artscapeレビュー
杉江あこのレビュー/プレビュー
東北へのまなざし 1930-1945
会期:2022/07/23~2022/09/25
東京ステーションギャラリー[東京都]
日本のなかで工芸を語る際に欠かせない地域が東北である。昭和初期にドイツの建築家のブルーノ・タウトをはじめ、民藝運動を牽引した柳宗悦、フランスのデザイナーのシャルロット・ペリアン、考現学を提唱した今和次郎といったクリエイターや研究者らが東北を訪れて功績を残したことは史実として知っていたが、本展を観るまで、なぜ彼らが訪問に至ったのかの経緯についてはよくわかっていなかった。これまで特に不思議に思うことはなかったのだが、本展の終盤でふいに現われた「Ⅳ『雪調』ユートピア」の章で腑に落ちた。
雪調とは「積雪地方農村経済調査所」のことで、当時の農林省の出先機関として昭和8年に山形県に設置された。雪調は積雪と凶作によって疲弊した農村経済を更生させることを目的に、調査・研究・指導の任務を負っていた。部署のひとつに「副業・農村工業係」があり、農村経済を助けるには農閑期に現金収入に結びつく副業を研究し奨励することを急務とした。そこで東北で昔ながら行なわれてきた藁仕事などを現金収入に換えることに目を付け、柳宗悦ら民藝運動家と手を組んで東北の工芸を盛り立てたほか、当時の商務省の要請で来日していたシャルロット・ペリアンを招聘するなど、外部の専門家を積極的に巻き込んでいったのだ。
当時のこうした施策により、東北の工芸は日の目を見るようになったのである。ものづくりに携わるデザイナーやプロデューサーらが学ぶべきは、この点ではないかと実感する。とはいえ、本展の主題はあくまで外部の専門家の目を通して見た東北の姿だ。正直、想像のおよぶ展示品や見覚えのある作品もあるにはあったが、これらを大系的に示そうとする切り口は面白かった。蓑や草鞋にしろ、木版画にしろ、こけしや張子人形にしろ、いずれもプリミティブな力強さがあるし愛おしさがある。仮に土着と洗練という対義語で語るなら、東北の工芸は土着性を圧倒的に強く感じる。それは下手に洗練させない方がいいと思えるほどである。
公式サイト:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202207_tohoku.html
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2022/08/20(土)(杉江あこ)
フィン・ユールとデンマークの椅子
会期:2022/07/23~2022/10/09
東京都美術館 ギャラリーA・B・C[東京都]
国連の世界幸福度報告で、近年、1位もしくは2位を占めているデンマーク。この国民の幸福度を向上させるのにひと役買ったとされるのが、デンマーク生活協同組合連合会(FDB)だ。日本にも同様の日本生活協同組合連合会(CO・OP)があるが、衣食住のうち、日本では食に対する取り組みが大きいのに比べ、デンマークでは住に対する取り組みを重視し、1942年から1980年代まで家具部門に当たるFDBモブラーが存在した。丈夫で、美しく、使い勝手が良いうえ、誰もが手にしやすい価格帯の家具を提供し、国民の生活レベルの向上を図ったのだ。その監修をコーア・クリントが担い、初代代表をボーエ・モーエンセンが務めたことでも知られている。
本展はそうしたデンマークの家具デザインの歴史と変遷から始まる。FDBモブラーについて私もある程度知っていたが、国の豊かさとは政策次第であることを改めて実感させられた。その政策が実を結び、世界でも「デザイン大国」と称賛されるまでに醸成したデンマークで、20世紀半ばに異彩を放ったのがフィン・ユールである。建築、インテリアデザイン、家具デザインの分野で活躍した彼は、もともと、美術史家を志していたという背景を持つ。それが影響しているのか、何とも美しい家具をたくさん生み出した。羽を広げたペリカンに喩えた「ペリカンチェア」がもっとも個性的で有名な椅子だが、それ以外はどれも一見、オーソドックスな家具に見える。しかし柔らかい丸みを帯びた座面や背もたれ、滑らかな曲線の肘掛け、ほっそりとした脚というように、「美は細部に宿る」ではないが、細部を見れば見るほどその美しさの理由がわかってくる。これほどの数のフィン・ユールの家具を一覧できる機会は珍しく、思わずうっとりとしてしまった。
