artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

鳴門市の増田友也建築群

[徳島県]

昨年開催された京都大学総合博物館の「増田友也の建築世界─アーカイブズにみる思索の軌跡」展で、徳島県の鳴門市に彼の作品が集中していることを初めて知って、訪れた。せいぜい数件を見学できればいいと思っていたが、保存運動に携わる現地の建築家、福田頼人と谷紀明による案内のおかげで、効率的にまわり、なんと現存する18作品すべてに立ち寄った。もっとも、いくつかの学校や幼稚園が廃校となっていたこともあり、外観のみ、もしくは窓から室内をのぞくといったケースがほとんどだったからこそ、これだけの数を稼ぐことができた。内部空間にも入ることができたのは、たまたまイベントをやっていた《島田小学校・幼稚園》(1981)と、校庭がいちご狩り農園とカフェに転用された《北灘西小学校》(1977)などである。ともあれ、ファサードだけ見映えを整える近年の安普請の建築と違い、いずれも立体的な造形として、密度の高いモダニズムの建築を実現し、豊かな空間の体験がつくられていたことには感心させられた。正直、増田は京都大学の難しい建築哲学の人という印象だったが、子どもにやさしい空間であるというギャップにも驚いた。



《瀬戸幼稚園》




《島田小学校》全景




《島田小学校》




《北灘西小学校》


学校は各地に点在しているが、建築が相互に対話する《勤労青少年ホーム》(1975)、《老人福祉センター》(1977)、《文化会館》(1982)、あるいはブリッジでつながれた《鳴門市庁舎》(1963)と《共済会館》(1973)は、都心において有機的に関連する建築群となっていた。残念ながら、後者と連結していた《鳴門市民会館》(1961)は、近年解体されたが(跡地に内藤廣による建築が完成する予定)、まさに群として都市建築が構想されたことは、デザインが単体になりがちな日本において貴重な事例だろう。鳴門市では、小学校と幼稚園がセットで建設されるケースが多いことも興味深い。開口、ブリーズ・ソレイユ、トップライトなど、増田のデザインには、ル・コルビュジエの影響を指摘できるが、都市建築的な展開は、四国のチャンディガールというべきプロジェクトである。おそらく、開発の圧力が少ない地方都市ゆえに、まだ19作品のうち18作品も残っている状況も特筆すべきだ。鳴門市では、越後妻有や瀬戸内のような芸術祭はないが、廃校を宿泊施設に変えるなど、リノベーションによって活用されることが望まれる。



《老人福祉センター》



《文化会館》



左は《鳴門市民会館》、右は《共済会館》


関連レビュー

増田友也の世界─アーカイブズにみる思索の軌跡|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年12月15日号)

2022/04/02(土)(五十嵐太郎)

石巻の震災遺構

[宮城県]

石巻工房のショールームでもあるが、宿泊も可能な《石巻ホームベース》(2020)にて、トラフ建築設計事務所がデザインした部屋で一泊した(ここはデッキの方が部屋より広い)。共有部の広い吹き抜けはカフェを併設しており、気持ちが良い空間である。近郊では、コンビニを教会(!)にリノベーションした《石巻オアシス教会》(2016)を発見したが、これはめずらしい事例だろう。続いて、《マルホンまきあーとテラス》(2021)を再訪した。これは復興建築としても画期的なデザインだが、藤本壮介の国内の代表作になるだろう。昨年の訪問時はまだオープン前だった博物館の見学が、今回の目的である(ちなみに、公式HPの表記は、いまも「準備中」という誤解を招くのが気になった。実際は博物館のネット用のコンテンツが準備中という意味なのだが)。宮城県美術館などで文化財レスキューが行なわれた後、石巻に戻ってきた高橋英吉の彫刻群や、アナログ的な時層地図の展示の仕かけが印象に残った。


《石巻ホームベース》



高橋英吉の彫刻群


昨年はコロナ禍で入れなかった、《みやぎ東日本大震災津波伝承館》(2021)をようやく見学することができた。建築は津波の高さや被災の時刻をデザインに組み込んだものだが、プログラムとの齟齬、後から別のコンテンツが割り込んだこと、あれだけの大災害なのに絶対的に面積が少ない、全体的に内容が薄い、明るすぎて導入の映像が見えにくいなど、やはり展示については問題が多い。ボランティアの案内が貴重な話をしてくれるのが、せめてもの救いだった。向かいの門脇小学校も、震災遺構として整備が終わっていた(4月から一般公開)。震災遺構・大川小学校とその伝承館(デザインはAL建築設計事務所らが担当)は、実際に裁判も行なわれたためか、はっきりと子どもの犠牲者が出たことに対し、責任を認めている展示であり、このような例はほかであまり見たことがない。ここも遺構内には立ち入れないが、さまざまな角度から見学は可能であり、実物の存在は重みをもつ。なお、「記憶の街」の模型は、なぜか道路向かいの小さい民間施設で収蔵・展示していた。


