2021年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

ロロ『常夏』

会期:2011/10/28~2011/11/05

シアターグリーン BOX in BOX THEATER[東京都]

80年代的なものがところどころで参照されながら、恋愛というか恋愛のドキドキ感へとひたすら向かっていく。そんな相変わらずのロロの新作は、さすがにその純情なユートピアを目指すばかりでは虚しいということか、ところどころに女子のエロいシーンだの男子のカワイコぶりっこのシーンだのがちりばめられ、お話以上に、濃密な部分を適度に避けつつ(その適度さを『週プレ』的と言ってみようか)、若さ溢れるエロティシズムを振りまく役者たちが目立った上演だった。役者たちの(とくに女優陣の)ルックス偏差値が非常に高いことは、良くも悪くも、脚本の元気なさをごまかしてしまう。バナナ学園純情乙女組に似て青春の地獄が描かれているのは間違いない。だが、若い脚本家の三浦直之は、謳歌しなかったはずの80年代的恋愛観をかせきさいだぁレヴェルで(つまり真剣に)信じている気がするのだけれど、だとすると、その思いを誰に向けて放り投げているのかがいまイチよくわからないのだ。アラフォー心をくすぐりたい? いや、そんなはずはない。そんなふうには思いたくない。だから「80年代」はロロの本質ではないとさえ言いたくなる。そうではなくて、〈不可能な恋愛〉を相手への思いだけで突破するという無茶に感動してしまうところこそロロの真骨頂で、それが見たくて、ただそれだけで、観客(少なくともぼく)は足を運ぶのだ。本作でもエビと女の子、ロボットと女の子などの〈不可能な恋愛〉は描かれていた。しかし〈不可能性〉へと問いは深まらなかった。しかし、そこにこそロロの劇的瞬間はあるのではないか、なんて思わずにはいられない。

2011/10/30(日)(木村覚)

岡崎藝術座『レッドと黒の膨張する半球体』

会期:2011/10/28~2011/11/06

にしすがも創造舎 体育館[東京都]

本作はいわば「孤独で恐ろしい肖像画」だった。登場人物による一人称の告白的な語りがそう思わせるだけではない。役者はほぼつねに正面を向き、移動の際にまでその正面(背面)性にこだわる。そんなところにも肖像画的性格は感じられる。しかもこの肖像画はひどく歪んでいる。二人の男が冒頭に現われると、鼻くそをほじりながらにやにやと笑い、屁をこき、尻に触れ匂いを嗅ぐ。その後に登場するもう1人は、観客に背を向け狂ったように全身を激しく揺さぶり、女とともに四つん這い姿になると、尻の穴を観客に向ける。醜悪な身振りに人物のイメージが「歪む」。皮の剥がされた牛が舞台の奥に吊るされているのも手伝い、その歪みはフランシス・ベーコンの絵画を彷彿とさせる。だからといって、そこにベーコンの絵画のような運動感はない。動きは記号的で、ゆえにけっしてダンスになど変貌したりしない。神里雄大の作品はあくまでも演劇である。醜悪な身振りには理由(物語)がある。ここは2032年の日本。震災と原発事故の影響で、20年前から多くの日本人が海外へ移住する一方、居残った者たちはこの醜悪な身振りが習性となった「移民」との共生を余儀なくされている。二人の男は移民の親子。子どもの母は日本人。異文化間に生じる他者への違和感が「歪み」の正体だった。震災以後の日本をこれほど悲惨なイメージで描いた例を、ぼくはほかに知らない。子どもが一人取り残されるシーンに続き、ラストシーンで唐突に現われた1人の女が水を飲んだせいで妊娠できなくなったと告白することで、最後に舞台の焦点は「子ども」へと絞られていった。移民とのあいだに産まれた子どもと産まれない子ども。神里雄大の想像力が描く未来の日本は絶望的で、笑うしかないほどに笑えない。本作は、受け入れがたいほどにリアルな未来の日本人の肖像画である。

牛丼 鷲尾(レッドと黒の膨張する半球体チラ見せ動画)

2011/10/28(金)(木村覚)

off-Nibroll『a flower』

会期:2011/10/21~2011/10/23

森下スタジオ[東京都]

