2019年09月15日号
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artscapeレビュー

『薔薇の人』(第16回:メリー・ジェーン オン・マイ・マインド)

2014年02月01日号

会期:2014/01/16~2014/01/19

両国門天ホール[東京都]

何度ぼくは黒沢美香について書いてきたことだろう。その度にぼくはほとんど同じことを書いてきたに違いない。それでいいのだ。黒沢は発展しない。成長しない。むしろ黒沢は自転する星のような存在で、その星の力がいまも健在であることを、体感しながら確認するために見に行くのだ。とくに『薔薇の人』シリーズは黒沢特有の表現の場である。これは「アート」なのか? 「ダンス」なのか? いや、そのどちらでなくてもいい。そうした既存のカテゴリーを超越した、不思議な、『薔薇の人』としか呼べない何かがここにある。これまでの『薔薇の人』も多くの場合そうであったように、数多くの道具が用意され、それが一つひとつ取り上げられ、その道具で不可解な作業が進められ、「実りある成果」と呼ぶのとは別の結果が起き、またあらたな道具が握られる、といった時間が続く。透明なボウルに水が満たされ、糸状のカーテンの端がはさみで切られ、その粉のような緑の糸がボウルに放り込まれ……といった具合だ。重要なのは、一つひとつの作業が統合されゴールに至ることではなく、道具を手にしたとき、これから始まることに黒沢の気持ちが「ちょっとアガる」その一回一回の「アゲ」にある。この「アゲ」は、シアトリカルなオーバーアクションではまったくなく、静かな表情の若干の変化として示される。ときには「アゲ」の気分が高じて一曲踊るまでに達することもあるけれど、黒沢の真骨頂である、あの無表情の顔に起こる微妙な変化こそ、ほかの誰ももちえない魅力なのだ。微妙だからこそ、ぼくらは黒沢の心の内部へと引きつけられる。その秘められた心の躍動あるいはそれがふと垣間見えた瞬間、ぼくはそこに「ダンス」を見る。ダンスとは踊りの型(パターン)の内にではなく、そうした「アゲ」の気分とそれがこぼれてくる様の内にあるのだ。黒沢のパフォーマンスはいつもそのことを思い出させる。踊らずにはおれない気持ちというものが、どう生成するのか、あるいはそれをどう待てばいいのか、そうした点を見過ごさないところに黒沢のダンスへの誠実さがある。道具を手にして、静かに熱くなる気持ち。それをデリケートに伝える黒沢の身体は、ダンスを踊っているようには見えない、いや、そこに微かに示唆されているものこそがダンスなのではないか。黒沢という星が輝いているあいだは、この星の自転を見続けていたい。

2014/01/17(金)(木村覚)

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