《みやぎ東日本大震災津波伝承館》 当初展示室にする予定ではなかったエリア



門脇小学校



大川小学校



責任を認める大川小学校の伝承館


市内に戻って、勝邦義氏の案内で、石巻のキマワリ荘を訪問した。1階はかんのさゆりの写真展が開催され、忍者屋敷のような階段を上ると、mado-beyaで中﨑透らの三人展、その奥にサウンド・インスタレーションがある。すなわち、小さな民家に複数のギャラリーが同居するスペースだが、Reborn-Art Festivalの副産物らしい。その隣もユニークな電気屋であり、自動車などのメカのイラストレーター佐藤元信のドローイングを展示していた。

関連記事

10年目を終える今、災害伝承展示のあり方を考える|山内宏泰:キュレーターズノート(2022年03月01日号)
東日本大震災復興祈念公園は誰のためのものか?|山内宏泰:キュレーターズノート(2020年10月15日号)

2022/03/15(火)(五十嵐太郎)

陸前高田の震災遺構と復興遺構

[岩手県]

1年半ぶりに陸前高田市を訪れた。前回は《高田松原津波復興祈念公園  国営追悼・祈念施設》がフルオープンしておらず、内藤廣が設計した《東日本大震災津波伝承館》(2019)と《道の駅高田松原》(2019)、海へと向かう《祈りの軸》(2019)を含む、中心部のみが公開されていたため、今回は初めて全体のエリアを歩いた。特筆すべきは、震災遺構となった旧道の駅であるタピック45、ユースホステル、奇跡の一本松などを間近に見ることができるようになったこと。特にタピック45は、伝承館─道の駅から続く《復興の軸》(2019)を受け止める重要な場所である。公園内では、土砂を運び、かさ上げの復興工事を支えた巨大なベルトコンベアーのコンクリートの基礎も、いくつか点在する。ただし、なぜかあまり現地で説明はないため、これも震災遺構だと勘違いされるかもしれない。ちなみに、これの位置づけとしては「復興遺構」となる。またガラスが破れ、室内は津波がぶち抜いたものの、構造体は残った5階建ての旧下宿定住促進住宅も、震災遺構として整備された。地形は完全に変わってしまったが、いくつかの建築が残ることによって、11年前の3月末に現地で目撃した被災直後の風景を思い出すことができた。もっとも、安全のため、いずれの震災遺構も内部に入ることはできず、外からの見学のみである。


タピック45



奇跡の一本松からユースホステルを向く



おそらく未整備の震災遺構



ベルトコンベアーのコンクリートの基礎



旧下宿定住促進住宅


前回はコロナ禍のため、子育て支援施設のエリアが閉鎖されていた、隈研吾の《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》(2020)も再訪した。その隣には内藤廣の設計による《陸前高田市立博物館》が完成しており、やはり速いスピードで街が変化している。ただし、オープンは今秋らしい。道路を挟んで向かいの商業施設のエリアでは、かさ上げのために、いったん解体した、《みんなの家》(2012)の再建プロジェクトも開始していた。第13回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展(2012)の日本館の展示では、金獅子賞を獲得したもっとも有名なみんなの家である。興味深いのは、陸前高田市において建築めぐりスタンプラリーが始まっていたこと。なるほど、復興を通じて、数々の有名建築家が作品を手がけている。釜石市でも、こうした復興建築を新しい街の財産として、今後どのように紹介するか考えていたが、ここでも同じような試みがなされていた。


内藤廣《陸前高田市立博物館》



手前は再建する《みんなの家》


関連レビュー

大船渡、陸前高田、気仙沼をまわる|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年09月15日号)

2022/03/14(月)(五十嵐太郎)

豊田市の現代建築

[愛知県]

豊田市美術館の企画として、「豊田市の現代建築~美術館と2024年にオープンする博物館を中心に」のオンライン・レクチャーを行なった。これにあわせて改めて豊田市の現代建築もまわったので、いくつか紹介しよう。時期としては、槇文彦による《トヨタ鞍ヶ池記念館》(1974)から2024年に開館する《豊田市博物館》までの半世紀をとりあげた。この間の主要な公共施設は、実は市のホームページにおいて「豊田市の建築物一覧」で紹介されている。また筆者が芸術監督を担当したあいちトリエンナーレ2013にあわせて制作した『あいち建築ガイド』(美術出版社、2013)でも、特別に豊田市のページを設け、《トヨタ鞍ヶ池記念館》、谷口吉生の傑作《豊田市美術館》(1995)、黒川紀章の「恐竜橋」とも呼ばれた《豊田大橋》(1999)と可動式の大屋根をもつ《豊田スタジアム》(2001)、韓亜由美の《豊田ジャンクション》のカラーデザインや「テクノ・フォレスト」構想(2002)、そして妹島和世によるぐにゃぐにゃのガラス建築、《豊田市生涯学習センター逢妻交流館》(2010)の解説が掲載された。