振り付け作品もあるベトナム出身のティファニー・チュンが舞台美術を担当し、シンガポール生まれのユエン・チーワイが音楽を担当した本作。彼らの参加によって矢内原美邦独特の暴力性や黒の世界が、落ち着いた美しいトーンに包まれた。観客30人ほどが囲む小さな空間。枯れたほおづきの状のオブジェが天井から吊られている。舞台前景に沢山の写真立て。花の写真には手が映り込んでいる。冒頭、波の映像とともに「彼女は海が好きでした」の文字が浮かぶ。「彼女?」と思っていると、今度は彼女に関係ある男の話が語られる。どちらも死んだ人。花は「彼女」の愛したものらしい。海の映像が森に変わるとダンサー三人が「私は鹿になりたかった」と呟きつつ枝を角に見立てて歩き回る。次に写真立てを掴んでは「これは○○です」と花の名前を告げたり「このことは覚えています」や「このことは忘れました」と口にしたりしはじめた。きわめて個人的な事柄に接近していることは明らかなのだが、その個人を特定するベクトルが(パンフレットに「彼女」=「祖母」を示唆する文章があるとしても)弱い。そのぶん、〈過去に思ったこと〉〈過去にある個人が存在していたこと〉の強さや重さが質感をともなって舞台に充満する。乱暴に手を引っ張られ、作家本人もよくわからないいらだちや焦燥の渦中に連れて来られた気持ちにさせられる。倒れながら吠えるダンサーの口から鳥の大群が飛び出してくるといった、矢内原と並ぶoff-Nibrollのメンバーで映像作家の高橋啓祐によるインタラクティヴな映像の仕掛けは、「鹿になりたかった」妄想の周りで説得的なイメージをつくる。特筆すべきは観客へのダイレクトなアプローチで、矢内原はときに落ち葉のようなカラフルな紙吹雪を観客の膝に撒いたり、またときにほおづきのオブジェに用いた網を観客に向けて投げつけたりしたことだ。客席と舞台の境界を侵犯した振る舞いは新鮮で、ダンスの上演が一瞬パフォーマンス・アートのように映った。こうしたアイディアも含め、会場の狭さが幸いした面は大きい。off-Nibrollの世界観が説得力をもって表現された上演だった。

a flower off-Nibroll

2011/10/22(土)(木村覚)

Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」(再レビュー)

会期:2011/09/24~2011/10/15

無人島プロダクション[東京都]

先月のレビュー欄でChim↑Pomの「SURVIVAL DANCE」のことを書いた。しかし、レビュー公開後、知人の話からぼくが見過ごした映像のあることがわかり、編集の方に一旦公開を中止してもらい、再度ギャラリーに赴き確認することにした。関係者各位へのお詫びとともに、再度見て考えたことを以下にレビューさせていただく。「見過ごした映像」とは、クマネズミをメンバーたちが捕獲する模様だった。先月のぼくのレビューでは「捕獲シーンがない」という嘆きが主たる論点だった。ゆえに、この見過ごしは大きなミスである。
ミスを犯した理由を述べておきたい。展示の場である無人島プロダクションの天井裏は、今回細工がしてあって、はしごを上ると三カ所から覗けるようになっていた。そこでは、ミラーボールが輝きTRFの「survival dAnce」が流れ、黄色く彩色された剥製ネズミたちが遊んでいた。さらに、クマネズミの食事の模様があちこちと10台近く配された小さいモニターに映っていた。問題はこのモニターだった。ぼくは三カ所の覗き窓のうち一カ所だけに首を突っ込んで「捕獲シーンがない」と判断を下してしまった。しかし、そこからでは見えない角度にあったモニターに捕獲のシーンが映っていたらしいのだ。つまり、すべての覗き窓に首を突っ込んでおけばよかったのに、それを怠ったということだ。

