artscapeレビュー
高嶋慈のレビュー/プレビュー
ANTEROOM TRANSMISSION vol.1 ─変容する社会の肖像
会期:2021/04/28~2021/06/30
ホテル アンテルーム 京都|GALLERY 9.5[京都府]
アートホテル、アンテルーム京都の開業10周年企画として始まった、若手作家育成プロジェクト「ANTEROOM TRANSMISSION」の第一弾。「変容する社会の肖像」と副題の付いた本展は、作品を同時代の社会へのメッセージとして伝えることを企図する。現役大学生と卒業後3年以内の若手作家7名が選抜された。中心軸として浮上するのは、とりわけコロナ下で浮上した、デジタル情報時代の視覚メディアと私たちの身体、知覚、物質、社会の関係をめぐる問いだ。
津村侑希は、Googleストリートビューや航空写真などネット上のデジタル画像を素に絵画を制作する。コーカサス地方の教会の壁を描いた出品作では、実物の小枝や石が床に置かれ、描かれた枝に混じって画面に貼り付けられ、ライトが厳かに照らす。質量を持たないデータを触知可能なものとして再物質化し、聖性を与えようとするかのようだ。
大澤一太と六根由里香は、デジタル画像の物質への置換やトレースといった操作を通して、情報の複製と欠落、レイヤーとフレーム、具象と抽象の境界といった主題を仮設的な場において問う。小田蒼太は、コロナ禍と環境汚染問題の相関関係について、「透明」「可視性」を軸に、合わせ鏡のように提示する。コロナ禍の副産物として大気汚染が緩和され、見張らせるようになったヒマラヤ山脈の写真。その前に置かれた立方体のキューブには、ウィルスに汚染された肺のイメージが閉じ込められている。キューブは、輪切り状に肺の断面を描いたアクリル板を重ねてできており、見る角度によって像と可視性の度合いが変化する。
光と視覚それ自体について、複数のメタ的な仕掛けとともに省察して秀逸だったのが、佐藤瞭太郎のCG映像作品《Blue Light》。リアルの展示会場と映像内で反復されるCG世界、映像のなかのPC画面など複数の入れ子構造や、出口のない迷宮状態とリンクするループ構造、鑑賞者自身を檻の中に閉じ込める展示構造といったメタ的な仕掛けが重層的に交錯する。タイトルには、私たちを魅了して捉えるPCやスマホ、タブレットの画面が発する光と、光に集まる生物の習性を利用した殺虫灯の二重の意味がかけられている。バーチャルな映像への没入と身体の忘却、光の刺激を求めて加速する眼球。その欲望は世界中に張り巡らされた監視カメラやGoogleストリートビューを暗示し、私たちの身体はスクリーンの影絵を見つめ続ける洞窟内の囚人と化す。
鑑賞を終えて「展示スペース=檻」から出た私たちは、一時的な束縛から解放される。だが、その外に広がる、視覚情報メディアに包囲された日常風景は、一変して見えるだろう。
2021/06/11(金)(高嶋慈)
呉夏枝「小布をただよう」
会期:2021/06/11~2021/06/27
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w[京都府]
移動を前提とし、リサーチに基づく作品制作を行なっている作家にとって、コロナ禍による移動制限は、制作の根幹に関わり、根底から問い直す契機となる。
現在はオーストラリアを拠点とする染織作家の呉夏枝(お・はぢ)は、韓国の済州島出身の祖母や自身のルーツにまつわる初期作品から、経糸と緯糸の交差が織りなす「布」という構造や「織る」「編む」「糸を結ぶ/ほぐす」といった技法に、時間の積層や記憶の継承・再構築のメタファーを重ねて表現してきた。「第二の皮膚」としての衣服(民族衣装)はもちろん、編み込まれた麻縄は、身体性を強く喚起し、(不在の)身体を想起させる。近年はさまざまな土地へ赴くリサーチとともに射程を広げ、その土地でワークショップを通して出会った女性たちが受け継いできた染織の歴史や記憶を、「近代(化)」「手芸」「ジェンダー」「海を往来する移民や季節労働者」といったより大きな枠組みのなかで捉えている。
