artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

リニューアル記念コレクション展 ボイスオーバー 回って遊ぶ声

会期:2021/09/18~2021/11/14

滋賀県立美術館[滋賀県]

今年6月にリニューアルオープンした滋賀県立美術館。リニューアル記念展「Soft Territory かかわりのあわい」では滋賀にゆかりのある若手作家12名がすべて新作で参加し、「同時代の創造の場所としての美術館」像を提示した。同時開催されたコレクション展に続き、リニューアル記念展の第3弾となる本展では、日本画、郷土美術、現代美術、アール・ブリュットの4分野からなるコレクションの名品100点以上を、ジャンルや年代の慣習的な壁を取り払って展示。思いがけない邂逅が展示室に出現する。例えば、「日々つくる」のテーマの下で、河原温の「デイト・ペインティング」と、アール・ブリュットの作家の澤田真一による、全身にトゲを生やしたトーテムポールのような陶作品が併置される。祈りや崇高さの形象をテーマにした一室では、禁欲的な色彩構成で宗教的な境地を感じさせるアド・ラインハートとマーク・ロスコの抽象絵画を経由して、鎌倉時代の不動明王像を白髪一雄の燃え盛る炎や火球の炸裂のような絵画が取り囲む。


会場風景[撮影:来田猛]


さらに本展では、田村友一郎、中尾美園、建築家ユニットのドットアーキテクツという3組のゲストアーティストが参加し、それぞれの視点からコレクションに新たな光を当てた。田村は、アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンの連作《マリリン》と《電気椅子》をつなぐ相関関係を読み込み、拡張的に連想の輪を広げていく映像インスタレーションを構成。《マリリン》の引用画像が、サスペンス映画『ナイアガラ』のスチル写真だとされることを起点に、ナイアガラの滝を利用した水力発電による電気が、ウォーホルの《電気椅子》にも送電されていた可能性へとつなげていく。「CG合成」によるナイアガラの滝を背景に、2人の人物の会話体をとるこの映像では、「サスペンス」「ナイアガラの滝」「水力発電」「滝がもたらす死(電気椅子、サスペンスの山場)」「消失」「視線と主体」といったキーワードをめぐる会話が繰り広げられ、鏡合わせのように互いの「本名」と「芸名」が反転する2人の話者の自/他の境界も曖昧に消失していく。サスペンスの仕業である「消失」は《電気椅子》と《マリリン》にも起こっており、初期の《電気椅子》ではドアの上にあった「SILENCE」というサインが後の作品では消え失せ、同じく初期の《マリリン》の金色の背景も後に姿を消したという。そして会話体の字幕が流れる映像では、「語りの声」も滝の音などの「BGM」もすべて「消失」し、沈黙が支配する。



会場風景[撮影:田村友一郎]


一方、中尾美園は、「消失した作品」の再現模写というかたちでコレクションに向き合う。中尾は保存修復の仕事に携わりつつ、日本画材を用いた精緻な「写し」によって、高齢の女性たちの遺品や生活のなかの慣習など「失われゆくもの」を記録し、紙の上に物質的強度として留める作品を制作してきた。本展では、美術館設立に関わりのある日本画家、小倉遊亀のリサーチを進めるなかで、1969年にホテル火災により焼失した《裸婦》(1954)という作品に着目した。日記体による小倉の著書に倣い、絵巻仕立ての「再現日記」では、生前のままに残された小倉の画室を訪問調査し、《裸婦》の下絵の発見、残された画材や画筆の観察などが詳細に記録される。また、美術館所蔵の同時期の小倉作品数点を実見し、金属箔の上に顔料を塗り重ねる背景処理、顔料比の推察、顔と胴体の肌色の濃度の比較、輪郭線からはみ出す肌色のおおらかな印象、たらし込みや胡粉の盛り上げなど、技法やディテールの詳細な観察メモも記される。「小倉がどう描いたか」の分析と追体験のなかに、描くことの喜びの共有が伝わってくる。また、中尾が「絵描き」ならではの視点で観察した小倉作品は、本展の前半でも展示されており、もう一度展示室に戻ってディテールをじっくり再確認したくなる。展示室内部でまさに「回遊」が発生するのだ。



