artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

快快『アントン、猫、クリ』

会期:2012/02/16~2012/02/20

nitehi works[神奈川県]

快快の作品で、もっとも方法的な実験が試みられている本作。今回二度目の再演となったように、快快たちは本作での実験作業がとても楽しいようだ。目下パーティ・ピープルとしての認知度が高い彼らだけれど、登場した当初(とくに小指値時代)はなにより、ポスト・チェルフィッチュを強く感じる方法を見せた劇団であった。かつてぼくは彼らの方法を「あて振り」と呼んで論じたことがある(『レビューハウス』No.01にて)。あて振りとは、歌の文句に即して身振り動作で具体的に表現することを指す日本舞踊の用語。たいてい歌い手と踊り手が分かれている日本舞踊において踊り手の動作が歌詞を図解して見せるやり方があるように、1人がひとつの役柄を担う演劇の約束ごとを中断したうえで、快快の役者たちは身体で台詞のイメージ化を行なうのだ。
 例えば、本作において「雨、雨、雨、雨……」と口ずさみながら、それぞれ雨の動きや質感を役者たちが体で表現する。その際の台詞は登場人物の発言というよりも、多くがいわばト書きにあたる言葉である。舞台上の4人は、小道具の少ないシンプルな舞台を小刻みに動き回りながら、一般的な芝居ならば書き割りがはたしている情景の描写に多くの時間を費やす。次々変化して行く景色を人力で描いていくさまはそれ自体で面白く、各人の芸達者振りも加わって、器用な動きで魅了される。こうした方法は、台詞から溢れでてくる無意識の身体動作を拾い上げたチェルフィッチュの方法と、台詞とはほぼ無関係に独自の様式性をおびた身体動作(ほとんどそれはダンス)を行なうニブロールのそれとの、中間にあるといえそうだ。
 台詞と身体動作の関係をこうとらえてみると、チェルフィッチュは台詞の内容に動作の必然性を求め、ニブロールは動きの様式性に動作の必然性を求めていることが判る。快快は台詞の側にも動きの様式の側にも必然性を求めていない。あえて特定するなら必然性はジェスチャーを発案する役者各人の内にある。古い例で恐縮だが、役者の振る舞いはNHKの番組『連想ゲーム』にあったようなジェスチャーゲームに似ている。ジェスチャーゲームでは演技者が身振りで回答者に言葉を連想させるわけだが、本作の場合、役者は身振りを行ないつつこの例えで回答にあたる言葉も発している。答えがあらかじめ判っているジェスチャーゲームであるなら、身振りはつねに余剰と化す。ここがこの方法の難しさだ。「余剰としての役者」を主題化するのも手で、確かに役者の力量が目立っているのは、そうした方向からのひとつの帰結と言えなくもない。役者の力量がきわだつということは、あて振りの生み出す造形が、このかたちや動きでなければならないことの理由が見えないということにもなる。当然といえば当然、集団的制作が平等を重んじていれば、それだけ全体を統轄する強い方向性は生まれないだろう。それにしても、白血病の野良猫とアパートの住民との交流という小さな、しかし潜在力のあるお話に彼らの方法が接続しないままだったということが、なにより惜しかった。

快快-faifai- 『アントン、猫、クリ』予告編  "Anton,Neko,Kuri" Trailer

2012/02/17(金)(木村覚)

庭劇団ペニノ『誰も知らない貴方の部屋』

会期:2012/02/10~2012/02/26

はこぶね(劇団アトリエ)[東京都]

