2020年07月01日号
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artscapeレビュー

広田淳一 演出『包囲された屍体』(カテブ・ヤシン原作、鵜戸聡 翻訳)

2014年01月15日号

会期:2013/12/21~2013/12/23

東京芸術劇場アトリエウエスト[東京都]

「紛争地域から生まれた演劇 シリーズ5」というシリーズの一環で上演されたものがこの公演だ。2009年の「バルカン篇」から毎年開催されてきたこのシリーズは、「中東篇」(2010)、「動乱と演劇」(2011、中国、カメルーン、オーストラリア)、そして昨年(2012、フランス、タイ、イスラエル/ドイツ)と、世界各地の比較的日本ではマイナーな演劇活動を紹介してきた。ぼくは今回初めて足を運んだ。世界の演劇動向を知る機会はもちたいと思いつつ、実際にはなかなかそうしたところまでは余裕がなく、今回出向いたのも、Facebookで強力プッシュする知人にうながされて何となくといった事情で、今作を批評するのにはふさわしいとは言いがたい、不案内な人間によるレビューであることをあらかじめお許しいただきたい。しかも筆者は、今作の演出を手がけたアマヤドリを主宰する広田淳一本人の作品さえ見たことがない。そんなんでいいのかと筆者自身も思わぬではないのだけれど、考えたことを記しておきたい。
原作はアルジェリアのカテブ・ヤシン(Kateb Yacine)。彼は多くのフランス語で書いた詩・戯曲・小説を残しており、実際、フランスやその他の地域で高い評価を得た作家だと言われている。『包囲された屍体』(1959)は、1945年のセティフ虐殺(対独戦勝記念日に行なわれた大規模な独立デモにより、2万人とも言われる植民地当局による虐殺が行なわれた事件)をベースにしている。この事件でカテブ本人も投獄され、そうした経験がもとになっている。戯曲はとても難解。その難解さは、詩のような台詞であることや、主人公が8割ほど死体、2割ほど生きた状態で、自分以外の登場人物と関わっているという設定(この説明は、アフタートークで翻訳者の鵜戸聡氏による語られたことに基づく)、またもちろん、この事件にまったく詳しくないという観客(筆者)の事情などに由来しており、非常な殺戮、人非人な他人の扱いなど、恐ろしい出来事が次から次へと起きていることはなんとなくはわかるのだが、いろいろな意味で、舞台の出来事が遠く感じられてしまった。
しかし、本作で考えたいのは、まさにこの「遠さ」なのだ。
ところで、演劇とは翻訳の作業である。もっとシンプルに言うなら、演劇とは「伝言」の作業である。役者は自分の言葉ではなく、他人(原作者あるいは演出家)の言葉を観客に伝える。演出家は、原作者が書いた言葉の意図を汲み、役者にそれを伝え、役者はそれを具現して、観客に伝える。原作者とは、そうした何人もが中継する伝言ゲームに自らを委ねる存在だと言えるだろう。演出家とは、原作者の意図とどう関わるか選択や決断を求められる存在である(翻訳者もまたしかり)。役者は原作者と演出家の思いを、自分の身体や技量でもって表現しようと努力する。さて、観客は? 観客が受取るのは、いわば何重ものラップを施されたプレゼントだ。受取ったものまるごとが、観客にとってプレゼントではあるのだが、何重もの包み紙をうまく解きほぐして、それらが与えてくれるものを一つひとつ味わいながら、包み紙の奥を探ってゆく、それが観客の仕事だ。
アルジェリアで70年近く前に起こった虐殺。そこへ向けられた原作者の詩的な言葉たち。それを日本語に翻訳し、その日本語をもとに日本の演出家が日本の役者に台詞を喋らせ、日本人の観客がそれを受取る。そのはがゆい「遠さ」。もっとアルジェリアの歴史や言語、文化を知り、作者カテブのことを知れば、もっと諸事情がリアルになり、作品が「近く」なるのだろう。けれども、そんな直球勝負をいちいちの作品に対していつもこなさねばならないのだとしたら、それは正直しんどいし、過酷すぎる。だから、こうした日本の演出家・役者たちによる翻訳の上演があるのだとも言える。そうなのだが、演出家広田の演出は、衣裳や音楽での「無理のない範囲でのアルジェリアらしさ」の演出以外は、どうしても「日本の若者が日本人の観客に向けて演じている」という風に見えてしまうものだった。役者の口が大量殺戮の様子を言葉にしてみても、どうしても台詞回しや表情から日本的な要素が濃厚に漂ってしまう。ならば、もっとアルジェリア的要素を忠実に入れてみてはよいのではないかなどとも思うのだが、いや、真面目に取り組んでみても、それが最終的に「なんちゃってアルジェリア」にならない保証はない。
これは、演出家や役者への批判などではまったくない。おかしく思われるかも知れないが、この困惑が、とても面白かったのだ。演劇が否応無しに「伝言ゲーム」であるとしたら、そのゲーム性(伝言の伝わらなさ)の露呈する瞬間を、この上演を通してぼくはずっと追っていたのかも知れない。この感覚は旅で感じるものに近い。相手の言葉をどう受け取りどう返すか、スムースに進む会話よりも、恥ずかしい思いや悔しい思いをしたときのほうが、なにかが濃密に残る。そのとき、無意識的に自分が抱いてきた常識が問いただされ、他人の抱く常識へと思いは向かう、なんてことが起きる。「日本の若者が日本人の観客に向けて演じている」といった気づきは、あるいはアルジェリアの演劇とは一体どんなものかといった連想は、まさに自分の常識/他人の常識の問い直しだ。
「マゾヒズム」とか「不可能なこと萌え」みたいに思われると困るのだけれど、伝言の困難さが持つ豊かさを思い出したのだ。幾重もの包み紙にくるまれたプレゼントを開きながら、目の前に起きているのとは別の可能性を「ああでもないこうでもない」と想像をめぐらす。その想像もまた演劇なのだと。

2013/12/23(月)(木村覚)

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