例えば、国際芸術センター青森のレジデンスでは、近代化とともに姿を消した「こぎん刺し」など丁寧な手仕事による野良着や肌着のリサーチを行なって写真作品を制作。大阪市現代芸術創造事業Breaker Projectでは「kioku手芸館たんす」を拠点に、地域の女性たちとともに語りながら「編み物をほどく/ほぐす」ワークショップを行なった。また、金沢でのワークショップでは、かつて季節労働者として国境を越えて海を往来した海女に着目し、地域で収集したレースなど編み物をサイアノタイプ(日光写真)の技法で布に転写した。
本展では、リサーチや移動の制限を、「過去の蓄積を反芻し、新たな創作の糧とする期間」と捉え、これまで制作したテキスタイル作品のハギレや試作を縫い合わせるなど再構成して展示した。鮮やかな絣のハギレに重ねられた韓国語のテキスト。腰機(こしはた:持ち運び可能で原始的な織機)で織られた、海に浮かぶ島影。サイアノタイプで青く染め抜かれた、大輪の花のようなレースの連なり。小さな白い絹のチマ(スカート)に刺繍された鮮やかな花。織る、染める、結ぶ、刺繍といった技法の多様性と、作品自体の「記憶」を見せる。
断片どうしが浮遊し、技法や素材、テーマの共通性という見えない糸によってつながり合った空間は、航路が行き交う群島を思わせ、現在進行中の「grand-mother island」プロジェクトを想起させる。また、作品自体の「モビリティ」や「過去の記憶の反芻」は呉自身の創作態度をメタ的になぞるものでもある。同時に、「習作やサンプルを通して作家の思考の跡と核を見せる」試みは、コロナ禍の逆境のなかでの/だからこそ可能になった、オルタナティブな回顧的な展示形態のあり方としても示唆的だった。
呉夏枝 公式サイト:http://hajioh.com/
関連記事
呉夏枝「-仮想の島- grandmother island 第1章」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年04月15日号)
2021/06/11(金)(高嶋慈)
石内都展「見える見えない、写真のゆくえ」
会期:2021/04/03~2021/07/25
西宮市大谷記念美術館[兵庫県]
存命の作家の回顧的展覧会の意義は、「作家のコア」を凝縮して提示しつつ、「現在地」の新たな開拓を同時に見せることにある。コンパクトにまとめられた本展は、衝撃的な新作「The Drowned」を通して、「写真が捉えるのは表面にすぎず、同時にそこに刻まれた傷によって時間の多層的な内包が示される」という矛盾の両立と、「抜け殻としての衣服、有機的な花弁や植物といった視覚的メタファーを通して、女性の身体に負わされてきた傷を冷静かつ共感的に見つめる」という石内の写真作品の核を提示する、充実感にあふれていた。
第一展示室では、「ひろしま」と、フリーダ・カーロの遺品を撮った「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」が並ぶ。腹部の大きな破れ目から糸が露出し、ただれた皮膚の代替のようにほつれた無数の穴のあいたワンピース、焼け焦げた跡が刻み付けられた軍手など、「ひろしま」の写真群が示すのは、(不在の)身体が負った傷を肩代わりする衣服の表面=皮膚である。フリーダ・カーロが身に付けていたコルセットや鮮やかな原色のワンピース、刺繍のブーツなどもまた、空洞が身体の痕跡を示し、擦り切れたほつれや傷が過酷な負荷を物語る。第二展示室の初期作品「連夜の街」は、全国の赤線跡に残る元遊郭の建物を撮影したシリーズであり、石内の眼差しは、ハート型の窓枠、床や壁のタイル、柱や天井の装飾モチーフ、欠けたネオンサイン、そしてひび割れて剥落した壁(紙)といった建物の表皮を彩る装飾と朽ちかけた時間の層に向けられる。
本展のピークと言える第三展示室では、火傷や手術の縫合跡といった傷跡が残る皮膚を接写した「Scars」および特に女性に限定して撮影した「INNOCENCE」と、ただれた肉塊やかさぶたのような多肉植物を捉えた「sa・bo・ten」、朽ちかけて皺のよったバラの花弁を接写した「Naked Rose」という異なる系統のシリーズが、等価に織り交ぜて展示される。変形した肉塊や病痕のような触覚的な表皮をもつサボテンは、暴力を加えられて捻じ曲げられた身体の等価物であり、官能性と腐臭を同時に放つバラもまた、唇や女性器の襞といった女性の身体のメタファーであると同時に、皺やただれた傷がその表面に書きこまれている。
