artscapeレビュー
五十嵐太郎のレビュー/プレビュー
『建築雑誌3月号』
発行所:日本建築学会
発行日:2010年3月
特集の「ナイーブアーキテクチャー」が目を引く。現在、もっとも注目されている現象、すなわち繊細な空間のデザインにスポットを当てているからだ。本来、こうした企画は『10+1』や『建築文化』など、民間の雑誌が組んでいたが、いまや両者ともに存在せず、一方で老舗の『新建築』は特集主義をとらないので、結果的に『建築雑誌』がその役割を引き受けているのも興味深い。「ナイーブアーキテクチャー」は、真壁智治が提唱し、議論を巻き起こした「カワイイ」のコンセプトを発展させたかたちになっている。使い手の共感を得るためのナイーブさも、カワイイのときに提出されていた考え方だ。また、これをはっきりと日本発と打ち出しているのも、この企画の特徴だろう。日本の現代建築の動向は、ある種のマニエリスム、あるいはガラパゴス島化ともとられかねない側面をもつのだが、それを新しい建築のパラダイムとして肯定的にとらえようとしている。また私性、女性性、身体性といったキーワードも散見され、SANAA、青木淳、アトリエ・ワン、石上純也、中山英之らの(すでに)人気建築家をバックアップする特集だ。個人的に気になっているのは、カワイイの議論のとき、真壁は良い「カワイイ」(SANAA的なもの)と悪い「カワイイ」(キッチュなもの)を峻別し、前者のみを擁護していたが、こちらの方を今回、ナイーブアーキテクチャーとしてラベルを貼りかえたものと理解すれば、よいのか、ということである。
2010/03/31(水)(五十嵐太郎)
中山英之『中山英之 スケッチング』
発行所:新宿書房
発行日:2010年3月
神戸芸術工科大学デザイン教育研究センターの特別講義をもとに制作された本である。個人的に、なんとも形容しがたいかたちをもつ京都の《0邸》を見学した直後、これを手にしたこともあって、中山英之が空間のイメージを練りあげる際、スケッチが大きな役割を果たしていることを痛感させられた。ハードなラインによる建築的なドローイングではない。むろん、古典的な透視図法でもないし、コンピューターのCGでもなく、手描きのスケッチ群。繊細でデリケートな手の技を見せる「エモーショナル・ドローイング」展(国立近代美術館)などにも通じる、きわめて主観的なイメージである。そこから建築が立ちあがっていることは、スケッチ群が模型や実際の写真と等価に並べられていることからもうかがえるだろう。
2010/03/31(水)(五十嵐太郎)
『「おいしく、食べる」の科学展』
発行所:日本科学未来館
同名タイトルの展覧会のカタログ。もっとも、いわゆる本の形式ではない。旅行先の絵葉書のようなフォトカードのセットになっている。したがって、展示コンテンツの再現というよりは(一部のパネルの情報は、カードの裏面に記されているが)、基本的に若手の建築ユニットassistantが手がけた会場構成の雰囲気を、新津保建秀が撮影した写真によって伝えるものだ。展覧会では、丸太と麻紐を用いて、建築的なフレームをつくりながら、知の空間化を試みている。フォトカードを眺めると、さまざまな展示の場面が思い出されるだろう。つまり、これは空間体験としての展覧会なのである。
2010/03/31(水)(五十嵐太郎)
磯崎新+浅田彰編『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』
発行所:鹿島出版会
発行日:2010年1月30日
本書は、全10回のAnyコンファレンスにおける定番の出し物、磯崎新と浅田彰による掛けあいのプレゼンテーションを再収録し、巻頭と巻末にそれぞれのエッセイを加えたものである。それぞれの討議から切り離して、二人によるトークの部分だけを改めて通読すると、そのときどきに磯崎が関与していた著作、プロジェクト、展覧会などをトピックとしつつ、浅田が注釈を入れるかたちで進行していたことがよくわかる。キーワードに注目すると、「デミウルゴス」「島」「ネットワーク」「分子的」などが挙げられるだろう。やはり、90年代の急激な情報化を引き受けつつも、建築の概念を問うている。Any会議の終了後、言説のシーンは変貌し、ゼロ年代において、アイコン建築やアルゴリズムの問題系が浮上するわけだが、そこへの助走として読むこともできるだろう。
2010/01/31(日)(五十嵐太郎)
磯崎新+浅田彰編『建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008』
発行所:鹿島出版会
発行日:2010年1月30日
1990年代に行なわれた建築の国際会議シリーズ、Anyコンファレンスの日本語版のために行なわれた討議を収録したもの。いずれも会議の後で行なわれたものなので、各開催地での裏話や参加者のエピソードなど、磯崎と浅田の尽きることがない、おしゃべりが楽しめる。と同時に、1990年代の建築界において何が起きていたのかを振り返るための定点観測としても読めるだろう。デリダの脱構築からドゥルーズの流体的生成へ。そして獰猛なグローバル資本主義の台頭によって、理論やデザインが無効化し、コールハースだけが残った。本書の最終章「Anyコンファレンスが切り開いた地平」において、浅田が「新しい理論的な枠組みを示すというより、旧来の理論的な枠組みが瓦解していくプロセスを体現している」と総括しているのが、印象的だ。20世紀を看取るイベントだったのかもしない。
2010/01/31(日)(五十嵐太郎)