2020年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

チェルフィッチュ『地面と床』

2014年01月15日号

会期:2013/12/14~2013/12/23

神奈川芸術劇場[神奈川県]

ぼくはポッドキャスト中毒者だ。1人でいるときはほとんど常時、そして寝る前と起きてすぐも必ずiPhoneに差したイヤーフォン越しに、ポッドキャストを聴いている。お笑い芸人のも好きだけれど、欠かさず聴いているものの多くは社会問題や政治問題を論じる番組のものだ。artscape読者のなかでぼくのようなヘヴィリスナーは少なくないと思うけれど、ぼくが最近試みている、TBSラジオとニッポン放送を交互に聴くというリスナーは多くないかも知れない。荻上チキや青木理、神保哲生などTBSラジオの出演者にはどちらかというと「左」の論客が多い。それに対して、ニッポン放送の場合、論客の多くは明らかに「右」より。ぼくは比較的「左」の意見に同調しがちなタイプだが、ひょんなことから「ザ・ボイス そこまで言うか!」を聴くようになり、イライラしつつも、こちらの意見にも耳を傾けたほうがいいと思うようになった。あっちもこっちも聴くとぐらぐらする。あっちでからかいの対象だった政治家が、こちらではヒーロー扱い。逆もしかり。そして、簡単にどちらかに軍配が上がるものではなく、対立は根深いということがわかってくる。いまは、自分の欲しい情報だけを取り込んで、それが世界だと思ってしまえる時代。だからこそ、このわかり難さに向き合うことは、結構意味があることかもしれないと、ぐらぐらしてみる。
ぼくにとって『地面と床』は、「右」と「左」の番組を両方聴く感覚と似ていた。近未来の日本。国際情勢が不安定になり、戦争へと進むことが現実味を帯びている日本。そこに暮らす一組の家族。兄は結婚しその妻は妊娠中。弟は最近、失業の苦しみから解放され、仕事を得た。しかし、兄弟の仲は険悪だ。道路をつくることで自己アイデンティティを回復しようとする弟は、愛国的な意識を強め、対して兄はこの国の将来を憂いて子どもが生まれるのを期に国外への移住を考える。この両者の対立は、けっして調停されることがない。この舞台には、どんな調停の契機もない。弟は兄夫婦を怨む。その怨みは、義理の娘を嫌悪する母の思いと同調する。母はすでに死んでいる。母は「地面」の下から弟を経由して、「床」にいる者たちに力を及ぼす。この死者の及ぼす力が「日本的伝統」のメタファーなのか、たんなる嫁姑問題なのかははっきりしないのだが、兄弟の諍いという横の軸に対して、死者と生者あるいは伝統と進歩という縦の軸が設定される。シンプルな構造がこの芝居を引き締めている。
この芝居は、ほかにも二項対立の緊張に満ちている。「世界9都市国際共同製作作品」という冠のもと、複数の国での上演を前提にしてつくられているという経緯がそうさせているのだろうが、上記した家族のほかに、「日本」について語るイライラした女性が登場し、「日本とその他の国」という対立を浮きぼりにする。具体的にはこうだ。舞台上に白い十字状のオブジェがある。これはスクリーンでもあり、海外の上演で用いられたまま、英語字幕が映写される。この女性は、客席に座るどれだけのひとが自分の話す日本語を理解しているのだろうかと絶望を口にしながら(この部分は、日本での上演の場合、明らかにちぐはぐなのだけれど、観客は海外での上演の模様を想像しながら見ることになるので、このちぐはぐな状態は実際のところなんら問題とはならない)、自分の思いを早口でまくしたてる。ところが字幕はそれに追いつけない。イライラした女性はこの字幕の進行を待ち、一層イライラしてくる。このメタ演劇的仕掛けは、日本のマイナー性を明らかにする内容面だけではなく、マイナーな国がどう自分たちの状況を表現すればよいのかという方法的側面においても効果的だった。そして、日本人の観客としては、この国に生きる不穏さは、別に3.11が起きようが起きまいが私たちを取り巻いていた、なんてことに気づかされる。
もうひとつの二項対立は、役者の身体に関わることだ。今作では、『三月の5日間』以降注目されたいわゆるチェルフィッチュ的な身体性は、最小化されていた。山縣太一は汗をびっしょりかきながら、独特の、観客にとって不可知のルールに縛られた身体動作を続けていたのだが、そのほかの役者たちは、以前のような、発話に動機づけられた無意識的な動作の拡大・反復表現はしないで、微小な動作を行なうだけだった。何というか、薄っぺらい、存在の重さを欠いた、あてどない身体だ。興味深いのは、以前のチェルフィッチュとは異なり、観客の身体への訴求力が弱いことで、けれども、だからこそこの身体はこの作品の上演にふさわしいと思わされたことだ。言い換えれば、これまでのチェルフィッチュにはモダンダンス的なところがあって、観客の身体に直接訴える身体の強度を帯びていた。確かに演劇においてはユニークなのだが、そうした試みはモダンダンス的な文脈の更新にはなっても、身体に直接訴えるのとは別の身体の可能性を模索しようとするならば、妨げになりかねない傾向でもあった。本作の「薄っぺらい、存在の重さを欠いた」身体は、調停しえぬ対立のなかで揺れている人間の身体にふさわしい。その印象を倍加させたのは、サンガツの音楽だった。今作でサンガツは、舞台美術のように舞台上で存在感を示す音楽を目指したらしい。なるほど、でも、舞台美術というよりは、ぼくの目/耳には、音楽は役者と並立する位置にあった。音楽と音響(音素材)のあいだにあると言えばよいか、サンガツの音楽はギターやドラムなどの楽器の存在を強く意識させる質を帯びていて、「ジャリッ」「ガリッ」などのノイジーな響きはそうした楽器の身体性をむき出しにしていた。しかも、その音がかなり大きく響き(ときには観客の身体を直接揺さぶるほどに)、耳を支配するので(そのため、役者はマイク越しに台詞を発していた)、目には見えないのだが、舞台上にあるいは客席に徘徊する幽霊のような仕方で、場を支配していたのだった。この「もう一人の役者」とも言える音楽と、人間の役者との対立は、音楽の存在位置を高めるとそれだけ、役者の身体が薄っぺらく脆弱に見える効果を与えていた。快快と比較しても面白いかも知れない、舞台から追い出されそうなこの脆弱な身体たちは、しかし、汗を垂らしている山縣が存在していることによって、なんとか消滅の危機に抗っているようだった。
今作で岡田利規は、演劇が抱えうる多数の「二項対立」を取り出し、そこに調停なしの争いを露呈させた。なんと率直でわかりやすく、それでいて簡単には解消できない諸問題が舞台上で露出してしまったことだろう。「二項対立」とは、言い換えれば「批評性」ということだ。政治の実践的場とは異なり、演劇の上演は結論を出す場でなくていい。むしろ丁寧に対立を浮きぼりにすることこそ重要だ。日本を生きることの不穏さは消えないし、対立は容易に解消しないだろう。けれども『地面と床』から、ぼくたちは「対立」の相貌を知ることができる。岡田の作品のなかで、これまでの最高傑作なのではないかと思う。


チェルフィッチュ「地面と床」

2013/12/15(日)(木村覚)

2014年01月15日号の
artscapeレビュー

文字の大きさ