artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

あいちトリエンナーレ2013 公開コロキウム「アートによって何が始まったのか──越後─瀬戸内/神戸/あいち」

愛知芸術文化センター12階 アートスペースA[愛知県]

同じ会場において、夕方から長田謙一の司会で、「アートによって何が始まったのか」のシンポジウムが開催された。非都市の越後妻有─瀬戸内国際芸術祭(北川フラム)、脱「現代美術」の神戸ビエンナーレ(大森雅夫)、テーマ性のあいちトリエンナーレ(五十嵐)がそれぞれ報告した後、暮沢剛巳と藤川哲が参加して共同討議を行なう。それぞれの違い、立ち位置が明快になる。比較するとよくわかるのだが、ディレクターが固定している越後─瀬戸内、神戸に対し、あいちは芸術監督が交代するので、毎回内容が大きく変わることが特徴になりうる。またホワイトキューブのある大きなハコモノ(芸文)を使うが、同時に「愛知県」のあらゆる場所が会場になりうる展開の可能性も持つだろう。

2013/10/19(土)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2013 パブリック・プログラム クロス・キーワード「大震災と文化財 場所、記憶、そして…」

愛知芸術文化センター12階 アートスペースA[愛知県]

愛知芸文センターにて、「大震災と文化財 場所、記憶、そして...」のシンポジウムが開催された。リアスアーク美術館の山内宏泰の語りは、多数開催されたあいちトリエンナーレのトークの白眉である。まず、文化を蓄積された人々の生活や習慣と定義しつつ、津波で失われた、記憶再生スイッチとしての風景やモノの意味について論じる。と同時に、すでにそれ以前から失われようとしていた文化についても批判的に言及した。3.11直後、ときに批判されながら、現場の写真撮影や被災物の収集を行なった成果は、現在の常設展示となり、それに寄せられたテキストと併せて、地域の住人(そして現地以外の人にとっても仮想ながら)の記憶再生のスイッチとなる。彼は、歴史的な出来事に遭遇した地域のミュージアムの使命について、突き刺さるような言葉で語る。実は3.11の以前にも、警鐘を鳴らすべく明治三陸沖津波の展示を開催していたが、話題にならず、来場者数が惨敗だった。続いて、陸前高田や石巻の文化財レスキューに参加した名古屋市美の清家学芸員、愛知県美の大島学芸員、愛知県美の村田館長が阪神淡路大震災後のレスキュー経験を報告した。災害は救われる「文化」財について、あるいは地域におけるミュージアムの存在意義についても改めて考えさせ、思い悩む契機になる。

2013/10/19(土)(五十嵐太郎)

NAKAYOSIな1日店長DAY!!!! 泉太郎「眼鏡狩りまでのカウントダウン10:胡瓜大根」

VISITOR CENTER AND STAND CAFE[愛知県]

長者町のビジターセンター&スタンディングカフェの一日店長を泉太郎が務めた。ライブで似顔絵を描くイベントをやっていたのだが、これがすごい技である。100%彼が描くのではなく、その辺の雑誌の束から素早く下地になる顔写真を探し、それに少し加筆するだけで、個別の似顔絵になってしまう。イメージの類似を発見するスピードと、即興的な観察眼の鋭さに感心した。

2013/10/13(日)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2013 ビル・モリソン 映像プログラム「トリビュート・パルス」

会期:2013/10/13

愛知芸術文化センター12階 アートスペースA[愛知県]

映像プログラムのビル・モリソン「トリビュート・パルス」は、劣化した古い映画フィルムをデジタル技術で復活させ、画像の乱れをそのまま見せる。志賀理江子の写真にも通じる、どこか恐ろしげな、生々しいメディアのモノ性を強く感じさせる、めくるめく映像体験だった。だが、最終パートは、それまでとはまるで違うものとなり、水害に襲われた映像を見せるという、驚くべき展開だった。

2013/10/13(日)(五十嵐太郎)

あいちトリエンナーレ2013 パフォーミングアーツ ARICA+金氏徹平「しあわせな日々」

会期:2013/10/12~2013/10/14

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

ARICA+金氏徹平「しあわせな日々」は、身体がほぼ埋まった異常事態にもかかわらず、些細なことをしゃべり続け、日常の所作を維持しようとする女を描く、ベケットを原作にした演劇である。今回は、金氏徹平が舞台装置を担当したが、いつものカラフルなお菓子細工のような、食べられそうな雰囲気とは違うタイプの作品をつくり、それが秀逸だった。これがNHK紅白歌合戦での小林幸子の身動きできぬ巨大ドレスのような、被災物の集積にも見える身体の鎧である。「しあわせな日々」において、安藤朋子は動けないから上半身だけ、そして最後は頭だけで演技を行なう。今回のトリエンナーレでは、梅田宏明も、立ち位置をほとんど変えずに踊った。田尾下哲による「蝶々夫人」と朗読劇も、立ち尽くすシーンが重要である。立つという意味では、「われわれはどこに立っているのか」というテーマと呼応し、片山真理、クリスティン・ノルマン、ミハイル・カリキスも場所に立つことをめぐる作品だった。

2013/10/13(日)(五十嵐太郎)