また、本展の魅力は何と言っても最後の章「デンマーク・デザインを体験する」である。室内にさまざまな椅子が点在し、それぞれに自由に座ることができた。フィン・ユールの家具も見た目の美しさだけではない。座ると、しっとりと包まれる感覚を味わえる。加えて展示品の大半を占める「織田コレクション」のオーナーで、椅子研究者として有名な織田憲嗣のインタビューと自宅公開の映像も流れていて、なかなか興味深く視聴した。
公式サイト:https://www.tobikan.jp/finnjuhl/
2022/08/18(木)(杉江あこ)
紅花の守人〜いのちを染める
会期:2022/09/03~未定
鮮やかな赤色を日本の伝統色では「紅(くれない・べに)」と呼ぶ。そもそもこれは中国・呉の国から伝来した藍という意味から「呉藍(くれあい)」と呼ばれ、後に「紅(くれない)」に変化した言葉だと言われる。藍はご存じのとおり、青色の染料だが、当時、日本でもっとも使われていた植物染料だったことから、ここでは染料全般を指す言葉として使われたのだろう。藍は庶民に広く親しまれた植物染料だったのに対し、紅は皇族や貴族ら高貴な身分にしか許されない特別な植物染料だった。なぜなら、金に匹敵するほど希少で高価なものだったから。現在、紅はもちろん藍ですら植物染料そのものが希少になってしまったが、実は山形県・最上川流域の小さな農村で原料の紅花生産と加工が密かに守り継がれているという。本作はその生産者たちを4年の歳月をかけて追ったドキュメンタリー映画だ。
染料の紅がどのようにつくられるのかを知る人はどのくらいいるだろうか。この映画では、紅花の花びらを一つひとつ手で摘み取るシーンから始まる。非常に素朴で地味な作業だ。そして摘み取った花びらを丁寧に水洗いし、揉み込み、日陰で発酵させる。そして発酵が進んだ花びらを臼に入れて突き、手で丸めて平らに伸ばして、天日干しをする。保存と輸送に適したこの形を「紅餅」と呼び、これが消費地に運ばれて染色に利用されてきた。こうした昔ながらの生産と加工を淡々と繰り返す紅花農家をはじめ、大手繊維製品メーカーを辞めて草木染めを追究する京都在住の染織作家、紅花を使ったレシピ開発に臨む料理研究家、紅花摘みの体験をする近隣の小学生たちなど、紅を巡るさまざまな物語が交差し紡がれていく。特に染織作家がインタビューで語る紅に対する熱い思いは、“紅に魅せられた人”という形容がぴったりだった。
かつて平安時代の皇族や貴族らは自身が夢中になったからこそ、庶民に対し「禁色」のお触れを出して紅を独占した。もちろん現在、化学染料だけで染色は事足りる。それなのに紅花生産と加工が守り継がれている意味は何なのだろう。それは目にした人にしかわからない、得も言われぬ魅力が紅にはあるからなのかもしれない。
公式サイト:https://beni-moribito.com
2022/07/28(木)(杉江あこ)
ゲルハルト・リヒター展
会期:2022/06/07~2022/10/02
東京国立近代美術館[東京都]
瀬戸内海に浮かぶ豊島(とよしま・愛媛県上島町)に恒久展示されているゲルハルト・リヒターの作品《14枚のガラス/豊島》を、一般公開される前に私は観たことがある。とあるNPOの仕事に携わっていた関係からだ。14枚のガラス板には周囲の竹林や目の前に広がる瀬戸内海、その遠くの島々がぼんやりした輪郭で映し出され、日本で言うところの「借景」が幻想的に表現されていた。単に景色が素晴らしかったのか、リヒターによるこの“仕掛け”が相乗効果をもたらしていたのか、いまとなってははっきりしないが……。