会場風景[撮影:来田猛]



会場風景[撮影:来田猛]


また、完成した《裸婦》の再現模写の裏側には、小倉自身の言葉や《裸婦》の発表歴などの資料とともに、「火災を報じる新聞記事」の「模写」(!)が貼られている。作品の焼失をのちに知ったショックと、コレクターの無断の転売を非難する小倉の言葉からは、「保存し後世に残す」美術館の役割が改めて浮上する。

そして、「美術館の活動や機能」に光を当てるのが、ドットアーキテクツ。リニューアル前の4年間の休館中のアウトリーチ的活動を、地下に菌糸を伸ばす「キノコ」の生態になぞらえた資料展示を行なった。県内各所で若手作家を紹介し、リニューアル展の前哨戦となった「アートスポットプロジェクト」、子どもたちへの教育普及活動、他館への作品貸出といったさまざまな活動は、地下に張り巡らされた菌糸が地上に姿を現わした「キノコ」なのだ。

作品どうしの見えない相関関係を「消失と沈黙」によって逆説的に浮かび上がらせる田村、作品自体の「消失」を「記憶の継承や保存」へとつなげる中尾、美術館の機能を生き生きとした生態的ネットワークとして可視化するドットアーキテクツ。それぞれの視点がバトンを渡すようにつながり、コレクションとも呼応する充実した展示だった。



会場風景[撮影:来田猛]


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2021/09/26(日)(高嶋慈)

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木村華子「 [   ] goes to Gray」

会期:2021/09/17~2021/10/17

河岸ホテル[京都府]

「消えている」のに「現われている」。「何も表明しない」という表明。そうした存在論的矛盾がありえるだろうか。

木村華子の写真作品「SIGN FOR [    ]」は、「街中で発見した、何も書かれていない白紙のビルボード」を被写体にした写真の上に、青いネオンライトを取り付けたシリーズである。青白いネオンの光は、「広告」という目的や存在意義を失ってもなお屹立し続ける白い立方体を照らし出す。それは経済不況という時代の指標であると同時に、あらゆるものを「有用性」「生産性」で価値判断し、「白か黒か」「右か左か」といった両極的な選択を突きつける社会に対して、そこから逸脱する領域をセレブレーションするようでもある。



会場風景


一方、木村の作品は、美術史的な視点から読み込むことも可能だ。「余計なものが写り込まない青空をバックに撮影する」という同一条件で、消費資本主義の衰退を徴候的に示すモニュメントを撮り集める姿勢は、ドイツ各地に残る産業遺構を均質フォーマットで記録したベッヒャー夫妻を想起させる。また、「公共空間に置かれたビルボード」という点では、例えば「私の欲望から私を守って」といったメッセージを掲げ、欲望を作り出す広告装置を通して消費資本主義それ自体を批判したバーバラ・クルーガーがいる。フェリックス・ゴンザレス=トレスは、誰かが眠った跡を残す空っぽのダブルベッドの写真をビルボードに掲げ、エイズや性的マイノリティへの偏見に対して静かに訴えた。

だが、「白紙状態」に眼差しを向けるよう照らし出す木村作品は、そうした「批判や抵抗のメッセージ」が消去されたディストピア的イメージをも思わせる。それは、「声を上げること」を封殺し、塗り潰す抑圧的な社会の象徴でもある。と同時に、その「白紙」は、これから書き込まれるべきメッセージを待ち受ける希望的余白でもある。

社会の衰退の徴候であり、「ただ存在すること」の肯定であり、声の抑圧の象徴であると同時に、なおもメッセージを掲げることへの想像を止めないこと。そうした何重もの豊かな意味をはらんだ「空白」が見る者に迫ってくる。



会場風景



会場風景


2021/09/26(日)(高嶋慈)

リャン・インフェイ「傷痕の下」

会期:2021/09/18~2021/10/17

SferaExhibition[京都府]

写真は、「出来事の真正な記録」としてのドキュメンタリーではなく、「イメージの捏造」によって、いかに告発の力を持ちうるのか。

昨年のKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の公募企画でグランプリを受賞した、中国のフォトジャーナリスト、リャン・インフェイ。今年は同写真祭の公式プログラムに参加し、より練り上げられた展示を見せている。