会場が公共ホールではなく主宰タニノクロウ氏の個人的な空間であることがそう思わせる主要因かもしれないが、会場を後にする気分は観劇体験というよりも、特殊な趣味の知人に招かれ、彼のきわめて個人的な嗜好に触れてしまったときのそれにきわめて近い。マンションの狭い一室。ぎゅうぎゅう詰めで座った観客の前に、上下二層になった舞台(部屋)が窮屈に広がる。前半の舞台となった上の層では、歯並びの極端に悪い人間(というよりは家畜の形相の)修道女(らしき)二人がランプや椅子やテーブル、たて笛などを磨く仕事を行なっている。問題はそれらのオブジェがどれもどう見ても男性器の形状をとっていることで、それだけでなんだか目の前の景色が「あやしいもの」に思えてくる。カーヴを布で撫でると、客席は失笑を禁じえない。男性器化したオブジェたちは悪夢? 修道女の妄想? あるいは観客の無意識の実体化? あれこれと思いがゆれる。そもそもタイトルの「貴方」とは誰を指している? などと問うていると、下の層が明るくなった。タイル張りのその部屋では中年にして学生服姿の男が異形のはりぼてを制作している。しばらくすると胴回りのしっかりした兄が現われ、二人は戯れ出した。兄の顔ははりぼてにそっくり。似すぎていて気持ちが悪い。これは兄のための誕生日プレゼントだということが次第に明らかになってくる。上の層に置かれたオブジェたちも修道女たちにつくらせたプレゼントの一部らしい。となれば、同性愛というべきかどうかは微妙だが、制服男の過剰な男性器愛がこの芝居の主題だったと判ってくる。最後のほうのシーンでは、この奇怪な男女4人がパッフェルベルの「カノン」をたて笛で演奏する。端から端まで、まともには理解不能の舞台、しかしすべてが絶妙なバランスで連動している。この絶妙な感じはタニノのセンスのなせるわざとしか言いようがなく、こんな凝った舞台を見せてくれて本当にありがとうとちょっと引きつった笑顔でこの部屋の主人に(心のなかで)会釈しつつ帰り道、思わず「早くいまの松本人志のステイタスを獲得して映画でもテレビ番組でもつくって欲しい」と呟いてしまった。

2012/02/12(日)(木村覚)

金魚(鈴木ユキオ)『揮発性身体論「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』

会期:2012/02/03~2012/02/05

シアタートラム[東京都]

鈴木ユキオは真面目な作家だ。真面目すぎるのではと疑問を抱くこともこれまであった。しかし、杞憂だったのかもしれないと本作を見て思った。彼の真面目さの向かう先が本作で明らかになった。
 本作のタイトルに用いられている「揮発性身体論」とは、筆者が聞き手となったアフタートークでの鈴木の発言によれば、ものが常温で蒸発するイメージを指しているという。2007年の『沈黙とはかりあえるほどに』の時点でつくりだそうとしていた〈強い身体〉〈過剰な身体〉は、見る者に過度にエモーショナルな(言い換えれば「熱い」)印象を与えるところがあった。その点を反省して鈴木が発案したのは「常温」で「蒸発」する「揮発性」の身体というコンセプトだった。「常温」と聞くと、熱すぎず冷たすぎず、ゆえになにも起きない、なんでもない、だからつまらないのでは、といったネガティヴな連想が起こるかもしれない。なるほど本作においても記号として掴みにくいダンサーたちの動きが「アンビエント・ミュージック」に似た「眠さ」を感じさせたことは事実だ。けれども集中して見れば、ダンサーたちの「常温」(いわばゼロ)の身体が、プラス極の力(ある力)とマイナス極の力(ある力に拮抗する別の力)の合計によって成り立っていることに、観客は気づいたはず。常に身体に諸力の拮抗が起きていて、そこにズレが生まれると、そのズレが運動=ダンスとなる。スリルをはらんだ緊張をエモーショナルな外見抜きで呈示すること。「揮発性身体論」とはさしあたり、そうした純粋に運動であることを目指すダンス論と言えるだろう。
 そう、鈴木が求めるのは純粋にダンス的なものである。排除すべきは非ダンス的なもの、例えばそれはエモーショナルな、あるいは芝居がかった、あるいは単に記号的な動作だろう。ダンスをダンスに返す、一種の還元主義的なモダニズムが鈴木の真面目さの真髄なのだ。
 とはいえ、鈴木を単なるモダニストとカテゴライズするのは危険だ。鈴木が志向するのはモダニズムというより純粋にダンス的なもののはずだから。身体の拮抗を持続すること、言い換えれば、身体が狂気の状態であり続けること。前半のソロ作品(「「EVANESCERE」」)で強く感じられたその方向が、後半の女性たちによる作品(「密かな儀式の目撃者」)になるとまだ曖昧になるところがあり、もっと完成度をあげるべきではと思わされた。しかし、壺中天とも大橋可也&ダンサーズとも異質な、グループでありながらダンサー各自の存在感の強さを求める意図はよく伝わったし、すぐエモーショナルなものを表わそうとしてしまうモダンダンスのダンサーではなく、また舞踏の踊り手でもなく、バレエのスキルが浸透している(ゆえに垂直性がしっかりある)ダンサーの身体で自分の理想を実現したいという独自の狙いや、そこで生み出そうとする質の高さも感じられた。鈴木のソロで堪能できるズレのダイナミズムが「振り付け」というレディ・メイド(理念的には誰もがやってみることのできる動作)においても温存されていること、それが鈴木の出演しないグループ作品での目標であるならば、険しいかもしれないが登ってみて欲しい山だと強く思わされた。

