artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

1945年±5年

会期:2016/05/21~2016/07/03

兵庫県立美術館[兵庫県]

名古屋から神戸へ。「1945年±5年」は展覧会のタイトルとしては出色、もうそれだけでイメージが湧いてくる。蛇足だが、「1945年±5年」ていうと1945年を挟んだ10年間だと思われるだろうけど、ここでは1940年から50年までの11年間を指す。一瞬あれ?って思うでしょ。ともあれ、イメージが湧いてくるのはいいんだけれど、そのイメージというのは-5年(1940-45)が戦争画で、+5年(1945-50)が敗戦画という固定観念に由来するものだ。いや実際、前半はいわゆる作戦記録画だけでなく、広い意味で戦争画と呼ぶべき作品が大半を占めるし、後半は逆に焼け跡や打ちひしがれた人たちの像がたくさん選ばれている。例えば、和田三造《興亜曼荼羅》、藤田嗣治《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》、女流美術家奉公隊《大東亜戦皇国婦女皆働之図(春夏の部)》、戦後では福井芳郎《ヒロシマ原爆》、鶴岡政男《重い手》、丸木位里・赤松俊子(丸木俊)《原爆の図 第1部 幽霊》などだ。これらの作品によって1945という特異点がより強く浮かび上がってくるわけだが、たまにそれに当てはまらないアノマリーな作品が散見できるのが美術のおもしろいところ。前半では、息子をモデルに横たわる日本兵の遺体を描いた小早川秋聲の《國之楯》とか、悲しげに目をそらす婦人の顔が印象的な向井久万の《銃後を守る国防婦人会》などは、見方次第では反戦画ともいえるし、時流とはなんら関係なさそうなのに不穏な空気を醸し出す靉光、吉原治良、北脇昇らの作品は、抵抗なのか妥協なのか、グレーゾーンだ。後半では、斬新な戦争画を数多く手がけた向井良吉が明るい海辺の漁を描いた《まひる》、敗戦後とは思えない健康的なヌードを見せつける赤松俊子(丸木俊)の《裸婦(解放されゆく人間性)》、待ってましたとばかりに抽象画に手を染めた吉原治良の《群像》などが時代を超えている。出品は計210点。気になるのは、そのうち前半だけで150点、実に7割強を占めること。これは単に戦中期に見せるべき作品が多かったのでたくさん選ばれたということかもしれないが、別の見方をすれば、戦争中は反戦や抵抗(あるとすればだが)も含めて、美術への期待値(需要)が増大するのではないか。これは希望と不安を抱かせる。

2016/05/28(土)(村田真)

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木村充伯展 We Mammals

会期:2016/05/07~2016/06/11

ケンジタキギャラリー[愛知県]

名古屋市美からほど近いケンジタキギャラリーへ。木の板の表面をガシガシ削って人か動物のかたちに毛羽立たせ、色を塗り込む。地は白。動物のかたちは猫、犬、クマなどで、プリミティブなつくりなのに、毛羽立ちが体毛のようで妙なリアリティもある。おもしろいのは、鳥やリスなど小動物を彫った小さめの板を止まり木にのせた作品もあれば、板ではなく固まりから丸ごと彫って表面を毛羽立たせた彫刻もあること。バルケンホールを思い出させる作品もあるが、彼の興味はぜんぜん別のところにありそうだ。木村は以前、油絵具をパネルの上で固めた絵画とも彫刻ともいいがたい作品をつくっていたが、その固まりが動物の姿になり、今回はレリーフ状と立体に分かれた。動物は単なるモチーフでしかなく、絵画と彫刻の「あいだ」こそ彼の目指すところかもしれない。

2016/05/28(土)(村田真)

生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画

会期:2016/04/29~2016/07/03

名古屋市美術館[愛知県]

ちょっと遠いけど、名古屋と神戸へ日帰りの旅。まず、名古屋市美術館で開かれている生誕130年記念の「藤田嗣治展」。東近美の藤田展が生誕120年記念だったから、もう10年たったのか。この間の藤田の、とりわけ戦争画に対する関心の高まりと評価の変化には目を見張るものがある。つい20-30年前までは、藤田といえばちょっと軽蔑のこもった視線で見ていたのに(ぼく自身がそうだった)、戦争画について知れば知るほど藤田自身に興味が湧いてくるようになった。最近の若い人もおそらく戦争画から入って、その前にエコール・ド・パリの一員だったことを知る人が大半で、戦争画を知る前に乳白色の裸婦に魅せられた人はいないんじゃないか。だとすれば、没後半世紀近くたってようやく藤田にとって戦争画は致命的な汚点ではなくなり、むしろ歴史に名を刻むための名作群に祭り上げられたのかもしれない。その戦争画は今回、《アッツ島玉砕》《ソロモン海域に於ける米兵の末路》《サイパン島同胞臣節を全うす》という、ほぼ望みうる最高の出品。不思議なのは、戦争画と同じころに描かれたミレー風の《仏印風景》と、童話風の《孫娘とおばあさん》という西洋憧憬的な小品。いったい藤田はこれらも戦争画も本気で描いていたのか、と疑いたくなる。この戦争画を挟んだ前と後でリアリズムの度合いが変化するのも見どころ。戦前はプリミティヴィズムといってもいいような画風だったのに、戦後の例えば《X夫人の肖像》《庭園の子供達》《静物(夏の果物)》などは、これまでになく立体的で細密だ。そして60年代の宗教画になると、もはやリアリズムを通り越してあっちのほうに行ってしまう印象だ。藤田の展覧会は、作品を順にながめていくだけで大きな時代の流れに身を任せることができる。実に希有な存在だと思う。今回はランス美術館をはじめ海外からの出品も多く、初めてお目にかかる作品も少なくない。

2016/05/28(土)(村田真)

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TWS-Emerging 2016

会期:2016/05/21~2016/06/19

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

花沢忍、吉田裕亮、中野奈々恵の3人。前回に比べて3人とも見劣りするなあ。花沢は2階の壁に幅7メートルを超す超大作を展示した心意気は買いたいが、あまり感心するような絵ではない。吉田は灰白色を中心とする色面構成だが、おもしろい絵ではないし、中野は吹き出し、コマ割り、セリフがあってマンガっぽいが、ヘタの上塗りだし。

2016/05/27(金)(村田真)

試写『幸福は日々の中に。』

[東京都]

鹿児島市内にある知的障がい者施設、しょうぶ学園の日常を描いたドキュメンタリー映画。ここの入所者は基本的になにをしてもいい。好きな絵を描いたり、手仕事をしたり、歌ったり踊ったり。ときおり登場するたけしくんは、いつも中庭にしゃがみ込んでなにかを見ているだけ。カメラを向けても気にしないし、ごはんは? と聞かれても「いらない」。ある意味で外界から遮断された楽園ともいえるのだが、ここが楽園であるのはもうひとつ、彼らがネットにつながってないからでもあるだろう。かつて施設は物理的に外界から遮断されていただけなのに、いまでは情報的にも外界と隔てられている。そしてもし彼らが外に出ても、ネットにつながる可能性は少ない。もちろんネットにつながらないから楽園の住人でいられるのだ。そう考えるとネットというのは人間を容赦なく分断し、楽園から追放し、ダメにするものだと思う。それはともかく、彼らが外界とつながるひとつの機会が、障がい者と従業員のパーカッショングループ「otto & orabu」の公演。名称どおり「音」と「おらぶ(叫ぶ)」のコーラスで即興音楽を楽しむバンドだが、これがすばらしい。

2016/05/27(金)(村田真)