artscapeレビュー
居留守『不快なものに触れる』
2022年05月15日号
会期:2022/04/22~2022/04/24
THEATRE E9 KYOTO[京都府]
小劇場THEATRE E9 KYOTO、京都舞台芸術協会、大阪現代舞台芸術協会(DIVE)の協働事業として開催されたショーケース企画「Continue 2022」。京都と大阪の若手・中堅の3団体が上演を行なった。本稿ではそのうち、居留守『不快なものに触れる』に絞って取り上げる。
演出家・山崎恭子の個人ユニットである居留守は、小説や評論など戯曲以外のテクストの引用・コラージュをベースに、インスタレーション的な舞台美術と俳優の身体表現によって演劇を立ち上げる試みを行なってきた。本公演は、2021年3月に初演された『不快なものに触れる』のリクリエーションである。筆者は初演版を実見しているが、上演テクストと舞台美術が大きく変更された。コロナ禍が始まって数カ月後の初演版では、災害時などに身体の保温や防風・防水に用いられるエマージェンシーシートという素材で「家=シェルター」が作られ、中盤以降はパフォーマーがその中からモニター越しに発話する点が大きな特徴だった。リクリエーション版では、この「家=シェルター」をなくしてシンプルに削ぎ落とすことで、「両眼のアップを映し出すスマートフォン」という仕掛けの多義性がより鮮明に浮かび上がったと思う。
冒頭、3名のパフォーマーが登場し、三脚を組み立て、両眼の高さの位置にスマートフォンをセットする。観客に向けられた液晶画面には、3名それぞれの両眼のアップが映し出される。パフォーマーはちょうど眼の位置が重なるようにスマートフォンの後ろに立って発話するため、「両眼を隠された匿名性/凝視する眼差し」という奇妙な両義性が同居する。彼らが次々に口にするのは、美容、アンチエイジング、ダイエット、英会話アプリ、ゲームアプリで副業、不安を解消し成功に導くメンタルメソッドなど、さまざまなネット広告の謳い文句だ。「ズボラ女子の私が1カ月でマイナス20kg!」「大学生に間違われる48歳、浮気を疑う夫が続出!」「今すぐ友だち登録で無料!」……。次々と広告が表示され続けるスマートフォン画面を追うようにキョロキョロとせわしなく動く眼。それは、発話主体が曖昧であるにもかかわらず、私たちに強力に注がれる消費資本主義の監視の眼差しであり、「幸福度」「他者からの承認」を競い合うSNSの相互監視網であり、「目指すべき理想像」を演じようとする仮面的自己である。同時に、上演のメタレベルでは、この「観客を見つめ返す眼」が視線の非対称性を反転させ、私たちも監視網から逃れられない存在であることを居心地悪さとともに突きつける。
やがて発話内容は、溢れる広告やSNSに対する反省的思考へと移る。コンプレックスを刺激し自己嫌悪をあおる広告に自分の身体を明け渡してしまい、もはや身体が自分のものだと言えないこと。自分が食べたいからそのメニューを選んだのか、SNSに投稿したいから選んだのかわからなくなり、欲望をコントロールされないようにSNSの投稿を止めたこと。自己承認欲求を満たすためにSNSに書き込むのではなく、友人たちに直接会って人生の転機を伝えたいこと。パフォーマーたちは後ずさって「監視の眼=仮面的自己」から身を引き剥がし、スマートフォンに拘束された窮屈な身体を脱しようともがき、監視と支配に対する抵抗の身振りを示すが、何度も引力圏に引き戻されてしまう。
後半、パフォーマーたちが語る姿は、スマートフォンの動画撮影を介してスクリーンに入れ子状に映し出される。主体的な意志表示のためのツールに変えようという姿勢が示される一方、観客に直に向き合って言葉を届けるのではなく、スマートフォンが介在したままであり、「映像と生身の身体のズレ、分裂、多重化」を示して両義的だ。
そして、「質問回答を操作する認知バイアス」「自分の容姿の自信に対する内閣府の調査結果」についての言説を挟み、「女の子らしさ」の枠組みを押し付ける社会構造への疑問を経て、ラストシーンでは、パフォーマーそれぞれが、他者に押し付けられたものではない、「自分にとっての幸せ」を観客に対面して語る。さまざまなテクストのコラージュを経て、自分自身の言葉を取り戻そうとする道程。語り終えたあと、最後に1台残ったスマートフォンの画面をそっと消して「見開いたままの眼を閉じさせる」パフォーマーの仕草は、「消灯」とは裏腹に、小さな希求を灯すように見えた。
2022/04/23(土)(高嶋慈)