artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

ヤマザキマザック美術館所蔵作品展

会期:2010/04/23

ヤマザキマザック美術館[愛知県]

2010年4月にオープンした、精密機械の会社のコレクションを展示する施設。日建設計が手がけたスマートなオフィスビル(2010)の4階と5階が美術館になっているが、エレベータを降りて、いきなり視界に入る、アンチ・ホワイトキューブの空間に驚かされた。作品は18世紀のロココから始まり、19世紀のフランス絵画がメインだが、いわゆるヨーロッパ宮殿風の内装である。なるほど、ヤマザキマザックの社長が海外出張のときに見学していた西洋美術は、宮殿に展示されていることが多い。そうした箱の記憶も再現したのだろう。お台場のヴィーナス・フォートと同様、現代的な外観のビルと、ヨーロッパ的なインテリアという分裂症的なデザインの対比が著しい。個人的には、4階の1900年前後の装飾芸術、すなわちアールヌーボーの家具、エミール・ガレの工芸などが楽しめた。とくに前者は家具から食器まで、当時の部屋をまるごと再現している。ともあれ、こういうコレクションがいきなり公開されることに、愛知がもつ底力を感じた。

2010/12/05(日)(五十嵐太郎)

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ビジネス・オブ・デザイン・ウィーク(BODW)

会期:2010/11/29~2011/12/04

香港コンベンション&エキシビション・センター[香港島ワンチャイ地区]

design Ed Asiaのシンポジウムにおいてレクチャーを行なうために、香港のビジネス・オブ・デザイン・ウィーク(BODW)に参加した。今年はパートナー・カントリーを日本に設定していたので、飯島直樹、佐藤卓、橋本夕紀夫、中村竜治ら、日本から多くのデザインや建築の関係者も訪れていた。会場は巨大なコンベンションセンターである。千人近い聴衆がつめかけたフォーラムのオープニングでは、深澤直人の講演がトップだった。改めてアフォーダンスへの関心がうかがえたが、ゼロ年代以降の建築界でも、小難しい言葉よりもアフォードを、という雰囲気はある。ちなみに、最終日のラストの講演は隈研吾。展示パートは、学校、企業、各種機関などのブースが並び、東京デザイナーズ・ウィークのような雰囲気だった。BODWの関連イベントでは、いまだすさまじい有刺鉄線に囲まれたヴィクトリア監獄を展示場にした「De tour」が印象深い。香港と日本におけるデザイン関係の学校の作品のほか、無印良品(谷尻誠も参加)や中山英之による檻のなかの大量の水チューブなどが展示されていた。香港がデザインに力を注いでいることが強く伝わってくるイベントである。

2010/12/03(金)(五十嵐太郎)

三浦展+SML『高円寺 東京新女子街』

発行所:洋泉社

発行日:2010年9月24日

50のキーワードから読み解く、三浦展+渡和由研究室『吉祥寺スタイル』(文藝春秋、2007)に続き、高円寺の本が刊行された。今度は、コンビニ研究(『10+1』24号)や広場研究を行なう、女性建築家のユニットSML(西牟田奈々+和田江身子)がパートーナーである。それは近年、高円寺が「森ガール」の聖地と呼ばるようになり、かわいいお店が増え、女子の街として人気を集めているからだろう。住みたい街のランキングも上昇している。フィールドワークにもとづく、街の詳細な観察は、SMLならではの手法であり、大きな美しい写真ではなく、こまごまとした写真は高円寺にふさわしい。例えば、看板、階段、郵便受けなど、テーマ別のヴィジュアル比較である。街の魅力を一冊の書籍で紹介する形式として、吉祥寺本も高円寺本も楽しめる内容だ。路上観察学のトマソンのようなアート的な見立てのインパクトではなく、細かい差異を発見する姿勢が現代的である。
ただ、一点気になるのは、中央線沿いの街に対する無条件な称賛だ。筆者も吉祥寺に長く住んだ経験があり、この街の良さはよく知っている。だが、郊外の風景や過防備化する都市への批判として、中央線沿いを対比的にもちあげるだけでよいのか?逆立ちしても、郊外は高円寺にはならないだろう。本気で社会の郊外化を心配するなら、中央線沿いのユートピア的な素晴らしさに酔いしれるだけでは不十分のように思われる。

2010/11/30(火)(五十嵐太郎)