そして、第四展示室で対峙する新作「The Drowned」は、一見すると、粘度の高い顔料が溶け合った抽象絵画か、壁紙やペンキが剥落して地が露出した壁のようにも見えるが、2019年の台風19号で被災した川崎市市民ミュージアムに収蔵され、被害を受けた自作プリントを被写体としたシリーズである。印画紙の表面がかさぶたのようにめくれ、変色し、溶け出した化学物質や泥に浸食された写真は物質へと還元され、「災厄の痕跡が表面に凝固した皮膚」として「ひろしま化」している。
40年以上にわたる道程を通して、多彩なシリーズを辿りながら、「写真が捉えるのは傷を負った(女性たちの身体の)表面であり、撮影という営為は共感の眼差しとして成立するが、写真もまた被傷性を持つ一枚の皮膜である」ことを明晰に焦点化し、残酷さと希望を同時に提示する本展。第二の皮膚としての衣服に始まり、元赤線地帯の生身の女性たちを撮るのではなく、「かつてそこにいた」不在の痕跡を「壁=建物の皮膚の傷跡」として捉える眼差し。肉感的な多肉植物やバラの花弁=女性の性的記号として置換する表象の常套手段を、欲望の喚起ではなく、「傷」によって反転的に結び付けること。文字通りの身体表面の傷跡を経て、最後に写真それ自体に回帰する本展の構造は、自画像的であると同時に、固有名を超えた痛みの可視化としての普遍性をその身に帯びている。
2021/05/22(土)(高嶋慈)
桝本佳子「Blue Birds/Blue Ceramics」
会期:2021/05/06~2021/06/25
ワコールスタディホール京都 ギャラリー[京都府]
器に絵付けされたモチーフが、器の表面から立体的に飛び出す。鳥、松、タコ、鹿、五重塔、埴輪、果てはスペースシャトルまでが唐突に器と合体し、陶彫刻とも壺ともつかないバランスで佇み、ナンセンスな笑いを誘う。陶芸家の桝本佳子は、「器の表面を彩る装飾モチーフ」を器(本体)への従属から解放し、三次元の物体である器の表面に描かれた二次元の装飾を再び立体化することで、「彫刻/工芸」「機能/装飾」「本質/付随物」というヒエラルキーの解体や「二次元/三次元」の複雑な往還をユーモアとともに企てる。飛び出す絵本のような親しみやすさと、超絶技巧の細部が魅力だ。
本展では、ドイツのシャルロッテンブルク宮殿にある東洋磁器のコレクション「磁器の間」を見たときの衝撃的な経験を元に、75点の器で構成された迫力あるインスタレーションが展開された。青い染付を施した皿や壺が壁一面に左右対称に並べられ、その厳格なシンメトリーと拮抗するように、器から飛び出したカモメやトンビなどの海鳥が翼を広げて縦横無尽に飛び交う。海鳥の体は器と融合するかのように鮮やかなコバルトブルーの濃淡で染められ、青海波、松、浦島太郎、魚など「海」と関連の高いモチーフの装飾紋様がその体を浸食し、リズミカルなアクセントを添える。だがなぜ、大量の皿や壺を壁にシンメトリックに並べたのか。なぜ、「海鳥」が選択されたのか。
1706年に完成したシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」をはじめ、17~18世紀のヨーロッパ諸国では、当時はまだ生産技術を持たなかった白く輝く磁器を中国や日本から輸入し、王侯貴族たちが財力や権力を誇示するためのコレクションルームが数多くつくられた。東洋磁器の海洋貿易の中心を担ったのが、17世紀初頭にオランダで設立された東インド会社である。ヨーロッパへ運ばれた東洋磁器は、城館の室内装飾のために用いられ、暖炉の上の飾り棚とその背面に貼られた鏡を中心に、大量の皿や壺を左右対称に配置して壁全体を覆い尽くす「鏡の間」「磁器の間」が生み出された。
