artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

THE COPY TRAVELERS exhibition「ストーブリーグ2016」

会期:2016/01/15~2016/02/01

Division、VOU[京都府]

京都を拠点に活動する若手作家、上田良、迫鉄平、加納俊輔によるユニット「THE COPY TRAVELERS」。ユニット名に「COPY」と冠されているように、カメラやコピー機、スキャナーといった複製装置を用いて、既成のイメージを再利用したコラージュを「複製」する行為を作品化している。
彼らの活動は、「コピー」、「コラージュ」、「共同作業(コレクティブ)」という、三つの軸から考えることができる。風景写真やグラビアアイドルの写真、布やベニヤ板の一部など、種々雑多な素材が切り抜かれてコラージュされ、コピー機にかけられて、一枚の平面として提示される。暴力的で視認不可能なほど切り刻まれ、接合された画像の群れに、記号化されたマンガのようなドローイング(上田)が描き重ねられる。また、切り抜かれていない一枚の写真や立て看板が画面内にしばしば写され、撮影されたものの再撮影という反復性とともに、画中画のような入れ子構造を形づくる。この入れ子構造は、平面作品の画面中央に、写真の額装マットのような矩形のフレームが切り抜かれ、その「窓」の中に別のイメージがはめ込まれていることと対応している。この「窓」は、カメラのフレームやPCモニター上のウィンドウといった視覚の制度を示唆する。
切り刻み、接合し、穴や切れ目にねじ込み、重ね合わせ、押し付ける。可塑性のあるものとしてイメージを扱う手つきは、フォトショップなど画像加工ソフトによって画像の編集が容易になった時代的感性だ。ではなぜ、コピー機というアナログな装置が用いられているのか。それは、コラージュされた素材の重なり合いが、表面のみ機械的にスキャンされることで、瞬時にして一枚の平らな画面に変換されるからだろう(この平面への「圧縮」という性質は、例えば、シールやテープの貼られたベニヤ板の写真を、実物のベニヤ板の表面に貼り、物理的な表面とレイヤーの乖離によって認識を混乱させる加納作品と通底している)。加えてコピー機の場合、完全にはコントロール不可能なノイズの混入という即興性がある。影の写り込み、押し付けた布や紙の皺、ビニールの反射、手を動かしたときのブレや歪み……。いわば彼らは、DJが次々とレコードを取り替えながら、スクラッチによってノイズ混じりの新たな音を即興的に生成させていくように、不鮮明化、皺、反射光や影といった情報の変形を加えながら、コピー台の上で次々とイメージを編集していくのだ。

2016/01/24(日)(高嶋慈)