『アーキテクチャとクラウド 情報による空間の変容』

発行所:millegraph

発行日:2010年10月1日

まず最初に驚いたのが、背表紙にしかタイトルはないこと。表紙だけでは何の本かほとんどわからない。店頭での平積みによる初速の販売はあまり期待しないということなのか。なるほど、富井雄太郎の編集後記によれば、電子書籍元年と言われる2010年だが、そこに踏み切るには時期尚早と判断し、Amazonの販売を主軸に考えたという。
さて、本書のテーマは、「アーキテクチャ」と「クラウド」という、いわば現在もっとも流行しているキーワードを二つ掛け合わせたものだ。若い読者が興味をもたないわけがない。ヴィジュアル・メインのコンテンツではなく、対談やインタビューを軸としている(佐藤信が編集している『談』のスタイルにも近い)。これを読みながら思ったのは、かつては『建築文化』や『10+1』などの雑誌が、このような特集を組んだであろうということだ。が、周知の通り、ゼロ年代に入り、既存の建築雑誌が激減していった。そんななかで独自に本書が制作された過程そのものが、まさに現在のメディアの過渡期をよくあわらわしている。
本書は原広司×池上高志の対談に始まり、その後は柄沢祐輔、藤村龍至、森川嘉一朗、南後由後など、この種のテーマでは、おなじみの1970年代生まれのメンバーが登場している。とくに興味深いのは、吉村靖孝×塚本由晴の対談だ。前者は現代的な資本と情報の環境のなかから建築を再定義し、後者は情報というテーマを新しさだけから考えるのではなく、これまでの建築の蓄積のなかから位置づけようとしている。つまり、60年代生まれと70年代生まれのあいだの、新旧の価値観の違いが浮き彫りになっているのだ。識者の意見を拝聴するのではなく、また異分野の類似した思考を確認しあうのでもなく、同業者における思想の差異をぶつけあう対談はやはりスリリングだ。
はたしてアーキテクチャとクラウドが根本的に建築を変えるのか。それとも、狼少年のように、何度も繰り返される騒動のひとつとして歴史に残るのか。少なくとも、建築は最先端のテクノロジーではなく、もっとも遅い技術でもある。最新の建築がいつも過去よりすぐれた空間というわけでもないし、世界の多くの人々は昔と変わらない空間を享受している。それは歴史が証明してきたことだ。だからこそ、われわれが生きているいま現在が建築の歴史にとって革命的な瞬間になるかもしれないと特権的に唱えられる姿勢には、完全には同意できない。しかし、ここには未来を切り開こうという若さはある。

2010/11/30(火)(五十嵐太郎)

『ねもは 01』

発行所:ねもは

発行日:2010年

2010年12月、文学フリマにてデビューした建築系同人誌である。
東北大の大学院生、市川紘司の編集と企画によって実現されたものだ。内容は、特集「絶版★建築ブックガイド40」のほか、大室佑介、斧澤未知子、加茂井新蔵による論考を収録している。なお、鈴木博之著の『建築は兵士ではない』から始まる、40冊のセレクションは、編集後記によれば、『建築の書物/都市の書物』(INAX出版)、ならびに『建築・都市ブックガイド21世紀』(彰国社)との重複がないことが意図されており、補完しながら読むべきテキストという文脈になっている。若手の執筆者が、現在流行の建築家を論じるなら、いかにもありそうなのだが、過去の絶版本をいまの文脈から再読するという企画は、なかなかユニークである。いずれの書評も、著者の紹介や本の背景など、守るべき最低限のルールがきちんとクリアされており、多くの執筆者の寄稿であるにもかかわらず、あまりむらがない。実際、既存の雑誌の書評でも、こうした基本的なことができていないものが少なくないことを考えると、評価すべきポイントだと思う。文字数も充分ある。図版やイメージ、あるいは対談や語りよりも、文字を中心とする、久しぶりの密度の高い建築批評誌としても重要である。とりわけ、「擬似建築試論」(「.review001」2010年)の続編を執筆している、加茂井新蔵の評論は本格的だ。
本書のもうひとつの大きな意義は、1980年代生まれの書き手が、これだけまとまったかたまりで可視化された初の試みであることだ。おそらく、現在も『建築文化』や『10+1』などの紙による雑誌が継続していれば、寄稿していたであろう若手が、自らメディアを立ち上げた状況は、きわめて現在的である。筆者もかつて大学院生のとき、南泰裕や槻橋修らと『エディフィカーレ』という同人誌を刊行した。その後、若手の自主メディアの系譜としては、90年代後半にぽむ企画のホームページが登場し、ゼロ年代には藤村龍至によるフリーペーパー、「ラウンド・アバウト・ジャーナル」が新しいシーンを生みだしている。『ねもは』の出現は、それに匹敵するインパクトだ。実は、巻頭言や前書きがなく、いきなり特集が始まる構成に意表をつかれたのだが、方向性を示すマニフェストはあえて掲げていない。次の課題は継続することだろう。

http://nemoha.web.fc2.com/

2010/11/30(火)(五十嵐太郎)