artscapeレビュー
芸劇eyes 番外編・第2弾『God save the Queen』(前半)
2013年10月01日号
会期:2013/09/12~2013/09/16
東京芸術劇場 シアターイースト[東京都]
演劇ジャーナリスト・徳永京子のコーディネートにより選ばれた若手劇団5組が、20分の作品を立て続けに上演する企画。5組の共通点は作・演出が皆女性であること。トリを務めたQのことはartscape誌上ですでにレビューしてきているけれども、これほど粒ぞろいの個性ある女性作家たちが演劇の現場を賑わせているとは思わなかったので正直驚いた。あとひとつ驚いたのは、舞台に置かれた役者の身体をどう動かすか、その点をどの作家もとてもデリケートに取り組んでいたことだ。彼女たちの肩書きは劇作家なのかもしれない。けれども、セリフを発話する身体が舞台上でどう振る舞うべきかを、セリフに身体が単純に従属するのではない仕方で模索している時点で、彼女たちは「劇作家」であると同時に「振付家」でもあった。今回、振付家として彼女たちをとらえることで、演劇の現場がじつは〈ダンスの現場〉になっているのではないか、そのことを確認してみようと思う。
最初の2組、うさぎストライプとタカハ劇団には〈振付〉の点で共通するところがあった。セリフが喚起する物語世界とは直接関係ない動きを、役者たちがひたすら行なうという点だ。うさぎストライプ(『メトロ』)は恋愛における後悔の念を4人の役者が口にする。その最中、役者たちはシンプルなタスクをあれこれ続ける。最後に舞台奥の壁を全身でぜーぜー言いながら押したのは、後悔の思いの高まりを「思い」とは別のレイヤー(ゼーゼー言いながら壁を押す)によって表現することで、セリフ中心主義的な芝居にならないようにしていた。なるほど。でも見ているうちに、これほどセリフと動作が基本的に無関係ならば、朗読劇でいいのではないかと思ってしまった。問題は、セリフを通してテーマを伝えることが作家の主眼である場合、舞台上の身体が基本的に不要な存在になってしまうところにある。すなわち身体をもてあましている。それ故に身体にタスクが課されているのでは、そう見えてしまったのだ。
このことは、タカハ劇団(『クイズ君、最後の2日間』)にもあてはまる。ネットの自殺サイトに「最後」の瞬間まで投稿を続けた「クイズ君」という実在の人物を取り上げ、彼と彼の投稿に反応するネットの住人たちの書き込みをセリフにし、またスクリーンにディスプレイした。テーマはそこに凝縮しているのだが、舞台上では、若い男の子2人が「クイズ君」の言葉を読む一方で、政治・経済のキーワードを口にしながらテニスのラリーに興じたり、数十個のテトリスみたいな形の白い箱をあちこちに移動させたり(最終的には高い塔ができ、その上から青白い花吹雪がドカッと落とされ、自殺の遂行が暗示された)と、「クイズ君の自殺」とは直接関係のない出来事を展開する。自殺をほのめかす男(「クイズ君」)が目の前(ネット画面上)にいながら助けることができない、もどかしく空しい人間関係。これを絶望の絶叫で表現してもしょうがない、ならば、その空しさを掘り下げて見よう。そう考えたのにちがいない。そしてその掘り下げの演出が、身体へのアプローチを引き出したのだろう。物語と直接関係ない身体動作は「空しさ」のメタファーとして機能したかもしれない。けれども、そうである限り、身体動作は「空しさ」を察知させるための手段にしかなっていない。そこがちょっともったいない。ところで、こうも思ってしまった。なぜ舞台上にいるのが、白いシャツ、黒いズボンのかわいい男子2人なのだろう。そこにはテーマに即して読みとるべきメタファーがない。その分、劇作家の無意識的な欲望が垣間見えた気がする。ときに2人はまるでゲームに興じる嵐みたいだ。観客も彼らの挙動に笑みをこぼす。「クイズ君」と「嵐」の両方に足がかかっている舞台というのが、本作のポイントに見えた。
そのことをより自覚的に舞台にしたのが、鳥公園(『蒸発』)だった。シェアハウスで暮らしているのか、姉妹とは思えない若い女2人がおしゃべりをしている。ぼさぼさの髪に度のきつそうなめがねをかけた1人の女は双眼鏡越しに男(ヒロキ)を眺めている。ヒロキは自慰行為に夢中。女はヒロキに目が離せない。ここで描かれているのはただひとつ、女の性だ。リア充の恋愛ではなく、自慰的な一方通行の性。「ヒロキは鶏とセックスしている!」(鶏姦!)と同居人に報告すると、ヒロキの様子に共振して、女は延々と腰を前後に振り続ける。無意識的な自慰の模倣は、執拗に繰り返されると奇妙なダンスに見えてくる。手前勝手で嫌悪感を催すこのダンスは、女性が解放されてゆくプロセスにおいて、ぼくたちの避けることが許されない光景を象徴しているものかも知れない。なにより、女たちの外見の不細工なこと! この不細工さは醜いがリアルな女性の一面を示しているはずで、こんな女性の表象は珍しいと思えば思うほど、既存の演劇がいかに男の眼差しのためにあったのかを証しているようでもある。
2013/09/13(金)(木村覚)