artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示

会期:2021/02/06~2021/02/28

京都伝統産業ミュージアム 企画展示室[京都府]

19 世紀後半から 20 世紀前半、欧米帝国主義諸国で華やかに開催された万国博覧会。そこで、植民地を含むアジアやアフリカなど非欧米圏の人々や先住民が、「○○村」と呼ばれるネイティブ・ヴィレッジやパビリオン内に「再現」した住環境のなかで、日常生活や歌や踊りを見せる「人間の展示」が行なわれていた。本展は、写真と絵はがきを中心に、版画、ポスター、パンフレット、新聞や雑誌の挿絵など「イメージの流通」を示す約1500点の膨大な資料群によって、多角的な問いを照射する。企画はキュレーター・映像作家の小原真史。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


近代を駆動させるさまざまな欲望と、いかに視覚が結び付いているか。いかに眼差しが権力性と結び付いているか。本展は、他者をイメージとして領有する欲望を、圧倒的な物量で解き明かす。最先端の産業の精華を示す製品が並ぶ万博会場が、照明やガラスの魔術的な効果とともに百貨店のショーウィンドーに継承され、「万博の常態化」として消費の欲望を喚起し、資本主義を支える装置として機能すること。「タヒチの純粋な大地」に憧れたゴーギャンや黒人芸術に影響を受けたキュビスム、ジャワの音階を取り入れたドビュッシーなど、モダニズムを内部で駆動させるエキゾチシズムの共犯関係。人類学や進化論といった学問は、非欧米圏の人々や先住民を、身体的特徴による計測と分類の対象として扱い、「動物から人間への進歩」を示す序列化を行なった。そうした学術的根拠は、「文明と未開」の構図を示しつつ、「野蛮な自然状態から啓蒙へ導く」シナリオとして、植民地主義に合理的正当性を与えた。また、肥大した臀部と性器を持つアフリカ人女性が生前は「見世物」となり、死後は標本化されたように、女性の官能的なパフォーマンスが博覧会につきものとなり、「性に奔放な非欧米圏の女性」という(白人男性にとって都合のよい)イメージが流通し強化されていく。そしてこれらを支えたのが、出演者たちの長距離移動と観客の大量動員をともに可能にする交通網の発達と、イメージをより遠くへ大量に伝達する写真技術というテクノロジーの両輪である。「魅惑的な異国」への入口として、(しばしば誇張されて正確性を欠いた)各地の建築物の特徴をあしらった「ゲート」は、ディズニーランドなど娯楽的なテーマパークに引き継がれ、「異国の旅人」となった観客が、絵はがきや立体視を楽しむステレオカードといった「お土産品」を持ち帰れることで、ステレオタイプな他者イメージがより強化されていく。私たちが会場で目撃するのは、その膨大な欲望のおびただしい残滓だ。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


また本展は、「見る/見られる」という視線と主体をめぐる複雑な政治学にも言及する。19世紀後半、開国前の日本から万博の視察に訪れた日本人たちは、欧米人から好奇の眼差しや人類学の計測写真のレンズを向けられる対象でもあった。だが、1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会では、「学術人類館」でアイヌ、沖縄、台湾などの先住民を「展示」し、自らの優越性や植民地支配の正当化を展示装置を通して行なおうとした。同様の「展示」は、1912年開催の拓殖博覧会でも実施。そこでは、「内地観光」という名目の懐柔策で訪れた台湾の先住民が、「首狩り族」への珍奇な期待とともに「見られる」対象へと反転する。「人類館」をひとつのターニングポイントに、日本が「見られる」エキゾチシズムの対象から視線と権力の主体へ移行するプロセスは、「帝国」の外部や周縁に、「より未開で劣った」人種や部族を「発見」し、獲得すべき植民地を「表象」として一足先に領有する企てでもある。帝国・中心はつねに「外部・周縁」を欲望し、「外部・周縁」が帝国の欲望を支えているという表裏一体性こそを、私たちは眼差さねばならない。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


