2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

プレビュー:チェルフィッチュ『現在地』、岡崎藝術座『アンティゴネ/寝盗られ宗介』

一般的に言えば、四月のマスト公演は間違いなくチェルフィッチュ『現在地』だろう。そして焦点は、演劇的な問いよりも岡田利規がいま「震災以後」になにを語るのかという問いになるのだろう。ぼくも楽しみにしていますとても。とはいえ、個人的には岡崎藝術座『アンティゴネ/寝盗られ宗介』(2012年4月19日~24日@STスポット[神奈川]、2012年4月27日~29日@早川倉庫[熊本])が一番見たい。独特の諧謔性というかいやらしさというかが圧倒的な存在感を放っていた昨年秋の『レッドと黒の膨張する半球体』から約半年後の新作上演。古代ギリシア悲劇の代表作とつかこうへい作品の二本立ての意味するところはいかに? 演劇をぶっこわすチャレンジを期待しています。あれ? いま二作のフライヤーを見ていたら、岡崎藝術座のほうの出演欄に山縣太一の名前があるのを発見! 神里雄大と山縣太一、そりゃ相性良すぎると言っていいくらいだろう。

2012/03/31(土)(木村覚)

ミクニヤナイハラプロジェクト『幸福オンザ道路』

会期:2012/03/22~2012/03/24

横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール[神奈川県]

演劇の矢内原美邦は高速を目指す。台詞回しも、ときに台詞とはほとんど関係なく行なわれる身体動作も、超速い。速すぎて言葉は聞き取れない。時折、ぐっとくる名言が飛び出しているようなのだが、しゃべりの速さと同じくらい速く記憶される前に消えてしまう。反演劇? でも、矢内原は以前から早口でも観客に台詞は届けたいのだと言っているのだ。ならば、目指すは明瞭に聞き取れる速い演劇? 難しいのなら、台詞担当(声)と動作担当(身振り)を分けてみたらとアフタートークで岡田利規は提案していたけれど、矢内原はそれを両立しうる身体こそ求めているのだから、解決にはならないだろう。以前どこかでぼくは矢内原の演劇はビデオの早回しのようだと書いた。その喩えで言えば、二倍速でも声は明瞭に聞き取れる「時短ビデオ」が矢内原演劇の目標であると、さしあたり言うことができそうだ。
 次の問いはこうなる。なぜ矢内原は高速化を目指すのか? おそらく矢内原が求めているのは役者の身体が非人間化することであり、裏返して言えば、機械化であると推測する。早口でしゃべりながら台詞と無関係な動作を高速で行なうというのは、人間業ではない。人間業を超えたパフォーマンスとともにしゃべることで、言葉というものの人間性を乗り越えようとする、ここにおそらく矢内原演劇の核心がある。そこまでは予測がつくが、さて、それを目指した先になにが見えるのか、この点はまだわからない。だが、こうした発想自体は、歴史を振り返れば、それほど無謀とは言えないはずだ。例えば、戯曲の内容に即応しないアクロバティックな運動を演技に採用した、メイエルホリドの俳優訓練法「ビオメハニカ」と矢内原の考え(とぼくが思うもの)とはそれほど大きく違いはないだろう。矢内原がメイエルホリドならば、岡田利規にはブレヒトを重ねてみてもいい。そう仮に考えることで、演劇の原理的な問いから彼らの取り組みをとらえられるようになるだろう。
 と書きつつ、矢内原演劇の魅力の核心は、さながらアウトサイダー・アーティストのようになにがしたいのか実のところわかっていないかもしれない矢内原の闇雲に前進する様に、はらはらドキドキしながらついていくところにあると思っている。

ミクニヤナイハラプロジェクト『幸福オンザ道路』本公演 トレイラー

2012/03/22(木)(木村覚)

FUKAIPRODUCE羽衣『耳のトンネル』

会期:2012/03/09~2012/03/19

こまばアゴラ劇場[東京都]

