女性の身だしなみに関わる持ち物であり、曲線的な瓶のボディラインは、しばしば女性の身体と同一視されてきた。そこに、他者から押し付けられた「日本語の名前」をまさに「レッテル」として貼りつけることで、男性から女性への、そして植民地への二重化された支配関係をあぶり出す。決して声高でなく、美しい碓井の作品は、親密さのなかにこそ政治性が宿ることをそっと差し出してみせるのだ。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

烏丸ストロークロック『国道、業火、背高泡立草』

会期:2016/02/06~2016/02/07

AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)[兵庫県]

共通のテーマや登場人物を扱った短編作品の上演を数年にわたって積み重ね、長編作品へと集成させる創作形態をとる劇団、烏丸ストロークロック。本作も、互いに関連する短編の上演を2010年から積み上げてきた集大成的な作品であり、約2時間半にわたって、テンポのよい関西弁による会話劇が展開される。
舞台は、国道沿いの架空の町、「大栄町」。高度経済成長期に地元出身の国会議員の土木利権で繁栄した町だが、バブルの崩壊後、政治家の死とともに経済基盤や活気を失っている。そこへ、20年前に山火事を起こして町から追放されるように去った男、「大川祐吉」が突然帰ってくる。前半では、「ビンボーのユーキチ」と呼ばれ、忌み嫌われている男の帰還にとまどう住民たちの姿を通して、彼の過去が次第に明らかになっていく。正方形の枠で囲まれた舞台装置が秀逸だ。それは、スーツケースを引きずる主人公がグルグルとあてどなく歩く国道になるとともに、閉塞感で閉ざされた町や出口のない状況を象徴する。また、床との「段差」は、それぞれに身を置く登場人物どうしの力関係や優越感を示す。火事の焼け跡に、寂れた風景の中に生い茂り、風に揺れる「背高泡立草」。それは、戦後日本の象徴として作中で言及される。終戦後、アメリカから渡来した背高泡立草は、アメリカの庇護の下での経済発展とともに大繁殖するが、根に毒があるため、50年後、60年後には自らの毒で弱っていき、自滅の道をたどるというのだ。また、タイトルのもうひとつの単語、「業火」は、劇中の「火事」と「業(ごう)」の両方を意味する。登場人物はみな、何かしらの業を背負い、地方の疲弊を体現する人物として描かれる。助成金や補助金頼みの地方の経済、派遣切り、若者の貧困、離婚やアルコール中毒、親の介護、痴呆、右翼の活動家、カネと性への執着……。息苦しいまでに閉塞した現代の日本社会の縮図ともいえる地方の小さな町が、現在と過去を行き来しながら描かれる。
後半では、町に帰ってきた「祐吉」の目論みが、人々を巻き込んで展開する。マルチ商法で金持ちになった「祐吉」は、町の人々に金儲けのプロデュースを行なう。離婚してアル中になった中年の男が、会えない娘を想って彫った稚拙な木彫りの人形を、「ここには本物の心がある」と評価し、商品化に乗り出す。新規就農者に支給される補助金で暮らすヤンキーの若者や、地元再生を期待されて町議選に出馬する元国会議員の娘といった人物を巻きこみながら。同時に、彼の台詞が急に宗教・説教臭くなっていく。「売るものに魂を込めているか」「どうすれば(資本主義のシステムから)自由になれるのか」「父親になるんだから、自分で考えろ。それが自由だ」といった具合だ。だが、木彫りの量産を頼まれた中年の男は、「つくる度に娘への想いが軽くなっていく」「娘が欲しがるものを買ってやって、これ以上何をしてやれるのか」と疲弊していく。そして、大人のオモチャとの「コラボ」を勝手に進めた若者に「祐吉」は激怒し、悲喜劇の終盤を迎える。
彼の語る言葉の「胡散臭さ」を強調することで、「資本主義の価値観が元凶」というメッセージは非常に分かりやすく提示される。ラストで「祐吉」は、どんなにカネがあっても「たった1人の母親さえも幸せに出来なかった」ことに絶望し、首吊り自殺を図るが死にきれず、高校時代の元恋人の手で縄を絞められる。しかし、皆が退場したあと、彼はゆっくり起き上がり、再びスーツケースを引いて歩き去っていくのだ。「祐吉」という「亡霊」は再び何度でもよみがえることが示唆される。それは、戦後日本の資本主義社会が罹患した病である。
だが、ストレートな資本主義社会批判だけが本作の主題だろうか。むしろ真の主題は、親=先行世代から否応なしに背負わされた負の遺産という構造にあるのではないか。それはメインの登場人物3人に仮託されている。分かりやすいのが、「祐吉」の元恋人が、彼の首を絞めるラストシーンで歌う軍歌だ。この軍歌は、寝たきりで痴呆になった父親を彼女が絞め殺すシーンでも歌われていた。彼女の父親は、元右翼の活動家であり、家に街宣車や日の丸の旗があったと話されていたので、父親が歌っていた軍歌を物心つく前から聴いて覚えてしまい、感情が高ぶると口をついて出てしまうのだろう。「いざ行け つわもの 日本男児」のリフレイン。その回帰性は、親=先行世代から背負わされた負の重荷を象徴する。「カネさえあれば豊かで幸せになれる」という「祐吉」の幻想は、母子家庭に育った貧困から来ており、元国会議員の娘は「私たちは親の世代のツケを払わされている」と冷静に自覚しつつも、資金集めに奔走する。個人が親から背負わされてしまうものと、社会が前の時代から受け継ぐ重荷や保守的な価値観。群像劇という手法で重層的な構造を描いた力作だった。

2016/02/06(土)(高嶋慈)

プレビュー:マレビトの会『長崎を上演する』

会期:2016/03/26~2016/03/27

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

マレビトの会は、「ヒロシマ─ナガサキ」シリーズ(2009-2010年:『声紋都市──父への手紙』、『PARK CITY』、『HIROSHIMA─HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』)、『マレビト・ライブ N市民──緑下家の物語』(2011)、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)といった近年の一連の作品において、集団制作を重視しながら、出演者自身の経験の「報告」、俳優の身体を展示するという「展覧会形式」での上演、現実の街中での上演、東京から福島へ移動を続けながらの上演、さらにはその旅の記録や上演告知をSNSなどネット上のメディアを介して発信するなど、実験的な試みを続けてきた。そこでは、都市という空間の生成、俳優の身体性、言葉の帰属、「出来事」の再現/共有不可能性、被爆地への眼差し、可視的なイメージの生成への抵抗、といったさまざまな問題が演劇的原理への問い直しとともに思考されてきた。
そして2013年からは、新たな長期的な演劇プロジェクトに取り組んでいる。長崎という都市のテーマに複数の作者が取り組み、現地取材、戯曲執筆、舞台上演を複数年にまたがって継続して行なうというプロジェクトである。2015年8月には、国内各地に住む7名の作者が執筆した戯曲20本(上演時間約7時間)が総集編として3日間にわたり上演された。今回の愛知公演では、これらから選んだいくつかの戯曲に、ドイツからの新たな参加者が長崎取材を経て書き下ろした戯曲を加え、2日間にわけて上演が行なわれる。複数の眼差しの視差の中に、さらに異化するような視点を加えることで、どのような手触りをもった都市の相貌が立ち現われるだろうか。

2016/01/31(日)(高嶋慈)