本展はまた、過去と未来の2つの万博という時間的レイヤーを有している。第四回内国勧業博覧会(1895)の跡地である京都の岡崎で開催されたことと、2025年の大阪万博を批評的に射程に入れていることである。そして最後に、本展が「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING」のプログラムとして開催された意義を述べたい。住居や生活用具を「舞台装置」のように設え、民族衣装をまとった「異民族」が日常生活を送る様子を演劇的に「再現」し、儀礼的なパフォーマンスを見せる「人間の展示」への再考。それは、近代の歴史的射程や(本展でも紹介されている)「フリークス」の展示という舞台芸術の系譜のひとつに対する反省性のみならず、「他者を表象として切り取り、一方的に視線を向ける」権力性や欲望と分かち難い舞台芸術それ自体に対する再帰的な批評として機能する。


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING 公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2021s-masashi-kohara/


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人類学写真 | 小原真史:Artwords(アートワード)

2021/02/19(金)(高嶋慈)

DULL-COLORED POP 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』、第二部『1986年:メビウスの輪』、第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

会期:2021/02/09~2021/02/11

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

福島県双葉町の農家に生まれた三兄弟をそれぞれ主人公に据え、原発誘致の決定から東日本大震災における原発事故までの50年間を、一家族の大河ドラマと重ね合わせて描く三部作。2018年に第一部、2019年に第二部と第三部が上演され、2020年に岸田國士戯曲賞を受賞した。DULL-COLORED POP主宰の谷賢一は福島県生まれで、原発で働く技術者を父に持つ。モデルとなった実在の双葉町町長、東電社員、被災者たちへの2年半にわたる取材を元にした合計約6時間の大作が、TPAM 2021で一挙上演された(筆者はオンライン配信を観劇)。

第一部『1961年:夜に昇る太陽』では、東大で物理学を学ぶ長男の穂積孝が主人公。地元の顔役である祖父の元に、東電社員や双葉町町長、県庁職員が土地の売却を持ちかけ、原発誘致の決定までを描く。「夜」すなわち「貧しい東北地方の中でも最貧県」と言われた福島に、産業の発展と経済的恩恵をもたらす「明るい未来のエネルギー」である原発への夢が、明治以降の福島が被ってきた政治的不遇と経済格差、日米安全保障の陰に潜む核武装への欲望といった政治史的背景とともに語られる。


第一部 [撮影:前澤秀登]


第二部『1986年:メビウスの輪』では、かつて原発反対運動のリーダーだった次男の忠が主人公。原発稼働から15年経った双葉町では、住民の1/4が原発関連産業で働き、税収の半分も原発に依存する。「原発建設で土建屋が儲かり、税収が増え、公共施設が建ち、工事を請け負う土建屋が儲かり、さらに税収が増える」という依存のサイクルから抜け出せなくなった町。だが、安定した原発関連工事の供給がなければ、この先も現在の経済状況を維持できないことは明らかだ。そんななか、第一部で原発誘致を働きかけた町長の汚職が発覚。地元の政治家たちは忠に町長選出馬を持ちかけ、「元原発反対運動のリーダーだからこそ、原発の危険性を東電や国に強くアピールし、引き換えに補助金と安全対策の補修工事費のカネを引き出せ」と迫る。「原発反対だが推進する」という矛盾した立場を引き受けた忠は見事当選するが、チェルノブイリ原発事故が発生。ロックミュージックに乗せ、記者会見で「日本の原発は安全です」と連呼する姿は道化のようだ。



第二部 [撮影:前澤秀登]


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』では、地元テレビ局の報道局長となった三男の真が主人公。県民への取材を通して、放射能の風評被害、被災者どうしの分断や差別の再生産があぶり出されると同時に、視聴率(資本主義)と報道の使命とのジレンマが描かれる。また、原発事故後、精神を病んで入院した兄の忠に対して、元町長としての言葉を引き出そうとする真の、家族への思いと使命感との葛藤も描かれる。

