2021年09月15日号
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artscapeレビュー

『吾妻橋ダンスクロッシングファイナル!』

2013年09月01日号

会期:2013/08/17

アサヒ・アートスクエア[東京都]

タイトルに「ファイナル」とついた吾妻橋ダンスクロッシング(以下「吾妻橋」)が上演された。前半と後半(「コンピレーション・アルバム」の体裁を模した吾妻橋らしく「DISK 1」「DISK 2」と呼称)でトータル約7時間(!)。とはいえ、18組のパフォーマンスとChim↑Pomによるインスタレーションは、ほぼ10年続いた吾妻橋を総括するというよりも、いまの旬のパフォーマンスをキュレーターの桜井圭介による独特のセレクションで集めており、その意味で相変わらずの吾妻橋だった。桜井は、これまでの10年をまとめ、今後の10年を予感させるつもりで選んだと筆者に話してくれたが、なるほどKATHY、黒田育世、身体表現サークルというチョイスは、「The Very Best of AZUMABASHI」★1が上演された2007年頃を思い起こさせて、懐かしさを感じさせるものだったし、ただそうした観客側の懐古的な思いを打ち消すように、ロロ、ピグマリオン効果、hyslom(ヒスロム)、ダンシーズ(皆木正純+山田歩+唐鎌将仁)のような新しいラインナップも加わわっていた。
今回の吾妻橋にぼくが見た特徴は二つ。
ひとつは、身体という存在の不確かさ・不安を訴えているような作品が目立ったこと。DISK 1のトップバッター、音楽家の安野太郎は、4本のリコーダーをPCの制御のコンプレッサーが奏でるという実演を行なった(タイトルは「ゾンビ音楽」)。空気圧で鳴る音色の非人間的な感触は、パフォーマンスにおいて人間の肉体が不在であることの無気味さを強く印象づけた。ほかにも、かつて大分で遭遇した心霊体験を語り、その際撮影した写真を紹介した捩子ぴじんの上演は、目の前に存在しない(いや、存在するかどうか不確かな)霊的な存在をめぐってのものだった。KATHYは美術家の水野健一郎とともに、普段ぼくたちが知覚せずにいる次元に迫り、見えないものを観客に感知させるパフォーマンスを行なった(タイトルは「確かにみえている」)。ルックスからしてそうであるが、かねてから踊る身体の存在の不確かさ、曖昧さについて自覚的であったKATHYのさらに一歩超常現象へと進んだ表現を見た後では、快快の山崎皓司によるパフォーマンスもいつも以上に、存在の不安に迫っているように見えてしまう。山崎はユニクロとダイソーを愛する中年女性に扮した。自分を見過ごす社会への不満が演じる山崎自身の抱く役者生活への不安と重なる。余剰的存在として役者を提示することは快快の舞台に時折盛り込まれるものだ。昨今の、三次元よりも二次元、現実よりもヴァーチャルを志向する社会の傾向にあって、パフォーマンスする身体の価値はそれほど自明ではなくなっている。そうした状況が滲んで見えたのが、今回の吾妻橋に目立った特徴だった。
もうひとつは、冷笑的な傾向だ。ダンシーズの男3人が野良犬のようにうろうろする舞台、そこに尾崎豊のライブ語りを流したのだが、尾崎の真っ直ぐさを冷やかしているように見えたし、DISK 2のラストで有志の観客100人を斬り続けた悪魔のしるしの危口統之は、観客を愚かな死体と化してその状況を高みから笑っているように見えた。ひたすらくだらないだしゃれを口にし、まとまらない状態を演出したライン京急も、とくに今回は、くだらないことをあえて強調している気がした。舞台を、ダンスや演劇を、あるいは観客を嗤う批評性は、どうしても笑う者の優位と笑われる対象の劣位が際立ってしまい、破壊のダイナミズムに乏しい。その意味では、最近の吾妻橋に頻繁に出演していた遠藤一郎の不在が寂しかった。彼の度はずれた真っ直ぐさこそ、優劣を超えた場を引き出す力となるのではないか。それは吾妻橋が示す倫理的態度でさえあった、そう思っていたから。

★1──木村覚「アメーバ化したぞ『吾妻橋』」(吾妻橋ダンスクロッシング「The Very Best of AZUMABASHI」レビュー、ワンダーランド、2007)

2013/08/17(土)(木村覚)

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