《Showing》03 映像 伊藤高志 マルチプロジェクション舞台作品『三人の女』

会期:2016/01/23~2016/01/24

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

「『公演』における各要素の中で、複製技術を持つメディア(音、写真、映像など)を取り上げ、それぞれの視点から劇場へと向かう創作を試みる」《Showing》シリーズの第3弾。伊藤高志は、80年代以降、静止画のコマ撮りによる魔術的なアニメーション作品など、実験映画の制作を行なってきた。本公演は、「マルチプロジェクションの映画」を舞台空間において「上映」し、観客の身体と地続きの空間で起こる「出来事」を侵入させることで、映像インスタレーション/映画の文法/演劇の境界を溶解させるとともに、記憶(記録)の再生/出来事の一回性、複製可能性/「いまここ」の唯一性、複数のスクリーン間で連動・分裂した表象/生身の身体性、といったさまざまな対立項の間を行き来する磁場を立ち上げていた。
舞台上には、3枚の巨大なスクリーンが、三面鏡のように角度をつけて、間隔を隔てて設置されている。無人の舞台の中央には、一枚のワンピースが吊り下げられている。そして3面のスクリーンでは、同一のシーンが異なるアングルで分割して映し出され、時に同期しながら、3人の若い女性の物語を紡いでいく。彼女たちは大学の映像学科の学生である。
冒頭、劇中劇の撮影シーンが挿入されるように、終始無言で演じられるシーンは、劇的な予感に満ちている。カメラを通した窃視、相手を求める手、情事、そして仄めかされる死。台詞が一切なく、カット割りや視線の動き、音響効果だけで物語を進行させる方法は、映画の文法を高純度に抽出してみせている。それは、視線の動きや抑制された身振りだけで登場人物の心情を思い描く余白を与えるとともに、愛らしいバラの形の補聴器を耳に付けた女性の生きる世界を暗示する。
彼女はもう1人の女の子と付き合っていて、屋上や公園で、スキンシップのようにカメラを向けられる。3人目の女の子はそんな2人に友人として接しつつも、補聴器の女性に魅かれている。戯れる2人の傍らでひとり空にカメラを向け、地面をフロッタージュし、マイクで地面や水の音を採取し、自分の脈動を録音し続け、映画の制作に打ち込む。最後に、この世にはもういないはずの「彼女」の手が一瞬だけ優しく触れる、そんな幻覚とともに深い森の中に取り残されて映像は終わる。
しかし次の瞬間、映像内にいたこの女の子が舞台上に現れ、虚実が反転する。彼女は、物語の中で撮られていた16ミリフィルムを映写機にかけて私たち観客とともに鑑賞し、闇の中へ去っていく。映像内の世界が「現実の」舞台空間上に転移して現れ、観客の身体と地続きの空間へと侵入し、物語内で撮られていた16ミリが実際に「再生」される一方で、肉体の不在感を喚起する吊られたワンピースは、物語の中で身に付けられている。いくつもの入れ子構造の絡まり合いとともに、マルチスクリーンの映像インスタレーション、文法としての映画、演劇、といった弁別がハイブリッドに混淆していく。
カメラを手にした窃視者、見る者と見られる者、女の子同士の恋愛感情、死や自殺へ向かう願望、あてどない徘徊、亡霊の出現といった要素は、『めまい』『静かな一日・完全版』『最後の天使』といった2000年代以降の映画作品の流れを組むが、複数のスクリーンの配置による空間性や演劇の現前性を組み込むことで、より厚みを増した複雑な体感世界が構築されていた。

2016/01/23(土)(高嶋慈)

高谷史郎『ST/LL』

会期:2016/01/23~2016/01/24

滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール[滋賀県]

薄暗い舞台上には、奥へ伸びる細長いテーブルと、縦長の巨大なスクリーン。ワイヤーで吊られたカメラがするすると下りてきて、テーブル上に置かれた空っぽの皿、カトラリー、ワイングラスをスクリーン上に映し出す。still=静物画。リンゴの赤だけが妖しく光る。向かい合った2人の女性が、食事をする仕草を厳かに始める。一方が片方の鏡像のように、左右対称でシンメトリックな動き。背後のスクリーンの映像も、垂直方向に反映像を生み出す。だがパフォーマーが動いた瞬間、広がった波紋がそこに亀裂を入れる。鏡のように見えたそれは、じつは浅く水の張られた水面だったのだ。テーブルに置かれた食器類やテーブル上で横たわって蠢くパフォーマーの身体は、スクリーンに映し出され、さらに水面=鏡に反映し、幾重にも分裂・増殖していく。
別のシーンでは、走り回り、くるくると旋回するパフォーマーたちの身体は、照明の効果によって影のように黒く浮かび上がり、あるいはスクリーンに影絵のシルエットを映しながら、虚と実の世界を目まぐるしく交替し、現実のスケール感や実在感を失っていく。光と影だけのモノクロームの世界への圧縮。鏡のように澄みきった水面の上で静止(still)した世界では、どちらがリアルでどちらが虚の世界かわからない。空っぽのお皿から晩餐を食べるフリをする冒頭のシーンのように、「そこにないはずのものが『ある』」「あるはずのものが『ない』」、その境界が曖昧になっていく。
アイヌ語の子守歌が歌われる中、ライトの森が星空のように降ってくる。紙片が雪のひとひらか花びらのように撒かれ、ゆっくりと宙を漂い、暗い水面を砕けた流氷の浮かぶ海面に変えていく。映像の中で食器やカトラリーが落下し、ワイングラスが粉々に割れる。破滅的な予感の中で、ダンサーは時に影となり実体を曖昧にさせながら、周囲を旋回するカメラと見えないデュオを踊り、やがて日蝕が訪れ、すべてが闇に包まれた後、崩壊の後のかすかな予感を思わせる光が射し込んで幕を閉じる。
明確な筋はないが、完璧に制御された映像と照明と音楽によって、美しい白昼夢のような断片的なシーンが次々と連なっていく。水面がもうひとつの世界を出現させ、パシャパシャという水しぶきが覚醒の音を淡く響かせながら、波紋がどこまでも広がっていき、すべては明晰に覚めた夢。

