artscapeレビュー

Q『迷迷Q』

2014年05月01日号

会期:2014/04/24~2014/05/01

こまばアゴラ劇場[東京都]

主人公・園子の名は、親が公園でセックスして生まれたから。セックスの最中、母は黒人と日本人のハーフらしき女の子を眺めていた。身につけたかわいい服は女の子の立体的な筋肉質の体に滑稽なほど不似合いだったという。劇作家・市原佐都子がこだわっているのは、こうした設定に象徴されるような、(異種)交配への欲望と恐怖である。園子の母は11人の子どもたちを生み、「飼育室」と呼ぶ部屋に子どもたちを閉じ込めておくと、11人の子どもたちの服が回る洗濯機を覗きながら、後背位でセックスする。園子には友達(ノンちゃん)がいる。ノンちゃんはフランソワという名の犬を飼っている。フランソワはいつか園子の母に誘拐され、「ハワイ」という名で新たに呼ばれ、園子の家で育てられることになる。ハワイは園子の家で無理な交尾を強要され死んでしまうのだが、保健所で有料で処分してもらうくらいならばと、母は唐揚げにしてしまう。その他、母は自分の糞を食らった犬が糞をしているところを目撃したというエピソードなど、繰り返し舞台で展開されるのは、セックスや食事などによって、異物が身体に入ってきて自分が変容してしまうことへの快楽と恐れのオブセッションだ。今作はそこへと不気味なくらいに焦点が絞られていて、なんと言えばいいのか、この徹底性は演劇の枠を超え、現代アートの域に達している。不気味さは音楽の扱いにも及ぶ。確か音楽は同じものが二回流れた。ノンちゃんのハッピーな妄想に同調して、明るい(少し前のクラブでかかってそうな)曲が流れた。それは、曲の明るさを皮肉として受け止めざるをえないといった使い方で、しかも他にはどんな音楽も流れなかった。つまり、市原の描く世界に音楽はない。気分が高揚し、その気分に浮かれている自分を無邪気に肯定するような、登場人物たちにそんな心の余地がないのだ。身体への接触が性と食の問題からのみ取り上げられるように、絶望的に視野が狭い。市原はここを見つめて欲しいと望んでいるような気がする。ただし、観客として(少なくともその一人である筆者)は、若い女性たちがどぎついテーマを扱い、どぎつい台詞を口にしていることに面白がったり、戸惑ったりさせられているうちに舞台が終わってしまった、という印象を受けた。大人になった園子は、過剰な性欲を持て余す「ケンタウロス」と狭いアパートに暮らし、交尾で皮膚がひりひりし、しかし、そんな暮らしも続かず、ケンタウロスはやがてやせ細って死んでしまう。母も死んだ。園子はノンちゃんらしきバックパッカーの女の子と知り合い、彼女の友達と絵に描いたような「充実した夕食会」を過ごし、帰ってノンちゃんのFBをブラウズする。ここではないどこかを「ノンちゃん」を通して知る園子、しかし彼女が「死」を口にすると、唐突に芝居の幕は閉じてしまう。Qの呈示してきたテーマが徹底されていると同時に、Q自身がそこから自由になりたがっている、そんな作品に見えた。これまで作家の想像力に可能性を託してつくられてきたとすれば、少しそこから距離をとって、他人へのリサーチによって掴まえられた素材をもとに創作することがあってもよいのではないか、そんな思いを持った。

2014/04/26(土)(木村覚)

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