こうした東洋磁器を用いたヨーロッパ独自の室内装飾様式と、江戸時代から現代に至る陶磁器、掛物、織物、漆器の紋様を参考にした桝本の本作は、海を越えた東洋磁器の旅や交易史を「海鳥」によって示すとともに、「写し」「コピー」「模倣」をめぐる東西の工芸史の問題も射程にとらえている。当時ヨーロッパへ輸入された東洋磁器は、ヨーロッパ各地での磁器焼成技術の開発を促し、シノワズリ(中国趣味)という新たな装飾様式を生み出したと同時に、高い商品価値のため、多くの模倣品を生み出した。一方、日本の美術工芸の歴史においては、「写し」は「オリジナル」の下位に置かれる粗悪なコピーではなく、技術的習得や先人の卓越した技能に対する称賛の表われといった積極的な意味や役割を持っている。さらに、「磁器の間」に代表されるコレクションは、異文化への憧憬の眼差しと同時に、元の文脈から剥奪された物品を大量に集積することで富と権力を誇示する政治的機能を担っており、文化的覇権力の装置でもある。
「異文化の物品の大量所有によって文化的・政治的覇権力を誇示する装置」としての室内装飾様式それ自体を模倣・コピーするという手続きをとる本作において、「権力の器」としての厳格な秩序構造のなかに侵入し、あるいは飛び立とうとする鳥たちは、それを内部から攪乱し、解放を企てているようにも見える。「器」の概念を、単体としての器から、それらを内包する権力の視覚化装置へと拡張して介入し、「写し」「コピー」をめぐる東西の工芸史・装飾史へとスケールを拡げた本展は、新たな局面を切り開くものだと言える。
桝本佳子公式サイト:http://keikomasumoto.main.jp
2021/05/14(金)(高嶋慈)
村川拓也『事件』
会期:2021/05/14~2021/05/16
京都芸術劇場 春秋座[京都府]
プロの俳優ではなく、当事者が日々の労働を再現し、自らの言葉で経験を語るといった手法によって「ドキュメンタリー演劇」の騎手として評価を築いてきた村川拓也。一方、本作『事件』は、村川自身が3年前に京都市内のスーパーで刺傷事件を目撃した経験を元に、「スーパー」という消費空間で日々反復される店員と買い物客の営為とその綻びを再構築するものだ。犯人や被害者、目撃した買い物客など当事者が出演しない(できない)ことや、「ある架空の設定」のレイヤー的交差によってドラマ(未満のドラマ)を紡ぎ出す手法は、一見「フィクション」「物語」への志向にも見える。本評では、この村川の新たな試みを、ドキュメンタリー的手法の代表作とされる『ツァイトゲーバー』(2011)→『インディペンデント リビング』(2017)→『Pamilya(パミリヤ)』(2020)の系譜との連続性と断絶・飛躍という両面から考えてみたい。
冒頭、ひとりの若い女性が自転車をおしながら下手側の客席脇の通路を通って登場し、舞台上を一回りした後、施錠された扉やロッカーをマイムで開け、業務のため着替えを行なう。『Pamilya』との連続性を暗示する導入だ(『Pamilya』も幼い娘の養育のため、渡日して老人ホームで働くフィリピン人女性介護士の「日々の介護労働」が再現される)。舞台上には、両側に商品陳列棚が並ぶスーパーの通路を示す白線のテープと、わずかな食品やペットボトル、衣類、奥にモニターが置かれただけで、ミニマルな余白に満ちている。この、想像力を投企すべき/空虚さに満ちた「スーパー」の空間で淡々と提示されるのは、女性従業員をメインに、店長の男性、服を買いに来た男子高校生の3者である。店員、管理する店長、買い物客という3つの立場が、始業準備や開店前の「あいさつ」の復唱、掃除、品出し、レジ業務、着ぐるみマスコットの一日店長のキャンペーン、退勤といった一日の時間軸のなかで交互に反復されていく。動作は無対象で、体の動きだけをただ淡々と見せるものだ(それは、後述の内容とも関わるが、 エンタメ的な要素や誇張性を伴う「マイム」というより、「動作をエアーで行なっている」感覚に近い)。「会話」を通して、女性従業員は保育園に幼い子どもを預けながら働いていることや店長の無理解、引きこもりの男子高校生を心配する母親、彼の抱える鬱屈といったそれぞれの事情が垣間見え、わずかな奥行きが与えられる。