2016/01/23(土)(高嶋慈)

小森はるか+瀬尾夏美 巡回展「波のした、土のうえ」in神戸

会期:2016/01/09~2016/01/31

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]

映像作家の小森はるかと画家・作家の瀬尾夏美は、震災を契機として2011年4月に東北の沿岸部を訪れ、翌年春には岩手県の陸前高田市に移り住み、その土地で暮らし、人々の声に耳を傾けながら制作を続けてきた。展示会場には、ドローイングやペインティング/写真/テクストが緩やかに関連し合うように配置され、伸びやかな線や鮮やかな色彩で描かれたドローイングやペインティングが視線を方向づけ、傍らに添えられた言葉が、一見シンプルで明るいそれらに重層性を与える。日付が記されたテクストには、震災後の陸前高田に暮らす人々から聞き取った言葉や自分自身の内省的な言葉が記され、住民やこの土地との距離を測りながら、誠実に言葉が紡がれている。巨大なさみしさについて、忘れることと記憶について、表現者としての自覚や葛藤について、「新しい地面」をつくる復興工事によって見えなくなってしまうものについて。
さまざまな角度から陸前高田の風景を描く瀬尾のペインティングは、フラットな色面やストロークで簡略化された構成の中に、鮮やかな色彩が目を引く。緑やブルーの中に、黄色、赤、オレンジ、ピンク、紫……。山並みに囲まれ、建物のなくなった平らな土地。「こんな大変なことがあって辛い時なのに、普段は気にもとめていなかった日々の情景のあれこれをかえって思い出す」という、ある女性の言葉がある。「自分たちには馴染みのない町、何もかも失ってしまった町が、かつての日常の記憶が語られることで鮮やかに色づいて見えた」と瀬尾は記す。また、「切り花を供えても枯れてしまうのが悲しいから、代わりに花畑を作りたい。花とともにここにもう一度、色を与えたい」という女性の活動は、小森のドキュメンタリーにも丁寧に映しとられている。瀬尾のペインティングの鮮やかな色は、語られた記憶が宿す色彩、実際に風景を彩った花畑、その双方の彩りでもある。だが、ドキュメンタリーに記録されているように、地元の女性たちやボランティアの若者の協力によって出現した花畑は、土地の再生事業により埋め立てられることが決まり、花束として受け取った人たちの、再び記憶の中だけの存在となる。
津波で波の下に失われたもの、更地になったむき出しの土地と、山を切り崩した土で市街地をかさ上げする「復興工事」。その埋め立てによる土地の更新は、もうひとつの喪失を意味する。自然の不可抗力による、抗うことのできない「喪失」と、計画的な事業による人為的な「喪失」。「波のした、土のうえ」という詩情さえ漂うタイトルは、その二つの「喪失」の狭間の時間にこの土地で起こった出来事──色とりどりの花畑の出現、改めて言葉にして語られた記憶、生活と結びついた、その手触りや色合い──によって、一時的だが色づきを取り戻した時間をいうのだろう。だがそれもまた、復興事業の進展や離散によって遠からず失われていくことがわかっている。アーティストにできることがあるならば、そのままでは失われていく土地の声、人々の声に寄り添い記録として残すことではないだろうか。瀬尾と小森は、心象風景の絵画化と客観的なドキュメンタリーという、対照的な方法論によって、それぞれのやり方でその困難な試みを引き受けようとしている。
彼女たちの試みはまた、(それ自体は不可視な)他者の記憶を内在させたものとして目の前の風景を捉えようとすること、その豊かさや複雑さへと想像力を抱いて風景を眼差すことを要請している。それは、新たな風景論の希望としての切り口を開いている。