槇文彦《トヨタ鞍ヶ池記念館》



《豊田市美術館》から見る《豊田大橋》と《豊田スタジアム》



妹島和世《逢妻交流館》


レクチャーのために年表を作成して気づいたのは、意外に1980年代の建築が少ないこと。《豊田市民文化会館》(1981)くらいである。したがって、いわゆるポストモダンのデザインが少ない。《豊田自然観察の森 ネイチャーセンター》(2010)は、《大阪中之島美術館》(2022)を手がけた遠藤克彦がコンペで勝利し、設計した建築である。これは森へと続く、道の建築化をコンセプトに掲げ(そう言えば、中之島美術館のエスカレータの動線も印象的だった)、「く」の字型のヴォリュームを背中合わせに違う高さで交差させるフォルマリズム的な手法によって、さまざまな場を生みだしていた。なお、豊田市に拠点を置く建築家としては、ユニークな住宅を発表する佐々木勝敏が挙げられる。豊田市美術館の隣地にオープン予定の博物館は、コンペによって坂茂が設計者に選ばれたが、筆者はそのとき審査委員長を担当した。二次審査では、隈研吾、石上純也、studio velocity、佐藤総合計画・塚本建築設計事務所共同企業体も残っていたが、美術館のランドスケープを担当したピーター・ウォーカーを再起用し、博物館とつなぐ坂のアイデアはほかにないものだった。また20世紀のモダニズム的な空間を極めた美術館に対し、博物館の案では、木の構造を導入することで、21世紀的な建築を表現しようとしたことも特筆される。



遠藤克彦《豊田自然観察の森 ネイチャーセンター》



佐々木勝敏《志賀の光路》



豊田市博物館の模型(スタディ段階)


豊田市美術館オンライントークシリーズvol. 1 五十嵐太郎「豊田市の現代建築~美術館と2024年にオープンする博物館を中心に」

開催日:2020年3月13日(日)
アーカイブ(YouTube):https://www.youtube.com/watch?v=UAKu_Bz0qzg

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大阪中之島美術館「Hello! Super Collection 超コレクション展 ─99のものがたり─」展ほか|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年03月15日号)

2022/03/13(日)(五十嵐太郎)

スティーブン・スピルバーグ『ウエスト・サイド・ストーリー』

一度のみならず、劇場で見ておくべき傑作だったので、映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の二度目の鑑賞を行なった。そもそも全曲を覚えていたくらいの傑作ミュージカルの映画を、改めてスティーブン・スピルバーグが映画化したわけだが、期待以上の完成度に到達した作品である。当初はなぜ、今さらこの映画なのか、という疑問をもっていたが、トランプ前大統領によって加速した分断の時代だからこそ、いまこのリメイクが意味をもつ。またあらゆることが、VFXによって表現できてしまい、かえって驚きが消えてしまった映画界において、生身の人間の歌と、抜群の切れ味のある踊りによって驚異的な力を発揮している。

実際、本作ではいわゆる有名な俳優はキャスティングされていない。だが、その身体能力の凄さによって、観客を魅せることに成功している。ミュージカルという映画ジャンルは、登場人物が歌いだすと、しばしば物語の進行が止まってしまう。下手をすると、映画としては退屈しかねないのだが、バーンスタインによる原曲の良さ、歌の上手さ、そして都市空間におけるダイナミックな動きがノンストップで続くことによって、むしろ鑑賞者の目と耳を釘付けにさせる。ちなみに、バーンスタインの名曲群は、「トゥナイト(クインテット)」の5重唱や「ア・ボーイ・ライク・ザット/アイ・ハブ・ア・ラヴ」、「アメリカ」など、相反する台詞がぶつかる掛合いの部分が多く、実はけっこうオペラ的であることにも気付かされた。

さて、都市という視点では、鉄球による解体作業中の建設現場と、モダニズム的な再開発を促進したロバート・モーゼスに対する反対運動のプラカードが映っていたように、破壊されていくスラム街とされた地域が舞台だった。そしてオペラ、クラシック音楽、バレエなどのパフォーミング・アーツの拠点となるリンカーン・センターや高層マンションの完成予想図などが示される。すなわち、モーゼス的な都市計画に叛旗をひるがえし、路上の地域コミュニティを重視したジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(1961)が執筆された時期と重なるだろう(映画の設定は、1957年)。



リンカーン・センター


この映画は臨場感を出すべく、さまざまな場所で野外ロケをしているが、印象的だったのは、マリアとトニーがデートに出かけ、愛を誓うシーンである。これはマンハッタン北端にたつ、ヨーロッパの中世の建築を移築して合体させたクロイスターズ美術館で撮影された。それゆえ、二人の会話の流れだったとはいえ、空間をステンドグラスのある教会に見立てることができたのである。



クロイスターズ美術館


2022/03/08(火)(五十嵐太郎)