artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

原克『美女と機械』

発行所:河出書房新社

発行日:2010年1月30日

本書は、20世紀において、いかに女性の理想的な体型を求めてきたか、あるいは体型が求められてきたかを批判的に分析する、身体論である。原克は、雑誌の記事や広告の写真を素材に、健康=美の神話や身体のイメージを追いかけていく。その特徴は、ジェンダー論よりも科学の表象の問題として読み解く点である。なるほど、空気式バスト成形下着、ストレッチ機械、ベルト式振動機、拷問器具のようなストレッチ寝台、電動式乗馬マシン、体重計など、さまざまな器具が身体のまわりに登場した。通販でも人気の商品である。そして健康工場のようなモダンな病院。コルセットから解放された近代以降も、矯正やエクササイズを通じて、女性の身体は機械と接合した。理想の身体の神話によれば、痩せ型が批判され、スリーサイズがつくる曲線が美を生み、すぐれた男性と結婚でき、優秀な子供を産める。本書は、見慣れた身体の形成に機械がすでに介入していたことを教えてくれる。

2010/01/31(日)(五十嵐太郎)

原広司『YET』

発行所:TOTO出版

発行日:2009年12月25日

わずか2,000円で、フルカラー。しかも、全文がバイリンガル。京都と大阪と札幌に都市のランドマークとなる巨大建築を実現し、70歳を過ぎてもなお走り続ける原広司のこれからを堪能できる一冊だ。こうした豪華な本をつくれるのは、TOTO出版ならではの企画だろう。『YET』というタイトルがついたのは、彼が提示した構想でまだ未完のプロジェクトを紹介しているからだ。磯崎のアンビルドは、過去─現在─未来の時間の錯乱であり、現実と虚構も反転させるトリックである。一方、原の『YET』は、1965年の有孔体の世界から2008年のΣ3まで、40の作品を通じて、未来に投げかける強いヴィジョンを打ちだす。それは思惟を重ね、言葉によって構築された固有の概念が、建築に結晶していく意志というべきものだ。90年代以降に定番となった日常の生活の延長としての建築ではない。宇宙のスケールから、原は建築を構想している。京都駅が完成したとき、ニュータイプの空間が実現したと感じたが、まさに来るべき新人類のための建築なのだ。

2010/01/31(日)(五十嵐太郎)

イリヤ/エミリア・カバコフ『プロジェクト宮殿』

発行所:国書刊行会

発行日:2009年12月15日

ロシアのアーティストによる夢のアイデア集というべき本である。「プロジェクトを集積した宮殿を造る」というメタファーが述べられているように、建築的にも読めて興味深い。実際、建築家ならば、アンビルドやユートピア的な計画になるだろう。ちなみに、プロジェクト宮殿のインスタレーションは、バベルやタトリンによる第三インターナショナル記念塔など、文化史的な記憶を背負う螺旋の構造体になっている。もっとも、建築家がある種の社会性をおびた提案を行なうのに対し、アーティストはときには馬鹿馬鹿しい、あるいはほほえましいイノセントな発想を行なうことが重要だ。本書をめくると、さまざまな思いつきがスケッチ付きの仕様書として記述されている。例えば、「空飛ぶ部屋」「いちばん合理的な刑務所」「雲をあやつる」など、日常と夢のあいだを往復するためのウイットに富んだプロジェクトが続く。

2010/01/31(日)(五十嵐太郎)

渡辺真弓『パラーディオの時代のヴェネツィア』

発行所:中央公論美術出版

発行日:2009年12月25日

本書は、もっとも繁栄していた16世紀のヴェネチアに焦点をあて、リアルト橋、都市改装、パラーディオの活動(住宅ではなく、主に教会を手がけていた)、そしてサンソヴィーノやサンミケーリなど、ほかの建築家や水利技師について詳細に論じている。サンソヴィーノやパラディオが工事に失敗したり、雨漏りをして、損害賠償をしたというエピソードも興味深い。建築のデザインを分析しつつ、それが都市にフィードバックしていく。ゆえに、本書はヴェネチアの都市史でもある。そして16世紀はまさに都市景観にとって重要な完成期だったという。単に水の都というだけではなく、重層的な時間を刻む都市を形成したからこそ、ヴェネチアは素晴らしい景観を獲得した。筆者が2008年のヴェネチア・ビエンナーレの日本館のコミッショナーをつとめていたとき、著者の渡辺さんが会場に訪れたことを思い出しながら読んでいたら、あとがきでそのときのことについて触れていた。実際、彼女の視線は過去の話だけではなく、サンティアゴ・カラトラヴァや安藤忠雄のプロジェクトなど、現代のヴェネチアの状況についても向けられている。なお、本書には付録として、パオロ・グァルドによるパラーディオ伝の翻訳もつく。

2010/01/31(日)(五十嵐太郎)

宇野常寛編『ゼロ年代のすべて』

発行所:第二次惑星開発委員会

発行日:2009年12月31日

世代交代を印象づける編集方針になっており、なるほど90年代から活動している論客で、この本にも参加しているのは、宮台真司と東浩紀ぐらいである。あれほど80年代から90年代を席巻したニューアカデミズム、あるいは『へるめす』や『批評空間』的な布陣は皆無だ。サブカルチャーを中心にさまざまなジャンルを総括しているが、建築や都市と関連が深いのは、「〈アーキテクチャ〉再考──建築・デザイン・作家性」の鼎談と、「『郊外の現在』──ジモト・ヤンキー・グローバリゼーション」だろう。実はいずれも筆者の仕事が参照されており、前者ではスーパーフラットをめぐる建築論、後者では『ヤンキー文化論序説』に触れている。10年前の出来事がもう歴史化されていることに加え、そのまま伝わらないことを興味深く思った。少なくとも、スーパーフラットと建築論を接続するときに、筆者は繰り返し、ひとつはファサードの表層に対する操作、もうひとつはプログラムや組織におけるヒエラルキーの解体を指摘したはずだが、五十嵐は表面性しか触れていなかったことになっている。つまり、スーパーフラット論も表層的に読まれたと言えなくもないが、まあ、歴史とはそんなものだ。ショッピングセンターこそ考えるべきというきわめてゼロ年代的な主張が、10年後どのような成果をあげるかに期待したい。かつて森川嘉一郎が建築は終わるとうそぶいた議論は、それこそ建築界において定期的に登場するオオカミ少年的な言説だったのに対し、藤村龍至らの批判的工学主義ラインは新しい職能のあり方を具体的に想像しており、生産的である。ところで、60年代から70年代にかけても、建築家は都市計画、高層ビル、工業住宅など、幾つかのジャンルに接近しようと野心を燃やしたが、いずれも撤退した。敗北の歴史が続く。今度こそは成功して欲しい。お手並み拝見である。なお、ゼロ年代の「すべて」において、現代美術がごくわずかな記述しかないことも気になった。編集者サイドが興味をもっていなかったのかもしれない。ともあれ、短いテキストでは、外部と接続する村上隆がいなかったゼロ年代という総括がなされている。単純にアートの世界が不毛だったのか、それともアートの言説をサブカルチャー論壇に送り込む新しい論客が登場しなかったからなのか。どうも後者のような気がする。少なくとも、建築界は人文系にプラグ・インする藤村龍至を輩出した。

2010/01/31(日)(五十嵐太郎)