2016/01/10(日)(高嶋慈)

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パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』『真珠のボタン』

会期:2015/12/19~2016/01/08

第七藝術劇場[大阪府]

乾燥した砂漠の大地と、豊かな水をたたえた海。対照的な二つの自然を舞台に、宇宙の始原への探究と砂漠の下に隠蔽された現代史、先住民の抑圧と独裁政権下での虐殺、といった時を超えたエピソードが交差し、チリの複雑な歴史が映像詩として語られる。ドキュメンタリー映画だが、政治的告発と大自然の映像美が稀有な共存を見せ、そこに内省的な思索の言葉が綴られていく。
『光のノスタルジア』の舞台は、チリ北部のアタカマ砂漠。標高が高く、極端に乾燥した気候のため、世界中の天文学者が集まる天文観測拠点となっている。火星のような褐色の大地の中に立ち並ぶ、SF映画のような巨大なドーム型の天文台。いっぽうでそこには、先史時代の壁画やミイラ、19世紀の鉱山労働者たちの宿舎や工場、軍事独裁政権時代の収容所など、古代から現代にいたるさまざまな歴史の痕跡が残されている。「天文学者が受け取る星の光は、遠い過去のものだ。過去の光を見つめることで、宇宙と生命の起源に一歩近づく。アタカマ砂漠は最も過去に近い場所だ」と言う天文学者。「だがこの国は、最も近い自国の過去を見ようとしない」とグスマン監督は指摘する。宇宙と生命の起源を求めて遥かな空に巨大望遠鏡を向ける天文学者たちの傍らで、砂漠のどこかに埋められた肉親の遺骨を探して、30年近くもシャベルで地面を掘り返す女性たちがいる。軍事独裁政権時代、政治犯として収容所に送られ虐殺された人々は、「行方不明者」のままだ。「天体望遠鏡で地上を見渡せればいいのに。砂漠中をくまなく探せるように」と女性の一人は語る。彼女たちが天文台の中で望遠鏡をのぞき、星を見るラストのシーンはあまりに美しい。無限遠の過去への眼差しと、地中深く隠蔽された近過去への眼差しが交差し、星くずのような煌めきが微笑む2人の姿に重なり合う。
『真珠のボタン』では、灼熱の砂漠とは対照的に、チリ最南端の氷河の山並みと海が舞台となり、「水の記憶」によって歴史の忘却に抗う声が紡がれていく。タイトルの「真珠のボタン」は、植民地時代のインディオへの抑圧、軍事独裁政権時代に海に棄てられた遺体、という二つの記憶を結びつける。19世紀、「文明化」するためにイギリスに連れていかれたインディオの男は、真珠のボタンと引き換えに故郷・言語・アイデンティティをすべて奪われる。その後、入植者たちによって開始される凄惨な「インディオ狩り」。いっぽう、海底から発見されたレールに付着していた「真珠のボタン」は、遺体が重しのレールとともに海中に棄てられていたことの証となる。驚くべき符合で重なる二つの「真珠のボタン」、それは絶対化されたイデオロギーによる一方的な簒奪のメタファーである。
2作とも、静かな告発の中の映像美に加えて、音響の美しさも際立っていた。砂漠にある廃墟化した収容所跡に残された、錆びたスプーンが風鈴のように風に揺られて、鐘の音のようなハーモニーを奏でる。インディオの末裔から「水の言葉」を習った人類学者は、モンゴルのホーミーの倍音のように、同時に複数の高低の音を響かせる。自然の中に朽ちていく人為の残響と、人間が自然から受け取った豊穣な響きは、そこに孕まれた記憶に耳を傾けるように促していた。

2016/01/07(木)(高嶋慈)