artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
快快『ゆく年くる年 "SHIBA⇔トン" 歳末大感謝祭』
会期:2011/12/27~2011/12/28
M EVENT SPACE & BAR[東京都]
今年は、大阪での『SHIBAHAMA』以外は海外での公演に明け暮れていた快快。久しぶりの東京でのイベントは『SHIBAHAMA』の基本フォーマットを利用しつつ、立川志ら乃、遠藤一郎、core of bells、捩子ぴじん、安野太郎らのゲスト・パフォーマンスを織り交ぜる、いかにも彼ららしい忘年会。いや、彼ららしさは別の意味でも発揮されていた。それは端的に言えば彼らのミュージカル(レビュー)的傾向だ。三時間を超えるパーティはさながらバラエティ・ショー。それだけでも多様な要素をごちゃまぜに上演するレビューに似ているのだが、より重要なのは、最後の演目として『SHIBAHAMA』リミックス版で見せた、大阪と海外での公演の報告会という体裁をとりながら、いまの日本と世界の状況を彼らなりに振り返り、批評していく演出だ。「地震が来た!」「津波が来るぞ!」と叫び、テレビに映った会見の様子を演じるなど東日本大震災を振り返るイメージをあれこれとり上げたり、今年亡くなった著名人を舞台に召還したりと、震災以降のしょげかえった日本人の心には「どぎつい」と思わせるほどストレートに、今年の出来事をリプレイしてみせた。ミュージカルの一形式であるレビューには、もともと演し物で今年の出来事を振り返るという意味があった。そう思えば、立川流の志ら乃をはじめ、遠藤やcore of bellsのパフォーマンスもレビューの一演し物とみなしうる。彼らが意識しているか否かはともかく、イベント全体が自分たちのいまを歌って踊って笑いながら振り返るレビューに見えた(こうしたバラエティはぼくが小学生の頃のテレビではよく見たものだ。なぜいまないのだろう)。さらに冒頭で、メンバー一人ひとりが落語「芝浜」の物語世界を自分なりに研究する「ワークショップ」の報告会をし(ある者はドラッグ体験を、ある者は風俗体験を、ある者は海外の浮浪者とのやりとりを報告した)、その逸話が後半の上演に散りばめられるという発想も興味深かった。彼らはしばしば、芝居のなかで役から離れた役者本人のパーソナリティに光を当てる。さりげなく置かれた「ワークショップ」の報告会は、役者本人のパーソナリティを強化し、そうすることで役者を演劇のキャラクターにする(やや強く解釈すれば、役者を役にする)機能を担っていた。いまここにいるすべての人を巻き込みながら(言及しなかったが、観客も例外ではない)上演が進んでいく彼らの方法は、演劇らしくない。演劇じゃないのであれば、そう、これは最新型のミュージカルだ。ああ、でもこの「快快流ミュージカル」には、まだまだ未知の潜在的な力がもっとあるはず。それが炸裂する日はきっと、近々やって来る気がする。
2011/12/27(火)(木村覚)
壺中天『壺中の天地』
会期:2011/12/16~2011/12/25
大駱駝艦・壺中天[東京都]
我妻恵美子が壺中天公演の「名シーン」を「アレンジ&リミックス」したという今作は、壺中天公演をミュージカル化、より正確にはレビュー化する試みに見えた。その試みは壺中天の魅力を増幅させることに成功していて、痛快だった。冒頭と終わりに登場するセーラー服姿の我妻によって、その間のもろもろの演目が「少女の夢の中の出来事」として枠づけられている以外は、さしたる物語も起承転結もない。その分、一貫した魔界性ゆえに各シーンはゆるやかにつながっているものの、それぞれ自由にダンサーたちの力量を発揮する場になっていた。そうした構成法を「レビュー化」と呼んでみたわけだけれど、全体でトータルなイメージを呈示しようとする、公演の「舞台芸術化」にはない可能性を感じた。なによりもそれぞれがリーダーとなる公演を行なっている田村一行、向雲太郎、村松卓矢のソロ・パフォーマンスが一度に上演されたのは画期的で、豪華だった。それに、以前から壺中天の公演は、男子ダンサーの公演と女子ダンサーの公演に二分されることが多く、それは今日のアイドルグループのあり方と相似的であり興味深いものの、両者の力をぶつけ合う機会が少ないのは残念でもあったのだが、今回は男子ダンサーが踊ると次は女子ダンサーの番という「紅白歌合戦状態」になっていて、ファンとしての積年の夢が叶った気がした。こういう形式をとることで自分たちの武器を再確認し、壺中天が壺中天を解釈し続けると本当にレビュー形式のもつポテンシャルを活かすことになるだろう。その方向の展開に期待したい。最後に、村松のパフォーマンスにはあらためて脱帽した。10年前のアイディアらしいのだが、村松は口に開口具を着けて、足の裏と手のひらにお椀を固定し、踊った。踊れば見事に踊れる男が、踊れないが不器用には動かせてしまう不具な体をくねらせる。滑稽さを涙流して笑っているうちに、観客の体に不具の体の身体性がいつの間にかしみこむ。NHKEテレの番組「バリバラ」に匹敵する、人間の身体への思考の転換がこの瞬間、観客に起こったとすれば、それは間違いなく村松のダンスの力ゆえだろう。
2011/12/22(木)(木村覚)
プレビュー:岡田利規『三月の5日間』、ままごと『あゆみ』