リャンの「傷痕の下」は、性暴力を生き延びたサバイバーへのインタビューを元にした写真作品。教師や上司、業界の有力者など年齢も社会的立場も上位の男性から性被害を受けた時の恐怖、不快感、憎悪、屈辱感、誰にも言えない抑圧、長年苦しめるトラウマが、悪夢のようなイメージとして再構築される。首筋をなめる舌はナメクジに置換され、助けを呼べず硬直した身体は、ベッドに横たえられ、空中で口をパクパクさせる魚で表現される。女性たちの顔は隠され、身体は断片化され、「固有の顔貌と尊厳の剥奪」を示す。また、「人形」への置換は、抵抗や告発の言葉を発さず、意のままに扱える「所有物」とみなす加害者の視線の暴力性を可視化する。



リャン・インフェイ《Beneath the scars PartII, 4》(2018)


展示会場は、半透明の壁で仕切られた個室的なスペースに分割され、両義的な連想を誘う。それは性暴力の起こった密室であると同時に、プライバシーの安全が保障された、カウンセリングのための守られた空間でもある。



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]



[© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2021]


だが、いずれにせよ「外部からの遮断」「隠されるべきもの」という構造を外へと開くのが、「性被害について語る音声」の演劇的かつ秀逸な仕掛けだ。被害者の肉声ではなく、インタビューを再構成したテクストを朗読する声が写真とともに聴こえてくる。その声が複数性を持つことに留意したい。女性の声だけでなく、男性が読む声も混ざることは、「女性対男性」という単純な二項対立の図式を撹乱し、分断や敵対ではなく、体験の共有を志向する。同時にその仕掛けは、「性暴力の被害者は女性」という思い込みを解除し、「(性自認も含め)男性も被害者になりうる」ことを示す。性暴力は「一方のジェンダーに関する問題」ではなく、「あらゆるジェンダーにとっての問題」であることを音響的に示すのだ。

加えて、朗読する声には、年代差や関西弁のイントネーションなど、さまざまな差異が含まれる。少女や若い女性の声、中年女性の声といった年代差には、「10代、20代に受けた傷を後年になって語れるようになった」時間の経過を示す意図ももちろんある。だがより重要なのは、「被害者の代弁」を特定のひとりに集約させず、声を一方的に領有しない倫理的態度である。バトンを手渡すようにさまざまな声によって紡がれていく語りは、あるひとつの固有の体験と苦痛について語りつつ、その背後に無数の声が潜在することを可視化していく。

「出来事の決定的瞬間に立ち会えない」写真の事後性という宿命の克服に加え、写真と語りの力によって「体験を想像的に分かち合うこと」へと回路を開く、秀逸な展示だった。


KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2021/09/19(日)(高嶋慈)

倉田翠☓飴屋法水 京都発表会 『三重県新宿区東九条ビリーアイリッシュ温泉口 徒歩5分』

会期:2021/09/18~2021/09/19

京都芸術センター[京都府]

倉田翠と飴屋法水、2人の演出家が共同制作した映像作品の上映と、彼ら自身が出演する上演を組み合わせた作品。倉田はこれまで、特別養護老人ホームの入所者や薬物回復支援施設の利用者などと協働し、プロのパフォーマーではない彼ら自身の個人史の断片を俎上に載せつつ、「家族」の呪縛やその虚構性、「疑似家族」だからこその微かな救いを通奏低音として提示してきた。

本作では、「家族」「親と子」が直球のテーマ。飴屋と倉田、それぞれの家族が暮らす土地(新宿のアパート、三重県の田舎)を互いに訪ねて寝食をともにする旅に、京都の崇仁地区および隣接する東九条で生まれ育った男性が加わり、彼の壮絶な家族史が差し挟まれる。3つの家族と土地をめぐる旅の記録映像は、旅という非日常の高揚感、東京観光、サッカーや水遊びに興じる姿を映し出し、ゆるいロードムービーの体をなす。だがその「軽さ」は、「重さ」「暗さ」を相対的に突き付ける。飴屋が「ある女性の半生」として語るモノローグは、結婚を機に差別を受ける土地に移り住み、ゴミ回収の仕事に就き、娘を自殺で失うというものだ。その絞り出すような語りが「フィクション」ではないことが、映像内の男性の語りと徐々に結びつく。全身に刺青のある彼は、「姉の自殺」を機に家族が崩壊したトラウマをもつことが語られる。