本作が徹底して描くのは、店員にも客にも等しく「役割」「機能」だけの存在であることを求める、「スーパー」に象徴化された「日常」の平板さと、抑圧によって成り立つ「快適さ」だ。その不気味さを増幅的に演出するのが、「会話相手の声」の処理である。基本的に舞台上には1名ずつしか登場せず、「次の業務の指示や客のクレームがあったことを注意する店長の声」「男子高校生の母親や接客する店員とのやり取り」といった「会話」はすべて、「頭上のスピーカーから流れる不在の声」として演出される。女性従業員は「スピーカーの声」に黙々と従い、レジ業務ではどの(見えない)客に向かってもマニュアル化された文句を機械的に反復し続け、「もっと笑顔で」という店長の注意にも逆らうことはない。だが、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「申し訳ございません」といった文句を、店員のお手本として延々と復唱し続ける店長もまた、消費資本主義社会と会社組織のなかで自動化されたロボット的存在にすぎない。休憩時間にひとりお菓子を食べる店長の背後では、モニターに化粧品のCMが無音で延々と流れ、明るい空虚さと孤絶感を増幅する。
ここで、最も基底的なレベルで「生」を支える日々の「労働」の透明性を、エアー動作による「再現」によって逆説的に可視化するという点で、『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』『Pamilya』の系列と本作の共通項が浮かび上がる。ALS(筋萎縮性側索硬化症)など重度身体障害者の介助を本職の介助士が舞台上で再現する『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』や、認知症の高齢者の介護を本職の介護士が再現する『Pamilya』が扱うのは、障害者や認知症の高齢者の介助や介護という、「生」の持続を根源的に支えているにもかかわらず、社会的に不可視化された労働である(『Pamilya』の場合はさらに、「外国人労働者」「シングルマザー」というレイヤーが加わる)。一方、スーパーの接客業務もまた、私たちの日常生活に組み込まれた一部であるが(ゆえに)注視されず、意識のなかで「空気」のような不可視状態にとどめ置かれている。両者はともに、私たちが「快適」な日常生活を送るうえで、「見ないで済ましているもの」「見なくても(見ない方が)ストレスなくスムーズに過ごせるもの」をエアー動作によって「見させられる」のであり、クリアな輪郭として浮かび上がらせる。
また、村川作品のもうひとつの通奏的な主題として、「演劇」に対する原理的批判がある。『ツァイトゲーバー』『インディペンデント リビング』『Pamilya』の系列では、「観客のひとりを被介助者役として舞台に上げる」仕掛けによって、戸惑いや緊張でこわばって「動けない」その表情や身体に「(不在の)被介助者」を重ね合わせるという想像力の発動が、「それを見る私たち観客自身の眼差しによるものである」という暴力性を再帰的に突き付ける。一方、本作では、店長の指示や注意、延々と読み上げられる客のクレームなど「頭上のスピーカーから流れる声」が、その「不在」と「高低差」によって、遍在する不可視の権力を示唆する。それは、メタレベルでは(舞台上には不在の)演出家の絶対的な声を示すとともに、指示やクレームを発する身体が不在化されていることは、自らが内面化している証左であるともとれる。
マニュアル化された動作やあいさつ、機械的反復、ルーティンへの従属。終盤、レジに立つ女性従業員を無言で刺す通り魔は、この「完全に自動化・制御されたルーティン」「従業員と陳列された商品、人間とモノの圧倒的な同質性」のシステムに外部から侵入し、亀裂を入れ、停止させようとする存在として登場する。だが、「刃物で刺す」行為自体も機械的に淡々と反復され、かつ何度反復しても、「ピッピッピッ」というレジの機械音が心電図の電子音のように不穏に鳴り響き続けるだけで、刺された店員は「死なない」。「転覆を企てる者も従属する者も、すでにシステムの一部である」ことの残酷な証明が、「死なない」という絶望だけが提示される。
機械のように「死なない」女性従業員が、退勤後、公園の遊具で(見えない)子どもを遊ばせるというラストシーンは、徹底して乾ききった本作にわずかな抒情性と救いを与える。本作で村川が「フィクション」を導入した理由を、そこに見出せるのではないか。
関連レビュー
村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年03月15日号)
2021/05/14(金)(高嶋慈)