それぞれが唱える「正論」「正義」「理想」の対立がドラマの推進力となるオーソドックスな作劇手法であり、感情をぶつけ合う俳優たちが「クライマックス」で泣き笑い絶叫する演技も王道である。また、「科学技術」「政治経済」「報道」という三つの視点を三兄弟に担わせ、史実や取材を元に膨大な情報を台詞に落とし込みつつ「家族ドラマ」としてのツボもしっかりと押さえる構成は、よく練り上げられている。三部作全体をとおして、田舎/都会、地方/国、原発推進/反原発、搾取/依存、父(家父長)/息子といった二項対立的構図を描きながら、最終的には第三部で「単純な二項対立ではすくいとれない多様な声に耳を傾けること」が提示される。

ただ、戦後日本社会の構造的歪みを徹底して描出する本作だが、もうひとつの「歪み」が(おそらく無自覚に)戯曲に内在化しているのではないか。それは、「それぞれの正義と理想を胸に生きた男たちの熱いドラマ」の脇に配された、女性の表象のあり方である。ドラマの構造もテーマ自体も「男性の領域」であるからこそ、その男性中心主義性をどう批評的に捉え直すかが鍵となるはずだ。だが、第一部・第二部で登場するのは、「肝っ玉母さん」「故郷で待つ恋人」「背中を押してくれる妻」という「対立しつつも最終的には理解し、傍で支えてくれる」応援団的な役割である(ちなみに、第二部で町長に担ぎ上げられる忠を見守るのも、「モモ」という名の忠実な雌犬の魂だ)。


第三部 [撮影:前澤秀登]


そして、それ以外の女性登場人物が「増えた」第三部で提示されるのは、「無垢な犠牲者」と「産む性」への還元という二極への収斂である。テレビ局員に取材されるのは、「放射能に怯える妊婦」、「妻と娘を津波で流された男」である(「無垢な犠牲者」は「女性」でなければならない)。また、放射能汚染を動画で訴える女子高校生に対して「差別を広げるだけだからやめろ」「放射能がうつるから口をきくな」と差別感情をぶつける若い女性の対立が物語の軸のひとつとなる。両者が共有するのは「出産への不安」であり、彼女たちを取材した女性テレビ局員の「原発事故後、女性社員のみ自宅待機命令が出た。本能的に怖いと思った。生理なんて鬱陶しいと思っていたのに、自分が産む性であることを自覚した。女性にはそういう得体の知れない直感がある」という台詞は、「産む性」としての一方的な本質化にほかならない。


第三部 [撮影:前澤秀登]

このジェンダーをめぐる本質主義が物語の帰結において必須であることが露呈するのが、病室の忠が最期を迎えるラストシーンだ。寄り添う老いた妻は「あんたは、ただ町の発展のために尽くしてきただけ。他人が悪く言おうとも、私だけは愛している」と呼びかける。「死は(再)生への新たな出発」であると語られるなか、「この道はいつか来た道」の童謡を優しくあやすように歌う妻。それは、死を看取りつつ、再び誕生へ向かって送り出す「母」の二重化された存在であり、本作が最終的に希求するのは「すべてを赦し、癒し、そして自分を再び産み直してくれる大いなる母」である。ここで、忠を看取って(再)生へと送り出す彼女が、第一部では長男の恋人、第二部では次男(忠)の妻と、役割を変えながら三部作すべてに登場していたことに留意しよう。それぞれ別の女優に演じられ、別人のようにも見える彼女こそ三部作を貫く影の主人公であり、そこに投影されているのは、「戦後日本の構造的病理がもたらした傷を、男性中心主義への反省を欠いたまま、癒しと赦しの役割を女性に求める」という幻想の物語である。

TPAM 2021
公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2021/


2021/02/09(火)(高嶋慈)

松田正隆作・演出『シーサイドタウン』

会期:2021/01/27~2021/01/31

ロームシアター京都[京都府]

地方の荒廃、血縁関係のしがらみ、隣国からの攻撃の脅威と緩やかに浸透する全体主義。現代日本社会の病理を凝縮したような辺境の海辺の町を舞台とするオーソドックスな会話劇と、実験的な上演形式のハイブリッドが本作の特徴である。劇作家・演出家の松田正隆は、書き下ろしの新作戯曲を、主宰する「マレビトの会」で実践してきたミニマルな形式で上演した。