参考:Chim↑Pom展「SURVIVAL DANCE」(2011年10月3日号のレビュー)

http://artscape.jp/report/review/10014183_1735.html

再見した「SURVIVAL DANCE」

9月25日の初見から18日後の10月13日、あらためてギャラリーに赴く。すると驚いたことに、9月にはなかった大きめのモニターが壁に据えられ、捕獲の模様が流されていた(どうもぼくのような人間のために加えられたものらしい)。また、ぼくの見過ごした覗き窓(このときには覗き窓は二カ所になっていた)からも、小さいモニターで同じ映像を見ることができた。
「捕獲シーン」はあった。あったのだが、ぼくの気持ちは複雑だった。「捕獲シーン」があることで、彼らのパフォーマンス的性格(先月のレビューの言葉で言い換えれば「出来事を招いてしまう傾向」「巻き込みつつ巻き込まれる」という性格)は際立つはずで、確かにそうなっていたかも知れない。けれども、再制作ゆえのことととらえるべきか、映像を見ていても既視感に囚われてしまい、ネズミとの接近遭遇の光景にぼくは興奮できなかった。ワーキャーと叫びながら腰砕けの姿勢で網を手にする彼らの姿は数年前と同様ユーモラスだが、ぼくには「捕獲シーン」というより「捕獲シーンの再演」に見えてしまった。ネズミが短期間に進化するのと同様に、Chim↑Pomもまたこの数年で成長したはず。しかし捕獲方法に前回と大きな変化がなかった、このことに違和感を抱かされた。両者のガチバトルが見たかった。そうして、生命の力に肉薄してこそ「SURVIVAL」のテーマは輝くはずだと思うからだ。また、もしそうであるならば、Chim↑Pomの〈クマネズミ化〉あるいは彼らに拮抗するような野性的能力を獲得する姿こそ彼らが展示すべきものなのではないか、と想像が膨らんでしまった(遠藤一郎がほふく前進パフォーマンスを日々遂行する過程で、強靭な筋肉質の身体を獲得したことが思い出される)。その点で併置してみたいのが、フェスティバル/トーキョー関連の公演(というよりは展示)であるカオス*ラウンジの「カオス*イグザイル」(2011年10月22日~11月6日@アキバナビスペース)で、秋葉原のビルの元飲食店らしい部屋の壁を、アニメ少女の落書きやなにかで汚した様子は、まるで弱い小生物が集団で棲みついた跡のようで、汚い分、生命の息づかいを感じさせた。一方、野生を殺し剥製にしたうえで直立させるなど、Chim↑Pomのやり方は動物を人間化する行為ととれなくもない。そうしたところから垣間見えるのは、Chim↑Pomの二つのベクトル、つまり野生に共鳴する動物化のベクトルと人間性を重視するベクトル(社会問題に介入し、平和を希求する振る舞いも含む)とをどう折り合わせ見る者がはっとする融合を生みだすのかという課題だ。この課題にどう立ち向かっていくのか、その視点から今後のChim↑Pomの活動に注目してゆきたい。

2011/10/13(木)(木村覚)

プレビュー:遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』、岡崎藝術座『レッドと黒の膨張する半球体』ほか

今月の注目作に2本、遊園地再生事業団(作・演出=宮沢章夫)『トータル・リビング 1986-2011』(2011年10月14日~24日、にしすがも創造舎)と岡崎藝術座(作・演出=神里雄大)『レッドと黒の膨張する半球体』(2011年10月28日~11月6日、にしすがも創造舎)をあげたい。どちらもフェスティバル/トーキョー主催作品。もうひとつ共通点があって「震災・原発事故」を主題にした作品であるとあらかじめ明言していること。「んー、また〈震災〉か」とも思わないではないが、この際、「震災・原発事故が生んだ名作」に出会ってみたいと積極的に考えてみようか。宮沢はチェルノブイリ事故を「遠い出来事」として眺めていた1986年の日本に戻って、現在と対置させる予定だという。「でたらめをやらないといけない気がしている」ともらす神里は、有力なタイトル候補だったのが「へこき虫」だったと告白しながら、舞台でとりあげたいのは怒りであり怒りと向き合う自分だとも明かしている。どちらも緊張感のある作品になりそうな予感。期待したい。ところで両者を対比してじっくりと考えてみたいかたは、11月12日に予定されている「劇評セミナー」の木村担当の回でお会いしましょう(劇評を書くセミナー2011 フェスティバル/トーキョー編 第4回、2011年11月12日、14:00~16:30)。みなさんが持参してくださった劇評を素材に、ソーシャル・リーディングならぬソーシャル・クリティーク(批評の共有)ができたらと思っています。あとほかには、今月たくさん公演があるなか、捩子ぴじんの『モチベーション代行』とロロ『常夏』に期待したい。お見逃しなく!

2011/09/30(金)(木村覚)

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