[写真:前谷開]


本作は安易な感傷には逃げないが、痛みと優しさが同居する。舞台上にはもうひとり、中学生の女の子が登場し、「クラシックギターの発表会」がもうひとつのレイヤーとして挿入され、傷をもつ者たちをギターの音色が優しく包み込む。それは同時に、「進行形の作品の発表会」の枠組みのなかで、実際に「クラシックギターの発表会」をやってしまうというメタ的な二重性をもつ。

「家族をもつこと、ある土地にとどまること」と同時に、「移動」も本作のキーワードだ。序盤と終盤、キャリーケースを引いて登場/退場する飴屋自身の娘が言う。「私は誰かの子どもです/でした」。

映像のなかでキャリーやバックパックを背負って旅する出演者たちは、次第に、「疑似家族」に見えてくる。「移動」は、ある土地と家族からの離脱であると同時に、新たな共同体の形成でもある。一方、「本当の」家族がもつ、一見普通の顔をした底知れない不気味さが露呈する瞬間がある。倉田の実家の食卓では、母親が淡々と食事の準備をし、父親が席につき、二人は素麺を食べ始める。その食卓上で、激しく踊る倉田。だが両親は彼女が存在しないかのように、無言のまま無視して食事を続ける。同じ食卓にいるのに、別次元に身を置いているような絶望的な距離感。そこに突如、全身ずぶ濡れの飴屋が窓から侵入してくる。川遊びから帰った少年のような彼は、「しばらくお世話になります」と律儀に挨拶し、夏休みに親戚の家に遊びに来たような空気が流れ、「家族」の境界が曖昧になっていく。

最後に、映像のスクリーンと相対して、一脚の「アウトドアチェア」が倉田の手で組み立てられ、不在のままスクリーンを見つめ続けていたことに留意したい。この「空の椅子」の座が意味するものは両義的だ。それは、「不在の死者」「喪失」を示すと同時に、「これから生まれてくる存在」が占める場所でもある。その不在感や欠乏感は痛みであり希望でもある。



[写真:前谷開]



公式サイト:https://kurata-ameya.studio.site/presentation/

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家族写真|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2021/09/19(日)(高嶋慈)

林勇気「15グラムの記憶」

会期:2021/09/03~2021/09/26

eN arts[京都府]

「川の流れ」「水と氷」「流体と固体」「水の採取と濾過」といったメタファーを用いて、 記憶やデジタルデータの保存形式、さらにその複数の形態や循環・流動的なあり方について語る、緻密に構築された映像インスタレーション。

林勇気は、自身で撮影したり、インターネット上で収集した膨大な画像を切り貼りしたアニメーション作品で知られる。近年はメディア論的な自己言及性を強め、動画のデジタルデータをピクセルの数値に還元する、プロジェクターの物理的存在に言及する、「データの保存形式の複数性」に焦点を当てるなど、映像メディアの成立条件やアーカイブについて多角的に問うている。

本展では、「祖父の遺品から見つかった、2002年発売のソニー製のデジタルカメラ『Digital Mavica』とその記録媒体のフロッピーディスク」が物語の起点となる。展示は3つのパートで構成され、導入部では、「フロッピーディスクに祖父が遺した川の写真」のスライドショーを背景に、「遺品整理の経緯や祖父の思い出」が「孫の私」によって語られる。約20年前に流通・使用されていたフロッピーディスクは現在のパソコンではデータ再生できないため、専用のドライブを取り寄せて中身を確認したこと。当時のデータ容量では、1枚当たり、640×480ピクセルの画像を10枚しか保存できなかったこと。「祖父」が近隣のいくつかの川で撮ったと思われる低解像度の画像が、淡々と映されていく。一人暮らしだった「祖父」の急死、現実感のない葬式、子どもの頃に「祖父」と写真の川を訪れた思い出。そして「私」は、写真に写った川を探す旅に出たことが語られる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