場ミリ(スタッフや出演者のために、舞台上につける大道具や立ち位置の目印)の白テープが散りばめられただけの素舞台。そこに、ひとりの男が登場し、引き戸を開け、直角に舞台上を横切り、蛇口をひねってコップに水を満たす仕草を淡々とマイムで行なう。舞台奥から挨拶の声をかける隣人。何もない空間に、玄関、縁側、廊下、洗面所といった見えない空間の弁別が立ち上がる。この空き家に引っ越してきた男(シンジ)は、東京で職を失って帰郷した。隣家には平凡な夫婦と高校生の娘が住むが、とりわけ妻は「住民訓練」への参加を熱心に呼びかける。それは、(「東京アラート」の陰で忘却の彼方となった)「Jアラート」発動時に、「隣国からの弾道ミサイル攻撃に備えて身を守る」ための訓練だ。「住民の一体感」を高めるイヴェントとして参加を要請する隣人、「全体訓練」を近隣市町村との「合同訓練」に拡大させようとする市長。36か所の「着弾予想地点」や避難経路が書かれたハザードマップがシンジにも配られる。だが、シンジのバイト先の友人、トノヤマは「着弾予想地点で性行為か自慰を行なうことで、着弾を回避できる」という自説を実践する。それは、アナーキーな秩序攪乱による全体主義への抵抗なのか。隣人の高校生の娘は「将来の夢は殺し屋」と作文に書き、確執を抱える母親が探しても見つからない「ナイフ」はなぜかシンジの部屋で見つかり、トノヤマは「ファシズムの手先の市長を刺す」と息巻く。だが彼は暗殺計画ではなく別の卑近な暴力に手を染め、疑いをかけられたシンジは蒸発し、何事もなかったかのような夏の気怠い日々が続いていく。

小道具を一切使わず、観客にも「見えない」ナイフは、行き場のない鬱屈や卑小な悪意の比喩として手から手へと渡り、矛先を間違えた一瞬の暴発を引き起こし、霧消して再び消え失せてしまう。善意と悪意、平凡さと異様さが区別不可能に混ざり合った淀みがゆっくりと全身に絡んでいくような後味が残った。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


リアリズムの手触りの強い戯曲だが、「演劇」を極限まで縮減し解体するような形式で上演される。舞台美術のない素舞台、小道具の不在とマイムの動作、効果音やBGMの欠如、最低限の照明操作。俳優たちはほぼ正面向きで直立を保ち、抑揚を欠いた棒読みに近い発話で会話する。さらに、俳優どうしが目を合わさず、現実にはありえない距離感と位置関係で「配置」されている点も特徴だ。足元に露出する「場ミリ」が示唆するように、「身体に一定の導線と配置の圧を加える」演劇が行使する力は、訓練の反復によって「権力の要請に馴致された身体を集合的に形成する」力と秘かに通底していく。



[撮影:中谷利明]


一方そこには、「マレビトの会」を通して松田が実践してきた形式的な実験の系譜がある。『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)では、「広島と、在外被爆者の多く住む韓国のハプチョンでの体験や思考の報告」を、客席と舞台の区別がない空間に点在した出演者が、同時多発的に発話やパフォーマンスを行なう。この特異な上演形式は、(観客自身も含む)他者が行き交う「都市の雑踏」を出現させると同時に、多層的な声による「ヒロシマ」の脱中心化が企図されていた。続く『N市民 緑下家の物語』(2011)では、この「点在した俳優による行為の同時多発性とリニアな時間軸の解体」の手法が、ドキュメンタリーから「ドラマ」へと移植された。