さて、日本の美術館では16年ぶりとなるリヒターの個展が開催中だ。会場には多岐にわたる表現方法の作品が並んでいたが、総じて観客に挑戦状を突きつけるような内容だったように思う。何より注目は4点から成る作品「ビルケナウ」だ。一見すると抽象絵画なのだが、タイトルが示すとおり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を主題としている。なんと抽象絵画の下層には、当時の囚人が隠し撮りした写真を元にしたイメージ画が描かれているのだという。しかし表面に表われているのは黒と白、ところどころに赤と緑を荒く塗り込んだ絵具のみ。もしタイトルも解説も知らずに観たならば、単なる抽象絵画にしか映らないのに、知ってしまうと、穏やかな気持ちではいられなくなる。いったい、そこに“本当は”何が描かれているのかと頭の中で暗い想像が巡るからだ。そうすると目に映る絵具ではなく、頭の中の風景がそこから滲み出てくるような感覚に襲われる。「どうだ、君らにこのイメージ画が見えるか」と、まるでリヒターに挑まれているような気持ちにもなった。しかもイメージ画の元になった同強制収容所の内部の写真(複製)が側で展示されていて、悲しくも、その暗い想像を助けた。
1932年にドイツで生まれたリヒターは、ナチス政権下で幼い頃を過ごしたことになる。ホロコーストを題材とすることは、おそらく自身のアイデンティティーに向き合うことと同義なのだろう。何度か取り組もうと試みたものの、この深刻な問題に対して適切な表現方法を見つけられず、晩年に差し掛かってようやくこの方法に到達したのだという。あくまでも観客の心の目に委ねたところが心憎い。豊島で観た同類のガラス作品も本展で展示されていた。当たり前だが、あの美しい瀬戸内海の景色はここにはなく、ガラス板に映るのは自分やほかの観客の影、周囲の作品だった。自分の目の前にある作品をどう観るか。どう捉えるのか。終始、それが試された展覧会だった。
公式サイト:https://richter.exhibit.jp/
2022/07/17(日)(杉江あこ)
Yui Takada with ori.studio CHAOTIC ORDER 髙田唯 混沌とした秩序
会期:2022/07/11~2022/08/25
ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]
本人の外見と生み出す作品とが一致しないクリエイターは多い。無骨な風貌の作家がとても繊細で美しい作品をつくり出すことはままあるが、グラフィックデザイナーの髙田唯はその逆だ。華奢で凛とした雰囲気に反して、どこか力の抜けた作品が多い。本展を観てますますそれを確信した。まず、会場1階で待ち受けるのは凧である。壁から天井にかけて、人の形を全面に記号的に描いた色とりどりの凧が網の目のように吊り下げられていた。「人と人とがつながり続ける世界」というメッセージがそこにはあるのだが、いかんせん手づくりの凧であるため、ゆるさを伴って伝わってくる。
地下1階にはさらに髙田唯ならではの「混沌とした」作品の数々が発表されていた。スポーツ新聞の記事や広告を小さく四角に切り取ったトリミング、駅や施設などで見られる黄と黒の縞模様のアテンションサインの写真、食品の成分表示の手書き模写など、さまざまなテーマのもとで収集や制作した結果や記録のようなものが並んでいた。彼は実験や観察を好むタイプなのだろう。街で自然発生している現象や人々の何気ない行為、痕跡を無視することができず、そこに人一倍の関心を寄せてしまう。もしかすると彼はそこにデザインの原初を見出そうとしているのではないか。
通常、専門教育を受けたり訓練を積んだりした人がプロのデザイナーとなるわけだが、非デザイナーでも人は身の回りのものを使いやすく加工したり、新たに何かをつくったりすることがある。プロではなくとも、そうした行為はデザインの一環と言える。髙田唯が着目するのは、そうした無意識や無作為の下で行なわれているデザインなのではないか。プロのデザイナーの目から見ると、そこに新たな発見や気づきがあるからこそ惹かれるのだろう。それは、どんなにプロとしての腕を磨いても決して到達できない未知の領域でもあるからだ。本展のタイトル「CHAOTIC ORDER」とは「混沌とした秩序」である。まさに混沌としていながらも、あるテーマで括ることで、そこに何らかの秩序が生まれるのを見て取れた。「混沌としたもの」への愛があるからこそできる試みだと痛感した。
公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000788
2022/07/15(金)(杉江あこ)