第2室では、パソコンに接続されたドライブやプリンターなどの機器と、現物のDigital Mavicaとフロッピーディスクが展示される。そして第3室では、「撮影地点が判明した川」を同一アングルで映した映像に、「祖父が別のフロッピーディスクに遺した撮影日誌」の朗読が重ねられる。だが、川の映像は、その上に散らばる「氷の塊」の画像によって虫食いのように一部が隠され、像が歪む。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]



林勇気「15グラムの記憶」より


この奇妙な「氷」は何だろうか。「祖父の日誌」には、「川の水を採取した」日付と時刻、地点が記録され、天気や体調とともに「製氷した氷を入れて飲んだ」「濾過装置を買い替えた」「水と氷の味が良くなった」などと綴られる。「祖父」は酒ではなく、「川で採取した水」に氷を入れて味わうのが趣味(?)だったようだ。だが、次第に疑問や違和感が頭をもたげてくる。「祖父が撮った川の写真」には満開の桜、緑茂る夏の木々、人々が憩う川岸の芝生、冬枯れの木立など季節の移ろいがあるが、「現在の川の映像」も「同一の季節」を映している。それは「祖父の日誌の朗読」に対応するという点では齟齬はないのだが、「私」は「休暇を利用して遺品整理をした」と語っていた。では、「私」は、その後1年間かけて「祖父の暮らした遠隔地」に通いながら、川のリサーチと撮影を継続したのだろうか。また、「証拠品」として展示されたフロッピーディスクに貼られたラベルは白紙のままであり、「祖父」の几帳面な性格からすると、撮影メモを書き込んでいるはずだ。「祖父の川の写真」は、林自身が撮影した写真の解像度を落とした捏造かもしれない。

どこまでがフィクションなのか。あるいは、すべてが林による創作なのか。だが重要なのは、事実/フィクションの境界画定ではなく、「時間の流れ」を象徴する川、「水と氷」の状態変化、「水の採取と濾過」といった豊富なメタファーを通して、記憶やデジタルデータについて自己言及的に語る秀逸な作法である。

例えば、ヒントのひとつは「私」のモノローグに埋め込まれている。「祖父の遺したショットグラスに氷を入れて水を飲みながら、フロッピーディスクの中身を見た」。川で水を採取する=川で撮影した画像が、データ=実体のない流体となり、記録媒体=保存容器=水を満たすグラスに容れられ、あるいは氷=固体として冷凍庫=記録媒体に保存され、解凍=データの再生や記憶の蘇りを待つこと。「そのままでは飲めない川の水を濾過して味わう」行為は、「そのままでは見られない時代遅れの記録媒体内のデータを、専用ドライブを取り寄せて読み込む」操作に対応し、水を飲む=データを再生するための「媒介」を示唆する。また、「祖父の川の写真」をパソコンの画面上で再生し、プリントアウトした写真を観客が持ち帰れる仕掛けも重要だ。「氷」として保存されたフロッピーディスクから「解凍」された誰かの記憶が、文字通りスクリーンを流れる「川」となり、再び手に取ってさわれる「固体」=プリントされた紙へと変容する、まさに「状態変化」「循環」を体験することになる。



会場風景[© hayashi yuki, photo: Tomas Svab]


林は、KYOTO STEAMに出品された前作《細胞とガラス》において、「動物の体内で培養したiPS細胞の臓器移植が可能となった近未来に、移植を受けたガラス職人の男性によるモノローグ」というフィクションの体裁をとって、「炎により自在に変形するガラスの可塑性」と「iPS細胞」を重ね合わせ、「外界を映し出す窓ガラス」の映像を通して「フレーム」「スクリーン」「(内/外、人間/動物の)境界」のメタファーを語っていた。本作はその手法を引き継いだ林の新たな展開であるとともに、デジタルデータの「起源」の曖昧性、「ファウンド・フォト」「ファウンド・フッテージ」ならぬ「ファウンド・データ」で物語を紡ぐ手法の可能性、そして「たとえ一切が捏造であっても、『祖父と私の物語』として信じさせる力はどこから来るのか」というメタフィクション論ともなっていた。


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