そして、震災後の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)では、東京から福島へと移動しながら現実空間で数ヵ月にわたって上演される戯曲と、その上演記録を出演者たちがSNSやブログ上に蓄積していく「第一の上演」のあと、その記憶を思い出している出演者の身体を劇場内で展示する「第二の上演」が行なわれた。「ドラマ」は一回性の出来事に限りなく近づき、ネット上の無数の痕跡は出来事の「真偽」を宙吊りにしつつ、「想起のための空間」と化した劇場内には見るべきものはおろか、想起のための手がかりもほぼ皆無である。ここには、「演劇」という表象形式と、(松田自身の故郷、長崎を含む)集団的な災厄の「表象」それ自体への抵抗が極点で交差する。その後、『長崎を上演する』(2013-2016)、『福島を上演する』(2016-2018)では、複数の執筆者による共同創作というかたちで、長崎や福島での取材を元にした戯曲が、本作同様ミニマルな上演形式で試みられている。

こうした系譜上にある本作は、「長編戯曲」という松田の原点に回帰しつつ、「ドラマはどう自律し、どこまでの解体に耐えうるのか」という強度を自己点検する実験性のなかに、「悲劇以降の時間/まだ到来せぬ悲劇」のあいだで宙吊りになった、日常の微温的な狂気を描いていた。

2021/01/30(土)(高嶋慈)

Kyoto Art for Tomorrow 2021―京都府新鋭選抜展―(特別出品:高嶺格《118の除夜の鐘》)

会期:2021/01/23~2021/02/07

京都府京都文化博物館 別館ホール[京都府]

毎冬開催されている「京都府新鋭選抜展」は、選抜された若手作家の新作を展示し、審査委員や各新聞社などが受賞作を決めるコンペ展。あわせて、ベテラン作家による「特別出品」も展示される。今年度は、高嶺格が体験型作品《118の除夜の鐘》を発表。本評では、この高嶺作品をメインに取り上げる。

会場の別館ホールは、明治期に建てられた旧日本銀行京都支店の重厚な建築物であり、天井高のある広い吹き抜け空間が広がっている。その空間に、鉄パイプを7段、ほぼ水平に渡した円形の檻のような構造物が組み上げられている。鑑賞者はこの構造物の中央の椅子に座り、袋のなかから鉄球を一つ選ぶよう、スタッフに促される。椅子の正面では、最下段の鉄パイプの先が、巨大なメガホンか蓄音機のラッパ型ホーンのような形状で口を開けて相対する。選んだ鉄球は、スタッフの操作で最上段の鉄パイプのなかに投入され、金属管のなかを何かが転がっていくような音が、一段ずつ周回しながら走っていく。見えない気配を想像させる「音」は、加速とともに次第に増幅し、否応なしに緊張感を高め、椅子に固定された身体を包囲する。比例して徐々に暗くなる照明、轟音と加速度のクライマックスを包む闇。相対するラッパ型に開いた開口部から、鉄球がこちらに向かって飛び出すのではないかという恐怖。だが、加速の付いた鉄球の代わりに飛び出すのは、「えー、領収書が」というブツ切りの音声と鐘の音であり、床にボトッと転がり落ちた鉄球は、脱力に一転する。



高嶺格《118の除夜の鐘》



高嶺格《118の除夜の鐘》


高嶺によれば、タイトルの「118」は「安倍元首相が国会でついたとされる嘘の数」であり、ブツ切れの音声は、「桜を見る会」の会計処理をめぐる国会答弁の一部かと思われる。そうした政治批判にとどまらず、「自分の選択した小さな行為が、姿の見えないまま次第に膨れ上がり、制御不可能なものに変質して自らを脅かし、逃げ場所を奪って包囲する」という構造は、例えば(コロナ禍における)「SNS上で呟いた一言がデマとなって拡散・巨大化し、自分自身をも脅かす」事態を想起させ、極めてアクチュアリティに富む(なお、本作自体には実は「もうひとつの仕掛け」があるのだが、ネタバレとなるので伏せておく)。