鈴木ユキオ新作「揮発性身体論」 Yukio Suzuki "Volatile body"

2012/02/04(土)(木村覚)

プレビュー:鈴木ユキオ『揮発性身体論』、快快『アントン、猫、クリ』

2月は初旬に、先月も紹介した鈴木ユキオの『揮発性身体論』(2012年2月3日~5日@シアタートラム)があります。ぼくは2月4日のアフタートークのゲストに呼ばれました。せっかくの機会なので鈴木の考えるダンス論をじっくり聞いてみたいと思っています。お見過ごしなく。中旬には、快快の『アントン、猫、クリ』(2012年2月16日~20日@nitehi works)が待っています。再演(再々演)とはいえ、彼らの1年半ぶりの本公演。昨年末の忘年会イベントで、本作がごく一部でしたが上演されました。これまでの上演とはかなり異なるテイストを感じさせるだけではなく、相当ハイクオリティーな舞台になる予感たっぷりでした。捩子ぴじんが出演者としてラインアップされていることでも注目されていますが、役者が発した言葉をさらに身体によってどう舞台に具現化するのか、そこに快快らしいはっとするようなアイディアが展開されることでしょう。快快はただのパーティ・ピープルじゃない、というところをぜひ世間に見せつけて欲しいものです。

鈴木ユキオ新作「揮発性身体論」 Yukio Suzuki "Volatile body"

faifai「アントン、猫、クリ」ダイジェスト "Anton, the cat, Kuri"

2012/01/31(火)(木村覚)

プレビュー:金魚(鈴木ユキオ)『揮発性身体論 「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』

会期:2012/02/03~2012/02/05

シアタートラム[東京都]

今年は、日本の舞台芸術が「震災以後」のマインドに包まれた一年だった。正直、そのマインドに巻き込まれ過ぎの印象を受けた上演も多かった。そのなかでぼくが励まされたのは、舞踏系の振付家・ダンサーたちの揺るがない姿勢だった。揺るがないのは当然だ。死や病や「立てない」という状況からダンスを生み出すのが舞踏なのだから。浮かれた日常の底に普段は隠されている人間の闇から、舞踏の「踊り」は始まる。だから震災があろうが、舞踏の作家たちは淡々とマイペースを貫けたに違いない。例えば、大駱駝艦がまだ電車の暖房も街中の明かりも消されていた震災直後に『灰の人』というタイトルの上演を決行したのは、休演する作品が相次ぐなかできわだっていた。大橋可也&ダンサーズの『OUTFLOWS』は希望よりも絶望に目を向けていて、そのことがむしろよかった。子どもたちをダンサーにして鈴木ユキオが『JUST KIDS』という作品をつくったことも強く印象に残っている。舞踏系以外では、矢内原美邦ほうほう堂も自分たちの力量を発揮していて、心強かった。ということで、個人的に来年はダンスに注目していきたいと思っている。なかでも金魚(鈴木ユキオ)の新作『揮発性身体論 「EVANESCERE」/「密かな儀式の目撃者」』(シアタートラム)はそのタイトルが示すように、彼の新しいダンス論がパフォーマンスのなかで呈示されるに違いない。「揮発性」とは? 舞踏の未知の局面が示されることになるのかどうか、おおいに期待したいところだ。

【予告】鈴木ユキオ新作「揮発性身体論」 Yukio Suzuki "Volatile body"

2011/12/31(土)(木村覚)