今月は、演劇二本。一本目は、2005年に岸田國士戯曲賞を受賞した岡田利規の最初の代表作『三月の5日間』(2011年12月9日~11日@熊本・早川倉庫、2011年12月16日~23日@横浜・KAAT神奈川芸術劇場)を挙げないわけにはいかないでしょう。00年代以降の日本演劇のオリジナルな展開はここから始まったといっても過言ではありません。デモのシーンはいまのぼくたちにどんな印象を抱かせるのだろうとか、いまよりもずっと元気のあった「若者の街」渋谷をいまどんな気分で見ることになるのだろうとか、いろいろな期待で胸膨らませて行きたいものです。とくに、未見の若い演劇ファンはお見逃しなく。
もう一本は、こちらも、昨年岸田戯曲賞を受賞者したままごと(柴幸男)による『あゆみ』の再演です(2011年12月1日~4日@東京・森下スタジオ、2011年12月7日~9日@横浜赤レンガ倉庫)。日常の一コマを切りとって何度も繰り返す手法は、いまやいくつかの劇団で応用されているものですが、今作では1人の女性の暮らしを複数の役者たちが演じるアイディアに注目。とても知的な構成法をとりながら、理屈っぽさがなく、一瞬のうちに演劇空間に観客を引き込む、そんな柴の手腕が今作でも堪能できることでしょう。
2011/11/30(水)(木村覚)
クリウィムバアニー『がムだムどムどム』
会期:2011/11/25~2011/11/27
シアタートラム[東京都]
イデビアン・クルーでもダンサーとして活躍している菅尾なぎさの振付・演出の本作。「遊覧型ぱふぉーまんす」と銘打っているとおり、会場となるシアタートラムは舞台と客席の枠が取り外され、周囲を観客が歩き回れる庭のような空間が設えられていた。その光景にまず驚かされた。白い下着のような衣装で踊るダンサーたち。舞台と客席の境界が消えると、彼女たちが近過ぎて戸惑うといったことが起きる。また普通だったら同じ方向を見ている観客が折々に視線を交差させてしまうので、自分の視線を他の観客に悟られてしまうこともあり、一層目のやり場に困る。「どきまぎしている場合か!」と、頑張って目をダンサーにやると、肌の白さに陶酔しそうになる。めまいのなかで見る者と見られる者との関係が浮きぼりにされる。夢遊病者のように空間を徘徊する彼女たちは、生々しい人形のようで、けっして観客と視線を交わすことはない。近いのに徹底的に遠ざけられている気分になる。突発的に音楽が鳴ると、踊りがあちこちで始まるものの不意に収束してしまう。明確なピークが訪れない。ゆえにダンサーと観客との一体感は、その予感だけ与えられたまま先送りされる。リハーサルのような本番はとめどもなく、そのうちに〈ダンサーという生物〉の生態を観察している気になってくる。妖精のようなダンサーは当然人形ではない。生命があるが故に、いつかこの美しさは(加齢によって)別のなにかへと変容を余儀なくされるはず。妖精としてのダンサーはつねに刹那的だ。その刹那が痛い。ダンサーの体は明らかに長年の訓育(察するに多くは幼少期からバレエのレッスンを受けている)の賜物だ。しかし、その輝きを十分に活かすことなく(きっとどんなに活躍をしても、ダンサー本人はそう感じることだろう)、その時期をやり過ごしてしまう。ピークなしに観客を無視しながら進む時間のなかに、彼女たちのいらだちをぼくは感じた。次第に白い肌には汗がにじむ。彼女たちのいらだちにひりひりした。一番際立っていたのは、そのひりひりした感触だった。
2011/11/27(日)(木村覚)
ほうほう堂『ほうほう堂@緑のアルテリオ』
会期:2011/011/24~2011/11/27
川崎アートセンター アルテリオ小劇場[神奈川県]
ほうほう堂(新鋪美佳+福留麻里)が美術作家・淺井裕介と映像作家・須藤崇規とつくった本作は、三者の力がバランスよく発揮された傑作だった。淺井のマスキングテープによる植物や小動物が建物のあちこちに描かれ、それは通路階段や舞台の床面にも展開されている。生命の息吹に取り囲まれたような気分で待っていると、ほうほう堂の小さな二人が登場。彼女たちの、ふわっと軽快で自意識を感じさせない振りは、ときにユニゾンになりときに別々になり、まるで二匹の小動物のようだ。しかし、本当に驚いたのはここから先。二人が舞台から姿を消す。すると舞台奥の巨大なスクリーンに舞台脇の通路が映され、そこに二人はあらわれた。リズミカルな音楽に合わせたり外したり、映像の二人が躍動することで、舞台に穴が穿たれ、それによって、あちこちうごめく「生命の力」とでもいいたくなるなにかが感じられた。その後の、ほうほう堂が踊る映像の上に淺井がライブで動物のかたちや線とか点とかを重ねていくシーンも美しく、ある種の絵本のようにダイナミックだったけれども、なにより圧巻だったのはラストシーン。ほうほう堂の二人が三階のカフェスペースに観客を誘い、しばしそこで観客のなかに分け入って踊ったかと思いきや、建物を飛び出し、外で踊り出す。すると、舗道にはアニメーションが映写され、アニメの樹木や鳥たちとほうほう堂が絡まり合った。このシーンは、それまでのイメージが劇場空間をはみ出し、日常に奔出したかのようで、それはそれは素晴らしく美しい光景だった。二人が街灯に手をかけるとまるで映画『雨に唄えば』のよう。その瞬間は確かに、日常空間を空想で染めるミュージカルの魔法に匹敵するなにかだった。劇場の外で踊りそれを映像に収めるという、近年ほうほう堂が行なってきた試みが、こんな空想的なイメージの重なり合いへと結実するなんて! 感動しました。
2011/11/25(金)(木村覚)