女性主体の劇団による公演には、それ以外の大多数の演劇にはないなにかがあって、そこには演劇というものの通念をひっくり返す力が見え隠れしている。定型のフェミニズム的な批判意識を彼女たちに見ているというわけではない。ぼく個人の偏見なのかもしれないけれど、快快なり、バナナ学園純情乙女組なり、またこのFUKAIPRODUCE羽衣(作・演出・音楽は男性の糸井幸之介、でもプロデュースは深井順子で、彼女の磁力はとても強く舞台で作用している)なりを見ると、「ふざけているのか!」なんて思わされつつ、そんな思いこそ「正しい演劇」というよく考えればくだらないマッチョな規範意識に縛られているだけではと反省させられるくらい、驚くようなダイナミズムに圧倒させられることがよくある。藤田貴大(マームとジプシー)や柴幸男(ままごと)が戯曲で女性の生活を丁寧に扱いつつ、上演形式においては今日の演劇動向にきわめて「正しく」応答しているのと対照的に、彼女たちはそうした正しさとはほとんど無縁に、それよりも自分たちにとって大事なことを優先させている気がする。
 本作もまさにそんな作品で、深井曰く「がっつり系」の芝居は大声でオーバー・アクションの元気な演技。ミュージカル(レビュー)仕立ても手伝って観客は失笑と微笑で応じてしまう。こうした脱力は、観客に批評意識という武装態度の解除をうながしているようだ。物語は他愛ない。恐ろしいほどにあっけらかんと性(欲)が描かれる点で、その根底にあるのはしかし、母性的なものである。冒頭は、おっぱい吸いたい男子が赤子のようになると、女子も母のようになって自分の乳を捧げる。中盤には中学生の恋愛が描かれ、終盤には中年になった男の旅が描かれる。恋愛物語は「リア充」と称されバリアになりかねないが、最終的に母性的なものが充満していくことで、すべての人の癒しへ転換する。舞台にも本人役で登場していた深井の存在感こそ、なにより母性的なものを帯びていた。快快にもバナナ学園純情乙女組にも程度は違えども感じることなのだけれど、彼女たちの観客へ向けた歓待の態度は観客との「つながり」を強く望んでいるようだ。観客を強く抱き、一体化し、それによってなにをしようというのか、それはまだ見えない。

2012/03/12(月)(木村覚)

プレビュー:FUKAIPRODUCE羽衣『耳のトンネル』、大駱駝艦(演出:高桑晶子)『おやま』ほか

『耳のトンネル』というタイトルで、FUKAIPRODUCE羽衣の上演がこまばアゴラ劇場(2012年3月9日~19日)で行なわれます。自分たちの舞台をミュージカルならぬ「妙ージカル」と称する彼らは、猛烈に身体をたぎらせ燃やして、アングラのようなファンタジーのような不思議な世界を歌い踊り演じる。失笑しながらいつのまにか飲み込まれてしまう独特の舞台。これが、今月の推薦公演です。今月はほかにも大駱駝艦(演出:高桑晶子)壺中天公演『おやま』(2012年3月15日~20日)がありますし、イデビアン・クルーなどで活躍するダンサー中村達哉と私的解剖実験で知られる手塚夏子がコースリーダーになって新人作家たちが創作・発表するSTスポットの企画「ヨコラボ」も気になります(ヨコラボ'11b民俗芸能調査クラブ『春の実験まつり──本当にひとごとなのか?』=2012年3月3日~4日@STスポット、ヨコラボ'11A集団創作コース 最終発表『のりしろ』=2012年3月6日~7日@象の鼻テラス)。「ヨコラボ」は「ラボ20」と呼ばれ、2000年代数々の新しい才能を引き出した伝説的企画がもとになっています。その意味でも、二人が見出し、育てたニューフェイスに期待したいところです。

2012/02/29(水)(木村覚)

蓮沼執太×山田亮太(TOLTA)『タイム』

会期:2012/02/19

KAAT中ホール[神奈川県]

美しいカオス。60分の上演を一言で言えばそうだろう。公演情報からは「音楽家と詩人のコラボレーション」というイメージを強く抱かされたが、ふたをあけてみると音楽演奏と詩の朗読のみならず、演劇やダンスの要素も絡まりあったパフォーマンスが展開された。体育館に似てがらんとした空間の真ん中が舞台の大部分、その周りを観客が囲む。観客の座るあたりに通路が敷かれ、そこでもパフォーマーたちが走ったり詩を読み上げたりするので、客席/舞台の境ははっきりしない。ダンサーや美術作家があちこちで各々の上演を展開する、半世紀以上前にジョン・ケージが行なった公演『無題イベント』にそれは通じていそうだ。しかし、多様な表現が共存するという共通点はあるとしても、明らかに異なるのは各パフォーマーが詩と音楽を手だてにつながっているところだ。そこにカオティックでありながら美しいことの理由がありそうだ。森の路をうろうろしているときのように、あちこちから声が聞こえ、楽器の音が聞こえ、歩いたりポーズをつくったりする人が目に映る。淡々と、結論へ向かうのではない時間が進む。エコロジカルなんて言葉も浮かんでくる中心のない舞台。ただし、でたらめには見えない。そこには、詩による統一があり、音楽による統一があり、詩と音楽との響き合いがある。この美しさはある見方からすれば、反動と映るだろう。演奏の合間にあちこち歩き回りながら、演奏者のみならずパフォーマーたちにも指示を与える指揮者としての蓮沼の立ち位置は、そうした見方からは専制的に見えるかもしれない。終幕の直前、蓮沼は意図的に観客に終幕を意識させつつ、腕を大きく振って拍手をうながすと、観客までも上演の一部にした。こうした振る舞いがいやらしく見えないところに蓮沼の特異性を感じてしまう。その特異性が、各人の即興に任せて生まれるものとは別の、カオティックだが美しい時間を成立させていた。

2012/02/19(日)(木村覚)

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