ただ、例年のことではあるが、ベテラン作家が広い別館ホールを独占する「特別出品」と、(メインであるはずの)選抜若手作家たちの扱いには、大きな非対称性がある。ダイナミックな空間を実質上の個展として独占できるベテラン作家に対し、「ひとり1点」の制限やサイズ規格を受けた若手作家たちは、展示室に大勢が詰め込まれる。「新作」という出品要請の一方、フィーは出ない。本当に「若手支援」を目指すのならば、展示空間の割り当てや資金面での不均衡を解消すべきだろう。また、例年、選考・審査委員の顔ぶれも「60代、70代男性」に偏っており、ジェンダーや世代の多様性が必要ではないか。

2021/01/24(日)(高嶋慈)

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八木良太 山城大督 1/9「Sensory Media Laboratory」

会期:2021/01/11

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

美術作家の八木良太と山城大督による一日だけの展覧会が、京都の劇場「THEATRE E9 KYOTO」で開催された。観客は各回定員9名で、八木と山城のガイドとともに、視覚、聴覚、触覚、運動感覚、そして味覚を使ってさまざまなオブジェや装置を体験していく参加型形式だ。タイトル中の「センサリーメディア」という言葉は映像人類学における新たな方法論で、「視覚偏重から脱却し、音・テクスト・写真・もののインスタレーション・パフォーマンスなど複合的なメディアを用いた、人の感覚をキーワードにした文化の記録や表象の方法」を指す。この方法論に共感した山城は、「センサリー・メディア・ラボラトリー」と名付けたプロジェクトを2017年から開始。今回、「ラボの研究員」として八木が参加し、劇場を舞台にした「一日だけの展覧会」を9年間にわたって継続するという。

舞台空間には、感覚を拡張・増幅・変容させるような器具や仕掛けが用意され、観客はそれらをひとつずつ体験していく。足ツボマッサージ器具やものすごく柔らかい毛のブラシを触るなど、触覚や皮膚への刺激。「水を入れた風船を投げ、キャッチする」動作は、簡単なようだが、予想を微妙に裏切ってズレる軌道で落下するため、慣習的な運動感覚が追い付かない。振動を拾って増幅するセンサーが付いたハサミで紙や布を切ると、素材の硬さや枚数の重なりによる音の違いが増幅されるとともに、自分の行為と音響が分離したような奇妙な感覚を味わう。「ゴロリメガネ」という既製品は、レンズ部分に仕込まれたミラーが光を屈折させ、「寝ころんだ状態で、上体を起こさなくてもテレビ画面が見える」という便利(?)グッズだが、立った状態でかけると、普通はありえない「斜め下の足元の床」が視野になり、他人の視覚をジャックしたような違和感や酔いに襲われる。終盤では、口の中でパチパチと弾ける駄菓子を食べながら、プラネタリウムのような回転装置が暗闇に投げかける無数の光の粒を鑑賞する。キャンディの弾ける音の集合が静かな雨音のように響き、星空と細雨を同時に疑似体験するような詩的な感覚に包まれた。



会場風景


「触って体験する」たびに消毒が課されるとはいえ、徹底した体験型の展覧会を開催することは、大きな決断だったと思う。初回ということもあり、「集めた素材を羅列し、順番に体験してもらう」というプレゼンテーション的な性格が強かったが、今後は、独自のメディアや装置の開発が期待される。また、「劇場」という特性をより活かし、起点と終点のあるリニアな時間軸のなかで、感覚の変容や増幅をどうストーリーとして組み立てていくかという「演出」の方向づけも必要だろう。そのとき、知覚の変容とともに、「もののふるまい方」の変化の様相もまた、すぐれてシアトリカルな力の作用として立ち上がるはずだ。上述の終盤では、ある種の親密な共同体をつくりながら、日常感覚からの離脱や非日常的な体験へと開いていく回路の萌芽が見られた。それは、「劇場」という空間の使い方の実験でもある。THEATRE E9 KYOTOは昨年、写真家の金サジの個展も開催しており、「客席の雛壇」があたかも死出の山に変貌し、その山を登って胎内巡りのように再び産まれ直すような強度のある空間を出現させていた。本展も、「劇場」ならではの体験性に向き合い、年を重ねるごとの展開と深度を期待したい。

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2021/01/11(月)(高嶋慈)